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 本来ならば阿田木が来るはずだった食事会は、都合が悪くなった彼の変わりに同席した戸川のお陰で、あっさりと幕が引いた。喜ばしい事である。
 主賓の幼子が眠ってしまったのもその理由ではあるが、この面子で騒ぐのは最初から無謀というものであったのだろう。
 普段は適当な事ばかりを言う戸川も、流石に水木が相手となると、勝手な振舞いは出来ないらしい。格云う瑛慈自身も同様に、組織の中だけではなく書類上でも義父である水木雅とは、打ち解け合っている訳でも気心が知れている訳でもないのだ。これでもまだ、場は持った方であろう。
 もしもこれが若林ならば、また別な方向で話が深まっていたのかもしれないがと思いながら、瑛慈は座敷を後にした。
 腕の時計をちらりと見る。そろそろ日付が変わる時刻だ。眠った幼子は明日の朝まで起きる事はないだろう。本人に自覚はないとはいえ、大の大人三人を繋ぐ役割は、相当に疲れたはずだ。
 先を行く水木と隆雅を抱き進む戸川から少し離れ、瑛慈は廊下を進む。
 老舗の料亭らしく、客同士が顔を合わす事はまずないからこそ出来るその余裕を確かめるように、態と足を止め何気に小さな庭を眺める。
 間接照明がうっすらと照らし出す庭には、表から続いているのだろう池があった。そこには鯉がいるのだろうかとふと考え、そんなことを思う自分を心の中で軽く笑う。
 今はもうこの世には居ない人物と、錦鯉を話題にして語った事があった。遠い昔の記憶だが、今も鮮明だ。
 しかし。
 十年も前の事を思い出しながら歩みを再開し向かった裏玄関で、今度は鯉よりも随分と新しい、イヌの記憶を呼び起こす事となる。

 自分を鯉が群がる池へと突き落とした男が、一瞬にして頭の中から消えた。
 それ程の驚愕は、けれども当然なのだろう。
 一年程前に見かけた捨てられた仔犬が、瑛慈の視線の先で穏やかに笑っていた。



 あんな表情が出来るのか。

 瑛慈は昨夜向けられた視線を思い出す度、その言葉を胸中で呟いた。最初は驚きのみのそれであったが、いつのまにか苛立ちが纏わりつき、気付けば気が沈んでいる。
 理由は、明白だ。
 あの青年の眼が、自分の気持ちを変化させる。
 仕事をしていたはずの手が、いつの間にか止まっていた。握っていた万年筆を放り煙草に手を伸ばすと、すぐさま火が差し出される。
 狭くはないが、それでもやはり執務室でしかない部屋を見渡せば、入口に二人、壁に三人、そして横に一人。若い男が無言で六人、直立不動の姿勢だ。
 慣れたとはいえ、改めて無心で眺めると、微妙な光景だなと他人事のように少し思えてしまう。そうして、これを見たらあの青年はどんな顔をするだろうかと意味もなく考えてしまうあたり、マネキンのように立つ男達よりも自分は不毛だと瑛慈は考えた。
 しかし。可笑しくとも、無視出来ないものがそこにはある。

 あの時。
 夢や希望や未来と言えばいいのか、もっと生臭く、人生や世間や社会と言えばいいのか。
 それがどれなのかはわからないが、確かに何かに捨てられ、みすぼらしくもある程に小さく縮こまっていたイヌが、その欠片も覗えない程に元気になっていた。
 誰かに拾われたのか、一人で生きる術を得たのかはわからないが。自分の知らないところで変わっていた事実が、何故だか歯がゆく感じられる。


「調べてくれ」
 ソファに寝て煙草を吹かす戸川は、紫煙と共に「何を?」と気の抜けきった返事をした。
 普段の口から先に生まれたような彼だけを知る者には、クスリでも吸った後かと疑いたくなるほどのギャップだが、何て事はない。ただの睡眠不足だ。もう若くはないというのに、この男は忙しい仕事の合間に、精力的に遊びまくっている。
 確かにここ数週間はいつにも増して仕事は忙しかったが、理由が理由であり、それを気に掛けてやる気にはならない。何より、本人も気に掛けられたくはないだろう。
 何らかの事が必要ならば、それは若林がするだろうと、瑛慈は話を続けた。
「千束大和」
「…あぁ、昨日ニョ?」
「……そうだ」
 欠伸が混じり可笑しな語尾になったのも気にせず、戸川は体を起こし伸びをする。崩れたその髪に混じる白髪が最近目立ち始めた事を、本人はどう思っているのだろうか。一度訊いてみたい気もするが、それには時と場合を選ぶ必要がある。
 今は、それには適さない。
「急ぐか?」
「いや」
「何か気になるのか?」
「本人」
「へえ、珍しいな。それは個人的になンだよな?」
 ならば目立たないようにしようと、ニヤリと笑うその顔からは、早くも睡魔が消えている。現金な男だ。だが、身内である内は、それは決して欠点にはなりはしない。なったところで、左程痛くもない。
「そうだなぁ。まあ、普通の学生だろうし、そんなに調べる事もないだろう。明日にでも報告する。待っていろ」
 戸川文彦という男は、とりあえず楽しければ良いという、至極シンプルな考え方を持つ人物だ。よって、下手に誤魔化し隠そうとすれば、逆に徹底的に調べられる。古い連中に受けが悪いのは、多分そのせいもあるのだろう。
 だが、元より隠さねばならない程のものはない身の瑛慈としては、戸川のそれを疎ましく思う事はない。少々性格は歪んでいようとも、それ以上の能力があれば問題はないのだ。何より。
 この裏世界に性格を誉められるような聖君は存在しないのだから、誰もが似たもの同士でしかなく、誰がどうこう言い合うのは馬鹿げている。
「それよりも、夕方に海谷のところへ行くぞ」
「俺もか…?」
「ああ、そうだ。クルミを誘うのは面倒なんでな、お前が付き合えよ」
「わかった」
 じゃあ五時に電話をすると言い置き、戸川が部屋を出て行った。入れ違いに、場を外させていた警護が入り、所定の位置につく。
「……」
 戸川に頼んだ以上、いずれ全てがわかるだろう。今、あの青年の事をあれこれ考えても無駄だ。意味がない。
「…本部へ行く」
 車を回せと部下の一人に指示を出し、瑛慈は携帯で向かう先に電話を掛けた。仕事は腐る程ある。意味がなく無駄である事にかまけてはいられない。

 だが。
 そうだというのに、車内で通話を切った時、瑛慈が瞼の裏に描いたのは。
 不満げに自分を睨む、あの青年の顔だった。

 そこに、捨てられたイヌの面影は、何処にもない。


2006/02/13