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裏口では会えない事が多くなったと、大和が美弥の病室を初めて訪ねたのは雨が続いていた日の事だった。少し体調を崩していたらしい美弥はそれでも、ベッドの上で身体を起こして大和を迎え入れてくれた。院内に足を踏み入れてから張っていた緊張の糸がその向けられた笑顔で切れると同時に、今まで行動に移さなかった自分を恥じた。
その日以降、大和は何度も病室に美弥を訪ねていっている。幸いな事に、病院スタッフも父も叔父も咎めてくる事はなかった。それは、美弥が大和の事を周囲に「友達だよ」と紹介したからだろう。居心地が思ったほども悪くはならなかったのもそうであるからだ。
だから、いつものように。大和は学校からの帰りに病院へと寄ったのだが、その日美弥は病室にはいなかった。少し待つつもりで、見慣れた姿を探しつつ院内を抜け裏口へと向かう。
辿り着いてみると、そこには友人ではなく猫が居た。散歩途中の休憩なのか、階段の真ん中で堂々と毛繕いをしている。
「なあ、ミヤは来た?」
隣に腰を降ろすと、猫がチラリとこちらを覗ってきたので大和は訊ねてみた。けれど予想通り、それ以上の反応は見せない。初めて見かけてからもう二ヶ月以上が経つが、相変わらずクールだ。
だが、塾の時間までならば待つかと決めた大和に倣うように、いつもは直ぐに散歩を再開する猫も、美弥が現れるまで留まっていた。三十分程のんびりとしていた猫は、やって来た美弥が一頻り撫で終わると去っていった。あいつも待っていたのかと、小さな姿を見ながら大和は喉で笑う。
「どうしたの?」
問うてきた美弥に事の顛末と自分の憶測を話すと、彼は目を細めて笑った。最近になって、ふっくらとした友人の体型は薬の副作用であるものだと大和は知ったのだが。その顔がどことなくやつれているように見える。浮腫んでいるのに、おかしな事だ。
「もしかして、しんどい?」
「ううん、全然」
「じゃ、どうかした?」
今度は逆に問い掛けた大和に、けれども美弥は何も答えなかった。そんな美弥は、結構秘密主義だ。大和は、ポツポツとだが、親の事や兄の事、学校での事を語るのに。病気の事は勿論、美弥はあまり自らの事は話さない。当り障りのないものばかりで、人懐っこい笑みを浮かべるくせにクールだ。
だが、それが全く嫌味じゃないんだよなと、だからこそ突っ込んで訊けないんだよなと。たった一歳の、あるかないかのような差なのに、時々それ以上の歳の差を大和は感じる。精神的なものが違うのだろうか。俺だってクラスメイトの中では大人びている方なのになと思えば、ほんの少し悔しい。けれど、それも美弥を前にするとどうでもよく思えた。
気が合うのだから、それでいい。
「もう帰らないと。塾なんだ」
「ヤマト」
立ち上がった途端、切羽詰ったような声で名前を呼ばれた。いつもどこかで余裕を持っている美弥らしからぬ声だ。その勢いに乗せられ、大和は身体ごと振り返る。
「なに?」
「僕、明日退院するんだ」
「はっ? 退院?」
「そう」
だから今日でさよならだと、出された右手を見下ろし大和は呟く。さよなら、ってなんだ。
だって、治ってないじゃんかお前。
そう零れ落ちそうになった言葉を、大和は慌てて飲み込んだ。後から思えば、これが出来たのは奇跡に近かった。それくらいに、解せない話であった。
「ホラ、握手、しよ」
「ちょっと待て。待って。退院って…、しかも明日って…、何だよ一体」
「病気が良くなったんだ。地元に戻って暫く療養して、上手くいったら二学期から学校に通う」
「……なんで、そんな、急に…」
嘘だ!とは、流石に言えなかった。だが、だからと言ってそうかと笑って受け止められるほどの余裕はなかった。ただ、騙されないぞとの思いに押され、大和は相手に詰め寄る。
「ミヤ」
「確かに、まあ、急かもしれないけど。完治したわけじゃないから、心配してくれているんだろうけど。ね、大和、わかってよ。折角仲良くなったんだから、会えなくなるのは寂しいけど。僕、早く家に戻りたいんだ」
「……」
「今日でお別れなんだから、怒るなよ」
「……本当に退院するのか?」
「うん」
「それは……。…俺は、おめでとうと言っていいの?」
「…うん」
「……おめでとう、ミヤ」
「…………ン」
俯くよりも先に歪んだ顔に、大和は唇にバカと乗せた。項垂れた頭に右手を置き、左手でいつの間にか降ろされていた美弥の右手首を掴み持ち上げる。
「…ありがとうも言えないのに、俺にだけ言わせるなよ」
開いた掌に向かってパシンと音が鳴るくらい勢い良く右手を打ち込むと、美弥はしっかりと大和のそれを握り締めた。
「……ゴメン」
「自分で仕掛けて、謝るなよ。急過ぎなんだよバカ」
「バカは酷いよ」
仮にも、僕の方が年上だよ? そう言って顔を上げた美弥は笑っていたが、眼には膜が張っていた。
親元から離れたこの病院に入院したのは、集中的に治療を受けるためだと聞いていた。完璧に治して、学校に通うのだとも言っていた。その為に辛さを我慢していたのは、本人がそうとは言わずとも大和にもわかっていた。それなのに。芳しくないのだろう容態でのそれが何を意味するのか、美弥の態度を見れば一目瞭然だ。喜べる事ではないのだ。
だが、それでも。その嘘を暴く権利は自分にはないと、大和は奥歯を噛み締める。
「黙って行こうかとも思っていたけど、悪いと思い直してちゃんと言ったのに。なんか、怒られたら損した気分だよ」
「屁理屈だ、そんなの。しかも威張るなよ。…病気、ホントに良くなったんだろうな?」
「うん。思ったほども、悪くはない。ホントだよ」
「…そっか」
大和は、美弥の病状を良く知らない。他県から転院してくるほどであったのだから、最悪の想定が死であったのならば、ここでこうして立っているそれだけでも『思ったほども悪くはない』と言えるだろう。美弥の言葉に安心出来る要素はないのだと、大和は直ぐに気付いていた。けれど、やはり、追求は出来ない。
「いつ出るんだ…?」
「明日の昼前。学校なんだから、見送りに来なくていいよ」
「頼まれても無理だよ」
「大和って、そういうところ意外と真面目だよね」
「…意外は余計だ」
エスケープが罷り通るようなレベルの学校ではないのだと、大和は心の中だけで付けたし溜息を吐く。その様子をどう思ったのか、美弥は小さく笑った。
「そんなに淋しがられるとは。友達冥利に尽きるね」
「…別に、淋しくない。…また、会えるだろ? 行くよ、そっちに」
「今まで出来なかった分、色々やらなきゃダメな事があるんだ。忙しくなるから、そんなに簡単には無理だよ」
「無理しろよ」
「あは、そうだね。じゃ、十年後ぐらいにでも」
「何で十年後だよ」
「楽しみは取っておかないと」
「長すぎて忘れるかもしれないだろ、それじゃ」
「忘れるの?」
「…カモ、だよ」
「そう。でも、ヤマトが忘れても、僕が覚えているから大丈夫だよ」
大丈夫。そう言った美弥の笑顔はとても穏やかだった。
翌日、本当に美弥が退院したのを、いつもの時間に病室を訪ねて大和は知った。
2009/02/16
Special Thanks to Akemi_sama