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「そう言えば、昨夜ここでお前の後輩だっていう上原って奴に会ったよ」
この上の『菅原』に勤めているらしいと言いながら、結城は一枚の名刺を取り出し橋本に渡してきた。端が少し折れ曲がったそれには、昔の知り合いと同じ名前が記されていた。
「…上原って、あの?」
思いがけない事態に、橋本は軽く首を傾げた。まさか、再び関わりをもつとは思っていなかった人物なので、俄には信じられない。だが、次第に自分の眉間に皺が刻み込まれていくのも感じ、無意味に顎を片手で擦る。
動揺ではない。いや、確かに驚いているので少しばかりはそれもあるのだろう。だが大半は、別のものだ。
話題にあがった人物を過去から引きずり出し、頭に描いたその姿に苛立ちが募る。
「あの、って言われても、知らないからなぁ、俺は」
結城は軽く肩を竦め、缶コーヒーを啜った。暑い時は熱い物を飲むのが一番だと言いながら、エアコンの風を直接受ける場所に立ってのそれは、馬鹿らしいとしか言えない。矛盾しているだろう。
だが、橋本はそんな姿の恋人に今更ながら溜息を吐く事はせず、足を組換えソファに凭れこんだ。休憩を取りにきたというのに、更に疲れそうだ。
しかし、だからと言って、聞かなかった事にするわけにはいかないだろう。何せ相手はこの結城なのだから。興味を持ったのは明らかだ。恋人は、顔のいい男に弱い。
「…茶髪の、長髪男だろう?」
記憶にとどめる上原の姿を思い出しながら、橋本はその彼に会ったという結城に訊ねてみた。だが。
「いや、髪は黒で、お前より短かったぞ。って、学生じゃないんだからかさ、昔と違うだろう」
尤もだ。
「なら…、癪に障る物言いしか出来ない嫌な奴…?」
「いや、全然。スポーツマンらしい爽やかな男だったよ。真面目そうだし…、そうだな、鈴木を賢くした感じかな。お前と違って、かっこいい事を鼻にかけていない気さくな奴そうだった」
「…別に、俺は鼻になんてかけてない」
「でも実際に無愛想なんだから、同じことだろう。文句を言うなら、愛想を振り撒いてみろよ」
「……。…俺の知っている男じゃなさそうだな」
やれと言われて簡単にやれるものならば、何の苦労も要らないと言うものだ。
それが出来ない自分を知っていてのその発言を無視し、橋本は結城に名刺を返しながら言葉を付け加えた。そんな男は知らないと。
だが、結城は受け取った名刺を指先で軽く弾きながら、呆れた声で「知り合いに決まっているだろう」と肩を竦める。
「何を言っているんだか。向こうはお前を知っているって言ってんだからさ、本物だろう」
何を警戒してんだよ。後輩は後輩だろう。
自分の態度がわからないのだろう、溜息を吐きながら頭を振る結城に、橋本も軽い溜息を落とす。
確かに、あの上原なのかもしれない。いや、嘘をつく理由はないのだから、そうなのだろう。だが、少なくとも、自分が知っている上原という人間とも違う。自分が知っているのは、ムカツクいけ好かない男だ。恋人が見たような面を向けられた事は一度足りともない。
橋本は眉間に寄せた皺を軽く指先で押しながら考えた。
だからと言って、それがどうしたというのだ。別にこちらもあの男と仲良くしたいわけでもない。だから、上原が今近くにいたとしても、もう自分には関係ないはずだ。
今はそれしか考えられない。…何も意味などないのだと思いたい。偶然なのだと……。
「…ま、どうでもいいさ」
橋本は、俯いた事で前に落ちた髪をかきあげながら顔をあげ、結城に向かって肩を竦めた。今の自分には関わりのない人物だ。そうとしか言えない。それでしかない。
「よろしく言っといてくれと頼まれたけど」
「社交辞令だろう」
「なんだよ。仲が良くなかったのか?」
「さあ、少なくともどんな関係かとか言うほどの関係じゃないな。親しくしたわけでもないし。お前も相手なんてしなくていいぞ」
「喧嘩でもしたのかよ、同じサークルだったんだろう? 大人気ないな」
何とでも言っていろ、と橋本は結城に背を向けた。その背中に、「可愛くないぞ、橋本」と笑い混じりの声がかかる。振り返ることなく、その声に片手を上げて応え、橋本は開発部への通路を足早に進んだ。
結城はこれから自分の部へ戻り、直ぐに外回りにでも行くのだろう。
窓の外を眺めると、夏の太陽が味気ないビルを輝かせていた。地上は上下からの熱で茹だる様な暑さなのだろう。
橋本は意識して、そんな場所へと出て行く恋人の事を考えようとした。だが、その努力はあまり効果をもたらす事はなく、直ぐに別の事を考えてしまう。
上原伸也。
自分ではなく、先に恋人に近付くとは。一体、何を考えているのか…。
結城の前では表面的に平常を保ったが、ただそれが俄には信じがたい事だったというだけで、現実を受け入れるに連れ段々と苛立ちが募り始める。橋本が自分の席についた時には、周りの者が怪訝に思うほどの不機嫌さを顔に浮かべていた。同僚にどうしたのかと問われ、「何でもない」と返す声にも鋭い棘が含まれている。
「何だ? ご機嫌斜めだな」
安部が呆れたように肩を竦め、触らぬ神に祟りなしとでも言うように、あっさりと背中を向けモニタに向かった。遠巻きに橋本の様子を窺っていた者達もそれを倣い、自分の仕事に向かう。
自分の意思に反して存在感がある橋本が、いつにも増して不機嫌だとなれば、同じ部屋にいる者にとっては堪らない事なのだろうが、慣れてしまっているというのもあるのだろう。緊張しかけた空気はすぐに元へと戻り、ただ橋本の周りだけがそれを重くしていった。
デスクにつき、やりかけの仕事を前にしても手をつける気にはなれず、橋本は椅子に背中を預けて空を睨みつけた。
今更、あの男になど会いたくはないというものだ。
そして、結城にも会わせたくない人物だ。
それなのに、既に会ってしまったとは。
厄介な事になったものだ、と橋本は深い息を吐いた。
上原とは確かに同じサークルであったが、仲が良かったわけではない。いや、逆に悪かったとさえ言える。
ひとつ下の上原はサークルに入ってきた当初から、何故か自分に対して突っ掛かってくる男であった。事ある事だけではなく、何もない時ですら、常に自分に対して不満げな態度をとる後輩。それが橋本の上原に対する認識だ。
嫌われる事をした覚えはなく、はじめはそれに戸惑いもした。だが、何もなく気に食わないと、自分の存在自体を気に入らないと言っているような人間を相手にする程の術も何もない橋本は、そんな後輩は相手にしないという対応を決め込んだ。元々他人に対して愛想がいい方ではないので、周りからもあからさまな態度と見られることは全くなく、橋本にとっては自然な事だった。嫌われているのに、態々構いに行く奴はいないというもの。
だが、上原はそれすらも気に入らなかったらしい。
自分を嫌いなのであれば無視すればいい事なのだろうに、何かとぶつかってきた。それも、周りには悟られないように、陰険に。冗談交じりに笑いながらいう嫌味でも、それが本心なのだと気付かない程、橋本とて鈍くはない。向けられる瞳が怒りにも似た冷めたいものだというのは充分にわかっていた。
だからこそ、相手にしない方法を選んだ。そんな感情に向き合っても意味がないと。たとえ、それが更に上原の怒りを倍増させるとしても、付き合う義務は自分にはない。放っておけばそのうち飽きるだろう、そう思った。
橋本にとっては、上原は自分を嫌う厄介な後輩でしかなかった。だが、周りは上原をそんな風には思っていなかった。
見た目通りの若者らしく、我が強い自己中心的な人間ではあったが、部内で嫌われているということは全くなく、むしろ人気者であった。口は悪いが礼儀を知らないわけではなく、綺麗な顔の作りをしているが気取った所もない。要領のイイ奴だと、何をしても大抵の事は呆れながら許してもらえる、そんな青年だった。
確かに、暴君のような面を見せる事は多々あったが、それを周りが許してくれるラインというものを上原は良く知っていた。反旗を翻すとしても、勝算を計算している男だった。本来なら目立ちすぎて嫌われるような態度も、自分の魅力に変え相手を引き入れるだけの力を持っていたからこそ、はみ出す事はなかったのだろう。
ただ、橋本だけに接する態度が例外だった。
自分よりも捻くれた性格をしているのに、自分よりも社交的で人望もある上原を、何かと絡みにくる少し鬱陶しい後輩から嫌いな奴に橋本が認識を変えたのは、知り合って半年程経った頃だ。
恋愛対象者は男だと言う自覚があった橋本だが、実際に誰かと付き合いたいという欲望はあまりなく、淡い恋心とも呼べない程度の感情でしかなかったがそれでも好きな男がいた。同じサークルの同期生で、何かと行動を共にしていた一人だ。
その友人が、上原と付き合い始めたのは、橋本にとってはまさに青天の霹靂だった。
相手があの上原だと考えると、正直、友人に対する好意とは別にしても、面白いものではなかった。だが、奪い取ろうと思う事もなかった。友人と上原の事情であって、自分は部外者なのだと言う事は充分にわかっていた。友人への恋心が膨らまない以上、自分が口を出す事ではないのだと。
橋本は心にわだかまりを持ちつつも、今までのように友人である事を選んだ。
だが、当事者達は違った。
上原はそれまで以上に橋本に絡みに来た。そして、まるでその友人との事は単なる遊びであるかのように言い、眉を寄せる橋本を笑った。勝者の笑みのような顔でからかいにきた。友人をさげずむ後輩を黙らせたいと拳を握ったのは一度や二度ではなかった。
そうして橋本の中に暗い感情が浮かんでいくのと同じように、友人もまた少しずつ笑わなくなっていた。はじめはどうしたのかとの問いに心配ないと笑っていたが、取り繕う事さえ無理になってきた頃、彼は橋本に助けを求めてきた。
いや、ほんの少し力になって欲しいと思っただけなのかもしれない。だが、聞かされた内容に、橋本は怒りを覚えた。別れろと口にしたのは、当然の事だった。だが、それでも上原が好きだと言う友人に、いつの間にか育っていた感情を口にしたのもまた当然の事だった。それが、彼を苦しめるとは、その時橋本は考えもしなかった。
結局二人は別れ、橋本は友人と関係を深くした。だが、彼にとってはそれは甘えでしかなかったのだろう。
自分はこのままでは駄目になるだろうし、それにお前を付き合わせられない。
友人はそう言い、自分との関係を終わりにした。その事に対しては、橋本とて納得した終幕だった。互いに色々と悩み出した答えは正しいものだったと今でも思える。だが上原に関しては、許せる気にはなれなかった。全ての元凶は彼なのだと思うと、顔を見るのさえ嫌だった。
上原とは学部も学年も違うので、サークル以外では顔をあわす可能性は極めて低い。
橋本はその選択を選び、サークルを辞めた。元々付き合いで入ったもので、執着していたわけではなかった。
それ以降、上原とは極たまに顔をあわせたりする事もあったが、出来る限りの接触を避けた。橋本の一貫した態度に、腹立たしげな視線を向けはしても、上原も以前のように突っかかってくる事はなかった。
そうして、当然の如く、彼との関係は切れた。卒業してからは、思い出す事も殆どなく、過去の人間でしかなかった。
それなのに。
再び会うことになるとは。
しかも、先に恋人にコンタクトをとるとは…。
一体どう言うつもりなのだろうか。
…何もかもが面白くない。
気分を変えようとキーボードに乗せた指をすぐに下ろし、橋本は頭を抱えた。彼にとっては珍しいあからさまな態度に、何処からか囁き声まで聞こえてくる。
「おい、橋本。鬱陶しいぞ。結城と喧嘩でもしたのか? あいつに勝とうとするのがそもそもの間違いなんだ、そんなことで苛立つなよ」
からかうような安部の言葉に、周囲から小さな笑いが漏れる。
「…ああ、そうだな」
煩いと言い捨てようとした言葉を飲み込み、橋本は溜息交じりにそう答えた。
戻ってきたばかりだというのに再び腰をあげ、誰ともなしに一声かけ、部屋を後にする。こんな時は、煙草を吸うなどして気分を変えるものなのだろが、生憎その技術がない。
トイレへ入り、自分は冷たい水で顔を洗うぐらいしか出来ない面白くない男なのだ、と橋本はそれを実行しながら自嘲気味に笑った。
鏡に映る自分の顔は、酷く疲れたものだった。
2003/07/01
Special Thanks to Michiaki_sama