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どれくらい眠ったのだろうか。
ゆっくりと眼を開けると、視線の先に見知らぬ男がいた。
あの犬ではないんだなと、少し物足りなさを覚えるが、居たところで用もない。
男の顔は、馴染みのない造りをしていて。
明らかに、日本の血は引いていないと思われるのだが。
「気分はどうだ」
落ちてきたそれは、理解できる言語だった。
だが、答えはわからない。
真っ直ぐと見下ろしてくる男を見返し、ふと気付く。
容姿や雰囲気もそうだが、この男は今までオレが接してきた人物達とは根本的に違うのだと。
そう、驚くことに。
男からは、何も感じない。
「聞こえているか?」
これが今だけのものであるのか、この男が特別だからなのか。
わからないが、何も感じない事実に、オレは怖くもありながらもそれ以上の安堵を覚える。
今、自分がどうなっているのかなどどうでもいいと思えるくらいに、それはオレの心を満たす。
けれど。
落ちる言葉が、心地良くさえあると。
微かな興奮をもって吸い込んだ息が、オレの身体から出て行く前に。
男がオレから視線を外し横顔を見せると同時に、その束の間の平穏は消え失せた。
身体に馴染んだ不快が襲う。
二人の中年男が部屋に入ってきた。
こちらも、アジア人らしからぬ風貌だ。
だが、目の前の男とは全く違う。
嫌な予感。肌が粟立つような、ザワリとした感覚がオレの全身を駆け巡り、シグナルを送ってくる。
一気に心拍数が上がり、眩暈を覚えるほどの気持ち悪さに、息が詰まる。
筋肉は強張るのに、身体の芯の力が抜ける。その倦怠感に、先程までの己の快調を知るが、今はもう無意味だ。
頭の中で点滅するのは、警告色の赤。
真っ赤なそれが、重苦しい、どす黒い血の色へと変わっていく。
それは、あの時の色だ。
辺り一面を染めていた、あの男の、オレの、毒。
モノクロの中でそこだけ発色したかのように、記憶が色づく。
だが。
今オレが居るのは、家ではないし。
迫ってくるのは、父親でもない。
現実と記憶が上手く繋がらないまま、頭の中を支配した赤。
それだけの事で、一瞬で緊迫を纏ったオレとは対照的に。
中年男の一方は抑えても抑えられないといった興奮を乗せた眼でオレを見詰め、もう一方の男は逆に冷めきった眼でオレを見る。
その冷たさは、慣れたものであるはずなのに。
いつもとはどこかが違う。
わからない、恐怖。
今までの比ではない怖れが、その男の後ろにあるような感覚に襲われる。
先に、一時でも安堵した分、絶望が大きい。
全身が、粟立つ。
オレはただ本能的に、逃げなければと思った。
今すぐに、ここからも。
「失礼いたします」
興奮を眼に乗せたままの男が口を開いた。
その声は、熱に潤んで震えていたが、どこか乾いているようでもあった。
けれど、そんな事はどうでもいい。
傍に寄られ一気に危機感がピークに達したオレは、逃げるよう肘で身体を起こす。
それでも、ゆっくりと伸ばされてきた手から逃げ切るのはムリで。
反射的に、それを片手で払う。
そう、ただ少し、軽く払っただけだ。
それなのに。
「……ッ!?」
雷に打たれたような衝撃に、目を見張る。
頭の中が真っ白になり、それだけがオレの中で存在する。
ほんの少し触れ合っただけなのに。
有り得ないほどはっきりと、指先から、男の感情が流れ込んできた。
それは、狂信と呼ぶに相応しい熱さで。
その対象は、間違いなくオレで――
『嗚呼、ミツカイさま…! 我らの神よ…!』
手を払われて驚く男から聞こえるその熱狂的な想いに、意味がわからないのに、耐えがたい吐き気を覚える。
声もなく悲鳴を上げたオレは、息を吸うことも忘れ、再び倒れこみベッドの上でもがく。
今のは、何だ。
無理やり押し込まれた、恐怖以外の何ものでもない狂喜に酔うと同時に。
聞こえる事実が、オレの身体から力を奪う。
絶望以上の恐ろしさが、目の前にある。
理解したくはないと、この場から逃げ出さねばと身体を動かす。
だが、まるで空気は泥であるかのように重くて、視界に入った扉は余りにも遠い。
それでも、逃げなければと奮闘したオレは。いつの間にか落ちたのか。
気付けば、床の上にいた。
慌てるような雰囲気が、どこか遠いところから感じる。
恐怖で脱力仕切ったのか、頭でも打ち付けたのか。
もう、何が迫っていようとも、指一本すら動かせそうにない。
まるで、触れた男のあの熱が、毒であったかのように。
身体が痺れきっていた。
慌しい音が、耳を抜けていく。
オレにとっては、恐怖に駆られたその時間はとても長かったように思えたが。
逃亡を図ったのは数秒間の出来事だったのだろう。
全身で拒絶した結果は、意識が一瞬飛んだのか記憶にはないが、ただベッドから転がり落ちただけだったようだ。
そう、たったそれだけだったのだ。
それを悟った瞬間、今さっき感じた恐怖心がフッと身体から抜けた。何もかもが、消えた。
いや。今なお身体の奥底で、発狂しそうな程の恐怖があるのを感じつつも。頭は考えることを放棄したのか。
何もかもが、空っぽになった感覚だ。
もう、どうでもいい。
考えたくない。
感じたくない
視界の中に人の足が現れても、身体を抱き上げられても。
ベッドに戻され知らぬ男達に囲まれても、触られても。
相変わらず、意味のわからない狂った思考を向けられても、侮蔑のような視線で見られても、勝手にやっていればいいと思った。
必死に抵抗する空しさを、オレは知っている。
知りすぎている。
それでも。
それは投げやりでしかないとわかっている心の奥底でオレは、確かに存在している恐怖を払うために。
ひたすら、全身で。
何も感じないふりの中、視線を合わせても何も感じなかった初めから居る男の気配を追っていた。
全てがわからない中でも。
今は、それだけがオレにとっての唯一の救いのように思えた。
2011/06/20