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おかしなことに、出会った時からあの朝までの事はどんな些細なことでも覚えているというのに…。あの時から、俺の中の時計は狂ってしまったようだ。
ベッドで眠る彼の顔。病院での記憶は断片的にしかなく、気が付けば堂本に連れられて棺の中の彼と対面していた。白い顔は、それでも俺には眠っているだけのように見え、手を伸ばした。
だが、彼に触れる事が出来たのかどうなのか、俺は覚えていない。
何故だ、どうしてだと、彼の担当医だという医者に掴みかかった記憶はあるが、その手を離した記憶はない。保護者だという男に怒りを向けられた記憶はあるが、一体何を言われたのか。男の言葉は、俺の耳を通らなかった。
抜け落ちた記憶を拾い集める気力など、俺にはなかった。どうでもいい事だった。
目の前にあった彼の顔が消え、俺は空を見上げていた。煙突から出る煙を眺め、夏の太陽の眩しさに目を細めた。
その瞼を開けた時、俺は自分の部屋の中にいた。
それからは、日々はいい加減な速度で俺の周りを走っていく。ぼんやりと時を過ごしているというのに、俺の心は一向に落ち着かない。常に何かが燻り続けている。そう思えば、全く何もない無が訪れる。心が焼かれていく。
…面白い。
時を過ごすのに、こんな方法があるだなんて、知らなかった。
常に何かを考え何かを見、立ち止まる事もなく動き続けてきた自分が滑稽でさえある。
そんな俺とは違い、あの青年は、こんな時の流れを経験していたのかもしれない。
21。そう、まだあの青年は21歳だったのだ。
そんな彼が、自分の死期を告げられ時、一体何を思ったのだろうか。
出会ってからの3ヶ月。常に不安定であった彼の心に存在していたものは、俺が想像するよりもはるかに大きく、残酷なものであった。
自身の死を目の前にしていた彼に比べ、自分はなんて愚かなものだったのだろうか…。
目を瞑ると、棺の中で横たわる青年の姿が思い出される。
その度、俺は心に浮かぶ言葉では言い表せない感情を持て余し、一人の部屋で暴れる。そして、酒を煽り、疲れきると漸く眠りにつく。まるで、ここに居た時の彼のよう。
そんな日を繰り返す俺のところに来るのは、堂元だけだ。
時折堂元は側に来て、俺の世話を少しだけする。子供の頃のように、つきっきりになることがないのは、俺の変わりに仕事をして忙しいからだろう。それと、自分がいてもそう役には立たないとわかっているのもあるのだろう。だから、気になっているのだろうが、他の者をここに来させる事はない。
俺がどうなろうとも、堂元に限っては、俺を見限る事は絶対にない。それは俺が一番知っている。
だが、見限って欲しいと、こんな俺を捨てて欲しいと、俺は願ってしまう。
あの日、水色の空にとける煙を見た日。青年がいなくなった部屋にいつの間にか戻ってきていた俺は、最後の夜を思い出しながら、部屋を歩き回った。
夜遅くに帰って来ると、青年はソファで眠っていた。良くそうして眠りにつく彼に、俺は何度も風邪をひくぞと注意したものだ。あの夜も、そんな彼に呆れながら、何気に自分の寝室へと運んだ。
以前そうした時、怒っていたのを思い出した。隣で同じように眠った俺が気に食わなかったのだろう。そして、その朝は珍しく俺より先に起きた青年に寝顔を見られてしまい照れる俺を、彼は笑ってもいた。
ベッドに移動させても起きないほど、彼の眠りは深かった。俺は今なら怒られないだろうと、手を伸ばし髪をかき上げた。さらりと細い髪が指を滑った。
その感触をふと思い出し、強く手を握る。あの時、あの滑る髪を掴んでいたのなら、こんな事にはなりはしなかったのだろうか。彼を繋ぎとめておけたのだろうか。
部屋の闇はその答えを返さなかった。あの日と同じように。
眠る彼の隣に身を並べ、俺は天井を見上げて目を閉じた。隣から聞こえてくる寝息に耳を傾け、自分の心に問い掛けた。どうすれば、この青年とこうしていられるのだろうかと。
事故にあった時、飛び込んでくる車を見ながら思ったのは、恐怖でも何でもなく、冗談だろうといったおかしさだった。現実として捉えきれない思いに、俺は軽く笑ったのだと思う。だが、その衝撃の後、漸く事態に気付いた時、おぼろげな視界の中で真っ赤に染まる樋口の姿を見た時、強い思いが湧いた。冗談じゃない、こんなところで死ねるか。
薄れていく記憶の中で、自分の状態よりも、血塗れの部下よりも、きちんとベッドで寝ていないかもしれない青年の顔が浮かんだ。俺が帰らなければ、彼は風邪をひくかもしれない、そんな現状には合わない心配が心に落ちた。
病院で意識を取り戻し、大した怪我ではないと言う堂元に俺が真っ先に言った言葉は、青年には知らせるなというものだった。入院をさせたいのなら、それを実行しろと命令した。だが、結局は、他の者により知られることになってしまった。
あの日、青年は涙を見せた。
その姿に、愛しさが募った。手に入れたい。けれど、それを俺は恐れてもいた。
闇の中で答えを見つけられるほどの気力は俺にはなく、青年の寝息を聞きながら、俺はそのまま眠りに落ちた。
目を醒ました時、彼は眠る前と同じ、俺の隣で目を閉じていた。顔の前に、軽く握った手が置かれていた。
俺はその朝、夢を見た。
仁一郎。俺の事をそう名前で呼べよと言い合ったのは、まだ出会ったばかりの頃だ。それに一度も頷かなかった青年が、俺の事をそう呼ぶ。少しはにかみ、照れたようにしながらも、俺の名を呼ぶ。そんな夢を見た。
だから、俺はあの朝、とても気分が良かった。夢だとわかっていながらも、目覚めた時、吐息が掛かりそうなほど近くにいた青年に、現実かもしれないと思いさえした。現実になりそうな気がした。今直ぐ青年を起こし、無理やりにでも名前を呼ばせたくなった。
夢の中のように笑わなくてもいい。いつものように、鬱陶しいと眉を寄せ、放っておくと煩いからと妥協するのでもいい。不機嫌であっても、青年の唇から零れる自分の名を耳にしたくなった。
そして、俺は、青年の頬に手を伸ばした。
彼の頬は、とても冷たかった。
シーツは誰かが調えたのか、あの朝の名残は何処にもなかった。俺はそこで横になり、空けた隣のスペースをじっと見ていた。何も無い空間。
それと同じく、あの夜とは違い、俺の心にも何も無かった。
暫くそうしていた後、ゆっくりと体を起こし、寝室を出た。
青年が使っていた客間の扉を開けると、彼の薫りに包まれた。棚には、彼が持って来た本がいくつか置かれ、クローゼットではなく壁に数着の服がかけられていた。足元には、他の荷物が入っているのだろう大きな鞄が置かれている。
そして、ベッドのシーツには皺が刻まれていた。まるで、先程まで彼が眠っていたかのように。
部屋の中で佇み、何にも触る事も出来ず、俺はそっと抜け出し居間へと戻った。喉が乾き、水を飲もうとキッチンへと入る。グラスを取ろうと伸ばした手の先に、オフホワイトのマグカップがあった。青年が使っていたそれを俺は見入り、床の上に崩れ落ちた。
何度も何度も床を殴ったが、衝動は収まらなかった。あまりにも自分が情けなさ過ぎて、涙さえ出てこなかった。苛立ちばかりが募った。
それから俺は、そんな一日を毎日繰り返し続けている。
気が向き洗面台の前に立てば、並んだハブラシから視線を反らせられず、ふと誰もいない部屋なのに気配を感じ、息を飲んでは後ろを振り返り、溜息を吐く。ぼんやりと何も考えずソファに体を預けている時でさえ、気付けば辺りを見回し何かを探そうと焦っている。
彼の残り香が薄くなっていく事に怯えている。
いない事が当たり前だと、受け入れる事を怖れている。
少しずつ、動き始める俺の時間。だが、心はまだ、それについていかない。追いかける気さえない。
堂元が去れば、直に俺は狂った時間に全てを委ねようとする。
それが、正しいのかどうなのか、わからない。
ただ。
恋をしていた。
俺は、あの青年に恋をしていた。
それを自覚したのは、いつだったのだろうか。惹かれずにはいられない青年だったのだ、そんなものはどうでもいいだろう。そう、俺は出会った時から、多分この思いへと突き進んでいたのだ。
そして、その心は、行くあてを失った。
こんな事をしていては駄目だと、意味などないのだとわかっている。堂元が世話を焼きに来るのは何故なのか、十分理解している。
青年の死を俺は受け入れなければならない。いや、受け入れてはいる、理解している。同調しても、自分にそれは来ないし、それを望んでもいけないのもわかっている。
だが、そうわかっていても、思いは止まらないのだ。
何処かで怯えながらも、青年への想いを止められなかったように、今も、彼を思うことを止められない。
居ないと知りながらも、探してしまう。
だが…。
それは、本当にいけないことなのだろうか…。
マサキ。
はじめて会ったあの時から、俺はお前に惹かれていた。
お前は冗談だと思っていたようだが、俺は本気だった。それは確かにまだ恋ではなかったけれど、手に入れたい、側にいて欲しい、そんな求める感情は紛れもないものだった。
俺はまだあの時は知らなかったんだ、恋とはどういうものなのか。人を本気で好きになるのはどういうことなのか。気付くのが遅すぎた。
その点で言えば、お前の方が大人だったのかもしれない。
お前は、人を好きになるのを恐れていたんだから…。本気で人を好きになったことがあるからこそ、他人を怖がっていたんだよな、マサキ。
逆に俺は、自分に恐れていた。自分だけを見ていた。
もう少し。
もう少し、俺がそんな自分に気付くのが早ければ。
俺達は何か変わっていたのだろうか――
――なあ、どう思う? マサキ…。
2003/04/03
Special Thanks to Rei_sama