3-2


 瑛慈の携帯電話が鳴ったのは、店の入口での事だった。相手は若林からであり、話は長くなるだろうと戸川に目配せをすると、彼は千束大和を伴って店内へと入っていった。その顔が、満面の笑みに彩られている事は敢えて無視をする。顔を顰めようものなら、何をされるかわかったものではない。
『俺は今、阿田木のオヤジに解放されたところだ。これから本家を出て、フジのところに顔を出して戻るから、それまでそこで仕事をしていろ』
「いや、外だ」
『聞いていないぞ』
 デスクワークに勤しんでいる筈だったがと、通話の向こうで顔を顰めているのだろう若林に、瑛慈は正直に現状を語った。戸川に付き合わされ海谷家に向かった事、その用事は無事済み、今から別の件で飯を食うところだという事を伝える。若林は、問題が起きていないのならば話は後で聞くと、夜の会合の時間をいま一度確かめ通話を切った。
『十時開始だ、三十分前には顔を出してくれよ』
 わかったと答えるよりも先に切られた通話は、若林の疲労具合が少し伺えるものだった。そう言えば、昼過ぎに戸川もノびていたなと思い出し、瑛慈は軽く顔を顰める。
 戸川が、手に入れたばかりの玩具で遊ばない訳がない。会合に出てオヤジ達の相手をするよりもコチラの方が良いと、彼が千束大和を選ぶのは明白だ。そして、自分はそれを止められないし、止めるつもりも余りない。
 戸川を伴わずに会合場所に出向いた時の若林の反応を想像するのは、瑛慈にとっては全く面白くない事だった。だが、他の未来はどうしようとやって来そうに無く、思い描く事すら出来ない。万事休す、ではないが、困ったものだ。
 気になっていた青年に出会えたのは良い事であったが、それが今であったのは余り良くない事なのかもしれないと、瑛慈は今更ながらに思った。だが、前以て気付いていたとしても、車から出て行く彼を止めずに居る事は出来なかっただろう。思ったところで、悔やめる点がない。何よりも。
 調べてくれと戸川に頼んだのは自分だ。機転を効かせたと言うよりも単純に面白がっての事なのだろうが、後先考えずに千束大和を引っ掛けた戸川の行動を責められはしない。だが、それでもやはり、事態は思う程も良くはないと。溜息を飲み込む代わりに瑛慈は携帯を仕舞い、代わりに煙草を取り出す。
 どうするかなど、考えても仕方がない。戸川が乗り気ならばもう、彼がするようにしかならない。
 無心で半分程煙草を吸い、そろそろいいかと地面に捨て、靴底で揉み消す。あの男の事だ。警戒心剥き出しであろうと、ただの学生一人。そろそろ手懐けている頃だろう。馴染ませ過ぎるのも厄介であるので、これくらいが丁度良い。長年の付き合いによる経験をもってそう判断し、瑛慈は店内への引き戸を開けた。

 店員の案内を断り、自ら襖をあけ座敷にへ入ると、案の定、戸川がニヤリとした笑いを向けてきた。瑛慈はいつものようにそれを無視し、若林からの電話の内容を伝えながら席につく。
「なんだ、もうクルミにバレたのか」
「今更だろう」
「怖いねぇ、今夜は戻れないな」
「時間厳守との事だ」
「それは、お前だろ? せいぜい頑張ってくれ。俺はこっちを担当してやるから」
 ヤクザの話は聞いてはならないと思っているのか、青年は下を向き、黙々と箸を動かしていた。ふざける戸川の声は届いていないのか、自分が話題に出され始めた事にさえ気付かない。大皿の上の料理をきちんと取り皿に一度置き口に運ぶ動きを瑛慈は暫し眺め、馬鹿な言葉を向けてくる戸川を放置し、年は幾つなのかと問い掛ける。だが、返事は戻らない。
「ダサいねェ」
 茶化す戸川の声さえ耳に入らないほど、緊張しているのだろうか。まだ自分が注目されている事に気付かない目の前の青年に、瑛慈は再度声を掛けかける。しかし。戸川が軽く片手でそれを制し、続く言葉を奪った。
「千束さん」
 自分のものにではなく戸川の声に反応する青年に、瑛慈は軽く目を細める。
「学生なんですよね、お幾つですか?」
 顔を上げた千束大和は、驚きながらもどこか不思議気な表情を見せた。本人の意思は兎も角、内面を素直に表現する奴だと、その顔を見ながら瑛慈は過去を思い出す。
 初めて見かけた時も、死にかけた顔をしていた。実際話してみると、その心には苦しみが広がっているようだった。それでも、その思いを隠し、表面を取り繕う事も出来る器用さも持っているようだったが。それは見るものが見ればわかってしまう、ガラスのように透明な、シルクのように繊細なシールドだった。
 しかし、あの頃よりも、今はそれが厚くなっていようとも。人を壊す事に長けた人物相手では、まだ二十歳の学生でしかない男のそれなど、無いにも等しい。瑛慈以上に、彼の心境を把握しているのだろう戸川が、好き勝手に話を進めていく。
 それでも。笑われている事も知らずに律儀に答える青年を見るのは、悪くは無かった。
 調べてまで知りたいと思った相手が、目の前に居る。一体、自分は何を望むのだろうか。この青年に、何を。
 酒を口に運びながら、考える。考えてみるが、今はまだわかりそうにない。だが、いつかは、何かが掴めるような。自分のこの感覚がはっきりと形になりそうな予感があり、考える事を止められない。

 煙草が苦手だと知った時には、青年の眼は離れていてもはっきりと判るほどに赤くなっていた。
 声を掛けると、不機嫌な言葉が返る。それでも、その反応が面白くて話し掛けると、困惑し始める。嫌味を口にしながら、直ぐに気まずさを感じているらしい目の前の男を、瑛慈は子供なのだと思った。まだ、仔犬だなと。そう考えると、あまり弄るのも悪い気がしてくる。
 戸川に対する態度と、自分に対する態度が違うのは、よくわかっている。なぜ、そうなるのかも。
 器用な戸川と張り合う気は無く、また、千束大和本人に緩和を求める気もない。タイムリミットに近い事でもあるし、いい加減にしなければならないのだろう。
「落ち着け。喚かずとも、聞こえる」
 つい隆雅を諭す時と同じ様に押さえつけてしまった手を頭から退けると、青年は強い視線を向けてきた。瑛慈はその瞳を見返しながら、それでも二十歳の男なのだとも思う。どんなに子供のような面があろうとも、小さなきっかけひとつで大人へとなるのかもしれない。瞬きをしている間に変わってしまいそうな勢いが、千束大和の中にある。
 小さいけれど、向けられるその確かな強さが、何故か眩しいと思った。そこに混じるのが、敵意であろうと不快であろうと関係なく、真っ直ぐと見返せられる事が心地良い。
「何だ?」
 勝手に上がってしまいそうな口角を隠すため、物言いたげな眼に疑問を投げかける。だが、言葉にする程の事でもないのか、する気がないからなのか、「別に…」と相手は言葉を濁した。
 重ねて問う理由はなかった。同じく、時間も。
「……時間だ」
 立ち上がると、追いかけるように顔を上げてくる。無防備な表情に、「戸川に送らせる、お前はまだ居ろ」と言葉を落とすと、数拍の間を置いて礼が返ってきた。
「どうも、ごちそうさまでした」
「……」
 戸川ならば、「どういたしまして」とでも応え軽く笑うのだろう。
 若林ならば、「お付き合い有難う御座いました」と頭を下げながら、拉致された者が言う言葉ではないと呆れるのだろう。阿田木ならば、それこそ「畏まるな、可愛くねぇーぞ」とからかうのかもしれない。
 礼儀正しいのか、馬鹿なのか。評価のひとつにもなりそうなその態度に、けれども瑛慈は何も思うことが出来なかった。
 礼を口にする青年、それを言わせた自分。
 ただそれだけの事なのに、何かがカチリと絡み合った感覚に襲われる。車から逃げ出そうとした時、何も考えず咄嗟に手を伸ばし、強く掴んでしまった腕の厚みを思い出す。
 もしかしたら。
 自分は、見つけてしまったのかもしれない。


 戸川に後を頼み、用意された車に乗り込む。
 掴んだ手首、触れた髪。
 人を傷付け硬くなった右手を軽く握り、手を開く。
 この手にどれだけのものが掴めるのだろう。
 果たして、自分に人ひとりの命を持つ事は、可能なのだろうか。
 可能ならば、俺は何を持つ…?

 答えは、闇夜の空のように、まだ何も見えない。
 だが、それでも月も星も存在するように、無い訳ではないのだろうと瑛慈は眼を閉じる。

 ――お前はまだ知らないだけだ。判らないわけじゃない。
 そう言いつつも、少し寂しげに笑っていた男の顔が、浮かんでは直ぐに消えた。


2006/12/04