街に降りた日の帰り道に、僕は思いがけない所で、思いも寄らぬ者に声を掛けられた。
迷いの森と呼ばれる山の中で、ひとりの人間に。
「それは、大変だね」
苦笑をしながらそう言った僕に刻(トキ)の精霊であるシュイは、何を呑気な事を言っているのかと顔を顰めた。確かに、僕にとっては笑えるものでも、彼にとっては大事なのだろう。
「他人事だと思ってるな、リューク」
舌打ちをし不貞腐れるシュイに、僕は「そんなつもりはないよ」と頭を振る。だが、笑いはとめられず、彼には僕の真意を知られてしまったようだ。嘘をつくなと小さな精霊が眉を寄せる。
参ったなと眉をあげ肩を竦めると、「元はと言えば、リュークのせいなんだからな」とシュイは僕の髪を引っ張りにきた。降参だと両手を挙げると、そのまま彼は僕の頭に腰を降ろす。
こうして乗られても、精霊達の重さなど全くわからないが、けれどもそこには確かな存在感があり、僕に温もりを伝える。不思議なものだ。やはり、その姿が見えなければ感じる事はないのだろう、この感覚は。見えるからこそ、そう思うだけなのかもしれない温もりは、けれども間違いなく僕には心地良いものである。
上目遣いに頭に乗るシュイを見ると、彼の足は視界に入るが、表情を伺う事は出来なかった。だが、多分難しい顔をしているのだろう。複雑なその心境を思い、僕は笑いを引き、真面目に謝罪と願いを口にする。
「悪かったよ、本当に。彼女も直ぐに諦めるだろうから、もう少し我慢してくれないかな」
「……わかっている」
そんな事はわかっているさと言ったシュイは、「もう行かないし…」と小さな声で付け加えた。
そこまでは言っていないんだけどと付け加えようとし、けれどもそれが彼の決断ならばと、僕はただ無言で頷くように瞬きをひとつする。
覆い茂った木々が生み出す影に足を踏み入れると、視界を彩っていた緑が一瞬消えた。ほんのひと時訪れたその闇が、少し僕を笑った気がした。だが、直ぐに続けた一歩が、再び僕に緑を与える。木漏れ日を受けて輝くその青さは、まともに見るのは少し眩しいほどだ。
「いい天気だな、リューク」
「ああ、そうだね」
不意に僕の頭から飛び立ちながら、シュイがそう言って空を見上げる。つられるように、木々の間から見える僅かな空を、僕もゆっくりと顔をあげて眺めた。
昼間でも常に薄暗い森なのだが、今日はそれでも、木漏れ日が辺りを明るく照らしている。歩きながら見上げたそれに目を刺激され、瞼を閉ざす。目を閉じた先に浮かぶものは闇ではなく、白い明るい世界だった。僕は思わず、太陽の光りが降り注ぐその場で足を止める。
肩に、先に行ったはずのシュイが戻ってきたらしく、小さな重みを感じた。いや、やはり体重など感じない。強い存在感が、ただそう思わせるだけなのだろう。だが、僕にはそれで充分だ。
「本当に、いい天気だ。気持ちが良い」
しみじみとそう言った僕に、年寄り臭いと言うように、シュイは呆れたような低い小さな笑いを溢した。だが、言葉は何も口にはせず、佇む僕に付き合うかのように寄り添う。
そんな彼のそれをとてつもなくありがたいと思う僕は、自分の弱さを憚りもせずに、与えられるものを貪欲に受けとってしまうのだ。自分を戒める事もせずに。
この刻の精霊を困らせているのは、小さな少女だ。
その少女は、先日この森の中で怪我をし遭難しかけていた者で、僕が見つけ助けた。しかし、助けたと言っても、たいした事をしたわけではなく、怪我をした兎や鹿と変わらない程度の事しかしていない。だが。領主の娘である彼女にしてみれば、その日常と掛け離れた経験は興味を向けてしまうものだったのだろう。
僕にとっては何の変哲もないこの森での暮らしも、外部の人間から見れば、特殊であるのだ。こんな所で暮らしている人間がいる。それだけで、関心を向ける対象となるのだろう。好奇心旺盛な少女だけではなく、それは彼女の兄である青年にもあったものだった。
物心がついた時にはもうこの森の中にいた僕にとっては、ここは自分の庭みたいなものだ。だが、他の人間には、恐れられる森である。迷いの森だと未だに言われ続けているのは、鬱蒼と覆い茂った木々や、似た地形ばかりで居場所が特定し難いからであるが、それでも昔からの言伝えでもある魔物が住む森だというものも消えてはいない。だが、それ自体、薄れていっているのもまた事実だ。
そして、それは魔物に限ったことだけではない。精霊も、精霊使いもまた、忘れさられようとしている存在である。
その精霊使いである僕は、ただ純粋に僕が使う力に驚き、尊敬してくれる少女を微笑ましく思ったのかもしれないと今なら気付く。だが、あの時はそこまでの事は考えず、ただ彼女の目の前で気にせず力を使っていた。しかし、それはあまり褒められた事ではなかったようだ。必要以上の関心を、小さな心に植え付けてしまったのだから。
精霊という存在を忘れはじめたとはいえ、まだ完全に消えているわけではない。その存在を信じられなくとも、人間には使えない力を使う人間である精霊使いそのものは、魅力的なものであるのだろう。貴重な存在であり、是が非でも協力を得たいと思う権力者がいる事は、流石の僕でも知っている。僕が住むこの国はそうではないが、世界の争いがなくなる事などないのだから、それは当然だと言えるだろう。だが、それ以上に、忘れ去られる傾向の方が強い。
その理由は、いたって簡単なものだ。精霊を忘れた人間にとっては、精霊使いなどと言うのは、まやかしと代わらないのだという、ただそれだけの事。怪しい力を使う、何らかの方法で人を騙す。そんな風に疎まれ、忌み嫌われた精霊使いもいたのだと、実際に聞いた事もある。
人は、目に見えないものを長く世代を越えて信じ続けられる生き物ではない。精霊を、その力を、信仰する事も出来ない。それが当然の事で、これは仕方のない結果なのだろう。忘れられる事に一抹の寂しさを感じたとしても、忘れてしまう人々を恨む気など僕にはない。
この森に魔物が住むのだとの言伝えと同じように、精霊の事も単なる昔話のようになってきている今、何故自分は人々が見えない精霊を目にする事が出来るのだろうか。僕は、自分で自分を、とても不思議に思う。だが、その事実は変わらないのだから、何故かと知るよりも、それと向き合って生きていくのが僕の努めなのだろう。
忘れ去られていく精霊達を、僕だけの力ではどうすることも出来ないが、それでも僕自身は忘れずにいようと思う。名前を呼ばれるのが好きだという彼らの名前を何度も呼び、人間と話すのが楽しいという彼らと共に暮らす。特別な事は出来ない。だが、こんなものでいいのではないだろうかと、僕は思っている。
一緒に暮らした父をなくしてからは、精霊達が僕の家族である。友人である。人間よりも、彼らとの暮らしが当たり前である僕は、彼らにとっては悲しい事なのであろうが、人々が精霊達を忘れないように努める事などする気はない。この暮らしが充分すぎるほどに幸せで、第三者の侵入を、僕は少し恐れている。
これは単なる我が儘なのかもしれないが、僕はもう、人々の中に精霊の存在を復活させる事は無理なのだと思うし、無駄なのだと思う。理由があるからこそ、忘れていくのだ。昔はその姿を見れたという精霊使い達も、力を使う事を忘れはしなかったのに、その存在を目に映す事を止めてしまった。それにも多分、理由があったのだろう。
力を持たない人間と、力を持つ小さな生き物の共存は、とても難しいものなのだと僕は思う。もし、誰も彼もが精霊を見れたらと思うと、僕は恐怖さえ感じる。弱く醜い人間など、この世界には沢山いるのだから。
そんな風に、僕は人間と言う生き物を、何処かで少し嫌悪しているのだろう。
だからこそ、単純に喜ぶあの少女の姿に和んだのだ。精霊や僕を凄いと感動する彼女に、ほんの小さな希望を見たのかもしれない。
まだ幼い子供である少女とは違い、兄である青年は驚きはしてもそう単純に納得はしていなかったのだろう。だが、彼もまた、僕に誠意を持って接してくれた。この森に精霊使いがいる事が広まらなかったのは、彼とその父親である領主の判断だ。精霊達の話を聞く限り、忌み嫌われたわけではなく、受け入れてくれたらしい事も窺えた。教養を積んだ人間だからこその対応なのかどうなのかはわからないが、それに対してはありがたい事だと思う。
しかし。昔の事をきちんと学んだ人間には、ある程度はまだ誠意を向けてもらえるようだが、残念ながら、そうした人間は極一部だ。そうでなければ、父はこんな山の中でひっそりと暮らしはしなかっただろう。彼の語る思い出の中の言葉の意味を理解できる程度には大人になった僕は、彼が色々と苦労したのだろう事を知っている。幼い頃はもたなかった疑問が、今は僕の胸に沢山ある。
そのような難しい存在となってしまった精霊使いを純粋に尊敬した少女を、僕は今なお、小さいが確かな光りのように思える。だが、それを希望だと受け止めるべきではないのだろう。憧れを抱いてしまったらしい少女に対し、僕が出来る事など何もないのだから。
ラリスは、僕が精霊に頼む姿を見て覚えたのだろう、呪文だと教えた精霊達の名前を、屋敷の中で何度も口に出しているようだ。
参ったぜ。本当に、たまらないよと一番初めに僕にその事を話したのは、シュイだった。少女は彼の名を呼び、僕に手紙を届けようと頑張っているらしい。健気なのか一途なのか、それとも子供の気紛れなのか。応えてくれる事を信じてその言葉を口にする少女の姿が容易に想像でき、思わず微笑みかけてしまうのだが、事態はそう単純なものではない。
基本的に、精霊は人間が好きだ。
名前を呼ばれた彼らは、少女の願いを叶えたく思うのだろう。彼らにとって、少女が精霊使いであるかどうかなどは関係がない。精霊達はただ、気に入った人間が力を望んでいるのであれば、それを貸そうとするだけなのだ。精霊使いとは、ただ精霊に気に入られて力を借りられる者を人間がそう呼んでいるに過ぎない。
当人がわかっておらずとも、己の名を呼んでくれるのならば、彼らは力を与えたいと考えるのだろう。だが、シュイは少女から手紙を運んできた事はない。他の精霊達もそうだ。
その理由は、ひとつしかない。僕がいるからだ。
精霊達は、僕のためにだけ力を使う事を選んだのだ。
いや、正確に言うならば、僕に迷惑をかけないようにしていると表現するのだろう。全く僕に関係のない相手ならば、彼らも力を与えるのかもしれない。だが、あの少女だからこそ、僕の事を知る彼女だからこそ、彼らは拒否しているのだ。
精霊がどういう性格をしているのか知る僕は、彼らの行動を制限するつもりは到底ないし、彼らもそれを承知しているはずだ。僕以外の人間に力を貸すのは精霊達自身が決める事であり、僕が口を挟む権利などない。僕自身、彼らが僕以外に上手く付き合える人間と出会うのはいい事であると心からそう思う。
だが、今回は別なのだ。
僕は彼らの判断に、申し訳ないと思いつつも、正直安堵している。彼らとしては、遣る瀬無いものであるのだろうが、僕はその心境を前にしても、これが正しいのだと思う。
ただの我が儘だとしても、僕は決して、彼らに好きにすればいいのだとは言わないし、言えない。ただ、悪いねと先に謝り、彼らの行動を制限するのだ。卑怯だろうが、これが当然だろう。僕には、幼い少女を抱える覚悟は全くない。
ラリスを微笑ましく思っても、それ以上の感情は抱けない。僕にとっては、光りであるような少女よりも、一緒に生きている、隣に居る精霊達の方が重要なのだ。何よりも優先するのは、今の生活なのだ。だから、ただの口先だけだとしても、少女の言葉に応えてやればいいさと、軽口をたたく事も出来ない。ただ、苦笑するので精一杯なのだ。
そんな僕の心境を、多分精霊達もまた気付いているのだろう。
何ともおかしなことになったものだと、思わずにはいられない。僕が少し迂闊だったのだろうが、今はもう言っても遅い事だろう。人間に惹かれたのか、物珍しいと興味を持ったのか。それとも、僕はただ自分を見つめようとしたのか。あの兄妹との触れあいは、確かに僕に変化を与えた。それが、良かったのか悪かったのか、自分ではわからない小さなそれは、けれども確実に何かを変えたのだろう。
少女の願いを叶えたら、きっと彼女は次はまた別の事を願うだろう。欲望は膨らむものだ、小さな子供が自らそれを止めることは難しい。何より、領主の娘に力を貸すのは、危険な事だ。権力を持つ者に力が渡ればどうなるのか、考えたくはない。喩え少女が争いを望まなくとも、起こる時は起こる。戦とはそう言うものだろう。
そして。彼女が一度でも精霊達に力を与えられれば、必ず僕に何らかの影響が来るというのも明白な事だ。
精霊達もそれを気にし、僕のためにあの少女に力を貸す事を、自らに誡めている。それは、僕がこう自らの事だけを考えているのとは違い、比べ物にならないくらいの葛藤があるのだろう。精霊達にとっては、大好きな人間に名前を呼ばれ、自らの存在を認めて貰えるチャンスなのだ。それを放棄するのは、とても辛い事だろう。
本当に堪らないよと愚痴を言う精霊達の心の想いに、自分はそこまで彼らを縛れる存在であるのか、僕は疑問を持つ。だが、やはり叶えてあげればいいんだよと促す事は出来ない。
僕は、我が儘だと詰られようと、いつか愛想をつかされるとわかっていても、この生活を失いたくはないのだ。
今、この全てが、僕にとっては掛け替えのないものなのだ。
僕の考えは、全てがそこに行き着く。僕は、この日々に必死でしがみ付いているのだ。許される事を、いい事に。
「……我が儘だね、僕は」
白い世界に言葉を放つように、温かな日差しの中で僕はそう呟く。
「そんなことはないさ。確かにガキだけどさ、お前は我が儘じゃないよ、リューク」
「そう。誰かが悪いわけではないわ。ただ少し、その関係が難しかっただけよ」
肩に乗ったシュイの声に続き、別の声が上がり目をあけると、光の中にリクがいた。何を気にしているんだかと呆れるように、肩を竦めて僕を斜めに捕える。
シュイとは別の方から「素直じゃないぞ、リク」と彼女をからかうような声が上がり、続いてシュイが乗るのとは逆の肩に重みがかかった。振り向くと、そこではテナがニヤリと笑っていた。
「お帰り、早かったな」
「道に迷わなかったようね」
「まぁ、何とかね。お陰さまで」
二人の言葉に苦笑を落とすと、僕は止めていた歩みを再開する。お帰りと、かけられたその言葉は、今は少し胸に響く。そんな僕を感じたのか、テナが明るい声で言葉を続けた。
「俺達はさ、リューク。互いに互いの事を思いあっているんだ。それって凄いじゃん。それだけでも、最高だと思えるものだろう。少しばかりの事には目を瞑ろうぜ。そうしてもバチは当たらないさ。なんだって、皆今が一番幸せだと思っている。お前の傍に居たいから、ここに居るんだ。強制されているわけじゃない。お前はそれを誇りに思え。俺達は、お前の傍に居る事を、誇りに思っているんだからさ」
「そうよ。少なくとも、私達の関係は難しいものではないわ。全く問題ないじゃない、ね」
「……凄いな、今日は。僕を煽てる日なのかな」
優しさなのか、それとももっと別の何かがそこにはあるのだろうか。見えそうで見えないそれに、けれどもただ単純にありがたいと思いながらも、僕がおどけてそう応えると、「当たり前だ、決まっているだろう」とシュイが笑った。
「慰めてやったんだからさ、明日のお茶は、シフォンケーキを頼むぜ」
材料を仕入れてきたんだろうと僕の荷物を指差すシュイに、「私は、ゼリーがいいわ」とリクが抗議の声をあげた。大きなケーキに齧り付くのが快感だというシュイはふわふわのシフォンケーキがお気に入りで、リクは見た目が綺麗なゼリーが好きなのだ。決して上手くはない僕の菓子を、彼らはそれでもこうしてリクエストする。付き合いなのか、味音痴なのか。微妙なところだなだと僕は思っているのだが、態々あえてそれを口にはしない。
「テナは何がいいんだい?」
僕と同じように肩で笑う彼に聞くと、「俺は美味い紅茶があれば何でも」と肩を竦めた。僕の周りで騒ぐ精霊達の中ではこの彼が一番、したたかと言うか、色んな意味で巧く立ち回るタイプの者だ。だが、大人だと言えるほどでもなく、まだまだ無鉄砲さも残している。
「美味しい紅茶ね」
「そう、美味いやつだぜ、リューク」
「わかったよ、努力する。じゃあ、何を作るかは、シュイとリクで明日までに決めてよ」
「何よ。両方作ってくれないの!?」
僕の言葉に、二人はケチだと声を揃えた。ケチとは、心外な。だが、言われたからといって、問題が起こるわけでもない。
「どうとでも言っていいよ。僕は結果だけ教えてもらえればそれで良いから」
そう言い肩を竦めた時、不意に何処からか声が聞こえた気がした。
誰だろうかと辺りを見回すが、わからない。いや、精霊達は聞き取り難い遠くから声をかけるなんて事は殆どしない。一瞬で傍に寄れるのだ、そんな事をする意味がない。だが、精霊達以外に、誰の声が聞こえると言うのか。この森で。
「ねえ。何か、聞こえた?」
「ん? そうか?」
ケーキだゼリーだと言い合っていたリクとシュイは、いつの間にか消えていた。多分、勝負をつけに何処かへ行ったのだろう。僕の問いに、気のせいだろうと首を振りながらテナが応える。
「様子を見てこようか?」
「ありがとう、でもいいよ」
まさかという思いから、僕は空耳にすることを選んだ。
だが、二度目に届いたものは先程よりも明確なものだった。
「お〜い…って言ってるのよ。呼んでいるのよ。こら、聞こえないの!? そこの青年っ!」
これはもう、無視をするわけにもいかないだろう。その声は、はっきりと僕に向かってのものだった。
「…気のせいじゃなかったみたいだな」
テナが僕の心境を表したかのよな、少し呆れた、どこか疲れた声を出す。
「残念ながら、そうみたい」
肩を竦めながら振り向くと、まだかなり遠くの木の間に、こちらへと向かって歩いてく人物を見つけた。リュックを背負った姿は一瞬少年のようにも見えるが、どうやら若い女性のようだ。どこか少し甘い感じがする彼女の声が、再び耳に届く。
「良かった。聞こえているんじゃない」
独り言にしては大きいその科白は、多分、直ぐに反応を示さなかった僕へのあてつけなのだろう。だが、言葉ほどに怒っている様子はない。
誤って森に入ってきてしまい、迷ったのだろうか。最初に考えたのは、当然のそれだった。だが、向かってくる女性の足取りは確りとしており、そんな気配は何処にもなかった。まるでこの山に慣れているのだと言うように、僕に近付いてくる。
彼女を待つ義理など何処にもないのだが、立ち去ればうるさそうなので大人しく僕は側の倒れた木に腰掛けた。自分も向かえばいいのだろうが、そこまでする義理はない。何より、人気の無いこの森でであった得体の知れない相手に無防備で近付くほど、僕は無鉄砲でも鈍感でもないつもりだ。
「こんにちは、いいお天気ね」
間近に迫るまで、僕は突然の闖入者を観察していたが、やはり別段変わった雰囲気はない。尤も。この森に女性が一人で足を踏み入れる事自体が異常であり、多少のおかしさなど、その前では掻き消されてしまう者なのかもしれないが。
「こんにちは。…ま、そうですね」
昼間でも暗い森にしては、確かにこの場は木漏れ日があちこちに落ちている。だが、しかし。悪い噂の絶えないこの森で出会った者同士の挨拶としては、不自然極まりないものであるのかもしれない。
肩を竦めながら答えた僕に、肩に背負った荷物を足元に下ろしながら、彼女はこう訊いてきた。
「さっそくだけど。君って何? 妖精じゃないわよね?」
質問しながらも答えを聞く意思があるのか、僕ではなくぐるりと辺りを見回す相手に、僕は軽い溜息を吐く。何なのだろうか、この人は。
思わぬ展開にどこか楽しげな笑いを浮かべているテナを僕は軽く睨み、小さく頭を振った。彼の様子からしても、この闖入者が危害を加えるような人物だとは見ていないのだろう。無害だとわかっているからこそ、笑っているのだろう。だが、僕は笑えない。たとえ危険人物だろうとなんだろうと良いから、早く立ち去ってもらいたいものだ。今日は街にも降りたので、人あたりし、僕は疲れている。
「…違いますよ。先日は別の者に魔物かと言われましたが、僕はそんなに人間には見えない姿をしているのでしょうかね?」
「怒らないでよ」
「別に、怒っていません」
僕に視線を向けていなかったのでわからなかったのだろう。否定の言葉に「それならいいわ」と顔を向け、相手は小さな微笑みを浮かべた。栗色の髪が、春の風になびく。
「横、お邪魔するわね」
そう断り、僕の隣に腰掛けた彼女は、荷物から丸めた紙を取り出し手にしていた板にのせて固定し、それを立てた片膝に乗せた。真っ直ぐと前を見つめたその横顔に、僕は何故か静寂を見る。
だが、直ぐにそれは消え去り、口を開いた彼女はハキハキと言葉を綴り始めた。それと同じように、手が紙の上を滑っていく。
「精霊かって言うのは、ちょっと言ってみただけよ。別に、本当にそう思ったわけじゃないわ。人間にしか見えないもの、君は。その点は、安心してもいいわよ。
それにしても、魔物ねぇ。ま、この森の中で出会ったら、そう訊いちゃうものかもね。どこからどう見ても人間であったとしても、普通の人はこの中に入らないみたいだから」
それでも笑っちゃうわね、と彼女はクスクスと笑い声を上げた。視線はじっと前を見つめ、目の前に広がる木々の姿を紙に写していく。上手いもので、この場と変わらぬ空間を紙の中に広げていく彼女に、僕はただ感心する。
そんな僕同様、テナも驚くように彼女の手元を覗き込み、見入っている。
「勿体無いわよね。こんなに綺麗な森なのに、誰も入らないなんて」
「なら、あなたこそ人ではない?」
彼女の言葉に対し浮かんだ素朴な僕の疑問は、けれども相手にはお気に召されなかったようで、眉間に皺を寄せられた。
「君、変わっているわね。ま、この森に入るんだから、そうでしょうけど」
「それは、あなたも同じでしょう」
「あら。私は別よ。私はこの土地の者じゃないもの。だから、魔物が出るなんて言伝えは信じていないし、悪いけどここの風習を守る気もないのよ。だって、守っていたら、こんな素敵な景色も見れないのよ。それってとっても損をしていると思わない? あなたもそうだからこそ、こんな中まで足を踏み入れるんでしょう?」
習しに背くだけの価値がこの場にはあると、彼女は手を休め、ゆっくりと僕を振り向いた。間近で合わさった悪戯気な相手の視線に、僕は肩を竦める。確かに、そうであるのだろう。僕は土地の言葉よりも、この森のこの姿を大切にしている。だが、そもそも僕にとっての出発点はこの森の中なのだ。風習など、もくも同じく関係ない。だがこの感情は、笑いを落とす彼女とは似ていたとしても、全く別な所からくるものだ。
だが、それでも。
この森を綺麗だと想う心は、同じであるのだろう。
僕から視線を外し遠くを眺める彼女の目を何気なく見、僕はその瞳にドキリとした。ただじっとこの森の姿を見るという人間には、普段はあまりお目にかかれはしない。だからだろうか。言葉以上に、その姿に、存在自体に、胸を打たれる気がする。
彼女の目には愛しみがあった。まるでこの森を本気で愛しているような心が見える気がし、僕は少し感動を覚えた。
こんな目をしてこの森を見る人間が居る事を、ただ単純に嬉しいと思う。
「本当に、とても綺麗よね、この森は。普通は惹かれて入ってしまうものよ。私が思うには、多分、昔の人もこうして森を愛でていたんでしょうね。だからこそ、迷う人も多かったのよ。言伝えは、昔は森に多くの人が入っていた証拠ね。魔物説よりも、現実味があるでしょう。それとも、君は魔物が居ると信じている?」
「さあ、良くわかりません。真剣に考えた事はない。ただ、自分にとって必要だからこそ、僕はこの森に居るだけです。魔物が居たとしても、多分それは変わらないでしょう」
「なるほど、そうね。私も、もし魔物がいたとしても、やっぱりこの森に入ったでしょうね。一目惚れだから。必ず迷うと教えられたのにそれでも足を踏み入れたのだから、魔物なんて居ても気にもしないんでしょうね」
そう言った彼女は僕にも見ろと促すように、真っ直ぐと腕を伸ばし前を指差した。
「何度も迷ったわ。それでも、止められずに、私はまたここに居る」
「何度も? 何度も、この森に入っている?」
「当たり前じゃない。でないと、初めからこんな深くまで入って来ないわよ」
そう言って笑った彼女は、一年程前からこの森にやってきては絵を描いているのだと教えてくれた。その洞察力でこの森を把握したというわけなのだろうか。人々が恐れる理由を知りながらも踏み込んだその熱意に、僕は少し圧倒されてしう。
「確かに、少しは怖いとも思ったわよ。でもね、道からの写生じゃ満足出来ずに少しずつ少しずつ奥に足を踏み入れていくと、そのたびに新しい発見があるの。この森の顔がひとつふたつと見えてくるの。もう、それにやられちゃったのよ。気付けばこの一年、ここに通いっぱなしなのよ、私。
でも、それも今日で終わり。今度は、人間を描こうと思っているの。また直ぐに戻ってきちゃうかもしれないけどね、この森は素敵だから」
いろんなものを沢山描いて上手くなりたいのだと言った絵描きは、そこで漸く、僕に何故この森にいるのかと聞いてきた。
「手付かずの森ですからね、薬草が沢山あるんです」
「薬師なの? 若いのに、凄いわね」
そう言われる年でもないのだが、僕は曖昧な笑いで答えておく。
一年間この森に足を踏み入れていたのだというその言葉は、僕には衝撃が強すぎて、開きかけていた心がその驚きに閉じてしまった気がした。一気に、関心を失ってしまったかのような感覚に、自分が少し嫌になる。我が儘から来るだけのそれは、けれども思う以上に厄介だ。
当り障りのない会話を交わし、互いに腰をあげた。去って行く彼女の後ろ姿は、どこか幻のようだった。木々の間に消え見えなくなっても、僕の目はまだその姿を捉えているようで、おかしな感覚に襲われる。狐につままれたような気分だ。
迷いの森と呼ばれる所以は、それだけこの森に多くの人が入ってきていた証拠だとそう言った彼女の言葉は、僕には思いつきもしないそれだった。言われてみればそうかと頷けるが、考えようともしなかった自分が、なんだか情けない。対抗する意識はないが、僕は一体何をいい気になっているのだろうかと思い知らされる。
彼女の方がこの森の事を知っているような感じがして、僕は醜い嫉妬をしてしまった。彼女の出現はまるで、この森が僕を試しているかのようなタイミングであり、今になって鼓動が早くなる。微かな緊張を覚える。
本当に狐ならば、どれだけ良いだろうか。そんな意味のない馬鹿な発想をした所で、どうにもならない。何も、変わりはしない。
何をやっているのかと自分に呆れ果て、僕は溜息をつく。
「何だよ。まだここに居たのか」
声と共に現れたシュイが、先程と同じ場所に佇む僕に呆れてそう言った。
「やあ、リクは?」
結果はどうなったのだろうかと頭を切り替えながら僕がそう聞くと、あそこにいるよとシュイが示したのは木の上だった。リクはそこに腰を掛け、僕を見下ろしていた。何だか不機嫌そうだと思いつつも、「さて。帰ろうか」と笑いかける。
現実離れの感覚にいつまでも引きづられていては、この日常も見失ってしまうのかもしれない。そう意識して帰路を促した僕の言葉は、けれども木から降りてきたリクには相手にされなかった。
「どうかしたのかい、リク?」
「放っておけよ、リューク。俺がかったから不貞腐れてるのさ」
「違うわよっ」
シュイの言葉に、眉を釣り上げながらリクが反論した。だが、違わない事はないのだろう。
「そう。なら、リクには悪いが明日はシフォンケーキだ」
リクが不機嫌な理由がわかり、僕は悪いと思いながらも笑いを落とす。しかし。彼女はそんなことはどうでもいいと言うように、別の話題を口に乗せた。
「なによ、鼻の下伸ばしちゃって」
ふんっとそっぽを向きながらの突然のその言葉に、僕は何なのだろうかと首を傾げる。当然の事だが、僕の鼻の下はのびてなどいない。
「何? …別に、おかしくないと思うけど」
鼻の下に異常がない事を手で触れて確認しながら、僕は肩を竦め、テナに目で問い掛ける。一体リクは何を怒っているのだろうかと。
しかし、テナはただ笑うだけで僕の問いには答えず、シュイも肩を竦めて首を振るばかりだ。どうやら、僕だけが何かをわかっていないようであり、それに加えわかっていない僕をこの二人は楽しんでいるようだ。
「なかなか綺麗な人だったわね、リューク。好きになったとか言わないでしょうね」
リクが僕を斜めに捕えながら、そう聞いてくる。漸く、彼女が先程の絵描きを見ていたらしい事実を掴むが、だからと言って何なのか。何故、僕が責められるのだろう。
「ね、何を怒っているんだい、リク?」
「怒っていないわよ」
「そう、ならいいけど」
こういう場合何を言っても無駄だと、僕は肩を竦めておくだけにした。だが、リクはそれを許さない。
「っで、どうなのよ、リューク。好きなの嫌いなの?」
「別に、どうとも思っていないけど」
問われる意味がわからず、無難な答えを選んだ僕に、「でも、綺麗だったじゃない」とリクは頬を膨らませた。
「そうなのかな? 僕はわからなかったけど、リクが言うのならそうなのかもね」
「バカッ!」
リクが綺麗だというからこそ僕も賛同したというのに、リクはそれさえも気に入らなかったようで頬を膨らませる。いつもは、僕にセンスがないといい、問答無用で自分の好みを押し付けようとするのに、何だというのだろうか、本当に。
不満げな表情を向けるリクに、僕はもうお手上げ状態で、降参だと両手を挙げた。
「ごめん。悪いけど、僕にはリクが何を気に入らないのかわからないよ。僕は彼女よりもリクの方が可愛いと思うから、綺麗かどうかなんて正直わからない。好きか嫌いかも、わからない。それじゃ駄目なのかい?
それとも、リク。そんなにゼリーが食べたかったの? なら、今から帰って作るよ」
訳もわからずに怒られたら悲しいんだけど、と訴えた僕に、傍観者を決め込んでいたシュイが抗議の声を上げた。
「ずるいぞ、リューク」
「いいじゃないか、別に。シフォンケーキは明日作る約束をしただろう」
「でもっ!」
「そうだよな。リュークは別に、ゼリーを先に作らないという約束はしていないからなぁ」
先程のリクと同じように、頬を膨らませたシュイをからかうように、テナが僕の見方をし、そう言ってくれる。
「…ったく、ズルイぞ。リクのは単なる我が儘じゃないか」
「諦めろよ、シュイ」
「そう、諦めてよ、シュイ」
「お前が言うなよ、リューク!」
そう怒りながらも結局彼も納得するのだろう。僕達の間で尤も強いのはリクなのだと誰もが認めている。そっぽを向かれれば機嫌をとり、命令されれば従い、微笑まれれば傅くのが男の役目だ。
男三人が言い合う様子に溜息をついたリクは、けれどもいつものように僕の肩に乗り、そこに腰を降ろした。どうやら機嫌が直ってきたらしい。
「ね、リューク」
「何だい?」
「さっきの彼女より、私の方が可愛い?」
「勿論だよ。でも、それが何?」
また僕の美的感覚をどうだこうだというのだろうかと少し身構えたが、彼女は何でもないわよと首を振った。そして。
「甘いミルクも飲みたいわ」
少しぶっきぼうにそう言った彼女に、僕は了解したよと笑いかける。
小さな少女は、未だに僕が教えた精霊達の名前を口にしているのかもしれない。それは一体いつまで続くのだろうか。だが、彼女が大人になる頃にはもう、幼い頃の記憶は薄れてしまっているのだろう。
この森に恋をしたといった絵描きもまた、愛情の対象は時と共に移り変えてゆくのだろう。
僕もまた、そんな彼女達と同じように、この森に対する思いを変化させていくのかもしれない。だが、それでも。どんな風になろうとも。僕はこの森を選び、精霊達と一緒に居たいと思う。たとえ、それが驕りからくる欲望でしかなくとも、僕は自分を甘やかしそれを許すのだろう。
今も、この先も、僕はこの日常以外のものを欲しいとは思わないだろう。
多分、きっと。永遠に。
「リューク。ほら、綺麗」
リクの声に視線を上げると、太陽の光りを受けた葉が、鉱物のように輝いていた。
木漏れ日の中で、僕はその輝きに目を細める。
+ END +
2004/02/01