3-1
仕事に忙殺される日々の中で、唯一の安らぎと言えば。
「クルミちゃ〜ん」
顔を会わせる度に擦り寄ってくる、この小さな子供の存在なのかもしれないと若林は思う。
「坊、俺達は大事な話をしているんだ。出て行け」
「……ヤだ」
「あァン?何だって?聞こえねぇな」
「…………阿田木のイジワル」
「去らねぇと、もっと意地悪するぞ。いいのか?」
「…………」
飲み物を運んできた組員に付き座敷に入ってきた隆雅は、けれども直ぐに阿田木により退室を促され頬を膨らませた。
阿田木の言う事は尤もだ。これから交わす会話は、子供に聞かせられるものではない。何より、隆雅の父・四代目國分組組長は息子が組の本部である母屋に顔を出す事を良く思ってはいない。若林の場合、父親は好んで幼い息子を組事務所に連れて行っていたが、そちらの方が例外であろう。
大抵の父親は、己がヤクザである事を恥じてはいなくとも、子供はヤクザにはなって欲しくないものである。まして、大きな組織の頂点に立つ者ならば、常に危険に晒されているのが普通だ。年老いて出来た幼子を、組とは距離を持たせて育てたいと思うのは当然だろう。それが真っ当な親心と言うものだ。
「……クルミちゃん、あのね、ボクね。お誕生日がきて、四才になったの。保育園にもね、毎日行っているんだよ。それでね、」
「隆雅」
「…………」
諌める阿田木に抵抗するように、隆雅が若林の首にしがみ付いて来た。その背を軽く叩きあやしながら、若林は対面に座る阿田木に目配せをし、ゆっくりと立ち上がる。
「隆雅さん、離れまでお送りしますよ。もうご夕食は済まされましたか?」
「……まだ…」
「では、隆子さんは御腹が空いたと、リュウは何処に行ったんだろうと、首を長くしてお待ちですよ」
「……お母さん、キリンさんみたいになるの?」
「そうですねぇ。隆子さんがキリンになったら困りますか?」
「お話出来る…?」
「キリンならば、無理ですねぇ」
「ギュウゥって出来る?」
「抱きしめられたら、隆雅さんが潰れちゃいますね」
「…じゃあ、ダメ。キリンさんは好きだけど、お母さんがなるのはダメぇ」
ならば戻りましょうかと隆雅を促す若林の背に、「首が長くなったらキリンじゃなく、ろくろっ首だろ。おいおい子供に、間違った知識を植え付けるなよ」と笑いを含んだ声が掛かるが、その全てを無視する。ニタニタ笑っているのだろう阿田木は、間違いなく昔の自分との遣り取りを思い出し発言しているのだと若林にはわかったからだ。
幼い頃、自分をからかい不必要に怯えさせていた阿田木を思い浮かべ、腕に抱く隆雅の行く末が少し不安になる。歳を取り変わった部分は多々あるが、根本的には何も変わってはいない阿田木と接していれば、今は素直なこの子供も、自分のような大人になってしまうのかもしれない。己が可愛さを失った一端は、阿田木にもあったはずだと若林は信じている。あそこまでからかい倒されたならば、阿呆でも警戒を覚えると言うものだ。
だが、だからと言って、阿田木にも隆雅にも、互いに関わるなとは言えない。自分の立場では、両親に進言する事も出来ない。
「……と言っても、悪影響を及ぼすのは、あの人ばかりではないか…」
隆雅を構う悪い大人は、此処には大勢いる。阿田木ひとりを牽制しても意味がないだろう。
退室の挨拶もせずに部屋を出、廊下を歩きながらぼやき嘆いた若林に、「クルミちゃん、なぁに?」と隆雅が首を傾げる。顔を覗き込む為に傾いた小さな身体を、若林は抱き直した。
「どうしたの?」
「何でもないですよ。さあ、帰りましょうか」
今夜の御飯は何でしょうかねと微笑みかけると、オムライスだといいなと隆雅が腕の中ではしゃぐ。
癒されると感じるのは、この場合仕方がないだろう。
しかし。
隆雅を隆子に引渡し戻った部屋で、仕事の話をすると言っていた阿田木は、けれどもそれ以上に若林の態度に苦言を述べた。それらを要約すると、「隆雅に甘すぎる」。そのひと言に尽きる。
誰もがあの幼子には甘いが、特に若林は、阿田木曰く見てはいられない程に溺れこんでいるらしい。反論をさせて貰えるのならば、自分などよりも断然貴方の方が可愛がっているだろうと言い返したいものだ。だが、言える立場であるかどうかは兎も角、言えば更にビシバシ指摘をうけるので余計な事は口にしないに限る。
「わかりました。以後気を付けます」
毎日と言って良いほど頻繁に隆雅と顔を合わせている阿田木とは違い、自分は多くても月に数度だ。姿は見ても、言葉を交わさない事も多々ある。だからこそ、偶に訪れる接触の機会を、隆雅の方も手放しで喜んでくれているのだろうに。これ以上、まだ節制しろと言うのか。正直、面白くない。面白くないが、嫌味のひとつでも溢そうものなら、思う壺。
言い聞かせるほどの事でもなく、阿田木相手では毎度の事であるが。それでもやっぱり面白くないと若林は自分の心を確認しながら、表面上は唯々諾々と従った。
そんな若林の苦労も知らず、阿田木は紫煙を燻らせながら更に発言を深める。
「お前、そんなにガキが好きなら、自分で作れ」
「ガキではなく、隆雅さんが可愛いんです」
飄々と嘯いた若林に、けれども阿田木は目尻に皺を浮かべて笑った。
「確かに、アイツは美少年になるだろうなぁ」
「孫バカ爺のような発言ですね」
「…うるせぇ。俺の事はいいんだよ、今はお前の事だ。来海、お前も四十だろう。ちゃんと子供を作れよ。多少不細工であってもなぁ、自分の血を分けたガキは何よりも可愛いモンだ」
「可愛いかどうかは兎も角、ひとつ訂正をさせて下さい」
「ぁア?何だ」
「私はまだ四十に足を突っ込んではいませんよ、39です」
「……似たようなもンだろう」
「では、四捨五入したら貴方も、もう六十ですよね?今度、真っ赤なスーツをお贈りしますよ」
「茶化していずに、さっさとガキを作れ。お前に似ないよう、俺が躾けてやる」
「それは遠慮したいですね。何より、そんな時間ありませんよ。歳を取ると達くのも遅くて、仕事の合い間に作れる時間では全然足りない」
「……お前なぁ」
「もう四十ですからね、私は。歳には勝てません」
端から相手にする気がない話題に、センスなど混ぜ込めるわけがない。適当な言葉を笑顔で取り繕う若林に、阿田木は「だったら須賀に作らせろ」と、目の前の男を諦め矛先をこの場に居ない者へと変えた。
「あいつも、いい歳になってきただろう?」
「33歳です。ですが、須賀は私以上に難しいでしょう」
「あいつは、お前と違って子供好きだ。そんな事は無いだろう?」
「それ以前に、器用な男ではないですからねぇ」
「……だから、俺はお前に『作らせろ』と言っているんだ。よく聞けボケ」
「オヤオヤ耄碌しましたか?いくら私が優秀でも、須賀を孕ませる事は出来ませんよ」
「…………もういい、帰れ」
「では、失礼します」
ご機嫌をとっても良いのだが、呆れて退室を言い渡してきた阿田木にこれ幸いと、若林は素早く席を立ち座敷を離れた。会話に載せた拍子に、件の上司に伝えようと思っていた話をまだ言っていない事を思い出したからだ。
急ぐ話ではないので、ミスではない。だが、忘れるとは何たる事か。
阿田木との話ではないが歳なのだろうかと思いながら屋敷を後にし、駐車場に停めた車に乗り込み携帯を耳にあてる。
数コールの後、上司の須賀瑛慈がいつもの無感情な声で通話に出た。何だとの問いに手短に要件を告げ、相手の状況を尋ねる。どうやら仕事ではなく、夕食をとろうとしている所のようだ。それも、戸川と。
「何だ、一緒だったのか?」
『捕まって、海谷のところへ行ってきた』
「ああ、そうか。悪さはしていないだろうな?」
『問題はない』
ならばいいさと若林は頷き、今夜の会議の時間を確認し通話を切る。予定外の仕事が増えたとしても、与えられているものは放り出さないのが須賀だ。これが逆だと、戸川は悪びれもせずに仕事を溜める。最悪の場合、誤魔化し捨てる。上司の仕事を増やすくらいなのだから、部下としての務めなど奴の頭の中には微塵もないのかもしれない。
携帯を内ポケットに戻し、シートに凭れる。口からは主人に無断で、勝手に溜息が零れ落ちた。
「……現時点でもう、充分、なんだがなァ」
阿田木が子供を作れと言うのは、自分のガキを見たいと言うのもあるのだろうが、親となる事は人間として更なる成長に繋がるからだろう。何も、コマとして使える人材を求めているわけではない。それは若林とて良くわかっている。
だが。
沢山の部下に加え、上司と同僚の面倒を一手に見ている立場で物を言わせて貰えれば。手の掛かる子供のような奴等が多すぎて、これ以上は遠慮したいというのが本音だ。例えそれが本物の子供であっても同じ。今は、時々でも隆雅が笑ってくれれば充分だと思う。阿田木はああ言ったが、血の繋がりなどこの世界では関係のないものだ。
隆雅の存在は、自分にとっては刺激ではなく癒しであり、それはきっと須賀も同じなのだと思う。しかし、果たしてそれを阿田木が納得するだろうか。
「あのオヤジなら、姐サンを用意しそうだな…」
須賀に厄介が舞い込めば、当然自分にもその火の粉は降りかかってくる。ここは無難に、大人しく阿田木の側に付き、須賀に身を固めさせるか。それとも、のらりくらりとかわしながら、上司を守ってやるか。
考えるところだ。
だが、取り合えずは。
今夜の会議の前に時間があれば、阿田木の意思に応える気があるのかどうか本人問うてやるかと意識を切り替え、若林はギアを入れ換えアクセルを踏んだ。
2006/04/19