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「お疲れ。お前もさっさと帰れよ」
 上までついて行くと言う樋口を3階で降ろし、俺は真っ直ぐ部屋へと戻った。
 都会の盆は、実際のところどうなのかは知らないが、人が少ないように感じられる。気分的でしかないのだが、その空気は悪いものではなく、俺は結構気に入っていたりもする。暑いのは、言うほど得意でもないのだが。
 上着を脱ぎ、ネクタイを取り、シャツのボタンを幾つか外しながらキッチンへと入る。夏ならやはりビールといきたいところだが、何故か今夜はそういう気にはならなかった。変わりに俺はワインを選び、グラスを取りかけ、目にとまった別のカップを手に取る。
 リビングのテーブルにそれらを置き、ソファに身を任せ、漸く俺は深い息を吐いた。クーラーから冷気が吐き出される小さな音以外は何もない、静かな部屋。窓の近くでは、街と月の明かりだけで充分なので電気は点けず、薄闇を楽しむ。
 暗闇の中で何度か息を吐き、俺は体を戻してワインに手を伸ばした。まだ冷え切ってはいないが、赤なので飲めない事もないと、持って来たカップに注ぐ。
 オフホワイトのマグカップには、どう考えてもワインは似合わない。
 含んだ赤い液体は美味しいものであったが、素直に満足出来なかった。いや、味覚よりも視覚や感触に気をとられ、存分に味わう事が出来ない。だが、マグカップでワインを飲むのは、なかなか面白いと別の意味俺はで満足する。
 何だかガキになったような気分だ。
 ふとマサキがこうして飲んでいたのを思い出し、自分も実行してみたのだが、俺には彼のように無心で飲む事は出来そうにない。これを素で出来るのは、あいつぐらいのものだろう。
 牛乳を飲むようにグイッと呷り、注いだワインを飲み干す。空になったマグカップを眺め、俺は喉を鳴らした。そして、先程よりも冷えたワインを新たに注ぎ、また同じように口をつける。
 街の明かりを肴に酒を飲みながら、俺は心地良い疲労感を漂った。
 去年の夏の事は、この時期の事は、あまり覚えていない。いや、ぼんやりと部屋で過ごしたり、時には暴れたりしていた事は覚えている。だが、あの時は夏だと感じる事は殆どなかった。季節など、頭の中にはなかった。
 そんなものがあったのだと気付いたのは、秋の薫りがする頃からだ。
 時とは不思議なもので、こうしているととてもゆっくりだと感じる。だが、マサキの姿を思うと、話を交わしたのはつい昨日の事のようにも感じる。実際にはもう、一年以上が経過しているのだが、そうだとは思えない。
 この一年の事を考えると、彼がいないことを思えば、長い長い時間だった。まだまだ俺の人生は続くのかと、それに耐えられるだろうかと思うほど、一日がとても長かった。だが、ひとたび仕事に打ち込むと、時間が足りない。
 時の流れの感じ方というのは、心に反発しているかのようだ。楽しい時間はあっという間に過ぎるのに、苦しい時は、時による風化を望む時は、ゆっくりと流れる。そんな事は誰もが知っていることなのだろうが、俺はこの歳になって漸く実感した。
 だが、それがわかっても、上手く時間を使えない。結局、人間とはそう言うものなのだろう。そんな考えで導き出した俺の結論は、振り回されるのもいいじゃないかという開き直りだ。
 そう、多分これでいいのだ。それが、生きている証なのかもしれない。
 軽くなったワインボトルを傾けると、直ぐに口から流れる液体は途切れてしまった。そのまま瓶を逆さまに立てると、透明の水滴がボトルの外をつたい滑り落ちていく。それがカップに落ちるより早く空になったボトルをテーブルに戻し、俺はソファに凭れ、片手で顔を擦った。二本目を取りに行くのは面倒だ。
 程よく睡魔がやって来、瞼を落とす目を擦り、そのまま髪を掻き乱す。夏なのでこのまま寝ても風邪をひきはしないだろう。その考えがとても魅力的で、俺は本格的に闇を求めかけた。
 だが、ふと、何かの気配を感じる。
 誰もいないはずの部屋で、空気が変わったわけではないが、それでも何かが俺の傍にいる感じがした。けれど、不思議な事に、緊張も恐怖も何も沸かない。
 なんだろう。
 眠い目を瞬かせ、部屋を見渡す。

 馬鹿げた事に、横のソファにマサキが座っていた。


「…なんだ、お前。本当に来たのか?」
 その姿に驚きはしたが、焦りはしなかった。そう言えば昼間来いよとしつこく言ったよな、とその事思い出せる程度に俺は落ち着いていた。
 未だ、まだ少し眠い目を押さえ、欠伸をしながら、俺はその姿をじっと眺めた。本当にいると思うと、何故かおかしさが込み上げてくる。だから、つい、俺はからかいたくなってしまった。
「律儀な奴だな。それとも暇なのか」
「……」
 マサキは軽く眉を寄せ、伸ばしていた脚を組んだ。俺の言葉が気に食わなかったようなその態度に、俺は思わず喉を鳴らす。そして、ソファに凭れ込んでいた体を戻し、肩を竦める。どうやら眠気は飛んでしまったようだ。
「別に、悪いとは言っていないだろう」
 しらっとした顔をするマサキに、俺は再び肩を竦めた。そして、今度は自身に笑いを落とす。何て夢を見ているのだろうか、と自分に呆れる。リアルすぎるのはもちろんの事、夢だとここまではっきりと自覚しているのは、何とも馬鹿らしいものだ。これは夢なのか、と少し疑いを持てるくらいの方がありがたいというものだ。
 それにしても、思い出ではないこうした夢を見るのは、久し振りだ。最近はマサキの夢を見る事自体少なくなってきていたのだが、やはりまだ、俺は全てを受け入れられているわけではないようだ。
 それとも前向きになってきているからこそ見る夢なのだろうか、これは…?
 どちらにしても、自分の心がけひとつなのだろうと俺は軽く頭を振る。苦し過ぎてもう嫌だと、夢もみたくないと思っていた頃に比べれば、何であれ良いものだと言えるだろう。
「もちろん、来てくれて嬉しいさ」
 俺がその姿を確かめるようにじっと見つめると、マサキは薄く口を開き溜息を吐いた。あの頃よく見た仕草。だが、少し違うようにも思える。まるで、彼にもきちんとこの一年という時が流れたかのような…。
「…参ったな」
 俺は思わず、そんな弱音にも似た言葉を吐いた。
 確かに会いたいと思っていた。何度も何度もそれを願い、苦しんだ。なのに、いざ前にすると、何をしたいのかわからない。夢の中の俺も現実と同じく、間抜けな男のようだ。
「何か、言いたいことはないか?」
 あまりにもわからずに、俺は逆にマサキにそう問い掛けた。たとえ夢だろうと、お前が言う事ならば、目覚めても絶対に忘れないだろう。
 言った後で強い思いを視線に交えた俺に、けれどもマサキはただ首を横に振った。別に言いたいことはないのだと。言葉にはせず伝えられたそれは何とも彼らしく、俺はあっさりと納得してしまう。
「そうか…」
 恨み言のひとつも言われれば、何処かでこの感情に区切りをつけられるのかもしれないと俺は思っていたことに気付く。だが、もう本当はその必要はないのかもしれない。もう、俺の中で整理はついているのだろう。マサキはそれを知っているのかもしれない。
 夢でも何でも、ただこうして再び会えた事に、問い掛けられたことに納得するべきなのだろう。苦しいのは俺一人ではなかったのだから。そう、この青年は俺とは違い、一人でその苦しみを抱え続けたのだ。
 何もかもを簡単に処理してはならないのだと、俺は何度も思ってきた事を再び今、マサキを前にして実感する。これから先もこの思いと歩いていくのだと、歩いていけると確信する。
 苦笑を浮かべた俺を、マサキは組んだ脚の上で顎肘をつき、斜めで捕らえる。相変わらずのクールな対応。だが、それが心に沁みる、温かく。
 今、俺とマサキの間に落ちる空気がとても優しく、心地良く。俺は沢山訊いてみたいと思っていた事全てが無駄のように思え、静かに同じ時を過ごす事を選んだ。そう、これでいいのだと。
 今年の夏は例年に比べ、とても暑いし、長い。梅雨は短かかったし、秋の気配もまだ来ない。俺は駄目だな、暑いのは。なのに、来月暫く日本を離れる事になっているんだが、行き先が中東なんだよ、これが。最悪だ。
 そう言えば、ジン。あの猫、覚えているか? あいつ夏バテしたんだってさ。2、3日で復活したみたいだが。そんな年でもないと思うんだが、何なんだろうな。瞳は心配していたよ。っていうか、猫の寿命って何年なんだろうな。
 当り障りのない会話はあの頃も良くしていた。
 その時と同じように呆れた表情で、けれどもマサキは俺の言葉に反応を示した。しかし、声を出す事はない。肩を竦め、顔を顰め、顎を突き出し鼻で笑い、溜息を吐く。部屋を眺め、瞼を閉ざし、そして、俺をただ見つめる。だが、決して言葉は発さない。
 なんとも不親切な夢だと思いながらも、それならそれでいいさと、あえてはっきりとした答えは求めず、俺は軽い反応だけで満足をする。
 いや、俺はそれをいい事に、マサキが喋らないのをいい事に、少し自分を甘やかす。
 はっきりと言葉で拒絶される事はないのだと、卑怯にもそれを守りとして、爆弾を転がす。
 今くらいは、夢の中くらいはいいだろうと自分に言い訳をして、その言葉を口に乗せる。

 その姿を前にして、俺は一年前に膨らませていた想いをリアルに思い出し、飲み込まれてしまったのだろう。

「――俺は、本気で好きだったんだ、マサキ」

 他愛のない会話に紛れ込ませるように、続けてさらりと言った言葉。だが、いつの間にか張っていた緊張の糸は、言った瞬間プツリと切れた。その後の言葉を上手く続けられず、思わずマサキから視線を外し下を向く。
 何をやっているのだろうか。夢でも俺の馬鹿は治らないらしい、と後悔の中で自分を詰る。
 そして、まだ軽口に出来る程も変化していない想いに気付き、自身で驚く。まだまだ俺には、時間と言うものが必要なのだろう。
 俯いた視界に、不意にマサキの足が入ってきて、俺は再び緊張した。そのまま動けず、ただ薄闇の中でマサキの足を見つめる。
 空気が動いた。そう思った次の瞬間、俺の髪に何かが触れた。
 あの頃、俺が良く彼にそうしたように、マサキは俺の髪をくしゃくしゃと掻き混ぜ、頭を撫でた。
 その不意打ちに、涙が零れそうな気がして、目に力を入れる。
「……何だよ、ったく」
 不貞腐れたような声が俺の口から零れ、無意識のそれに、続けて笑いを零す。
「参ったな…、やられた…」
 俺はそのままソファに倒れこみ、口元だけで笑った。下から見上げたマサキの顔にも、微かな笑みが浮かんでいた。
 その笑顔に、俺は瞼を閉ざす。
 それは、あの時見た顔と同じだった。夢の中で、俺の名を呼んだ時と同じ顔のように見えた。
「――もう、行くのか…?」
 直感的に悟ったそれに、目をあけかけ、再び閉じる。
 まだいいじゃないか。往生際の悪いそんな言葉を喉まで上がらせた時、俺の耳に声が届いた。

――荻原。

 …名前で呼べよ。
 心の中で呟く俺の髪に、再びマサキの手が触れた気がして、俺は咄嗟に捕まえようと腕を伸ばした――
 だが、しかし。

「マサキッ! ――痛っ!!」
 ガツンという音と同時に、鈍い痛みが俺の右手を襲った。それでも上に伸ばした手は、空しく空を掴むだけだった。そして、俺はそのままバランスを崩し、見事にソファから滑り落ちた。
「マサキ!?」
 床に打ち付けた身体に眉を寄せながらも慌てて身を起こし、辺りを見わたす。
 窓からの明かりだけの、薄暗い見慣れた部屋がそこにあるだけだった。マサキの姿は、何処にもなかった。
「…当たり前か」
 テーブルに打ち付けたらしい右手の甲を擦りながら、俺は呟く。そう、夢なのだ。夢でなければおかしいというもの。
「だが…、夢ならもう少し、良いものにしてくれよ。――名前くらい呼べよ、おい」
 溜息交じりに、単なる八つ当たりでしかない悪態を付きながら、俺はテーブルにのるマグカップに手を伸ばし口をつけた。
 だが、中身は既に空で、喉を潤す事は出来なかった。仕方なくそれを戻し、息を吐きながら立ち上がる。何か飲む物をとキッチンに向かいかけ、俺ははっと振り返る。
 テーブルの上に置いたオフホワイトのマグカップは、変わらずそこにある。
 だが…。
 俺はそれを飲み干していたのだろうか…?
 ボトルからカップに注いだ事は覚えているが、その後飲んだのかどうかまでは、記憶にない。
「――死んでもなお、酒好きなのか…?」
 幽霊が飲んだというのも、マサキがここにやって来たというのも、本当に馬鹿げた事だが、元々馬鹿な俺なので一つぐらいそれが増えたところで問題になりはしないだろう。
 そんな屁理屈で今夜の事を解決し、再びキッチンに向かいながら、俺は口説き文句を考える。

 今度はもっと上手い酒を用意するから、また来いよ。

 ほんのひと時の、夢でも何でもいい。

 俺はお前に会えるただそれだけで、満足だから。
 だから、また来いよ。

 消えてしまった彼に呼びかけ、俺は新しい酒を手に、リビングへと戻る。
 窓に近付き夜空を見上げると、そこには丸い月が浮かんでいた。

 俺はこれからも、懲りずにお前の事を思って過ごすだろう。
 毎日毎日、寝ても覚めてもお前の事を考える。お前にとっては迷惑だろうが、関係ないよ。いないお前が悪いんだからさ。
 何より。
 これって、凄い事だと思わないか。なあ、マサキ。
 俺は思うし、そんな自分に満足しているから、当分止めそうにはない。
 文句があるのなら、言いに来い。
 いつでも待っているから、お前を。マサキ――

+ END +

2003/07/01
Special Thanks to Ruka_sama