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 母の弟である叔父は三十を幾つか超えた年齢で、甥の大和から見てもまだ若い。そんな彼は、昔は「オジサン」と呼ぶのを甥達に許していたが、いつの頃からか名前で呼ぶように強要してきた。本人曰く、理由は「そういうのが気になる年頃になったから」らしい。大和としては、何と呼ばされようが問題ない。叔父の希望に従うまでだ。
 陰気や根暗というのは流石に言いすぎだろうが。派手なところが一切ない母は、表面的にはとても大人しい性格をしている。だが、叔父はそんな母と兄姉だとは思えないくらいに、溌剌とした性格の持ち主だった。父である祖父に似たのだろう。そして、その血は確実に、自分よりも兄に受け継がれているのだと大和は認識している。
 子供の頃から、衒いなく言えるくらいに、叔父の事は大好きだ。だが、成長するにつれ、大地との距離が遠くなるにつれ、それが少し重くなっている。叔父に似た明朗な兄を、ずるいと思う。自分とて叔父に似たかったと、そう思う。馬鹿げた妬みだ。だが、そうわかっていても大和にはどうしようもないくらいに、大地に対して含むところが多々あるのだ。
 向けられる優しさは信じている。身内でなければ、憧れたかもしれない。だが、そんな気持ちは燻る苛立ちの前では、とても小さなものだった。
「どうだ? 中学は慣れたか?」
「まあね。でも、最悪」
 答えを予測出来たのだろう叔父が苦笑するのを睨みつけ、大地はもう一度同じ言葉を呟いた。
「最悪だ」
 叔父と会うのは、春休みにドライブに連れて行ってもらって以来だ。祖父の事務所で弁護士として働いている叔父は、医者であり病院経営者でもある父よりも忙しいらしく、あまり会えていないのが現状だ。それを面白くないと思うのは子供過ぎると大和とて理解しているが、そえでも面白くないものは面白くない。そして、久し振りに会ったというのに初っ端から嫌な話題を振られ、その度合いが一気に跳ね上がった。
「俺はどこでもいつでも『千束の弟』だ。これが最悪じゃなくて何ていう!?」
「大地はなんていうか、自由だからなァ」
「そんなに呑気に言わないでよ! 会う人会う人、先生でも先輩でも、みんなが俺に色々兄貴の事を言うんだよ。そんなの知るかっていうんだ! もう最低ッ!」
「まあ、そう言うな」
「なんで!? だって、兄貴が馬鹿をするのも目立ちたがるのも俺には関係ないし、フォローして面倒をみなきゃいけない義務はないじゃん! ふざけんな!だよッ!!」
 入学してからの鬱憤を、この程度の愚痴で晴らそうとする健気な自分を、それでも宥めてくる叔父がまた気に食わない。日頃の己の苦労をわかってくれない叔父に、大和は舌打ちをした。その瞬間、ムニッと頬を抓まれる。
「怒るな、可愛くないぞ?」
「……可愛くなくていい」
「不細工だ」
「…………」
 変な顔にしているのは何処の誰だよと、大和は叔父を睨んだまま頬から指を引き剥がした。少し痛みを教える頬を擦りながら、「なんで俺が怒られるんだよ…」と剥れる。
 大和とて、決して大人しい性格をしている訳ではない。だが、五歳年上の大地と比べられれば遜色する。それを自覚している大和は、自分なりにそれについては折り合い点を見つけている。大地のようになりたいわけではないのだから、意識をする必要はないと納得している。しかし、それでも。会う人ごとに兄弟として比べられるのは腹が立った。ストレスは溜まる一方だ。
「俺は悪くない」
 気を抜けば濡れそうになる眼で、大和は目の前の人物を睨む。この叔父とて、兄が家庭でどんな振る舞いをしているのか知っているはずだ。そのせいで、家族が、弟である自分がどうなっているのかも。知っているのに、大地の味方をするような叔父が大和には信じられない。
 あの兄の自由さは、家族の犠牲の上で成り立っている。
「そんな眼で睨むな」
 叔父が苦笑するが、大和の顔から強張りはとけない。
「俺はね、大和」
「……」
「別に、お前が大変じゃないとは思っていないよ。学校ではムードメーカーなんだろう大地の弟だって事で、皆に注目されるのは苦労だろう。理不尽な事も言われるのかもしれない。だけど、そう言うのは言ってくる本人に言い返せ。ま、本当は適当に流しておくのが一番だけど」
「言い返すって…」
「俺や他の奴には勿論、大地にも文句は言うな」
「だから、どうして」
「確かにそう言われるような行動を、大地はしているのかもしれない。だが、あいつが弟に迷惑を掛けないでおこうと頑張っているのを俺は知っているからな。あいつにとっては不可抗力のようなもんだ。お前の事は、お前が処理しろよ」
「……ナニそれ」
 やっぱり俺だけが貧乏くじを引いて我慢するのかよと、悔しさに大和の眼が今度こそ潤む。
 叔父の言う言葉に思い当たる節がないわけでもない。だから我慢ばかりをしているわけではないけれど、兄のせいで抑えつけられている面はそれでも沢山あるのだ。家の中だけではなく、これからは学校でもそうしろというのか。耐えろというのか。
 唯一、大和が味方として求めている叔父の言葉に、大和の頭が沸騰する。
「……ムカツク! すっげーぇムカツクッ!!」
「馬鹿だな、大和」
 今度は、突き出した唇を指先で挟まれる。引っ張られ、大和は首を伸ばしながら叔父の腕を叩いた。
「言うなって言っているだろ?」
「言ってないよ! 今のは、俺の心情を言っただけ!」
 兄貴の悪口じゃない!と抗議する大和を、頬杖をついて眺める叔父は、甥の激昂など見えていないかのように悠然と笑った。
「俺はね、大和。お前達兄弟が大好きなんだよ。片方が片方を非難したら、どんな理由であれ怒るよ?」
「……非難なんて、してない」
「だが、疎ましく思っているだろう?」
 からかってくる学校の面々だけじゃなく、大地自身をさ。
 知っているぞと見透かす叔父に、ならば何故、怒られようと口にしてしまう程の鬱憤が自分に溜まるのか、その理由までも見てくれよと大和は思う。その憤りをわかって欲しいと思う。だが、多分、この叔父はわかっていて自分を嗜めているのだと、大和は渋面のまま視線を下げた。
 やはり、我慢なのか。
 大和とて、出来れば大地を嫌がりたくはない。彼がちゃんと優しいのもわかっている。だけど、そんな事ではなくて、もっと現実的な面で、兄が自分を抑制しているのは事実なのだ。彼が自由にする分、俺の自由が奪われていく。
 今だって、今までだって。
 そして、多分、これからも。
 叔父の言う通り、大地は大和を非難しない。だが、蔑ろにしている。
「……薬学部に進むつもりだって、父さんに言っていた」
「大地が?」
 頷きで返事をしながら、大和は数日前に偶然目撃した父と兄の様子を思い出す。
 リビングの扉が開いていて、中の会話は廊下まで聞こえていた。二人の存在に、また喧嘩をしているのかとウンザリして、一瞬自室へ戻ろうかと思ったが、何となく足を進めた。けれど、思わぬ言葉に、リビングまで数歩の距離で足を止める事になった。
 医者にはならないと、病院は継がないと、自分の好きにするのだと公言し続けていた兄が。いがみ続けている父親に向かって、「薬学部に入りたいと思っている」と言ったのだ。
 その瞬間、大和の身体には衝撃が走った。雷で打たれたなら、こんな感じなのかもしれない。そう思うくらいに身体も頭も全てが痺れ、目の前が暗くなった。味わったのは、死を身近に感じたような、恐怖と絶望。だが、次の瞬間には、言いようのない怒りが湧いた。ふざけるなと、そう思った。けれど。
 勝手にしろ、勝手にするよ。病院はお前には継がさない、継ぐ気もないよ。そんないつものような会話を聞くうちに、全てが馬鹿らしくなって。
 気付いた時にはリビングに足を踏み入れていて、また揉めているのかよと、懲りないよなと、いつもの呆れを大和は顔に浮かべた。何も聞かなかったんだと、自分の登場で会話を止めた二人を眺め、己にそう言い聞かせた。受け止める事など出来るわけがなかった。
 しかし、その場はそれで過ごせたが、その後からは最悪だった。両親の期待を全て蹴散らしていた兄が今更医療関係に携わる職を選ぶなど考えた事も無かった事態で、大和の心は乱され続けた。彼が薬学部に入ったからとて、自分には関係ない。そう思うのだが不安が減る事は無く、そこに根拠などないのだと気付くのに時間は要らなかった。
 父親の目が自分から離れたとしても、それを悲しいとは思わない。だけど、その目が兄に向かうのだけは、心底から嫌だと思う。
 兄が何かを放棄する度に、理解するよりも先に圧し掛かってきていた重圧。それに耐えた己の立場は、けれども簡単に揺らぐような不安定なものだという現実。日常の忙しなさに埋没させねば、叫びだしたくなるような恐怖や理不尽さが、突如として存在してきたのだ。それなのに、頼みの日常も、息を吐けるはずの学校も、大地に侵されている。
 何をしていても、身体の奥底で何かが張り詰めている感覚。父の態度も、兄の態度も、勘につく。苛立ちが募る。
 だが、それ以上に。兄のひと言でこんなにも動揺する自分が許せられない。
「……最悪」
 小さい呟きだったが、叔父には届いただろう。だが、何も言わない。言わないのは、許されての事なのか、見放されての事なのか。以前なら自信を持って前者だと言えるのだが、今はわからない。叔父とて、初めて知った甥の進路に思うところはあるのだろう。目の前で落ちる甥よりも、そちらに意識を向けるほどに。
「強くなれよ、大和」
 強くなれ。
 長い沈黙を挟んで叔父が言った言葉は、けれども大和には空しく響いた。

 それは、裏切られても傷付かないようにか。
 それとも、自分が誰かを裏切れるようにだろうか。

2009/02/16
Special Thanks to Akemi_sama