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「実は俺、橋本さんには嫌われているようなんですよ」
 そう言って少し寂しそうに苦笑した男に、誰が、そうだろうな、と肯定できるだろう。事実関係を良く知っていたとしても、慰めにもならないとしても、どこか悲しげな人間に更にとどめをさす事など自分には出来ない。
 特に、目の前の男のように、人よりも優れた容姿を持つ者には。
 結城は口の端だけで笑う上原を前に、「そんな事はないだろう」と首を振った。
「あいつは誰にだって無愛想だけど、別に嫌っている事はないと思うぞ。そうにしか見えない態度しかとれないだけなんだよ」
 見目の良い者はそれだけで、周りに奉仕しているのだと結城は思う。愛想の欠片もない橋本も、本来なら腹立たしいあの態度を見目の良さでチャラにし許されているのだというもの。逆に言えば、自分のように人並みの姿でしかない人間は、周りに愛想を振り撒かなくてはならないのだと結城は考える。
 それ故に、無償で奉仕するだけの男である、性格も顔も良い上原を前にすると、結城は少し戸惑ってしまうのだ。その姿故にここは目を瞑ろうと思う「ここ」がなければ、自分はどうすればいいのかわからなくなる。全ての者が手に入るわけではない秀でたものを与えられた人間が、自分なんかにそれを惜しみなく向けるだなんて、勿体無いというか何というか、恐れ多い事なのだ。
 ならば、少しでも誠実にこの相手を思いやろう。自分に向けられるものを少しでも返さなければ。
 そう思うのが、人間だろう。
「多分、あいつと接した八割は、同じ様な事を思うだろうな。俺、何度も相談された事あるぜ、女子社員ばかりじゃなく男にもさ。橋本に嫌われているのかもしれないってな」
 だから気にするなよ、と結城は上原に言った。今自分が言うべき言葉は、これしかない。
 そう、これしかないのだ。
 実際に、橋本が上原を苦手としているような発言を聞いていたとしても、更に嫌っているような雰囲気を感じ取っていたとしても、そんなものはどうでもいいことなのだ。目の前で落ち込む男に、ここにはいない男の感情を正確に伝えなくてはならないという決まりはない。
「…そうでしょうかね?」
「そうだよ。絶対! お前みたいないい奴を嫌うはずがないだろう」
「良い奴だ何て、そんなことないですよ」
「少なくとも、愛想なしのあの男より良い奴だ。だから、心配するなよ」
「そうだといいのですがね」
 照れたように目を細めて軽く笑い、上原は納得しきれてはいないのだろうに、「すみません、変な話をしてしまって」と小さく頭を下げた。その態度に、結城はほっと胸をなでおろす。
 こんな自分も、少しは役に立てたのかもしれないとそう思う。
 なので。
 そこに、嘘をついたという罪悪感は全くない。そもそも、この上原を嫌う橋本の方がおかしいのだと、そう思う。
「いや、別に気にするなよ。第一、あいつのあの性格が悪いんだからさ。人間なんて嫌いだ、ってな感じに気取っていて、その割に寂しがり屋と言うかなんていうか。子供じみているんだよな。社会人なら愛想のひとつも言えなきゃなぁ」
「よくわかっているんですね、橋本さんの事」
「ん? ま、もうこの付き合いも2年以上になるしな。学生と違ってさ、仕事となると本気でやりあうからさ、気取っていられないだろう。性格も見えてくるって」
 営業と開発は何かと衝突するものだからな。
 結城は笑いながら熱いお茶を啜り、腕の時計に視線を落とす。
「おっ」
 時刻を確認すると、店に入って半時間程経っていた。つい喋りすぎていたようだ。
「そろそろ時間だな。上原は、社に戻るのか?」
「ええ」
「なら、行こう」
 勘定を済ませ、まだサラリーマンの姿が多く残る定食屋を出ると、外は蒸し風呂のように熱かった。結城は頭上から降り注ぐ光に手を翳しながら空を見上げ、熱気よりも幾分か冷たいだろう息を落とす。
「死ぬな、これは」
 冗談にはならない言葉に、ついたのは自分だというのに心底嫌気がさす。並んで歩き出した隣の上原から軽い笑い声が落ちてきたのが唯一の救いだろう。
 午前の外回りを終え帰社しようとしていた結城が後ろから呼び止められたのは、約半時間前だ。同じように外に出ていたらしい上原と一緒に今出てきた定食屋に入ったのは、電車の連絡が悪かったから、そのままホームで熱気に包まれていたくなかったから、涼しさと食事を求める欲求が一致したから、などという簡単だが当然の行動だった。
 あの初めて出会った夜から、何かと上原とは顔をあわす。同じビルに社を構えるのだから当然ともいえるが、出先でも一緒になるとは面白いものだ。だが、特別珍しいことでもない。
 結城は熱に耐えて辿り着いた、冷房が効いた電車の中でつり革に掴まりながら、他愛ない会話を交わす上原との事をそう思った。そう、珍しくはない。だが、それだけではおわれないほどのメリットがあるのも事実なのだろう。今にして思えば、あの残業さえも、なかなか自分にとっては有意義なものであったのかもしれないとまで思ってしまう。
 そう考えられる程に、あの出会いを嬉しく思う程に、結城は上原の事を気に入った。
 まだ出会ったばかりだが、気さくな上原の人となりを窺える程度には会話を交わし、実際にその姿を目にした。なまじ顔が整っているので、時には橋本並に少し近寄りがたい雰囲気を見せる事もあるが、大抵の場合、歳相応の元気な好青年だ。特に、慕っている先輩の友人と言う立場だからだろうか、自分に対して愛想がいい。いや、良すぎる。だが、それが心地良かったりもする。
 綺麗なものには人は弱いものだが、自分はどうやら特にそうらしい。
 実感したそれも、だからどうしたと頭を悩ませるものでもなく、結城は上原をあっさりと受け入れた。それを、恋人が良く思っていないことを知ってはいるが、自分と上原との関係には全く関係ない事だ。
 むしろ、あの男の方こそ、もっと考えるべきだろう。
 車窓を流れる都会の街を見ながら、結城は頭に思い浮かべた人物に、心の中で舌を出す。
 橋本が人から慕われるのは納得出来ない面も多少あるが、理解出来るものだ。愛想は確かにないが、他人を嫌っているわけでもなく、単なる不器用なものだというのは付き合えば大抵の者は気がつくだろう。上原が、そんな橋本を慕うのもわからなくはない。
 だが、橋本が上原を嫌うのは、結城には納得がいかないのだ。何故、こんなにも慕っている相手を、ああもあっさりと無視するのか。理解出来ない。
 確かに心の狭い部分があり、他人と距離をおこうとするところもあるが、基本的にはいい奴なのだと思っていた。周りからの誘いを断る時も、贈り物を貰う時も、相手の事を考える人間で、おごったところもない。全然完璧な人間ではないが、その欠点も愛すべき要素であった。
 それなのに。今回の橋本は、愛想のひとつも浮かべずに無関心を決め込む、徹底した態度をとるのだ。話し掛けても聞いているのかどうなのかわからない返事を返し、それなのに、自分が上原に関心を示すと嫌な顔をする。何がなんだかわからない。
 結城は少し汗で湿った髪をかきあげ、軽く頭を振った。昼間の電車は朝に比べれば天国と言えるほどに空いてはいるが、それでも乗車率はかなり高い。小さく振ったはずの頭が、隣に立ち吊革を握る上原の腕に掠った。
「あ、悪い」
 結城の謝罪に、上原は軽く首を振り応える。
「大丈夫ですよ。それより、そこ、寒いんじゃないんですか? 気持ちはいいですが、外と中のこの温度差って、結構キツイですよね」
 きっちりと絞めた襟元に指を差し込み空気の流れを作りながら、汗で濡れたワイシャツが冷たくなったのだろうか、上原はそんな事を言った。冷房の風が直接あたっている自分を気遣うようなその発言に、結城は笑いを落とす。
「気持ちいいよ。もっと強い冷房にして欲しいぐらいだ。上原、オヤジみたいな発言してるなよ、俺より若いだろう」
「酷いなぁ。でも、実際身体に良くないんですよ、これって」
「だが、涼しい場所がなきゃ、やってられないよ。外が暑いのは変えようがないんだからさ」
 何となく同意せずに軽口を叩くのは、その方が楽しいからだ。一緒になって同じものを貶したとしても改善される事はない。ならば楽しい言い合いをする方が得なような気がする。
 電車がゆっくりとブレーキをかけ、ホームに停車した。ガタンと音を響かせながら開いたドアから、何人もの人間が降りていく。
 結城は窓の外を眺めながら、「ま、あんな女の子達みたいな格好で仕事が出来るのなら、俺も冷房が弱くともいいけどな」とホームで何やら騒いでいる少女の姿を上原に顎で示す。
「あれならこの気温にも耐えられるだろう」
「ま、確かにそうですね」
 水着と変わらない程肌を露出させた彼女達の姿に、上原もまたそう納得し、苦笑した。
「夏は営業職も、それこそ偉いさん達もスーツは禁止。ラフで楽な格好をするって事になったらさ、省エネにもなるんじゃないのか。っで、温暖化防止に繋がって、何十年か後には夏も涼しくなるかも」
「あはは、それいい考えですね」
 上原の笑いに、発車合図の音が重なった。停車時間は数十秒だというのに、それでも幾分か車内の温度を上げ、電車は再び走り出す。
 そんなどうでも良いような会話を交わしていると、直ぐに目的の駅に着いた。上原と並んで降りた結城は、改札を抜け地下の道を選んで社へと足を進めた。少し遠回りになるので地上の道の方が早いのだが、上原からは何の抗議もあがらず、当然のように肩を並べてくる。
「そう言えば。結城さんはどこにお住まいなんですか?」
 上原が思い出したようにした質問に、結城はあっさりと自分が住む街の名前と最寄りの駅を口にした。だが、それは上原にとっては小さな驚きだったようだ。
「えっ? 本当に?」
 軽く目を見開き、再度確認をしてきた。長距離通勤に驚かれる事は珍しくはないが、その表情に結城は苦笑を落とす。
「おいおい、嘘を吐いてどうするんだよ」
「そうですが…。通っているんですよね、毎日。大変ですね」
「慣れればそうって事もない」
「もしかして、大学も?」
「まさか。近くに下宿してたよ」
 なら、どうしてだと訊きたいような、けれどもそこまで訊けないと自分を戒めるような、曖昧な表情を上原は作った。その顔に、結城は肩を竦める。
 確かに、乗り継ぎがスムーズに行ったとしても電車で1時間程かかる街だ。家庭持ちならともかく、独身男なら別に部屋を借りるものだろう。実際に、大学時代はそうしていたのだ。収入を得る今、何故実家から通っているのかと不思議がられ、今のように首を傾げられることも少なくない。
「結婚、してるんですか?」
「いや、していない。したこともない」
 遠くから通勤していると知ると、今と同じように家庭持ちだったのかと相手は少し驚く。その驚きの意味は、多分自分にそんな甲斐性は無いのだと判断しているからなのだろうと結城は思う。だが、あたらずとも遠からずなので、更に突っ込みはせずに流しておくのがいつものパターンだ。
「残念ながら、親父のマイホームだ。そこで、一人暮らししてるんだよ」
「一人暮らし、ですか?」
「そう」
 遠い実家から通っているというのに、そこに住むのは自分一人。それは確かに疑問しかわかないだろうが、そう複雑でもないのだと結城は言葉を続ける。
「俺が4回生の時にさ、親父が足を傷めてな。暫くは母親が一人で面倒見ていたんだけど、それが結構大変でさ。親父も足以外はいたって元気だから、母親に面倒掛けさせて申し訳ないと思っていたんだろうな。突然、施設に入るっていいだしてさ。っで、なら自分もと母親もそれにくっついて、長野の田舎の老人ホームじゃない…ケアハウスっていうのか、何かそんなとこに行っちゃったんだ。元々、田舎暮らしをしたいと言っていた人達だからな、仕方がないかって感じ」
 結城は両親の住む場所を思い出し喉を鳴らした。施設の周りは自然しかないと言ったところだ。 「うちの街も結構田舎だと思っていたけど、あそこと比べると都会だな」
「はあ、なるほど。でも、結城さんのご両親なら、ケアハウスなんて、そんな年でもないんじゃ…」
「いや、年なんだよ、これが。もう、思いついたらそれを実行しないと気がすまないってくらいに、我が儘で頑固で、人の事を考えない典型的な年寄りだ。
 そんな二人が俺に家を守れと言い出してさ。その時はもう『大紀』に就職が内定していて、そのまま住んでいたマンションで暮らそうと思っていたからさ、何言ってんだこいつらは、ってな感じだったな。人が住まないと家は錆びるだの古くなるだの言ってさ、実家から通えと説得された。って言うか、そう言い残してさっさと自分達は新天地に行っちまったんだよ。
 上の二人がフォローしてくれようとしたけど、古家を借りてくれる者もいないし、仕方がないかということで泣く泣く実家住まいになったわけだ。慣れるまではかなり大変だったけど、今ではいい通勤時間も睡眠時間の確保になってるよ」
 結城の言葉を頷きながら聞いていた上原は、「でも、凄いですよ」と感嘆した。
「俺はこの近くに住んでいるのに、いつも遅刻しそうな感じですよ。自慢じゃないですが、朝は苦手なんです」
 何となく寝起きの悪さが想像出来ると、結城は肩を竦める上原に笑いを落とした。
 そして、上原もまた同じように笑う。
 階段を昇り地上にあがると、先程と全く変わらない強い陽射しが降り注いできた。だが、それは何処かしら、ほんの少し先程よりも心地良い気がし、結城は空を見上げた。
 蒼い空には、大きな白い雲が浮かんでいた。死ぬほどの熱気の中でも清々しいと感じる程、青と白のコントラストはとても綺麗で、何故か楽しくなる。
 探すのは難しくない人物だ。橋本は今日も朝から部屋に篭りきりなのだろう。この高い空を知らないのは勿体無い。
 多分食堂にでもいるだろう、と男の姿を思い浮かべ、結城はこの空を見せてやろうと、教えてやろうと思った。

2003/07/01
Special Thanks to Michiaki_sama