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何もかもが、嫌だった。
全てが憎かった。
だから。
意識を飛ばす瞬間に思ったのは、これで終われるということだけで。
他には何も考えず、躊躇いなくオレはそれを手放した。
刹那的に引き寄せた思いは。
生まれてからずっと望んでいたのだろう、救い。
それなのに。
掴みかけたはずの終わりは、始まりだった。
地獄に、終わりはない。
『Calling』
ひどく苦しい。
意識にあるのはそれだけだったが、霞む視界で捕らえたものに、ほんの少しだけ身体の重みを忘れる。
目の前に、犬がいた。
自分が今どうなっているのか、この苦しさは何なのか。
何もわからないのに、混乱さえも出来ないほどの辛さの中では。たとえ、覚えのない犬だろうとも。
真っ黒な瞳で自分を見つめてくるそれに、オレはこれ以上ないくらいに安堵した。
どうして犬がいるのかも考える余裕などなく。
一度押し上げた瞼が勝手に落ちていくのを止められず、オレは再び何の抵抗もせず意識を手放す。
そして。
次に目覚めた時も、その犬はオレの傍らにいた。
ただ、オレの状況は変わっていた。
「……」
まず、身体は今なお重いが、先程に比べれば雲泥の差だ。
くわえて。
はっきりとは覚えていないが、先程犬と共に感じたのは、もっと冷たく固い何かだったように思うのに。
いま熱い身体を包むのは、柔らかい布団で。ダルイ身体を横たえているのは、大きなベッドのようだ。
己の回復と、周囲の環境が示すのはひとつ。
オレは、助けられたということだ。
だが。
視線だけを動かし、なぜか並んで寝ている犬の向こうに目を凝らす。
部屋の一部から読み取れるのは、シャレた作りだという程度でしかないが。
どう見ても、ここは病院でも留置所でもない。
けれど、他に自分が居るべき場所が、オレには思い当たらない。
周囲の様子をとらえるだけで疲労が増したのか、苦しさに意識が飛びかける。
頭が潰れそうなほど痛い。息が勝手にあがる。
だが、オレには考えなければならないことが山積みのようだと、再び沈みそうになるのを耐える。意識を繋ぎとめる。
口も喉も熱く渇ききっており、切るような痛さだ。
ここが、病院でも留置所でもなければ。一体、どこだというのだろうか。
当たり前だが、見覚えなどひとつもない部屋だ。
オレをこんなところで休ませるような人物に、心当たりもない。
何より、オレは殺人者だと。
ふと思い出すように、けれども当然のようにそう考えた瞬間。
犬に和らげられたものは一瞬で消え去ったのか、知らない部屋に居る嫌悪が、身体の疲労をも凌駕した。
その圧迫感に、冷や汗がでる。
……嗚呼、死にそうだ。
自分の状況がわからなさ過ぎて、衝動が収まらない。
寝ているのに、微塵も動いてはいないのに、それがオレに眩暈を起こし揺さぶってくる。
あの時感じた死は、優しくさえあったのに。
今は、苦しい。
苦しすぎる。
どうして、オレは死んでいないんだ…。
目を閉じ、荒い呼吸を数えるようにしながら落ちることに耐えていると、不意に頬に生温かいものがあたった。暫くして、鼻腔に入り込む匂いに、それが犬だと気付く。
瞼を開けると同時に、犬が小さく鳴いた。
間近にある黒い瞳は、とてもオレを心配しているようであるが、オレは横を向いたままの頭ひとつ動かせられない状態なので、ただその眼を見返すしかない。
大丈夫だと、心配するなと、どうすれば伝えられるのだろう。
もう長い間、そんなことはしていなくて。現状のせいばかりではなく、ただオレは途方にくれる。
犬相手に、馬鹿みたいだけれど。
犬ですら、オレは満足に対処できない。
昔から、こうだ。
動かないオレに痺れを切らしたのか。犬が首を少し上げ、また頬を舐めてきた。
嫌悪はない。だが、沸いたとしても追い払う術もないのだ。好きにさせるしかないと諦め、オレは瞼を落とす。
ペチャペチャと響く音を聞きながらも、頬に滑りを感じながらも、ゆっくりと意識が薄れていく。
もう、堪えるのは無理だった。
もう、堪えたくもなかった。
このまま、もう一度。死へと向かえばいいのに、と。
そう思う中で。
また不意に、けれども今度は冷たい何かが、額に触れてきた。
「…………」
犬ではない。
人の手だ。
犬がひと鳴きし、オレから離れた。
その動きにつられるように薄く開けた視界で、何者かの腰がベッドに降ろされるのを見たけれど。
僅かに身体が沈むのを感じながら、オレは直ぐに瞼を落とす。
今は、何も見たくはない。
何も、聞きたくはない。
身体と心の欲求に素直に従い、オレはそのまま闇に落ちることを選択した。
今度こそ。
もう二度と何も感じられなければいいと、そう願いながら。
2011/06/20