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 自宅への近道として利用する事は時々あったが、本来病院の敷地には無闇に入ってはならないと大和は両親に言われている。特に、院内への出入りは特例以外は禁止されており、小さい頃に従姉弟達と潜り込み遊んだ時はこっ酷く叱られた。ただ、叱ったのは父の弟であり、従姉弟達の父親に当たる叔父である。二度と病院では遊ばないと泣きながら誓う子供三人の頭を撫でたのも、その叔父である。その夜帰宅した父が、迷惑を掛けたと管理不足の非を認め頭を下げる母に向けた言葉は、「もういい」と言う呟くようなひと言だけだった。大和自身は、何も言われなかった。だが、子供心にも、怒られなくて良かったとは思えなかった。その複雑な心境が記憶に残ったのか、あれから何年も経った今でも、あの時の情景をはっきりと思い出せる。そして、思い出す度、いつも考える。父はどう言うつもりで、あの時「もういい」と言ったのだろうと。終わった事だからなのか、諦めたからなのか、それとも関心がなかったからなのか。幼い時も、成長した今も、その答えを大和は見つけられていない。言い表せぬ思いだけが、胸の奥で燻っている。
 だからと言うわけではないが、病院には必要以上に訪れる事はしていない。分別の付く歳になったのだから、叔父は勿論、父も何も言わないだろう。実際、従姉弟達も、そして兄である大地も、頻繁ではないが院内へと足を踏み入れているようだ。だが、大和は彼らほども簡単に、何も感じずに立ち入る事は出来ない。入る事は不可能ではないのだ。ただ、したいとは思わない。後ろめたさのようなものが付きまとう。兄はそれを「トラウマ」だと言い苦笑した。そんなに大袈裟なものではないと、即座に違うと否定したが、そうなのかもしれないと最近思う。
 美弥を隣にしていると、罪悪感からか、大和はいつもそこに辿り着くのだ。
「ヤマト、どうかしたの?」
「別に、どうもしない」
「元気ないように見えるけど?」
「違うよ、考え事をしていただけ」
「なんの?」
「…部活、どうしようかなってさ」
 たった三段の階段に並んで座り、傾いた日差しの中で短い言葉を交わす。
 美弥に会って三週間。馬鹿な会話でも、ふざけた遣り取りでも、あんな出会いをすれば気に掛かるのが当然で。三日後には普通に挨拶をする仲になっていた。そして。院内から出てはならない彼にその罪を犯させ、一部のスタッフが時たま出入りするだけの裏口で毎日のように会っている。美弥が先に待っている事もあれば、大和が待つ事もある。何度か出て行けないと三階の窓から断られ、じゃまた明日と別れ たりもしたが、殆どこうしてこの場に座っている。五分の時もあれば、三十分の時もあり、時間はまちまちではあるのだが。互いにとって日常の一部と化している。
 きっかけとなった猫は捕獲していない。触ってみたいのだと言う美弥に、だからといって追いかけて捕まえるのはどうかと思うと、大和が協力を拒否したからだ。そして、確かにそうだねと美弥があっさり納得したのを最後に、その話はそれで終わった。けれど、裏口に居座る人間が気になったのか。猫の方から散歩の途中に近付いてくるようになり、奇しくも美弥の願いは叶えられる事となった。
 大和としては、美弥の病に影響を及ぼさないかと心配であったので捕獲を拒否したのだが。当人はいたくご機嫌で、今のところ問題はみられない。猫の方も数度喉を撫でられれば満足なのか、餌を強請る事もなく直ぐに去っていくからこそだろう。美弥はそれをクールだと賞賛した。なので、下手に引き止める事はせずに相手のしたいようにさせる事で、週に数度の触れ合いを楽しめている。舐めたり噛んだりする猫だったのならば、流石に付き合う事は出来ない。
 今日はまだ見ぬ猫を裏庭の景色の中に探しながら、大和は言葉を紡ぐ。
「強制入部じゃないから、入らなくてもいいんだけど。するのなら、今しかないし」
「高校受験はないんだろ?」
「一応。成績が悪ければ、わからないけど。ま、その心配はないかな」
「だったら、何かしてみれば?」
「何かって言ってもなぁ」
 それが何であるのか決められたら苦労はない。やりたい事などわからないと、大和は溜息を吐く。
 昔から、決めるのは苦手だ。決断力がないわけではないが、自分の感情を汲み取るのは上手くない自覚がある。それはきっと兄と違い、与えれれるままに選び取ってきているせいだろう。だけど、それを選ばないでいられる方法を自分は知らないし、そんな事を望んでいるわけでもない。
「…ミヤは何かやってみたい事、ある?」
「僕?」
 自分の問いに、顎に手を当て考える友人を大和は眺める。ひとつ年上ではあるし肉付きもいいのだが、小柄に入る大和よりも美弥はまだ小さい。それが病気のせいであるのかどうなのか聞いた事はないし聞く気もないが、時折、酷く大和を苛める。
「う〜ん。やっぱり僕ならバスケかな。メンバーの中で一番小さかったけど、地元のジュニアクラブでレギュラーとってたんだよ、これでもね」
 もう一度やりたいなぁと昔を懐かしむような美弥に、大和は「やればいい」と腰を上げた。後ろめたさから振った話題は、誰が聞いても適切ではないもので。更なる罪悪に居た堪れず、誤魔化すように無理を言う。そんな自分の情けなさにまた腹が立って、それが理不尽にも近くの人間に向かう。
「無理だって。僕、運動は出来ないから」
「ボール投げるくらいなら運動じゃないだろ」
 無茶苦茶だと頭の隅で思いつつ、勝手に飛び出す言葉を大和は押さえられなかった。
「やりたいのなら、やれよ」
 自宅までは、ゆっくり歩いても五分もかからない。古いものだが、庭にはバスケットゴールがある。ボールは、どこにやったか忘れたが、見付からなければこの際他のものでもいいだろう。サッカーボールなら確実にある。
「もう一度って、なんだよそれ。何度でもやればいいじゃん」
 何故自分がムキになっているかわからないが、大和はこの友人にバスケをさせようと、美弥の腕を取り立ち上がらせる。だが、美弥はそれ以上足を動かさなかった。
「悪いけど……ゴメン」
 またねと言って、院内に戻る美弥に腹が立った。
「ミヤ!」
 友の名を読んだその声は、非難のそれであった。
 だが、それでも。
 自分が彼を傷つけたとの自覚はあって。スチールのドアを少し開け中に入る事は可能であったし、美弥の病室も知っていたので追いかける事も出来るのだったけれど。今の自分では引き下がるしかないと、大和は溜息を落とした。
 美弥の病気を、大和は詳しく知らない。細かく教えられても自分がわからないのもあるが、美弥自身余り口にしたくはないようなので曖昧になっている。一日何分かだけ他愛ない事を話している関係にそれは不必要だった。だが。それでも確実にその影は存在している。その圧迫が自分を不安にしているのかと大和は考えかけたが直ぐに否定し、三階の窓へと顔を向けた。
 病気は美弥のせいではないし、不安になるのはただ自分が弱いからだ。
 ゴメン。心の中で謝罪を呟き、帰路に着く。
 この世は理不尽だと大和は思う。バスケをしたいと口に出して言い切れる美弥がそれを出来なくて。どの部にでも入る事が出来る自分は、けれどもこれといってやりたい事がない。切なげでさえあるように純粋に夢を語った美弥のそれは、何よりも切実そうでいて、夢の向こうの夢でもあるようであったのに。俺はそれでも羨ましく思ったのかもしれないと、大和は進む数歩先の地面を睨む。
 美弥の現状を知りつつも嫉妬するなんて、最低だ。そう思う。これは八つ当たりなのだとさえ自覚している。
 だが、それでも。言葉では言い表せない焦燥が腹の底で燻って消えない。
「……ただいま」
 玄関を開け小さく呟いた声は、リビングから響く声でかき消された。珍しくも、大地が声を荒げている。両親の怒りを前にしても飄々とした態度を貫く兄が珍しいと思ったが、興味はそそられず、大和は音を立てずに階段を上り自室へと直行した。二階にまで大地の声は届いたが、それは聞き取れる程のものではなく、また幾らもしない間に沈下した。
 大和は溜息を吐き、ベッドに突っ伏す。
 我が道を行く大地が両親と衝突し続けるのは最早日常で、早々にそれを諦め無視している大和ではあるが、今日は酷く苛ついた。

 美弥や大地が持つ何かが自分にはないのだと、大和は部屋の隅を見ながらそんなことを思った。

2009/02/16
Special Thanks to Akemi_sama