深い、深い海の底にいるような感覚…。
 頭がズキズキと痛い。身体が痺れ、皮膚が燃えているかのようなちりりとした痛みが微かにひろがる。それ以上に、身体の内で起こる爆発に痛み以上の恐怖が募る。
 キーンと耳鳴りが響き渡り他の音は何もしない。
 本当に、海の底に沈んでしまったかのよう。
 直ぐに身体は押しつぶされるのではないか…、そう思うと骨まで軋む。
 頭が、割れそうに痛む。それを紛らわせるために抱え込み出来る限りの力を加える。
 真っ暗な闇は、自分が上を向いているのか下を向いているのかすらわからない。いや、こうして自身の体に触れていてなお、自分のその身体が存在する事が信じられない。こんなに痛いのに、こんなに苦しいのに…自分の身体がわからない…。
 何もない…。ここに存在するものは何もないのだ。
 根拠などない思いつきが、何故か確信に変わる。
 更に恐怖に駆られ、闇雲に腕を伸ばそうとし、頭を抑えていたはずのそれがどこかに消えているのに気付く。足も手も、呼吸すらも自身の意思では出来ない。
 このままどうなってしまうのか…。そんな冷静な目が一瞬で消え去り、後は絶望しかない闇で狂うのみ――


「――クッ……!?」
 あげようとしたが音はでない、そんな叫びにもならなかった喉の動きが自身を目覚めさせるという感覚は何度経験しても慣れることなどない。
 恐怖に固まったままの身体から力が抜けるのを息を顰めて待ちながら、真幸はゆっくりと目を開けた。闇の中に浮かぶのは、眠る前と同じ部屋…。再び目を閉じ、震える喉で大きく息を吸い込み、カチカチと奥歯を鳴らせながらそれを吐く。今はただ、何も考えずにそれを繰り返し身体を落ち着けることに集中する。
 いや、それはただの本能なのだろう。今の自分に何が必要なのか、最善の方法を身体が知っているのだ。怖い夢から覚めるのもまた、自身を守るための本能なのかもしれない。
 だが、そうであるのなら、何故そんな夢を自分に見せるのか…。…そう、それもまた、現実を忘れるなという本能なのだ。幸せな夢を見て逃避をしても意味がないという忠告。人間はそう都合よく逃げる事など出来ないのだ…。
 体の強張りが解けだすと、今度は頭の痛みが強くなる。恐怖で今まで気付かなかったのか、それとも落ち着くと痛み始めるのか。自身でもわからないが、動けないほどではないと真幸は額に手を添え、ベッドの上に体を起こした。
 だが、クラリと小さな眩暈が起こり、足を床に下ろしたところでシーツを握り締め体を前に倒すこととなった。両腕を握り締め、膝に頭をつけるかのように丸まり、強く目を瞑る。閉じてもそこは闇であるというのに、まるで怖いものが過ぎ去るのを息を潜めて待つ子供のように、視界から全てを消し去り意識を自身に向ける。
 しかし、それも一瞬のこと。真幸は瞬間的に止めてしまった息をゆっくり吐き出し、努力して大きな息を繰り返した。震える喉で詰まりながらも呼吸をする。
 痛みなどが起こった時には息を止めがちになるが、深呼吸をする方が血中の酸素のめぐりが良くなるので痛みはひくのだと教えられて以来、馬鹿の一つ覚えであるかのようにそれをするようになった。実際はたかが呼吸でもその震動は痛みを増幅させるのだが、その一時をやり過ごせば、確かに落ち着く事が出来るのも事実。苦しさからのパニック状態を軽減できる程度でしかないが、自身を保つために縋りつくものとしては至極まともである。
 そんな評価を自分の中で下さなければならないほどの精神状態である自身を疑うが、真幸にとっては大事なことであった。口から抜ける吐息が闇の中に溶けるのを、ただ静かに聞くこの一瞬、自分が無になる感覚に陥るのだ。それは夢の中の恐怖ではなく、安らぎに近いもの…。
 部屋の中に微かに響く自身の吐息は、怖くて仕方がない時も確かにあるのに、酷く落ち着くものでもあった。恐怖や絶望が消えるわけではなくその位置は変わらないが、この瞬間だけそれを冷静に見る事が出来る気がする。すぐ側にそれらがある。だが、自分はまだここに居る、ここで生きているのだ。
 真幸は小さく喉を鳴らして一息吐き、少し痺れた足に力を入れて立ち上がった。裸足の足で冷たい床の感触を味わいながら、そう広くはない部屋をゆっくりと進む。小さな窓にかかるカーテンを引くと、その向うには闇ではなく夜が広がっていた。必ず夜明けが来る、夜の街。
 周りは確かに夜に支配されているが、遠くには深夜だというのに少なくはない明かりが輝いていた。普段なら顔を顰めたくなるそんな光景も、今の真幸にとっては温かな光であった。いや、闇の中では少し眩しすぎるくらいの光…。
 薄く口を開き、声を出しかけてそれを止め、そっと部屋を後にする。
 静かに廊下を歩いてリビングに入り、そのまま続くキッチンへと向かう。ポケットから取り出した錠剤を水で流し込み、リビングへと戻る。
 そこでやっと、真幸はソファで眠っている人物に気付いた。
 スーツ姿のまま、そこに荻原が静かに横たわっていた。眠っているのだから静かと言うのも変なのだが、普段起きている時の鬱陶しくなるような元気な表情を消し、顔には何ものせずただ目を閉じ眠っている。その表情がなんだか似合わなくて、真幸は近付きじっと荻原の寝顔を見た。いつも煩い男でも、こんなに静かに眠る事が出来るのだということがおかしくてしかたがない。
 荻原へ手を伸ばしかけ、それを止め、窓に凭れるようにして真幸は床へと腰を降ろした。
 ネクタイすら結んだままの荻原の姿にそれを解いてやろうと思ったのだが、そこまでの世話をすることはないと手を引いた。だが、もしかしたら、折角眠っている男を起こしたくはなかったのかもしれない、と少し離れた位置でもう一度寝顔を見ながらそんな事を考える。それは、起きたら煩くなるからか、それとも荻原自身への配慮なのか、自分でもわからず、ただ手を引いたという事実だけが残ったに過ぎない。
 真幸は荻原から視線を外し、カーテンが引かれていない窓から夜空を眺めた。この窓からは街の明かりは見えないが、かわりに天からの光が降り注ぎ自身を照らす。
 夜も更けた空には、丸に近い月が浮かんでいた。微かに蒼い月はその姿を見る全てのものに何らかの力を与えるかのように晧々と輝いている。
 凭れた窓ガラスから外気の冷たさが背中に伝わり、日中はすっかり暑くともまだ夏ではないのだと教えられる。凛とした空気が全てを洗い流してくれるような、この月光の中では怯えるものなどないような、そんな何ともいえない感覚を味わい、真幸はそっと立てた膝に乗せた手の上に額を乗せた。
 静かな、静かな夜。
 耳を澄ませば、荻原の寝息が聞こえてくる。
 これ以上の幸せなどはたして存在するのだろうかと思うほど、穏やかな、永遠を願いたくなるような、静かな時間。
 ゆっくりと目を閉じ、真幸は耳を通り抜ける寝息に、自分の呼吸を重ねた。


 どれくらいそうしていただろうか。とても長くて短いような静寂を破ったのは、ソファで眠る荻原の小さな声だった。
「…んっ……」
 鼻を鳴らすと同時に腕を動かす。だが、狭いソファではその手を置く場所などはなく、その異変に気付いたのか今度ははっきりと疑問を表すように喉を鳴らし、ゆっくりと瞼を震わせながら目を開けた。
 自分に合わさった荻原の目が覚醒していくのを真幸はじっと見つめ返す。
「…マサキ…?」
「…ああ」
 名前を呼ばれ返事をすると、一呼吸の間をおいて勢いよく荻原はソファから飛び起きた。その姿に眉を寄せる自分のことなど気にせず、無言でキッチンへと向かう。月明かりの中でその顔が少し赤らんでいるのに気付き、「飲んできたか?」と真幸は声をかけた。だがそれすらも無視される。
 その荻原の態度は確かにいつもとは違うのだが、気にすることはせずに真幸は再び窓の外へ視線を向けた。
 南西に浮かぶ月よりも南に赤く輝く星が目に止まる。さそりの心臓という異名を持つその星は、敵対していると言われるほど、火星が近付くと競うかのように光を増す。そんな風に、ただ綺麗な小さな光だけではない星達は、その全身によって自分たちの命を証明する。そして、強く光り輝き、やがては消えるのだ。
 この地球も、広い宇宙から見れば小さな小さな星にしか過ぎない。
 確かに一人の人間の命も地球の命も違いはない。尊いものでも儚いものでもなく、ただ時に身を委ねるだけでしかないものなのだ。神ではないものは、ただその身を委ねるだけ…。
 卑屈になっているわけでも、宇宙の広さに自身の命を軽んじているわけでもない。ただ、それが当たり前なのだと真幸は思った。そういう風に生きるのが当然なのではないかと。
 人は知らなくともいい事まで知ってしまったのだ。朝がくれば陽が昇り、夜がくれば月が昇る。星達は輝き未来を示す。何故それで充分だと思わなかったのだろうか。
 薬が効いたのか痛みが取れた頭で、真幸はぼんやりとだがそんな事を考えた。
「……寝顔を見るなんて、悪趣味だな」
 そう声をかけられても何を言われているのかよくわからず、その声に真幸はゆっくりと横を向けていた首を戻しながら、思考を現状に切り替えた。
 月明かりを見ていたせいか、直ぐには暗闇の中にいる荻原の表情はわからかったが、声から少しいつもと違う雰囲気を感じる。疑問を表すように少し寄せた眉に、「…なんだよ」と不機嫌そうな声が返ってきたことにより、それを確信した。だが、やはり何を言いたいのかはわからない。
 グラスを持ったままソファに腰掛ける荻原に、真幸は考える努力を放棄し、質問ではなく忠告を口に乗せた。
「こんな所で寝ていると風邪をひくぞ」
「それはお前もだろう」
「……」
「なんだってそんなところにいるんだ。俺を襲いに来たのか?」
「…俺が来たらあんたが寝ていた、それだけだ。寝ている方がおかしいだろう」
 何故か不機嫌である荻原に、真幸は軽く肩を竦め立ち上がった。理由はわからないが、関わらない方がいいだろうと判断をする。
 一瞬更に眉を寄せた荻原だが、ふとその硬い表情を解き直ぐにいつもの笑いを顔にのせた。
「仕方がないだろう。ベッドはあいつに取られたからな」
「…あいつ?」
 見て来いよ、というように荻原が顎をしゃくる。だが、眉を寄せたまま動かない真幸に笑いを漏らし、その答えを溜息交じりに口にした。
「ジンだよ、あのクソネコだ」
「…ネコ、…何故?」
「出かけるから預かれと、昼間渡されたんだよ」
 行ってみろよともう一度視線で促す荻原から目を外し、真幸は部屋に帰ろうとした足をリビングから続く荻原の寝室へ向けた。
 荻原の言うとおり、ドアが開いたままだったので、中に入らずとも大きなベッドの上であの黒い猫が丸くなって眠っているのが見えた。淡くライトが付けられているのは、荻原が確かにここで眠ろうとしたからなのだろう。だが、それより速くあの猫が場所を陣取ったというわけか。
 振り返り荻原を見ると、グラスに口付けながら軽く肩を竦めた。
 少し躊躇いながらも寝室に入り真幸がそっと近付くと、猫は体を起こしはせずに目だけを動かし侵入者を確認した。害はないと判断したのか再び目を瞑り、小さな声でひと鳴きする。
 ベッドに腰を降ろしその背を撫でると嫌がりはせず、尻尾の先を微かに揺らした。今更ながらに真幸は自身の手がとても冷たいことに気付く。猫の体はその手に温もりを蘇らせるかのように温かかった。
「…お前には愛想いいな」
 離しがたく猫の背に手を置いていると、軽い笑いを含んだ声が真幸の上に落ちてきた。視線を上げるとドアに凭れ荻原が立っている。
「寝るのか」
 自分でしておきながらも、それを訊く時間ではないなと小さく心で笑う真幸に、荻原は楽しげに口元をあげた。
「一緒に?」
「……」
「……黙るなよ、否定しないと実行するぞ」
「呆れて返事が出来ないんだよ」
 真幸の返答にクククと喉を鳴らして笑う声は、いつもと同じ。どうやら機嫌が戻ったらしい。
「ま、俺もロボットじゃないから眠らないと体が持たない。お前みたいに若くはないしな。
 その邪魔者、連れて行ってくれるか?」
「…いいのか?」
「頼んでるんだからいいに決まっているだろう。俺は眠いんだよ」
 荻原はそう言うと、がしりと少し乱暴に猫を掴み上げ、真幸の腕の中に落とした。
「明日は学校か?」
「ああ…」
「なら、出て行く時にでも下の事務所に放り込んでおけ。面倒ならこの部屋に放っておいてもいい。
 こいつに振り回されることはないからな、気にせず出掛けろ」
 上着を脱ぎ、ネクタイを外しながら荻原は欠伸をする。
「…預かっておきながら、いい加減だな」
「預かったんじゃない。預けられた、押し付けられた、だ」
「…そうか」
「そうだ」
 思わずクスリと笑いを落とした真幸に、眉を寄せながらも荻原は頷き、「寝る、って言っても3時間も眠れないか…」と時刻を確認し溜息を吐きながらベッドにもぐりこんだ。

 電気を消し静かに扉を閉め、真幸は部屋へと戻った。
 ベッドに腰掛け、眠る事はせず手の中の猫を膝の上に下ろす。猫は起きているのだろうが相変わらず目を瞑ったまま時折耳や尻尾を動かす程度で大きな反応は示さない。だが、その温もりに充分満足し、真幸はその小さな体を撫で続けた。
 面倒ならば初めから誰かに頼めばよかったのだろうに、態々ここへこの猫を持ち帰ったのは自分のためなのだろう。眠りに帰ってくるだけの荻原ににしてみれば、猫など邪魔でしかないのだから…。
 そんな男の行動に馬鹿な奴だと真幸は笑いを漏らした。もし自分が気付かなければ、あのままソファで眠るつもりだったのだろうか。
 塞ぐ自分に気付いているのだろうが特に何かをしてくるわけではない荻原に、自分の事などそう気にならないのだと都合よく考えていた。だが、そんなわけはないのだ。一緒に過ごす事など極僅かだが、彼は自分をそのテリトリーに入れているのだから、気にならないわけがない。ただ、黙っている。それが彼の考えなのだろう。
 その中でとった些細な荻原の行為は、真幸にとっては何とも言えないものであった。迷惑をかけている現実を突きつけられ苦しく、甘んじている自分が赦せなく、そして、それ以上に満足している自分がいる。
「…情けない奴だな、俺は」
 零れた呟きに真幸は自身で笑いを漏らした。
 わかっている。わかっているのだ、このままでは駄目だと。
 だが、後少しだけ。もう少しだけ強くなる事が出来るまで、自分を放っておいて欲しい。いや、黙って見ていて欲しい。そんな我が儘を図々しくも願う。
 騒がしい狂った自分の声が聞こえない夜。だが、静かなだけではなく、真幸の心にはひっそりとした悲しみが存在していた。
 猫を撫でる手を止め目を瞑ると、瞼の裏には先程見た月が浮かぶ。輝く月が。
 蒼い月は、切なさを水のように溶かし、心に広げる。

+ END +

2002/10/16