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――お前、あいつに惚れたのか?
 橋本がそう言ったのは、確かあの三人で一緒に飲んだ夜の帰り道だったと、結城は余裕のない状況だと言うのに呑気にそれを思い出していた。
 何故そうなるのかと、呆れた自分に、橋本は「誰だってそう思うだろう!」と怒ったのだ。自分の態度は正にそうなのだと説教までしたのだ。本人はそのつもりではなかったとしても、言い掛かりでしかなく、確か、少し情けなくなった。飲んだ上手い酒も不味くなった気がした。
 不機嫌な顔を見せた自分に、相手も負けないくらいに顔を顰めた。その時、何処かの飼い犬が寝ぼけたのか何なのか、鳴き声を上げていた。暑い夜を更に暑苦しくしていたのだ、確か。
 結城はその時は良く取り合わなかったというのに、結構覚えているものだと、少し自分の記憶力のよさに感心した。ほんのりと酔っていたというのに、俺の脳はそんな時でも働き者のようなのだと、何だか嬉しくなる。
 一時の気まぐれではない証拠に、その後の事もはっきりと思い出せるのは、橋本の険しい顔が印象に残っているからなのかもしれないが。そう、恋人は、稀に見るほどの苛立ちをあの夜持っていた。あの時は、機嫌が悪いとしか認識しなかったが、相当腹に据えかねていたのかもしれないと今なら思える。
 だが、相手が本気で言っているのだとわかっても、「そうなのか」と簡単に納得する程、自分は単純でも他人任せの思考を持っているわけでもない。そこまで酔っていたわけではないが、もし素面だったとしても、恋人の馬鹿すぎる発言は取り合わなかっただろう。
 そんな特殊な考えをするのはお前だけだ。
 あの晩そう言ったのは、本心だ。今もそう思う。橋本に怒りを叩き返したのは、正しかったのだと。
 自分は上原をそんな対象には思っていないという言葉に、向こうは違うと橋本は矛先を変えて答えた。それのも呆れたが、結城は上原が自分を好きになるわけがないだろうと、お前を慕っているからこそ俺に愛想良くするだけでそれ以上のものはないと教えた。
 そう。たかが仲良く喋ったからと言って、意気投合したからといって、それで何故惚れただのどうだのとなるというのか。確かに、自分は彼の事を好きだという思いはある。だが、そこから恋愛に飛んでしまう橋本の考えは納得いかない。いや、いくわけがない。信じられない。
 まさか…、こんな事を言うからには、こいつの思考はそんなに単純なものだということなのだろうか。好きだと何でも恋愛になるというのか。
 一瞬そう真剣に悩み始めようとしたのは、腹立たしくて橋本を放って足早にマンションへ向かう時だ。後ろから距離を置いてついてくる男に怒りを向けながらも、自分は少し不安になったことを結城は思い出す。
 そうだとすれば、自分に対するそれも、自分が思う以上に意味のあるものではないのかもしれない、と。
 橋本の考えを認めるというのは、結城にとってはそんなわけで、耐えがたい事であった。だから、バカだと、何を言っているのかと怒りに乗じて耳を傾ける事を避けた。突きつめて語り合えば、空しい事になりそうだと思ったのだ。
 何せ、前科がある男なのだ。ガキ臭い男なのだ。以前、自分鈴木に対する想いを勘違いし、嫉妬しまくっていた男なのだ。馬鹿がまた馬鹿を言っている。そう考える方が、自然というものだろう。
 そうして、簡単に処理しようと、勝手に心が働いた。
 だが、今考えれば、もう少し話し合っていればこんな事態にはならなかったのだと結城は思いなおす。
 いや、話し合うというよりも、向こうが隠さずに話していれば、だ。
 自分は誠意をもって応えたじゃないか、と結城は自らの立場を確保し、橋本へと怒りを向けることにした。そうでなければ、自分が馬鹿すぎて、惨めすぎるではないか。哀れだ。
 あの夜、マンションに帰ってもまだ不貞腐れている橋本に、いい加減にしろと溜息をつきながらも、自分は恋人としての役割は果したはずだ。機嫌が悪い男の機嫌をとったのだから、気にしているらしい事を否定したのだから、問題があったのは向こうなのだ。
 上原が何かをしてくる。お前を誑かすはずだ、気をつけろ。いや、もう関わるな。あいつはお前が思うほどいい奴じゃない。男も女も見境がないんだ。飽きたら簡単に捨てる奴なんだ。
 そんな馬鹿げた言葉を聞き、きちんとひとつひとつ訂正し、言葉を返していったのだ。自分がそうだからと、誰彼かまわずホモにするなと心底呆れたが、結城は自分の役割をちょんと果したと思う。確かに、今の状況を考えると、結果的には上手くはいかなかったのだろう。意味がない言い合いだったのだろう。だが、意思の疎通が成り立たなかったのは、紛らわしい事になったのは、はっきりしなかった橋本のせいだ。
 そう、絶対にそうなのだ。
 それを確信すると同時に、結城は軽い嫌悪を覚えた。
 橋本が当たっていて、自分が間違っていたわけではない。そう、やはり、自分は正しいのだ。橋本が馬鹿なのも当たっている。
 だが、まさか。
 相手の思惑通りに、その馬鹿を晒してくれるとは。
 何たる腑抜け野郎というか、人騒がせというか、苛立つ男だ。
 結城は、目の前に迫りくる男を見つめながら、ここにはいない別の男をそう詰った。多分、今ここに橋本がいたのなら、迷わず叩きのめしているだろう。それくらいの怒りが、そこに向かっていた。
 なので。
 目の前の男の事はこの際どうでも良かった。
「結城さん」
「ああ?」
 気のない返事を返しながら、今橋本は何処にいるだろうかと思い浮かべる。仕事が終わったと、下で待っていると連絡を入れたのは10分ほど前だ。少し待っていてくれと言っていたが、もう1階まで降りてきているかもしれない。
 エレベーターが故障だとかで止まっていたので、自分と同じように階段で降りてくるならばここを通るはずだと、結城はチラリとそちらに視線を向けた。だが、そこには闇が広がるばかりだ。
 結城が立つのは、行き来する人間の足音は聞こえるが、こちらの姿は気づかれ難いだろう階段からは死角となる場所だった。橋本と行き違いになったとしても仕方がないのかもしれない。彼の仕事部屋の位置を考えると、逆の階段を使う可能性も充分にある。それを思うと、こうしてここに居るのが馬鹿らしくもなってきた。
 目の前の相手の事は、やはり、今は関心に入らなかった。
「なあ、上原…」
「俺と付き合ってください」
 結城の呼びかけに重なるように、男の声が落ちる。
 偶然なのか必然なのか何なのか、そんなのは結城にはわからない。ただ、自分が階段を折り始めた時、丁度上から降りてきた上原と一緒になったというだけで、それ以上の事はどうでもいいというのが本心だ。先の答えが何であれ、自分には関係ないと結城は思う。
 尤も、恋人にはそれが関係あるのだろう。橋本はこういう事を気にする奴だ。
 話があると色気のない場所に引っ張られたのはつい先程の事だが、早くも結城の関心は上原から離れていた。いや、考えようとしても、直ぐに別の方に向いてしまう。今は橋本を殴りつけるにはどうすればいいだろうかということで頭が一杯だ。
「何処に付き合って欲しいんだよ、買い物?」
 悪いが俺、急ぐ用事が出来たんだ。
 話は今度に出来ないか、と結城は軽い溜息を吐いた。茶番もいいところなのだろうが、この場を逃げるには話しを合わせた方が良さそうだ。
「冗談にしないで下さいよ。本気なんです。本気で俺と付き合って欲しいんです」
 真っ直ぐと見つめてくる目を見返し、結城は肩を竦めた。
 上原もいい男だが、今はもう少し愛想のない男が目の前にいる方が嬉しい。この距離なら、外すことなくその頬を殴れるだろう。軽く笑いながら、そんな事を考える。だが、その楽しい考えも、そう長くは続かない。実際には橋本が傍にいないのだから、妄想で終わるしかないのだ。
 探しに行こうかと考え、それなら目の前の男をどうにかしなければと、結城は近付いてきた男の額をペチンと叩いた。一体こいつは、何をするつもりなのか。
「…痛いですよ」
 少し冷めた感じの黒い目に、小さな苛立ちが宿るのを、結城は間近で眺めた。なかなかいい目をするが、むける相手が違うだろう。
「退けろよ、上原」
「…状況がわかっていますか? 結城さん」
 口元だけで笑いを浮かべた上原は、今まで結城に向けていた笑顔とは全く違うものだった。だが、そんなものだろうと思っていたので驚きはしない。人間、いろんな顔を持っているものだ。上原もまた、相手により幾つもそれを使い分けるものなのだと、結城は気付いていた。
 何故なら、自分に向ける顔と橋本に向ける顔が違ったから。だが、だからと言ってそれは嫌う理由ではなく、むしろ気に入ったところであった。
「状況って…、壁に押し付けられているんだよ、お前に。だから退けろと言っている」
 お前こそわかってんのかよ?
 軽く眉を寄せながら結城が言うと、上原はそれ以上に眉間に皺を寄せた。そして、グイッと額を押す結城の手を取り上げ、壁に縫い付ける。
「おいっ」
「俺の事、嫌いですか」
「好きだよ」
 あっさりとそう答えた結城に、上原が少し目を見開く。予想していなかった答えなのだろう、「本当に?」と問い返してくる。
「ああ。でも、今はそんなこと関係ないだろう。退けてくれ」
「俺も、あんたの事が好きなんだ」
「ああ、そう。それはどうも。――って、お前! 何処触ってんだよっ」
 スラックスの上から股間を撫で上げられ、結城は腰を引こうとした。だが、壁に阻まれ、逃げ場が無い。
「男との経験がないわけじゃないんでしょう? なあ、俺と…」
「セックスをしようってか?」
 結城の問いにニヤリと上原が笑う。
「物分りが良くていいね」
「お前、ガキを扱うみたいな言い方するなよ。ったく」
 唇を尖らせながらも笑う結城に、思惑通りに事が運ぶと思ったのだろうか、上原の顔が近付いてくる。
 結城は落ちてくる唇を避けるため横を向いた。何だか、ふざけすぎた展開になっている。その事に、頭が痛む。全ての事がわかった今、この状況は思考を奪うほどに馬鹿馬鹿しすぎるのだ。
「俺さ、お前のこと好きだぜ」
「なら…」
「ちょっと待てって…」
 股間を撫でる上原の手を押さえると、耳をはまれる。肩を竦めると、耳から遠ざかった唇が額に落ちた。そのまま頬を滑り、唇が軽く重なる。
 限界だった。
 精神的でも肉体的でもなく、ただの嫌気がだ。馬鹿過ぎて、流される気にもならない。
「――んっ、ちょ、やめろ。俺は、ホモじゃないんだよっ!」
「橋本さんとは遊んでるんでしょう」
 鼻で笑った上原が、するりと腕を伸ばし結城の臀部を掴む。
「男のケツを揉んで笑うなよ、上原。お前、気味悪くないのかよ。第一、そんなことしても、俺はお前に転ばないぞ。無駄だ」
「…何?」
 何を言っているのかと言いながらも、上原の目は結城を窺うように鋭くなった。
 ばれていないと思っていたのだろうか、と結城はその戸惑いを感じ取り、心底呆れた。だが、同時に、それが可愛く思える。馬鹿が馬鹿な行動をとるのは、仕方がないことなのかもしれない。そう思うと、少しは許せる気がする。
「言っただろう、ホモじゃないんだよ、俺は。なので、お前とセックスはしない」
「…橋本に操を立てています、何て寒い事言わないで下さいよ」
「誰が言うかよ、そんな事。だから、お前なぁ、聞いてるのか? 俺はホモじゃないんだって」
「そんなの、関係ないだろう」
 上原の胸を押しやった結城の耳に、遠くから自分の名を呼ぶ声が届いた。呼ばれた結城よりも早く、上原がそちらを見る。
「…残念、見つかってしまったか」
 その呟きに、結城はやって来た男を思い浮かべ、そして上原の顔を引き寄せた。
 唇を重ね、舌を差し込む。
 足音が近くで止まった。どうやら、ロビーの方から来たらしい。ならば、自分達の姿ははっきりと見えているのだろう、と結城は確信する。
 案の定、チラリと視線を向けると、橋本が数メートル向こうで目を見開いて立っていた。それに小さく笑いながら、結城は上原の舌に舌を絡ませた。はじめは驚きに戸惑っていたそれは、直ぐに巧みな動きをはじめる。
 だが、正直、ただのキスでしかない。多分、家族とするようなキスとでも言うのか、興奮がないのだ。面白くとも何ともない。
 しかし、クチャリと立った音には心が跳ねた。キスそのものではない、自分の思い描いた以上の舞台が出来た興奮に、結城は濡れた唇で笑った。
 離した唇を、上原の耳に当てる。
「上原、さっきも言ったけどさ。俺、お前の事好きだよ」
 キスの余韻で掠れる事もなく、はっきりと告げる。
 抱きしめた男が声もなく笑うのを結城は感じ取った。多分、勝利の笑みを立ち尽くす男に向けているのだろう。それを思うと、いい気味だと、結城も笑いを起こしそうになる。
 だが、まだ早い。
「でもなぁ、上原。勝手になら何をやってもいいけどさ、俺をダシに使おうとするのは戴けないよ。お前の事は好きだけど、残念ながら無償の思いじゃないんでな、何をやられても寛大でいられる程でもないんだ。やられたらやり返す、ってね」
「結城さん…?」
 一体何なのだと眉を寄せた上原から結城は手を離し、橋本を見た。顔色を失った男の姿に笑いを落とす。
「結城…、どういうことなんだ…?」
「どう思う?」
 ニヤリと笑った自分に、今度は湧き起こった怒りに顔を赤く染めた橋本を、結城は暫し眺めた。相当のダメージを受けていると思えるので、殴る事はしないでおこうかどうしようか、その姿を見ながら考える。
「お前、俺を…捨てるのか?」
 低い呟きが、空気を固まらせた。だが、それすら、結城は一笑して消し去る。
 上原は自分の態度を不審に思ったのか、口を出してこない。それとも、情けない顔をする橋本に夢でも砕かれたのだろうか、と結城は内心で低く笑う。
「…どうなんだ、結城……」
「捨てる? 何かそれ、人聞きが悪いな。ま、誰も聞いてないから、いいけどさ」
「どうなんだっ」
 痺れを切らした橋本の声が、建物に響いた。まだビル内には人も残っているだろう。聞かれてやって来られたらどうするつもりなのか。
「どうなんだ、ってさ。それを決めるのは、俺じゃなくお前だろう?」
「何…?」
 眉を寄せた橋本を笑い、結城は上原を振り返った。ここまで来てわからないとは、救いようがないのかもしれない。
「なあ、鈍感なあいつとは違ってさ、お前はもうわかっているんだろう?」
「結城、さん…」
「そんな声出しても駄目だ。俺、怒ってんだから。覚悟を決めろよ、上原」
「お前ら、何を言っているんだ?」
 焦れた橋本が再び声を荒げる。
「いい加減にしろよ」
 結城はそんな橋本に近付き、ニヤリと笑いながら言った。
「お前が馬鹿なんだよ。鈍感すぎるんだよ。上原が俺に何かをするだと? 何かをされているのは、お前だろう橋本。食われるのは、狙われているのは俺じゃなく、お前なんだ。
 こいつはね、お前の事が好きなんだよ。お前の気を引きたくて、俺を構いにくるだけなんだよ。何で気付かないかな、この馬鹿が」
 大きく目を引き剥く橋本のその馬鹿面が心地良かった。
 結城はその肩に手を置き、自分の言葉を飲み込ませるように、ぽんぽんと軽く叩いた。
 そう、上原はお前の事が好きなんだよ、と。
 しかし、ここまで来たというのに、橋本は認めようとはしなかった。頭がおかしくなったものでも見るかのように、胡散臭げな視線を向けてくる恋人に、結城はもう一度言う。
「上原は、お前を好きなんだ。わかったか」
 結城がそう念を押すと、今度はそれを理解したくないかのように、橋本は頭を振った。驚きの次は現実逃避をかますつもりだろうか、この男は。
「――何を、馬鹿な事を…。嫌われているんだぞ、俺は。そいつに。なのに、好きだと? ふざけるなよ」
「…そ、そうですよ、結城さん。俺は――」
 上原も橋本の言葉に賛同し始める。こんな時に仲の良さを見せ付けられても、結城としては馬鹿馬鹿しいだけの事だ。
「だから、お前も覚悟を決めろよ、上原。俺はな、ホモじゃないんだ。こう言うごたごたは真っ平だ、いい加減に蹴りをつけろ。それとも何か? お前。自分の気持ちに気付いていないとでも言うのかよ、自覚しないほど子供なのかよ。はっ! なら教えてやるよ。お前のその目は、橋本が好きですっていつでも言ってるんだよ。好きだからこそ、ちょっかいを出しているんだろう。違うのかよ? 違うのなら他の理由を言ってみろよ」
「……」
 指を突きつけ一気に言った科白は的をえていたようで、上原は口を閉ざした。そのふてぶてしいが可愛らしくもある項垂れた姿に満足し、結城は口元に笑いを浮かべた。横では橋本が、何故黙るのかと上原に驚いているが知った事ではない。理解力のなさと頭の固さが招いた結果なので、自業自得だ。
「お、おい…」
 橋本が小さな声を漏らす。その零れた声は、見事に恋人の戸惑いを現していた。助けを求めるように橋本が向けてきた視線の先で、けれども結城は馬鹿にして笑いたいところを、あえて不機嫌な顔を作って応えた。
「鈍感なお前がさ、そもそもの原因なんだ。ったく、気付けよ。簡単に煽られてんじゃないぜ、全く」
 忌々しげにそう掃き出す結城がかなりご立腹なのだというのが橋本に伝わったのだろうか、顔色を無くしながら、唇を震わせた。
「――ふざけんなよ…。俺は、知らない…、認めない……」
 上原が声を絞り出し言う。本当に往生際が悪いと、結城は長い溜息を吐いた。
 上原が橋本に向けているのは、単なる好意だと思っていた。そう、自分が鈴木に向けるような、恋愛感情ではないと結城は思っていた。だが、強いそれがそうだと気付いた今、それを向けられる橋本の恋人である自分は楽観的に見てはいられないと言うものだ。何故なら、当の本人である橋本が、自分は部外者だと守ってくれそうにはないからだ。
 別に守って欲しいわけではないが、男同士の恋愛バトルには巻き込まれたくないと言うもの。関係ないと自分の身を守るには、もはや決着をつけるしかないのだと結城はそれを選んだ。確かに、男に迫れら、自分を軽く見ていた上原には怒りがあるが、隠し続けていたらしい感情を本人に無断でばらすのは誉めた行為ではないのは充分に承知している。だが、これから先、このバトルに関わる気もない。
「お前が認めなくとも、俺は別にどうでもいいさ。橋本、お前もそうなのかも知れないがさ、もしそうだったらと仮定しての答えをこいつにやれよ」
 結城は茫然と仕掛けている橋本に、上原を顎で示した。
「何で…」
「何度も言わせるなよ。こいつやお前がどう思おうと、事実はそうなんだよ。そして、俺はそれに付き合う気はない。別に好意を持っているだけならいいと思っていたが、巻き込まれるのは話が別だからな。
 ったく。お前ら、餓鬼みたいな事しやがって」
 苛立たしげにそう言い、結城は髪をかきあげた。興奮しているからだろうか、やけに暑い。そのまま首を滑らせてきた手でネクタイを緩める。
 正直、怒ってはいない。
 確かに、つい先程までかなり腹立たしく思っていたが、今は馬鹿な男二人を苛められたのでそれは解消された。満足だ。
 ならば、もうここに用事はないと、結城は「帰る」と宣言し、足を進め始める。自分はもう、関係ないだろう。後は橋本と上原の事だ。
「お、おい!」
「お前は、そっちを片付けてからにしろ。選べよ、俺か上原か。ま、別の第三者でも良いけど。俺は疲れた、帰る」
「ちょっと、待てよっ」
 勢い良く橋本に肩を掴まれ、「痛いじゃないか」と文句を言いながら、結城は仕方がないと振り返った。目の前で硬い表情を見せる橋本の向こうで、上原が苛立たしげな顔で自分を見据えている事に気付き、結城はニヤリと笑った。
「早く答えを返してやれよ、橋本」
「だから…。何故そんな誤解をしているのか、俺にはわからない」
「誤解じゃない。事実だと言っているだろう。醜いぞ、おい。男ならしゃきっとしろよ。相手に失礼だ」
 バシッと橋本の二の腕を叩き、「じゃあな」と結城は踵を返した。
 非難めいた視線を背中に感じながら、落ち着いているのだと思わせるために、ゆっくりと歩く。だが、誰もいないロビーを抜けるまでが限界だった。
 社屋を出た結城は、クツクツと小さく笑いながら、家路への道を辿り始めた。歩道で擦れ違う者達が首を傾げるのを知りつつも、その笑いは次第に大きくなっていく。
 気分は、最高だった。
 なかなか面白い茶番劇だった。
 上原の馬鹿も、橋本の鈍感も、今となっては感謝するべきものなのかもしれないと思えるほど、自分を楽しませてくれた。
 結城は肩を揺らせながら、駅を通り越し、更に前へと歩みを進めた。
 暑い夜は、ビールに限る。こんな楽しい夜は、大好きなケーキでも食べよう。ささやかな幸せと言うのを味わいたい夜だ。
 コンビニの光を目指しながら、何を買おうか考え、また笑う。
 今頃恋人はどうなっているのだろうか。
「俺を捨てるのか、と泣きついてみるのも良かったかも」
 もう少し苛めれば良かったかもしれないと、結城は軽く肩を竦めた。
 だが、嬉しい事に、夜はまだまだ終わらない。

2003/07/01
Special Thanks to Michiaki_sama