+ 5 +

 本当はこの病院では手の施しようがなくて。だから美弥は地元へと引き上げたのだと大和が知ったのは偶然だった。彼と仲が良く、また院長の息子である大和が美弥の症状を知っていたと勘違いしたスタッフの短いひと言で、やっぱりそうだったのかと憶測が現実へと結びついたのだ。可哀相にねと、そう言った清掃員が悪いわけではない。眼を逸らしたのは、大和自身なのだから。
「…やっぱ、あいつはバカだ」
 見回りを再開する猫と共に腰を上げ、ひとり帰路へつきながら、大和は聞かされた真実を漸く消化してそんな言葉を落とした。意外と心は平穏といえるくらいに静かで、そのまま自室まで戻る。だが、確認した時刻は、いつもならば塾に着いている頃のそれで。自分がどれだけあの裏庭に留まっていたのかを大和は漸く知った。
「……急がないと」
 そう思うが、着替えは捗らない。脱いだ制服をそのままに、ベッドに倒れこんでしまう。
 思い出すのは、いつだったか偶然にも一緒に見た小児科病棟のドキュメンタリー番組だ。隣りの友人が食い入るように見ている事に大和が気付いた時、美弥は一言「僕も同じ病気なんだ」と言った。見直した画面では完治した少女が退院するところで、大和は「へえぇ」と軽く頷いただけだった。
 それなのに。
 人はいずれ死ぬ。それはわかっていた。治らない病気があるのも、頭ではわかっていた。だけど。医者による技量の違いから、諦めねばならない命がある。それを本当に理解していたかどうかまでは疑問だ。態々転院までして病に向かい合っている美弥が助からないかもしれないと、そんな可能性を真剣に考えた事はあっただろうか。例えあったとしても、到底納得など出来なかっただろう。
 同じ時代の、同じ国に生まれても。そんな運みたいなもので、人生が左右される。
 本当に、この世の中は理不尽だ。
 テレビの中では助かった者がいるのに。自分が失いたくない者にはもう、希望さえなかったのか。彼はあの番組を見て何を思ったのだろう。諦めねばならない現実を知ったのか。だったらあれは、美弥にとっては残酷な何ものでもなかったはずだ。同じ病気に苦しみもがいている者が沢山いる中で、あの治療を受けられ病を克服出来るのはどれくらいだろう。メディアで取り上げられ難病だと繰り返される度に、自分は無理だと悟らされるその恐怖は想像も出来ない。希望を持ったとしても、ぬか喜びだったのだと改めて現実の厳しさに気付いた時、もう一度なにかを受け入れる事など出来るだろうか。
 あの時。一緒にテレビを見ていた自分は、一体どんな顔を友人に晒していたんだろう。初めて病名を告げた美弥のそれさえももうはっきりとは思い出せないのに、大和はその時の自分に誠意など欠片もなかったと断言出来る気がした。
 叫び出したい衝動が体中を駆け巡る。何を言えばいいのかわからないのに、大きな声で喚きたくなる。消化できない思いが、身体を苛む。自分は、自分の人生を彼のように見つめた事はない。医者になり病院を継ぐ以外を考える理由が、今までなかった。兄が薬学部へ進むつもりだと聞き複雑な感情を抱きはしたが、それは後を継ぐのは自分ではなくなるかもしれないというものだけで、医者になる事に変わりは生まれなかた。けれど。
 学校や職業だとかではなく、人生を進むための命そのものの未来を、美弥はいつも見ていたのだ。
 それなのに、俺はそれを微塵も理解していなかった。大和は、根こそぎ気力を奪われたかのような脱力感に、自然と瞳を濡らす。
 やけに、自分の心音が身体に響いた。
 今、美弥はどこで、何を思っているのだろう。

 夏休みに入り、通うのは学校ではなく塾になった。それでも、習い事に家庭教師に、友人達との付き合いにと。変わらず忙しい毎日を過ごしながらも、大和は美弥が居ればなとよく思った。だが、二学期が始まり、秋の行事に追われ、寒さを覚え始める頃にはそれも少なくなり、年が変わる頃には彼との記憶は思い出となった。
 病院の敷地を抜ける時、居ないとわかっていても見上げていた窓も。自分の庭のように堂々と歩く猫も。胸に感じていた痛みも。全てが確実に過去へと送られていく。これが、生きると言う事ならば。彼もまた、全てを消化していっていたのだろう。苦しみも、悲しみも。
 一度だけ、彼はどうしているのかと担当だった医者に聞いた事がある。まだ暑さが残る頃の事だ。元気みたいだよとの即答をどう処理すればいいのかわからず、そうなんだとだけ短く答え、それ以上考えるのを止めた。そんな自分を、薄情だと大和は思う。けれど、だからといってどうしようもない。彼を訪ねる事は考えなかった。その勇気がないのも勿論、美弥自身それを望んでいないように思ったからだ。いや、実際望んでいなかった。遊びに来いと、彼は言わなかった。じゃあなと、別れの挨拶しかしなかった。十年後なんて冗談を言って。
 彼は逃げたのだ。病と戦う事を止めたのだ。一時はそんな風に思った事もあったけれど。美弥は医者ではないのだ。医療がなければ、戦う事が出来ない。だから、本当に仕方がなかったのだろう。だけど、大和は今なおそれを受け入れられない。納得せねばならない理由が見付からない。
 それでも、日々は流れ、友人と過ごした時は遠くへと流れていく。問答無用で。
 過ぎていく日常の中で相も変わらず変わらないのは、家庭内の雰囲気だ。父と兄の冷戦状態は続いている。だが、時にぶつかりあっている姿を見れば、父はどこかで安心しているようにも思えた。勝手ばかりをすると長男を詰ってはいるが、以前のように気に食わないといえる行動ではなく、薬学部を目指しているという点に重点を置いたのだろう。多少の事は許せるようだ。逆に、母は息子の進路を聞き、それならば医学部でも良いじゃないかと思っているらしく、後少しで取り込めると内心で躍起になっているらしい。大和に対しても、兄弟同じ道の方がいいでしょうとまで言ってくる。お前からも頼めと言う事だ。
 大地が薬学部進学を考えている旨を告げてから、自分だけをおき去り家族が変化したようにも大和は思う。だが、そうであっても。大和としては、自分がするべき事をするしかなく、今はただ勉強に励むだけだ。受験生である大地が一番、家庭を気にしているようだが。それに協力する余裕もない。
 愚息としていた息子を省み始めた父親と、それでもまだ不満に思いつつも多少の安心を得ている母親。自分の立場を考えれば、賛成出来るわけがない。だが、兄のそれを否定出来るほども子供でもなく、また自分に自信もない。大地が蹴ったその全てが降りかかってきた身としては、理由なく恐怖を覚える。だが、持っている全てが惜しいかと考えれば、そうでもない事に最近気付いた。両親の過剰な期待も、医者と言う立場も、それこそ権力も財力も。そこにはしがみ付くほどの魅力も感じない。
 それでも、自分にはそれしかないのだと思う。いや、確実にそれしかない。今までそうであったのだ、他に何かがあるはずもない。医学の道しか自分にはないと、だから結局のところ兄がどうなろうとやはり俺には関係ないのだと、大和は未だに荒れる気持ちに蓋する。そうするしか、冷静に日々を過ごせない。
 そんな自分を自覚するたび、俺と美弥は似ていたのかもしれないと大和は考える。理不尽な力に振り回され、その中で諦めを覚え一日一日を消化していたところが同じだと。だから、似たもの同士、気が合ったのかもしれないと。
 だけど、思い出す美弥は、その境遇に似合わず凛とした人物で。
 見て来た彼は、触れ合った彼は、自分とは比べ物にならないくらい強かった。
 そして。たった一歳年上の友人のそれは少し、兄を思わせると大和は思う。
 その大地は、センター試験で手応えを感じたらしく、彼の受験は佳境に差し掛かっている。薬剤師が兄の夢ならば、弟としてはただ受験の成功を願うのみだ。それ以上に思う事はもうない。
「大和」
 自室に入ろうとしたところで、大地に声を掛けられた。聞こえなかった振りをしてドアを引いたが、続けられた言葉に大和の足は動かなかった。
「お前、医者になりたいか?」
「……何それ」
 意味がわからないと低い声で告げるが、「俺のせいで間違えてくれるなよ」と静かな言葉で続けられ、頭に血が上った。
「間違えるって、何だよ!」
 大和が振り返ると、大地は真っ直ぐ自分を見ていた。冷静なその表情に、舌打ちが落ちる。この兄の、こういうところが嫌いだ。弟を苦境に追い込んでも、えぐるような言葉を口にしても、微塵の躊躇いも見せない。それなのに、傲慢だと捉えさせもせず、事実だけを突きつけてくる。そこに非があるはずなのに、綺麗さっぱり隠しているところがズルい。
 けれど、それを指摘すれば負けを認めるようで。大和はいつも唇を噛んでやり過ごす。勝てない自分が悪いのだと。この兄に何を言ったところでどうにもならないんだと、諦める。
 実際、それしかなかった。
 思えば昔から、父親の後を継がないと声高に叫ぶ大地の強い意思は、大和にとって絶対であったのだ。彼が嫌悪するその理由はわからなかったが、その意識は子供ながらにも感じ取っていた。だから、兄が駄目ならば弟へと目を移した両親のそれを撥ね退ける事を大和はしなかった。兄のように嫌だと叫ぶ強さがないのならば、受け入れ役目に励むのが自分の義務だと思ったからだ。
 だから、そう。こうして両親の意向を汲んでいる時点で。自分は兄に負けているのだと、それを自分も認めているのだと大和は自覚している。
 大地の言葉に噛み付く段階は、いつの間にか通り過ぎてしまった。
「俺は、医者になるよ」
 それしかないじゃんとの言葉を飲み込み、体の向きを戻す。自分はもう、唯一甘えられる存在でもあった叔父にですら、気軽に愚痴れなくなった。嘘でも、見栄でも、立って前に進むしかない。
「なれればいいと、思っている」
「本当か」
「嘘付く意味があるのかよ」
 大地の言葉に肩を竦めてそう返し、大和は背中を向けた。自室に入り、閉めたドアに凭れ、長い息を吐く。
 いつだったか、一度だけだが美弥と話した事がある。
 病院の跡を継ぐのかと聞かれ、わからないと答えた時だ。勉強は嫌いじゃない。だが、父の後を絶対に継ぎたいなどという気持ちは余りない。でも、他にしたい事もない。だったら、望まれているなら両親の希望に添ってもいいのではないかと思っている。どこかイイ子のような言葉だと自分でも呆れながらもそう言葉にして、大和は気付いた。自分はどこかで、医者になれば両親の目が変わるかもしれないと期待しているのだと。大地の変わりの後継ぎではなく、一人前になれば。医者になれば、俺自身が認められるかもしれないと。
 だけど、それに何の意味があるだろう。父は子供に関心がない。母は、後継ぎに拘る。そんな彼らに、どう認められたいというのか。気付くと同時に、馬鹿馬鹿しくて情けなくなった。それでも、医者になる事をやめようと思いもしない自分が、とてもつまらない人間に思えた。
 そんな大和に、美弥はそれでも「医者か、いいね」と笑った。彼は、自分の力で誰かの命を救えるなんて奇跡だよと、衒いもなく言ってのけた。それは医者であっても、そうでなくとも、凄い事だと。だから。なれるといいねと言った友人に、そうだなと大和が笑えたのは、相手が美弥だったからこそだろう。
 けれど、今。兄に向かって言った言葉も、自分の真実だと大和は思う。

 もしかしたら、再会するかもしれない十年後。
 自分が医者になれていたなら。
 少しは彼に合わせる顔があるのかもしれない。

2009/02/16
Special Thanks to Akemi_sama