2-1


 どういうつもりだと、苦虫を噛み潰した顔で嘆く男に向かって微笑みながら、戸川は煙草を咥えた。
 ソファの横に立っていた男が火を差し出してきたが、それを片手で制し、唇に挟んだまま言葉を紡ぐ。
「まあ、そう怒らないで下さいよ。ちょっとしたパフォーマンスと言ったでしょう。別に奥さんをまわした訳でも、息子さんを沈めた訳でもないんだから、眉間に皺を寄せないで下さい。ネ」
 ネ、ではない。何て言い草だと思ったのは、害を被ったこの家の主だけではないだろう。ライターを引っ込めた男も、入口で立つ男も、胸中でツッコミぐらいは入れたはずだ。
 だが、言葉に出して噛み付く者は、主人以外には当然ながらいなかった。
「商談を潰しておいて、何て事を言うんだ…!」
「俺達はちょっと近くまで来たんで、お邪魔しただけですよ。先程の方には、特に何も言っていないでしょう。あちらが勝手にそそくさとお帰りになっただけで、別に俺達としては同席でも良かったんですよ本当に。ちゃんと、そう言ったでしょう?」
「あれだけ派手にやって来ておいて、何が冗談だ、ちょっとしたパフォーマンスだ。脅しとしか思えないだろう」
「脅してなんていませんよ、酷いな」
「現に、むこうはそう取った。私の家族もな。何が酷いなぁ、だ。君は俺に恨みでもあるのか、戸川」
「まさか、まさか。お世話になった先輩殿に、恨みだなんてとんでもない。この胸にあるのは感謝だけですよ」
「……戸川」
 ペラペラと話す戸川の横で、海谷家に入って一言も喋っていなかった瑛慈が、漸く口を開いた。
 当初は状況についていけずに戸惑っていた分、今になってヒートアップし始めた海谷をからかうのは面白いが、流石にこうして遊んでも時間の無駄であるのはわかっているので、戸川は素直に呼びかけに答える。
 何だと横を向くと、咥えていた煙草に火が点けられた。
 どうやら、お前は少し黙っていろと、この男はそう言いたいらしい。
 ククッとその行動を喉で笑い、戸川は高そうなテーブルの中央に置かれていた、これまた高そうな灰皿を引き寄せソファに凭れ込んだ。
 上司が黙れというのならば、許可を得るまで口を閉ざし続けるのがこの世界の常識だ。そのくらい、真っ当過ぎる会社でとはいえ、その頂点に立つ人物にもわかるのだろう。小生意気な大学時代の後輩が、年下の男のたったそれだけの仕草で黙り込む光景を、一体海谷はどう思ったのだろうか。瑛慈の顔を凝視し、続いて煙草を吹かす自分を見て視線を泳がす男を、戸川は胸中で笑う。
 可愛い後輩としては、可哀想だと思うべきなのかもしれないが。何処を探ろうと、自分の中にそんな感情はひと欠片も存在しない。
「海谷さん」
「…はい」
 海谷の緊張が、一気に膨らんだのがわかった。戸川が連れて来た人物が誰であるのか、どうやらわかっているようだ。
 尤も。面識のない人物でも、会えばこの男が何者なのか直ぐにわかるものなのだろう。
 四代目國分組若頭の特徴は、ズバリ、その顔だ。
 ここまで男前のヤクザはそうそう居ないからなと、戸川は隣の男の横顔を眺めながら、少し本気で考える。整形でもさせようか、と。
 名刺代わりにすれば、何かと使い勝手の良い顔だが、目立ち過ぎるのも時には厄介だ。もう少し、現実味というか隙を加えた方が、今より更に役立ちそうでもある。
 鼻を曲げるか、黒子でもつけるか。手っ取り早く、ナイフでも突き刺すか。
 そんな風に適当なものはどれだろうかと思い描く戸川の前では、別な話が進んでいく。
「崎山重工から連絡が来たら、この戸川に教えて貰えますか」
「……それは、どう言う事ですか」
「どうもこうもないですよ。貴方に頼むのは、これだけだ」
「……」
「とばっちりは喰らいたくはないでしょう?」
「……」
 何を言っているんだ。真意を図りかねた眼が自分を捉えるのを、戸川はゆっくりと観察した。
 真面目というか、純粋というか。四十過ぎてもなお真っ直ぐなのは気持ちが悪いよなと、敬愛すべき先輩殿を眺め、口元を歪める。
「先輩。崎重が、関西のある組と仲良しなのはご存知ですか?」
「…まさか。あちらは堅実な会社だ。そんな事ある訳がない」
「それが、あるんですよね。政界とも繋がりが深いですから、お友達になりたいところはゴマンといますよ」
「……」
「俺達がこちらに来た事は、きっともう上に伝わっているでしょう」
 当然だ。だからこそ、若林ではなく、ひと見れば素性がわかる瑛慈を連れて来たのだから。逆に、バレていない方が、少し困る。
 しかし、あくまでも困るのは少しなので、バレていないのならいないで、また別の策を講じればいいだけの事だ。海谷の役割を出来るコマは、他にもいる。海谷はその他に比べ、何かとかかる手間が少ないので選んだに過ぎない。
 だから、使えなくとも問題はないのだ。だが。
 自分がこうして態々出向いていながら、使えない結果になるのは面白くない。
「貴方が我々に乗り込まれたと知ったあちらは、直ぐまたコンタクトを取ってくるでしょう。絶対に、どういう事なのかと確認に来ます。先輩は、何でもないを通してくれればいいんです。実際に、何にも無いんですから、嘘をつく訳ではない。簡単でしょう?」
「……」
「その後で俺に電話をして、どういうつもりだと、巻き込むなと怒って下さいよ。誠心誠意を込めて、謝罪しますから」
 別にスパイになれとは言っていないんだからと、極々普通の遣り取りでしょうと、戸川は海谷に微笑んだ。嘘臭いと評価を受ける笑顔だが、それでもこれは本物だ。無理して笑っている訳ではなく、心の底から自分は「今」を楽しんでいるのだと戸川は思う。
 確かに、胡散臭い笑みであるのも間違いのない事実だが。
「…お前、利用したな…?」
「嫌だなあ、先輩。俺は貴方が利用されるのを事前に阻止したんですよ」
「……」
「崎重は近いうち潰れます。貴方が信じようと信じなくとも、俺に連絡をしようとしまいと、それは変わらない」
 俺達はあくまでも、お願いするだけです。選ぶのは貴方だ。

 海谷がどんな答えを出すのか。そこまでは興味がない。
 話を終え、先に行っていろと促す瑛慈に、反発する理由は何もなかった。上司のその言葉に従いリビングを出て玄関に向かった戸川は、けれども思いがけない事に出くわす。確実に自分の好奇心を刺激してくれる人物が、そこに居た。
 あの、クソ面白くない性格を持つ瑛慈が気になると言う青年が、ヤクザの面々を前に顔を引き攣らせ立っているではないか。ここで遭遇出来た事を、神に感謝をしてもいいくらいだと、嬉々として足を運ぶ。
 海谷の息子の家庭教師が来た事は耳にしていたが、まさか彼とは。運がいい。
「あれ?『萩森』の甥っ子さんじゃないですか、今晩は」
 声をかけると飛び上がらんばかりの勢いで顔を上げた青年を、戸川はじっくりと観察した。
 昨夜は別段何も思いはしなかったが、なかなか整った顔立ちをしている。だが、瑛慈が気にしたのはコレではないだろう。美的感覚は授かっていない男だ。容姿に惹かれる事はまずない。
 ならばこの青年に何があるのだろうかと、気遣う振りをしながら観察しかけた時、問題の人物がやって来た。
「……何をしている」
 どこか不機嫌そうな声に振り向き、そこにある表情が予想を外したもので、戸川は思わず笑う。
「エイジ。どうやら手間が省けたみたいだぞ?」
 態とそう言ってやると、相手が咎めるような視線を向けてきた。その細まった目をもう一度笑い、戸川は胡乱な眼差しを向けてくる青年に向き合い、食事に誘う。前からも後ろからも、両人それぞれ物言いたげなガンを飛ばされるが、痛くも痒くもないので適当にあしらい、二人を車の後部座席に放り込んだ。
「面白くなると思うか?」
 後の指示を出し、助手席に乗り込む前に、戸川は傍に居た部下にそう問い掛けてみた。面白くなければ、面白くすれば良いだけの事だが、自然になるのと自主的にするのとでは全然違う。
「今の時点でもう既に「面白い」と思いますが」
 上司の性格を良く知る部下は、端的にそう述べるとドアを引いた。確かにそうだと笑いながらシートに腰を下ろし、ミラーで後ろに並んで座る二人を見て、また喉を鳴らす。

 とりあえずは。
 今が面白ければ、それでイイ。


2006/02/20