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楕円形のテーブルの上にはエスニック料理が所狭しと並んでいる。男三人ならこれぐらいの量はペロリと食べるものだろう。だが、橋本の箸は全くといって良いほど進んでいなかった。食べる気がしないのだ。
夏場は電力社会の善いところで、何処もかしこもエアコンが効いている。今時そうでなければ、客商売は成り立たないのだろう。この店も例外ではなく、店内は寒いくらいの温度だ。だが、出される食事から考えると、これもまた当然のものだろう。ならば逆に言えば、それを食べない者には少し辛い空調であるのかもしれない。
橋本は微かに痛む頭に眉を顰めながら、あてもなく店を眺めた。厚めの服を着る店員の格好から考えると、あながち予想は外れているわけではなく、他の店に比べて低い温度に設定しているのかもしれない。だが、頭が痛む理由は、空調のせいではないのだろう。
認めざるを得ないのだと橋本はチラリと横に座る男と、その前に座る男を一瞥した。4人掛けのテーブルで席を共にしながらも、その空間は自分の身体の側でふたつに切れている感じがする。
楽しげに何かの話しをする結城と上原を少しの間だけ視界に収め、瞼を閉ざす。俯くと同時に零れるのは、溜息だけだ。
闇に覆われた視界の変わりに、今度は今まで遮断していた音が耳に入り込んでくる。見たくないと目を閉ざすと音が潜り込んでくるとは、世の中上手くいないものだ。
いい加減諦めろと、観念しろと言う事なのだろうか。
橋本は顔を上げ、開けた視界に入ってきたグラスに手を伸ばした。水滴が流れ落ちるそれを手に取った瞬間、異様に喉が乾いていた事を自覚した。
いや、そうではなく、その瞬間に聞こえてきた声に、瞬時に苛立ったのかもしれない。
「俺の上司も、結城さんみたいに優しかったら良かったのに」
媚びたものではない爽やかな声は、男らしい質だが甘い響きも持っている。だが、橋本にとってそれは魅力でも何でもない。ただ腹立たしいものにしか過ぎなかった。
「偉そうにしてばかりで、嫌な奴なんですよ、ホント」
どうせ大半はお前の態度が問題なのだろう。今は単なる顔見知りだから優しいだけだ。同じフィールドに立てば、結城も容赦はしない。
グラスを持つ橋本の手に力が入る。
「俺も、お前みたいな可愛い奴を同僚にしたいね」
本気か? おい。
眉間に刻まれた皺が更に増えるのを自覚する。
「本当ですか? 是非お願いしますよ」
…嘘臭い笑顔を振りまくな。
「なら、うちに来いよ」
そんな笑顔に惑わされるな。
「なんて、なあ、橋本」
……俺に話を振るな。
小首を傾げた結城に眉を寄せ、付き合い程度でしかないいい加減な返事を橋本は返した。頭で入れる突っ込みは、口にしてもこの雰囲気では流されるのがオチだ。今は何を言っても、自分に勝ち目はない。
「なんだ、気のない返事だなぁ」
結城は肩を竦めながらそう言い、直ぐに上原に向き直った。
何がどうなってこんな事になったのか。答えはひとつしかないのに、それでも考えずにはいられない。ただ結城の誘いを断れなかっただけだと言うのに、もっと重大な、真面目な、確かな理由が欲しくなる。
そうでなければ、やっていられない。拷問に等しい空間だ、ここは。
橋本は耳に入る会話を極力無視する形で、ただグラスを傾けた。完全に無視出来ないのは、さっさと席を立って帰る事をしないのと同じ理由で、苛立つ会話だが聞かない方が不安だからだ。知らないところで会われるよりも、それを把握しておいた方がまだマシだと思うからだ。初めから、この二人のやりとりに加わる気はない。
だが、その決心さえも、果して正しかったかどうなのか、橋本の中で早くも揺らいでいる。
「結城さんて、ホントに俺より年上なんですよね。ひとつ上には思えないな。何より可愛いし」
「おいおい、可愛いはないだろう。26の男を捕まえて」
「気に触りました? すみません……って、あれ? 26?」
「そう、お前よりふたつも年上なんだよな、これが」
カラカラと笑い、結城は大学受験の時に一年浪人したのだと上原に教えた。
そんな事も知らないのか、と橋本は軽く悪態をつくが、残念ながらこの状況ではそれで優位を確定する事は出来ないようだ。彼らの会話がただ弾んだだけにしか過ぎない。
「へえ、そうだったんですか。なら、ますます俺、失礼しちゃってますか?」
「何言ってんだよ。この歳になってひとつ違いもふたつ違いも関係ないじゃん。ま、社会人一年目の新人と三年目の俺との違いはあるかもしんないけど、別の会社だし、どうでもいいだろう礼儀なんて。
ほら、こうしてK大OBで飲んでるんだからさ、楽しくやろうぜ。――って、橋本! お前、一人暗いんだよっ」
不意に矛先がこちらに向き、橋本は手元の料理に落としていた視線を上げた。目の前で、中身が半分ほどになったジョッキを掲げた結城が眉を寄せている。
「烏龍茶なんて、料理に対して失礼だろう。飲め!」
わけのわからない理由でビールを突き出してきた結城に、橋本は眉を寄せる。
「…おい、酔ったのか?」
「酔っているわけがないだろう」
まだまだいける、と結城は真顔で答え、ジョッキを近づけてくる。
確かに、まだ酔いはしないのだろう。常にテンションが高いのでその境がわかりにくいが、結城の酔っぱらった姿など殆ど見た事がない。突飛な事を言い出すのは酒が入った時も素面の時もあまり変わらないので、その判断は飲んだ酒の量で憶測するしかない。
その量は橋本に言わせれば、異常でしかない。何処にそれだけの水分が入っていくのか、酒を飲まない者にとっては不可思議なものだ。アルコール用の胃袋が別にあるのかもしれないと信じてしまいそうになる。
それを考えると、今夜は結城が言うように、まだまだそのレベルには達していない。ならば、酒を飲めというのは、いつもの気まぐれな発言なのだろう。
橋本はそう判断し、自分のグラスを手に取り、カチンと突き出されたジョッキに合わせた。
「俺はこれでいい」
「良くないんだよ、俺は」
どう良くないというのだろうか。自分が飲めば迷惑をかかるのは結城なのだろうに、一体何を考えているのか。
そう首を傾げながら、ふと橋本は結城が怒っているのかも知れないと気付いた。酒の席で、いつも以上に無愛想な自分を面白く思っていないのかもしれない。
何より、自分が上原を嫌っている事自体、恋人は気に入らないようなのだから。
「ほら、飲め」
「結城…」
「俺の酒が飲めないのか? なあ、橋本〜」
「結城さん。橋本さんは下戸なんだから、無理強いは駄目ですよ」
それまでやりとりを眺めていた上原が、そう言って結城を嗜めた。
「でもさ…。…ん、お前がそう言うなら、ま、いいや。
よし、上原に免じて許してやる」
許してもらう必要が俺にあるかのか? どこにもないだろう。いや、何より、その理由が腹立たしい。わざとか、こいつらは…?
結城はともかく、嫌な笑いを浮かべる上原はわざとなのだろうと橋本は確信する。自分が不機嫌なのを楽しんでいるのは間違いなさそうだ。
それが、結城の隙をついてちらりと見せるだけのものではなく、橋本にはっきりと相手から示されたのは、結城がトイレだと席を立った時だった。
「ホント、可愛いですね、彼」
それは、待ち合わせ場所で数年ぶりに顔をあわせた後輩らしく「ご無沙汰しています」と頭を下げた人間とは違う、橋本の良く知る上原の声だった。お世辞にも人が良さそうだとは言えない、ニヒルな笑いまで浮かべ、自分を下げずむように見る。そんな上原に、橋本は驚ことはなく、ただ軽い嫌悪を覚えるだけだ。
人間そう変わりはしないということで、やっぱりなという思いしかない。
「橋本さんって、ああいうタイプが好みなんですね。どこかガキ臭いって感じの男。そう言えば、篠田正行もそんな感じでしたよね。彼、元気ですか?」
上原がサラダを口にしながら、どこか気だるげに、けれども挑発的に言葉を口にする。
カッと瞬時に頭に昇りかけた血を、橋本はグラスを強く握り締める事で制した。友人の名がこの男から零れるのは不快だった。だが、自分のそれを知っていての発言だろう、態々挑発に乗り取り乱しては思う壺だ、と橋本は自分を戒める。
「…ああ、元気だろう。死んだとは聞かないからな」
努めて平常を保ち、冷静な声で低く言い捨てる。それが精一杯のものだった。
「何だ、冷たいですね、その言い方は。あなたにとって昔の男なんて、邪魔なだけですか」
馬鹿にしたような低い笑いを漏らし、「自分は誠実だ、みたいに言っていたくせに、俺と変わらないんじゃないですか」と上原は口を歪めた。
女はおろか男にさえ見境が無かった男に言われたくはないが、反論はしない。小指の先程も気にしていないこの男に、友人の近況を語る必要は全く無い。何より、橋本自身、過去を思い出す事はしたくなかった。
今の状況に、結城との事にそれが重なってしまいそうで怖かった。自分がそう考えた途端、全てが同じになるのではないかと不安になる。
だが、もう遅いのかもしれないと、そんな事を何処かで認めている自分を橋本は既に感じていた。不安が呼び出したそれは、膨らむ一方だ。
結城からは何度も上原と会ったと聞いてはいた。外で偶然会っただとか、エレベーターが一緒になっただとか、食事をしただとか。自分と上原の関係を知らないからこそ、ただ気軽に話しているのだろうが、それでも心は乱された。複雑だった。しかし、あえて見ない振りをした、考えないようにした。
だが、まさか、ここまで打ち解け合っているというか、仲良くなっているというか。自分の後輩だなどというものは最早関係なく、結城と上原は橋本とは全く別のところで関係を築いていた。それこそ、橋本の方が入り込めないような関係を。
結城自身は、周りに可愛がられるタイプの人間であるので、知り合ったばかりの者と親密になるのに時間は要らないのだろうということはわかる。だが、上原も確かに周りに人を集められるタイプではあるが、社交的には程遠い人間だ。
外見には弱いが、中身も重視する結城が上原とこうも気を合わせているというのは、橋本にとっては大きな誤算だった。
騙されているとか、ほだされているという事は、多分ないだろう。結城はあれで人を見る目がある。だが、それと同時に、見えすぎるが故か何なのか、その見たものに影響を受けやすくもあるのだと橋本は思っている。なので、もしかしたらまた何かを考えているのかもしれないとも思う。
普段は我が儘と言うか、言いたい事は何でも言って周りを振り回せているような奴だが、実際には結城は色々な事を深く考えている。何故か自分の価値を安く見、他人を高く見る傾向がある。自分に自身がないと言うのではなく、それが当然だと疑わないそれは、時に献身的な態度を結城に取らせる。
まさかと思うが、結城は自分と上原の仲を取り持とうと思っているのではないだろうか。
冗談には出来そうにもないそれに、橋本の眉間に皺が寄る。単純にそう考えたとしておかしくない。上原を嫌う自分と、自分のただの後輩を演じる上原。結城の中で分があるのは確実に上原だろう。
だが、結城の方はそうだとしても、この男はそんな可愛げのある事を考えているわけではないと、橋本は斜め前に座る男を睨みつけた。
「…どういうつもりなんだ」
「何がです?」
わかっているのだろうにしれっと答える上原は、けれどもその唇を上に引き上げ、「それじゃあ何を言っているのかわかりませんよ」と橋本をからかう。
「…結城に、何をする気だ」
「人聞きが悪いですね。俺はただ、仲良くして頂いているだけなんですがね。誰かさんは、そうしてくれないので」
「ふざけるなっ」
自分の事を引き合いに出され、橋本は思わず叱責の言葉を落とした。予想以上に店に響いた声音に、気まずい空気が流れる。だが、直ぐに上原がそれを笑い飛ばした。
「他のお客さんに迷惑ですよ、橋本さん」
人当たりの良さそうな笑顔で、たいした事ではないのだと周囲を騙す。そう、昔もこんな風だった。
「…くそっ」
橋本の低い呟きに、更に上原は喉を鳴らした。
そして、上原は何を思ったのか、テーブル越しに顔を近づけてきた。
橋本の目の前で不敵に笑い、引きかけた橋本の体を抑えるため肩に手を置き、耳に囁きかけてくる。
「っで、結城さんとはどれくらいになるんですか? 付き合っているんでしょう。まだ頂いていないなんて事はありませんよね。どうです? あそこの締まり具合は?」
「…なっ!」
ふざけるなっ!
あまりにも大きな怒りのため言葉に出来ない思いを橋本は力にし、肩にかかった上原に手を払い落とした。だが、先に相手は身を退きかけていたのだろう。余裕で浮かしていた腰を席に下ろし、叩かれた手で歯霜とのグラスを掴み持っていく。
「あの煩ささに目を瞑れば、退屈しのぎぐらいにはなりそうですよね。なかなか面白い。一度手合わせをお願いしようかと思ってるんですよ、もったいぶらずにどんな具合なのか教えてくださいよ、先輩」
真正のあんたがはまるんだからさ、さぞや具合がいいんだろう?
砕けた口調に変えてそう言いながら、上原はニヤリと笑いグラスに口をつけた。橋本に視線を当てたまま、透明なガラス越しで見せ付けるように赤い舌を覗かせる。
周囲が少しこちらを気にしている事も知っているのだろう。計算しているのだろう。当事者達にしかわからない微妙な言葉で煽ってくる上原のその姿は、あの頃と全く変わらないものだった。
数年前の出来事が、橋本の頭の中に蘇る。
あの時、この男は、自分が嫌いだからこそ、その友人である者に手を出したのだと詫びれもせずに言い放った。
あんたが大事そうにしていたからね、そんなに良いものかと思って食ってみたんだが、大した事はなかったな。ま、でも悪くないよ。試してみれば?
そう言い笑ったあの時の男と目の前の男は、姿こそ違えど、間違いなく同じである。外見がどんなに変わろうと、中身がそう短期間で変わるはずがない。
ただ、遊んでいるのだ、この男は。
自分が嫌いだからこそ、傷つけようとしている。それも、直接かかってくるのではなく間接的な方法で。卑怯だが、それは的確である。
「やめろ…」
押し殺した橋本の声は、けれども上原には何の効果もなかった。
「結婚しているわけでもなく、そんな事、あなたには関係ないでしょう。俺の自由だと思いますけど」
「結城は、お前なんかに…」
「好きにされはしない? どうかな。俺はそう嫌われているようには思えないけど」
「…あいつは、ノーマルだ」
「どうでもいい事ですよ、そんな事。
――ねえ、結城さん」
ニコリと笑った上原の笑顔は、橋本の後ろに向けられたものだった。
「ん? 何? 何の話をしているんだ?」
トイレから戻った結城は、席につきながら首を傾げた。いつの間にかネクタイは外されており、胸ポケットに折りたたみ入れられている。崩した襟元から見える肌は、ほんの少し赤みを帯びていた。
「アルコールが駄目だと大変ですね、と話していたんですよ。営業職にならなくて良かったですねと」
上原が適当な言葉を吐く。
「ああ、確かにそうだよな。その点、俺は嬉しいね。ま、社費で飲めるのなんて限られているけどさ」
役得だ、と愛想良く返事をしながら珍しく煙草を取り出す恋人の姿に、橋本はそれを横から奪い取った。
「何だよ、吸わせろよ」
予想通りの文句に、駄目だと短い言葉でテーブルの端に置く。結城は殆ど煙草を吸わない。美味しいと思わないので魅力がないとの事だが、それでも時々吸いたくなると言うのだ。月にひと箱も空けないそれを、大して美味しくないのに食べたくなる料理と一緒だ、と笑う。ハンバーガーみたいなものだと。
だが、橋本は全く煙草を吸わないので、結城の言い分はあまり理解が出来ないものだ。依存しているのなら仕方がないと思えるが、身体に良いものではないのだ、吸わなくともやっていけるならその方がいいと思う。今後何かのきっかけでその量が増えないとも限らないのだから。やめるべきだと常々思っている。
「いい加減やめたらどうだ」
周りには人がいるんだぞと嗜めながら、橋本は顔を顰めた。上原の事で自分は苛立っているのだとわかりながらも、押さえる事が出来ない。これでは半分以上が八つ当たりではないか。
「別に、俺はいいですよ。最近肩身が狭いですからね、喫煙者は。どうぞ」
「お、サンキュー」
苦笑しながら上原は結城に自分の煙草を差し出し、火までつける。
上原のその笑いは、融通の聞かない自分をバカだと詰っているもののようだと、橋本には思えた。
煙草一本吸わせない、酒にも付き合わない。愛想のひとつも言えない男。
そんな男に、勝ち目などないと確信しているような目を前に、橋本は項垂れるように視線を落とした。
そうなのだ。
確かに上原の性格が悪くとも、今の段階では結城にとってはそれはわかり得ない事で、関係などないと言うものだ。頑なな自分と、愛想の良い上原では、勝負にもならないのかもしれない。
2003/07/01
Special Thanks to Michiaki_sama