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きっとこの道しかないと筑波が決断するのに要した日数は、人生を決めるにはとても短いものだったが、驚異的な速度で変化し始めた裏社会では遅いものだったのだろう。
協力しようと筑波が申し出た時、李独秀は勘違いするなと鼻で笑った。
「使うかどうかを決めるのは、俺だ。拾われたお前が、対等な立場にいるわけがないだろう。軽はずみにそんな事を言えば命取りになるぞ、筑波」
覚えておけと僅かに口許を上げて笑う男は、コイツは何を馬鹿な事を言い出したのかと同席していた佐久間に視線を投げた。
「こう言う男だよ」
佐久間は楽しそうに笑い、ただそう返した。
自ら手を挙げ参加し、もし何かあればそこに待つのは死のみになるだろう。だが、無理やり参加させられたのであれば、そこには僅かながらも免罪符が生まれる。言い訳など通用しない世界でも、自分の見る目がなかったのだと李独秀が認めれば、命を失わなくても済む可能性が高くなる。つまりは、そう言う事だった。李独秀の言葉には、傲慢さの中に真摯なものが隠れていた。まるで、そちらが本心かと言うように。
彼は君を気に入っているようだ。そう面と向かって佐久間に教えられなくとも、それは筑波とて感じている事だった。根本的に考え方が違う人間であり、相容れるところなど全く無い人物ではあったが、それを差し引いても李独秀という男は魅力的な者であった。自分より幾つも若いというのに、頼りがいのある大きな男であった。それを筑波が感じ取れたのは、佐久間の言葉が真実であるからだろう。何を気に入られたのか全くわからないが、李独秀は筑波の前では彼そのままの姿を見せた。
だが、しかし。李一族の思いを一心に受け突き進む男は、優しさも何もない威圧的な人間であった。何らかの企てを行い配下に指示を与えている時の顔は、監視だと軽口を叩いて自分の様子を窺いに来る男とは別人のようだった。けれど、李独秀はふたつの顔を持っているわけではなく、どちらも彼そのものであった。単なる男としても、一族の代表としても、人を魅了する姿は変らない。そんな彼に似た人物を、筑波はよく知っていた。そう、湊に似た人物であったからこそ、信じる事が出来たのだろう。いや、この男に賭けてみようと決心出来たのだろう。
激痛に苦しめられていた間、筑波は周りの様子など何ひとつ頭には入っていなかった。人の気配を感じた事はあったが、意識を集中する事は出来ず、何も知ることは出来ずにいた。そんな時、気を失う前は瞼ひとつあげるのも一苦労だったというのに、痛みではない覚醒に促され目をあけた筑波の前に、佐久間の姿があった。その時の驚きといったらない。これは夢かと、本気で信じかけたくらいだ。まだ寝返り一つ打てそうにはないが、体が随分と楽になっている事に気付いたのは、ゆっくりと語られる佐久間の言葉を聞いた後だった。
「体の事は心配いらない。今は鎮痛剤も効いているし、楽なはずだ。怪我自体も、多少時間はかかるだろうが、問題ない。かなり内臓が弱っているようだからそう安心は出来ないが、暫く僕が看病してあげるから大丈夫だよ、多分。しかし、よく頑張ったね、筑波くん。あの状態でまともな治療も施されずに三日間も苦痛に耐えるだなんて、さすがだよ」
普通はショックで死んでいると笑う佐久間に、あの地獄のような痛みの理由を筑波は知った。そして、続けて語られた話に、自分の状況を思い知らされた。
あの筑波を襲った事故は、結論からいえば燕家の仕組んだものだった。しかし、そこには幾つかの思惑があり、筑波はそれに利用されたのだ。相手の出方を見ようとしたのは、何も筑波が籍を置く組織だけではなく、燕家もまたそうであったのだろう。日本の一組織を窺うチャンスだからと、その組織の人間と自分の部下をこの世から消し去る方法を選んだ。己の部下をも失ったのだ、日本にはいくらでも言い訳が出来るだろう。実際、筑波は表立っての使者ではないのだ、言及される事もない。何よりも、燕昌健はあの事故を、別の者達に擦り付けた。
生き残っている李一族が腹いせにしたものだと。
そして、筑波が偶然にも拾われたのは、その李一族であった。何故、佐久間が彼らと親交があるのかはわからないが、聞かされた内容を疑う気持ちはなかった。それこそ不思議なものだが、佐久間があえて嘘をつく理由を筑波は見つけられなかったのだ。
漸く起き上がれる頃に佐久間が連れてきたのは、精悍な顔つきの三十路過ぎの男だった。アジア人にしては目鼻立ちがはっきりとしており、感じる雰囲気以上に歳は若いのかもしれないというのが筑波の第一印象だった。事実、後で知った事だが、その男・李独秀はまだ26歳でしかなかった。その男が、燕家を落とし、奪われた権力を再び手にしようとしている事を知った時は言葉をなくした。
李独秀が一族全てを根絶やしにしようとした燕昌健の手を逃れたのは、中国にはいなかったからだろう。米国に留学中に事が起こった時、彼は直に本土に戻る事はせず外国の地で姿を隠したらしい。密かにこの地に帰りついた時には、すでに李家は滅ぼされていた。親類は殆ど殺され、生き残った者達も追われる日々が続いている中、復讐を考えたのは当然なのかもしれない。だが、そこに何があるのか。燕昌健を殺し、還ったその場所が本当に必要な在処なのか。筑波にはよくわからなかった。沢山の命を失い、またこれからも沢山のそれを失うとわかりながらも目指す場所なのか、理解出来なかった。
それは多分、ひとりの女性の言葉を先に聞いていたからであろう。
この地にいながらも奇跡的に生き延びた李慧珠は、兄である李独秀がそれを望むのならばついては行くが、自分自身は戻りたくはないのだと筑波の怪我を手当てしながらそう呟いた。女は道具でしかないと。戻れば、今のように私自身を見てくれる人はいなくなると。
まだ小学生だった頃に祖父によって決められた婚約者は、彼女が16歳の時に伯父に殺された。18歳の時にその伯父により決められた婚約者は、1年後には彼女を燕昌健に売った。一族を守るという事がどれだけ大事なのかは判っている。だからこそ、女が重宝される存在であるのも、逆に意思を与えられないのも理解はしている。多分きっと、納得もしているのだろう。だが、それでも。こんな境遇になり、初めて自分というものを出しても良い環境に、私の中に甘えが生まれた。このまま一族の女としてではなく、ただの李慧珠として生きてみたくなった。一族の思いも、自分を逃がす為に死んでいった者の気持ちもわかってはいるが、そう望んでしまう。私も李家の人間ならば、こんな事は考えてはならないのに。そう言って悲しげに微笑んだ李慧珠の姿は、筑波には自分を見ているようであり、また亡くした愛する人のようにも見えた。
かつて筑波が愛した祥子もまた、男達の争いの中で命を亡くした。李慧珠のように縛られた生活であった訳ではないが、理不尽な思いは同じであろう。ただ自分の為にと、単純に生きていく事が難しい人間は寂しいと、筑波は身をもって知っている。
それでも李独秀に出来る限りの手を貸す事を決めたのは、日本でなければ、湊の場所でなければ自分は生きられないと思ったからだ。李慧珠のように、自分が自分のままでいられるのはあの場所しかないと筑波は思う。
何が始まりだったのかなど、今となってはどうでも良い事だ。日本に進出してきた中国人に振り回された組織の中の一員であったとしても、この事態に陥っているのは自分以外の何者でもなく、最早理由などを求めている場合でもない。結局は、助けられた場所で生き残る為には自分に出来る事をするしかなかっただけであり、同じ事をするのだとしても、この国に来た意味とは全く別のものなのだった。
「筑波くん、いいのかい?」
どこかに行ってはふらりと帰って来る佐久間が、己が居ないうちにどんどん李達の中に入り込んでいる自分を気にかけているのは筑波にもわかっていた。確かに、正気ではないだろう。日本では死んだ事になっているとはいえ、小さいながらも同じ裏社会に通じる人間が、他所の争いに首を突っ込むなど有り得ない自体だ。だが全てを考えた上でした選択だった。
「ああ、決めた事だ」
「ったく。独秀が君を利用するのはわかるが、君がそれに乗るなんて冗談としか思えないよ。何をそんなに剥きになっているんだか。いや、焦っているのか?」
「剥きにもなってもいないし、焦ってもいない。ただ、今出来る事を俺はするだけだ」
「彼に協力する事が全てじゃないはずだよ」
「ならば、云いかえる。俺の道が今はそこへと延びている、それだけだ」
「そんなもの踏み外して好きなところへ行けばいいのに、なんて律儀なんだよ」
馬鹿だよ君はと、まるで言葉を知らない子供にそれを教えるように、佐久間は筑波の目を見ながらはっきりとそう口にした。お前に言われたくはないと眉を寄せはしたが、確かに自分は馬鹿なのだろうと反論はしない。したところで、結局は何だかんだと言葉を紡ぎ同じ結論に持っていかれるのだろう。佐久間秀とは、そう言う男だ。
一体何度同じ言葉を言われただろうか。けれど、こんな風に言い続けてくれるのは、今は佐久間しか居なかった。
言葉が話せない自分が果たしてどれだけ役に立つのか、筑波には良くわからない。殆ど表に出る事はなく、李達の計画を聴き意見するばかりで、それさえもどう扱われるのか筑波には見えなかった。李独秀は、役に立つかどうかではなくお前の率直な意見が刺激になるのだと、冗談のような言葉でどんどん中へと引き込んだ。佐久間曰く、そうして日本人の考えを学んだり、筑波自身を手懐けたりしているのだろうと彼は眉を顰めたが、佐久間自身も李独秀から本気で逃げる気はないようだった。あくまでも、26歳の男である李独秀ならば友人関係を築いたところで問題はないと言う事なのだろう。だが、自分は兎も角、筑波に対して李独秀が望むのはそれだけではないだろうと考える佐久間は、気が気ではないようでもあった。彼が心配するのも確かにわかったが、筑波にすればもう後には引けない状況であったし、引く気もなかった。
自分と李独秀の関係は、素直に利用し利用されるものだと佐久間がはっきり口にしたのは、計画が最終段階に入った頃であり、筑波も本格的に動き出した時であった。
「いいかい、筑波くん。君はこれが終わったら、必ずここから出て行くんだ」
「当たり前だ」
「そうだよ、独秀なんかに捕まるなよ」
彼は相当君を気に入ってしまったようだと、佐久間が焦りを滲ませながらも笑ってそう言ったのは、ひとえに自分を心配しての事のように感じ筑波としては少し居心地が悪かった。多分、今後も佐久間は李独秀と関係を続けていくのだろう。もし何らかの事があれば、それにこの男を巻き込むのかもしれないと思うと、素直に申し訳ないと思った。
「一度抜け出す機会を逃したら、次は与えてくれないよ独秀は」
はっきりと断言する佐久間は、李一族としての李独秀に諦め以外の何も感じていないかのようだった。長年、天川などに捕らえられ続け、漸く自由になったら今度は李独秀だ。この男も厄介な運命を抱えているなと、筑波は溜息を零さずにはいられなかった。
「忠告はありがたく受取っておく。だが、人の事ばかり言っていずに、お前も自分の事を考えろ」
筑波の言葉に、一瞬きょとんと間抜けな表情を作った佐久間は、「僕は大丈夫だよ」とはにかむような笑いを零した。何が大丈夫なのか、根拠のないそれを危なく感じたが、実際にヤバイ状況なのは佐久間の言ったように筑波の方であった。
己の認識が甘かったのだと思い知らされたのは、佐久間が不在中に起こった小さな小競り合いの時であった。
「お前が悪い訳ではないが、日本人だというのがネックだな筑波。こればかりは、どうにもならない。今から一気に燕を叩く時に不信を抱えたままでは、俺としてもとても不安だ。お前ならわかるだろう、同士である誓いが必要なのは」
それは半分は真意であったのかもしれないが、残りの半分は屁理屈としかいえない戯言だった。他の者が自分を認められないのならば、結局はここまでなのだと筑波としては身を引くのも納得出来る。だが、李独秀はそれを認めず、馬鹿な条件で皆を説き伏せ、筑波を認めさせこのまま突っ切ろうとした。傲慢でしかないそれは、けれども彼だからこそ出来るものなのだろう。
結局は、日本人云々もただの言い訳でしかないのだ。お前が人を殺すところが見たい。要は、あからさまにそう語り挑発してくるような昏く輝く李独秀の眼が何よりもの真実だと、筑波にはわかった。わかったからこそ、馬鹿げていると思いつつも、それに応えた。軽い引き金をひとつ引くだけで、どれだけのものを得てどれだけのものを失うのか。そんな事はその時の状況には必要なく、ただ望まれるままに拳銃を握り、名前も知らない異国の男を殺した。
力を貸すと決めた時点から、逃げるつもりなど更々なかった。だが、頭から血を流し転がる死体を見た時、何故かもう逃げられはしないと筑波は強く感じた。労うように肩を叩いてきた李独秀の顔を見ながら何か言おうと口を開いたが、筑波の口から零れたのは深い溜息だけだった。
前もって聞いていたのだろうか、帰ってきた佐久間は筑波の顔を見た途端、右手を振り上げた。避けずに頬に受け止めたその重みは、熱いというよりも、冷たいものだった。佐久間が怒りではない思いを抱えているのだろうと気付き、そこに来て漸く筑波は遣る瀬無さを覚えた。
「本当に馬鹿だよ君は」
わかっている。そう応えようとした言葉もまた、何処かへ消え去ったのか筑波の口から落ちるのは溜息だった。自分達は一体何度同じ会話を繰り返すのか。思ったそれは、虚しさ以上に、可笑しさが込み上げるものだった。
それから一週間も経たないうちに、李独秀は燕昌健を追い詰めた。
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李独秀が出て行ったあとも暫くその場に佇んでいた筑波だが、いい加減周りの生臭さに気分が悪くなってきたので足早に部屋を後にした。馬鹿みたいに広い廊下を通っていると、佐久間がにこやかな表情で近付いてくるのに気付く。笑顔以上に、明るいスーツ姿が場違いだ。
「お疲れ様、筑波くん」
「終わった後に来ても遅い」
この数日間全く姿を見せなかった男に対し、筑波は嫌味で対抗した。だが、佐久間は楽しげに笑うばかりで効果はないと早々に匙を投げる。
「何をしに来た、こんなところまで」
「僕の仕事はこれからが本番だからね。別に、君の不貞腐れた顔を見に来たわけじゃないさ」
自分は医者だよと肩を竦める佐久間に、筑波は眉を寄せる。この男は一体いつまでこのように、裏社会に顔を出し続けるのだろうか。いい加減、出たり入ったりしていないでどこかに腰を据えれば良いのだろうに、何を考えているか理解出来ない。自分はもうここから居なくなるのだと発しかけた言葉を飲み込み、筑波は軽く頭を振った。助けられていたのは自分の方であるのだから、居なくなったとしても佐久間は困りはしないだろう。
「お前、今度は何処に行っていたんだ」
「タイの方に、ちょっとね。近くだから土産は買ってきていないよ」
「いつまでここに居るつもりだ」
ふざけた発言は取り合わず重ねた質問に、佐久間は子供のように小首を傾げた。
「さあ、どうだろう。多分、暫く居る事になると思うよ」
「仕事が多そうだし、何より独秀がそう言うだろうからね。だって、筑波くん帰るんだろう日本に?」
「……さあ、どうだろうな」
どう言う意味かと眉を寄せる佐久間に、筑波は先程の李独秀の言葉を教える。聞き終えた佐久間は、「なるほどねぇ、それはご苦労な事だ」と、誰に対して労っているのかわからない感想を零した。
「ああ、でも。それなら保志くんのところに戻るという選択肢はないんじゃないの?」
「なんだそれは。元々ないさ、そんなもの」
「そうかな、僕はいい機会だと思ったんだけどね。日本ではもう死んだ事になっているし、こっちのごたごたも片付いたし、この世界から足を洗うのに丁度良いじゃないか」
「あの男を誰だと思っている?」
「ああ、ま、そうだけどね。独秀に目をつけられたら、足を洗うのなんて無理か。いや、でも、交渉の余地はあるかもしれない」
「あったとしても、俺にその気はない。俺は朝加に帰る。出来れば、迎えではなく自分の足で」
その方が都合が良いと述べる筑波に、迎えに来るまで大人しくしていろと佐久間は笑った。
「君の考えもわかるけれどね、何もそこまで報われない忠義を尽くす事はない。来させてやればいいのさ。どの道、来るのは湊さんか、福島さんあたりだろう。それよりも、帰ってからの事だよ筑波くん。組の方もこっちの事も大変だろうけどさ、保志くんにこのまま死んだと思われていていいのかい?」
「…ああ、わかっている」
「今更、僕が教えるのも何だしね。頼むから上手くやってくれよ、彼には嫌われたくはないんだ僕は」
「そんな事は知らない」
「おいおい」
それはないよと、心底困ったように眉を下げる佐久間に、筑波は深い息を落とした。保志との事は余計なお世話だという思いは消えはしないが、これでは自分の態度も大人気なさすぎるのだろう。
「お前には確かに世話をかけた。余計な事を言われた方が多い気もするが、命を救われた恩は感じている。悪いようにはならないよう、努力する」
「そうそう、頑張ってよ」
仕事をしてくると手を振り去った佐久間と入れ替わるように、李慧珠が筑波のもとにやって来た。互いに似た空気を感じていたからなのか、看病をされて以来何かと気付けば筑波の傍には李慧珠が居た。多分、交わした会話も共に居た時間も、兄である李独秀より多かっただろう。
「兄に聞きました」
「そうか」
多分、自分を探してこんな奥まで入ってきたのだろう。そう思い、筑波はあの惨劇の後が生々しい部屋から遠ざけるよう、元来た道へと李慧珠を促す。
「恋人のところに帰らないのですか?」
「佐久間と同じ事を言う」
「彼も私と同じように、貴方の事を思っているという事ですわね」
それは事実なのかもしれないが面白くはないと眉を顰めると、李慧珠は口元を少し緩め、綺麗な笑みを作った。筑波は溜息を落とし、先程佐久間の前でしたのと同じように頭を振った。
「恋人じゃない。言っただろう、別れたんだと。今更どの面下げて会いに行けというんだお前らは」
「どんな顔でも、貴方が会いに行けばその方は嬉しいと思いますよ」
いい歳をした男が餓鬼のように不器用な恋をしているのが可笑しいのか、李慧珠は何かと保志の事を話題にし、年上である筑波をからかった。せがまれるままに話をしたのは、自分の寂しさを埋めるためのものでしかなかったのだが、李慧珠にすればまた別の思いがあったのだろう。だが、まさか佐久間のように突付かれるとは、思ってもいなかった。
「李慧珠。佐久間に何を吹き込まれたのか知らないが、無駄だ。俺は、自分がいるべきところが何処なのかわかっている」
「それは、日本で貴方が居た組織の事ね」
「そうだ」
「ならば、兄の事もわかっているのよね」
「あいつが俺の考え以上の事を企むのも、承知している」
大人しく日本に帰すからといって、李独秀が何も考えていないわけも、仕掛けてこないわけもない。当分は一族の再建に力も時間も注ぐ事になるのだろうが、そこに何らかの形で自分を組み込まない保障はないのだと筑波とてわかっていた。だが、それは今考えてもどうにも出来ない事だ。
「そう。では、この場合日本では「頑張って」というのかしらね」
「ああ、そうだな。お前も頑張れよ、李慧珠」
「ええ、勿論よ。本当の争いはこれからだもの」
自分は道具でしかないのだと言っていた彼女の声が、筑波の耳奥に蘇った。権力争いの挟間で、まるで物の様にあちらこちらへやり取りされる虚しさに打ちひしがれた声を聴いたのは、たった半年程前だというのに。目の前で微笑む女性に、あの頃の翳りはない。戻りたくはないと言った世界に、それでも兄が望むのならばと再び足を踏み入れた李慧珠には、もう迷いはないのだろう。
覚悟を決めたのは自分だけではないのだと、筑波は李慧珠に向かい右手を差し出した。
「まだ数日はこちらに居るのでしょう?別れの握手は早いわよ」
「独秀の李家は今から始まる。そして俺も、筑波直純も、ここから再発だ」
「そしてそれは私も同じと言う事ね。目指すものは違っても、思いは同じ。同士の握手と言うところかしら」
クスクスと笑いながらも添えてきた李慧珠の手は、とても細く冷たかった。不安と緊張を押し隠すように力を込める彼女の手を、筑波は包み込むように握る。あえて口にはしないが両人ともわかっている決別の握手は、断ち切る思いの大きさにしてはなんとも短い、一瞬の交わりだった。
李慧珠の存在を背中で感じながら屋敷の出口に向かう筑波は、気付かない振りをし続けた彼女の想いに心からの感謝を述べる。
外は凍てつくような寒さだった。スーツ姿のままでは直ぐに体温を失ってしまいそうだと思いながら、筑波は足を止めずに歩き続けた。
あと10日もしないうちにクリスマスを迎える。半月後には新しい年が来る。このまま異国の地で新年を迎える事はないのだろうが、一年近く居続けてもこの地はやはり見知らぬ場所でしかなく、帰ろうと強く思う。たとえ会わずとも、繋がっていたかった。同じ国の地に立っていたかった。彼と過ごしたあの街の中に身を置いておきたい。
目の前の事が片付き、張り詰めていた糸が切れたのだろうか。胸の中の思いが溢れかえり、それが全て保志へと向かっているように筑波には感じられた。会いたいと、ただ思う。
けれど、自分が立つ道は彼のもとへとは続いていない。それを知りつつも、やはり俺はこの道を選ぶのだ。
一歩一歩、強く踏みしめ歩きながら、筑波は空を見た。この空の下で、彼が穏やかに、幸せに暮らしていればそれでいいと思いながら。
+ END +
2005/05/23