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「済みません、お待たせしました」
本来なら早めに来てこちらが待っていなければならない相手だというのに、約束の時間通りに店に到着してしまった俺を、けれどもその人物は笑顔で迎えてくれた。昔からこの人は俺を自分の息子以上に可愛がる。
小柄な男の前の席につきながら、「忙しそうで何よりだ」とのからかいの言葉に、俺は肩を竦めた。
「いえ、私用です。盆ですからね、墓参りに行ってました」
「ほう。珍しく孝行息子か」
「違いますよ。別の奴のところです」
俺が父親の墓ではないと答えると、人の良さそうな笑みを浮かべて喉を鳴らし、男は数度軽く頷いた。この男も歳には勝てないのだろう、頷く度に薄くなった頭で白い髪がふわふわと揺れる。
「そうか、もう八月の半ばか。だが、まだまだ暑そうだな」
「今年の残暑は厳しいそうですよ。身体に気をつけてくださいよ、小父さん」
「おいおい、ワシはまだまだ元気だぞ」
「ええ、存じていますよ」
肩を竦めると、独特の深い笑いを男は部屋に響かせた。
誰の墓に行ったのか、予想はついているのだろう。だが、何も言わない。この男はあの件については口出しをしないと決めているらしい。
「ま、それはさて置き。早速だが、荻原さん」
「はい」
「悪いが急用が入ってな。15分程で失礼をしたいので、食事は遠慮させてもらいたい」
いつの頃からだろうか、けじめは必要だという事で、仕事に関する話をする時は改まった言葉を使うようになった。だが、そんな時でも、男の目は常に優しい。俺にとっては、実の父親以上に親らしい存在であり、また厄介な相手でもある。
そう。ただ優しいだけでは、関東のヤクザのトップではいられない。
「そうですか、わかりました。残念ですが仕方がないですね。
では、本題に入りましょうか」
用意していた資料を渡し話を進めながら、俺は心の中で苦笑し、彼へと語りかけた。
そう、結局俺はどうなろうとも、このヤクザな世界から離れる事は出来ないのだ、と。
ヤクザを嫌いだという俺に、けれどもお前もそうだろうと言い放ったマサキの声が耳に蘇る。
そう、彼の言う通りだ。俺はたしかに、まともな仕事ばかりをしているわけではない。屁理屈を捏ねて看板がどうだの言ったが、自分自身がわかっていた。暴力団ではなく任侠集団だと言い張るヤクザと同じだと知っていた。けれども。
けれども、そんな夢を見たかったのだ。
マサキ、お前の前では特に、な。
見続けるだけの現実にはならない夢でも、お前が傍にいれば、虚しいものではなく心が弾むものだった。
こんな告白をしたなら、彼は馬鹿だと笑うだろうか、呆れるだろうか。
どんな反応をすればいいのかわからず、困ったような表情で不機嫌に顔を顰めるマサキの姿が思い浮かび、俺は軽く口元を緩めた。
交渉を終えたのは、開始してからきっかり15分後だったらしい。
「時間通りだな」
時計を見ながらそう笑う男に、俺も笑いを返して立ち上がった。男と同じように出て行こうとすると、彼はそれを手で制した。
「食事は注文している。お前は食べていけばいい」
「ここで、一人でですか? 寂しいので遠慮します。俺は朝食以外は、誰かと食べる主義なんですが、忘れましたか」
個室としては広い部屋を見渡しそう言う俺に、28の男が何を言っているのかとの苦笑が返る。
「連れのものを呼べばいいだろう」
「生憎、一人なんですよ」
食事をする予定だったので長引くと思い帰してしまったのだと言うと、男は呆れた表情を作った。言いたい事は良くわかった。いつも言われる事だからだ。一人で行動をするなと、男はそう言いたいのだ。
案の定、「いつも言っているが、感心しないぞ、仁一郎」と男は頭を振る。
自分が常に人をつけているのは、何も己の見を守るわけではない。組織の上に立つと言う事は…などといつもの説教が続きそうな気配なので、「お急ぎなのでしょう、小父さん。俺の事は気にせずに、さあ」とドアを開け外へと促した。廊下に向かい声を掛けると、直ぐに隣の部屋から壮年の男が顔を出す。
「そうだな、仁一郎。お前には小沢を貸してやろう」
ふと思いついたのか、不意にそう言った男は、廊下に現れた別の青年にその人物を呼んでくるようにと指示を出した。
「小沢? ここに来ているんですか?」
「ああ、仕事をしている。だが、ま、いいだろう、これも仕事だ」
「いや、いいですよ、そんな。俺があいつに恨まれる」
「嫌だというのか? 折角頼んでいるんだ、食べてけ」
それともワシの食事は食べれないとでも言うのか?
そう言われると、頷く他ない。わかりましたよと答えると、「貸すだけだ。必ず返すんだぞ」とからかうように言い、男は楽しげに笑いながら部屋を後にした。俺はその後ろ姿に頭を下げ、扉が閉まる音を聞いてから、体を元に戻した。
席につき、俺は少し自嘲気味に笑いを落とす。あそこまで男に心配させるほどに酷い顔を見せたのだろうかと頬を擦る。
ノックの音が部屋に響き、返事をすると、一人の若い男が入って来た。
不機嫌な顔にしか見えないが、表情ほど怒っているわけではないだろう。だが、面白くないというのは事実のようだ。
「そう怒るなよ」
声を掛けると、小沢は無言で俺に一瞥を投げつけ席についた。端整な顔立ちなので女にはもてるのだろうに、本人に甲斐性が全くないからだろうか、浮いた話はあまり聞かない。
常に親しくしていたわけではないが、出会ってからもう十年になるこの男は、年々愛想がなくなっていくようだ。いや、愛想と言うよりも、可愛げがないと言うものだろう。
数ヶ月振りに顔をあわせたというのにこの態度かと、俺は苦笑する。
「文句なら、平良のオヤジに言えよ。俺が指名したわけじゃない」
「別に文句はないさ。ただ、お前とこんなところで面と向かって食事する気分には到底なれないだけだ」
「ま、そう言うなよ。ここの飯は上手いぞ」
俺のそこの言葉が聞こえたように、店の者が食事を運んで来た。テーブルの上に並べられていく皿を斜めに睨む男に、俺は再び苦笑する。そう言えば、この男はこういった改まった食事は嫌いであった。
不意に男が口を開く。
「霧島は」
質問らしからぬ声音だが、元気か、どうしているのか、という問いなのだろう。こうして言葉を省くのは男の癖だが、俺との場合は特に問題は生じないので注意はしない。
「ん、ああ。今は休暇で香港だ。恋人とよろしくやってるだろう」
「なるほど。連絡が来ないわけだな」
「ああ、昨日のあれか。ま、大した事にはならないと思っているんじゃないのか」
「お前はそう思うわけだな」
昨日の日銀総裁のコメントを思い出しながら、小沢の言葉に俺は肩を竦める。実のところこの意見は、別の人間のものなので、あまり突っ込まないで欲しいものなのだ。
「俺は株は得意じゃないんだ。最近はあいつ任せだからな、当てにならない」
うちの金庫番は、他の事に気が多いのが何だが、優秀だからな。気になるのなら直接聞け。
俺がそう言うと、「ま、いいさ」と小沢は気のない返事を返した。相手が動くのを待つタイプであるというか、関心がなさ過ぎるというか、こう言う男だ。友人関係を保っていられるのは、霧島が気に入った相手にはちょっかいを出していく奴だからだろう。俺の場合もそうだ。俺や霧島が顔を見せなければ、あっさりとこの男は孤独を堪能しそうだ。
それでも、多分。この先もこんな関係が続いていくのだろう。
語り合う会話があるわけでもなく、最近の社会の様子を適当に話しながら一緒に食事を勧める男を見、俺はそう思う。友情や信頼などそんな言葉は全く当てはまらず、ただの知り合いだという方が近い関係のようだが、それでも友人というのが一番しっくりくるのだから不思議なものだ。
相も変わらず、俺の周りには色んな人間がいる。深く付き合う者から、憎まれるだけのために顔をあわせる者と様々だ。
全てが全て、楽しいものではない。だが、この模様を、俺はやはり面白いと思う。
失いたくはないと言うほど強く執着しているのかはわからない。だが、疎ましく思っているわけではなく、自分にとっては必要なものであるのだろうと思う程度だ。だが、一度手放しかけたものをこうし再び俺は手にしたのだから、普段は意識をしないが、とても大切なものだともわかっているのだろう。
こんな風に俺がどんな人間と付き合っているか、どんな風に生きているか、もっと彼に教えたかった、知って欲しかったと、今、思う。あの頃の俺はそう思いながらも臆病で、彼自身の事も知りたいのに知ろうとしなかった。
お前は、どんな風に生きていたのだろう。暮らしていたのだろう。
どんな友達がいたのだろうか。どんな関係を築いていたのだろうか。
お前に教えてもらいたかったよ、マサキ。
そして、俺の事をもっと、教えたかったよ。
2003/07/01
Special Thanks to Ruka_sama