「お疲れさん」
そう声をかけ部屋を後にする俺に、何人もの声が降って来たのを片手でかわし、エレベーターへと向かう。上を向いた三角印を押し、何気に見上げた回数表示が、最上階でエレベーターが止まっていた事を教えていた。
彼が帰って来ているのだろう。
そう思っただけで、俺の口角は自然と上がり、一日の疲れが少し軽くなった気さえした。
そんな自分に苦笑を落とした時、
「社長」
後ろから呼びかけられ、俺は体ごと振り返った。本当に現金なもので、あの青年の顔を思い出しただけで気分が良くなっている。
「どうした?」
「田端さんから、連絡を頂きたいとの伝言です」
小走りでやって来た樋口が、軽く頭を下げながら言う。
「今きたのか?」
俺の問いに、「先程、自分の携帯に」と答えながらそれを差し出した。
俺の携帯は昼間水死してしまい、その後誰かが新たに手続きをしに行ったのだろうが、それはまだ俺の手には届いていない。常に誰かを側に置いているので、自身の携帯がなくとも不便ではなかったが、他の者は迷惑していたのかもしれない。この田端の連絡もまた、今日は樋口とは別行動だったので、色々とまわり漸く繋がったものなのだろう。
「急ぎだといっていたか?」
「いえ、特には言っていませんでした」
「そうか。なら、上でかけるよ」
その言葉に携帯をスーツにしまう樋口に、堂本への伝言を二、三頼む俺の後ろから、エレベーターの到着を知らせる音が上がった。
そして。
カタリと扉が開く音に俺が振り返るよりも早く、普段はあまり表情を変えない樋口が、珍しく目を見開き、眉を寄せた。その変化にまず驚き、俺の後ろで何かを見ているのだろうに、俺はそれを確認することを忘れ、目の前の青年を見直した。
「…飯田さん?」
「えっ? ――マサキ!?」
樋口の口から発せられたのは、俺の予想外のものだった。
考えるよりも早く後ろを振り返ると、確かにその先には一緒に暮らす青年の姿があった。エレベーターの隅で、片膝を立て、そこに腕と頭を置き、まるで眠っているかのように座っていた。…いや、それはまるで、死んでいるかのよう。
明るい光のとは対照的なその姿に、俺の体は一瞬固まり、近寄る事すら出来なかった。しかし…。
「…ん、……よう」
俺や樋口の声が届いたのだろうか。
顔を上げたマサキは、意外にもその哀愁漂う雰囲気とは違い、いつものクールなものさえ感じられない、子供のような笑顔を向けてきた。
曲げていた体を起こし、壁に凭れ、髪をかきあげる。
その時無情にも、エレベーターは扉を閉ざしはじめた。俺はその音に押されるように、慌てて手を差し出しそれを阻止する。
「今晩は」
そんな俺を気にすることもなく、マサキは髪から外した片手をこちらに向け、挨拶をした。
俺の口からは、当然の如く溜息が落ちる。
「今晩は、じゃないだろう」
「いや、今は夜だ」
「…そうじゃなくてだな。何をしているんだ。また、酔っているのか」
中に入り、投げ出した足の靴底を俺は軽く蹴り、――漸く気付いた。
「…って、お前、ずぶ濡れじゃないか」
「知らないのか、雨が降っている」
詫びる事もなくそう言い、そして、また笑う。
「…飯田さん、大丈夫ですか?」
「ああ、何で?」
その返答に、どこが大丈夫なのかと言いかけたがそれを飲み込み、俺は扉を抑えて立つ樋口に手を振った。
「大丈夫だ。お前ももうあがれ」
「はい。それでは、失礼します。お疲れ様でした」
「ああ」
最上階へのボタンを押し、頭を下げる樋口に、「お休み、樋口」とヒラヒラとマサキは手を振った。
一体、いつからここに居たのだろうか。よく見ると、髪からはまだ水滴が落ちており、床には小さな水溜りまで出来ている。
ガコンと動き出した箱の中で俺はしゃがみ込み、相手と視線を合わせ、これ見よがしに目の前で深い溜息を吐いてやる。
「ったく、酔っ払いが」
「そんなことはない」
「何が」
「確かに、少し酔っている。だが、寝るほどじゃない。…あんたが思うほど、飲んでいない。
何故、そう思う?」
どうして酔っていると思うのか、とマサキは首を傾げ、軽く笑った。…酔っている自覚が無い酔っ払いは性質が悪い。妖艶とさえいえるその笑みに、俺は少し戸惑う。
「…その姿が、既に」
「これは、傘が無かっただけだ」
微笑みを崩し、今度は子供のように肩を揺らせて笑う。
再びその笑顔に見惚れかけた俺に、「降りる前に、扉が閉まった。タイミングを逃したんだよ」と、訳のわからない屁理屈を楽しそうに言う。
「機嫌がいいな」
嫌味としていったその言葉さえも、「ああ、そうだ」と返され、全く効果がない。
「それに、気分も良い。そう、とても良いんだよ、俺は。そうなんだ」
意味がわかっているのだろうか。何故か自身に言い聞かせるようなその言葉に、また自ら笑いを落とす。
今度は俺も、それを笑った。ただ、彼の笑いに付き合うというだけのもので、他意はない。そんな笑い。
笑ってはいるが、本当に機嫌が良いわけではないというのは、その雰囲気から感じられた。彼のまとうものは言葉とは裏腹に、どこか悲しげなものなのだ。
到着し、扉を開けたエレベーターの外に目をやり、俺は立ち上がりながらマサキに手を差し出した。
「ほら、立てよ」
「いいよ、自分で立てる」
「いいから」
「良くない、あんたも濡れる」
そう言いながら立ち上がったマサキを腕に捕まえ、逆の手で閉まらないように扉を抑える。
「そう言う考えが出来るのなら、濡れないように考えろよ。風邪を引くぞ」
肩を貸し並んで歩きながらそう言った俺に、「気持ち良かったんだ」とマサキは喉を鳴らした。
しっかり温まれよ、と浴室に放り込むと、「あんたも濡れただろう。入らないのか」と真っ直ぐと見つめ返された。
一緒に入りたいのか?
そんな風にからかう事は出来ない目だった。いつもの険というか、張り巡らされた壁が消えている気がするものだった。だが、だからといい、その隙に漬け込むのを躊躇ってしまう、何もかもを見透かすような目。
濡れたのは上着だけだ、と俺は笑い、その目を避けた。
「そうか。なら、お先に」
そう言い、静かに閉められた扉の前で、俺は暫く佇んでいた。
彼がおかしいのは今に始まった事ではないが、いつもとは違うそれに、俺はどう対応すればいいのか、咄嗟には動けなくなる。
一体何なのだろうか。
そう思いながらも、俺は考える事をさけ、気持ちを切り替えるように田端に連絡を入れ用を済ませた。
マサキにはあれ以上飲ませたくはないので少し迷ったが、一杯だけだと、俺はグラスに酒を注ぎ、それを片手にリビングのソファに体を預けた。
精神的に不安定であるのは、出会った時からなので、彼の性格であるのだと思っている。本当は、もっと明確な理由があるのかもしれないと憶測しそうになるが、調べてはいない。その気もない。
深く考えるのが、知るのが怖い。
だから、俺はいつも流す。
苛立っている時は何かに対してそうなっているだけだと。苦しんでいる時も、悩んでいる時も、そう。全て、その何かのせいにし、そしてそれを俺は知ろうとはしない。
彼が話すのなら、聞く。耳は塞ぎはしない。
だが、彼が、隠しているのか、自身ではそのつもりはなく、人に言うことではないのか、どう考えているのかは知らないが、その口にしないものを、あえて探ろうとは思わない。
人間には、互いに見えないものが必要なのだ。他人の全てを手に入れる事など決して出来ないのだから、無闇に相手の中を探り手にしてはならないのだ。
…それがわからず、全てが欲しいと思ったのは、もうずっと昔の事。
なのに、俺はまだ、あの過ちを悔いている。…いや、そうではなく、ただ自分に怯えているのだろう。
何が彼を苦しめているのだろうか。
その不安は消えず、知りたいと思う。教えて欲しいと。だが、過去に罪を持つ俺は、自分から進む事さえ出来ない。その勇気がない。
今夜の彼はいつもと違うが、それもまた彼の一部。特別なものではなく、酒が入ると普段よりは開放的になる彼だから、おかしい事ではないだろう。
そう思い込むしかないのだ、俺は…。
カチャリと上がった音に、俺ははっとし、顔を上げた。
「…お前も飲むか?」
あまり減ってはいない手の中のグラスを少しあげ、いつものように笑いかける俺に、バスローブ姿のマサキはゆっくりと近付いてきた。
「いらない」
「珍しいな。いつものように寝るまで飲まないのか?」
決してそれを望んでいるわけではないので、飲まれても困るのだが、そんな言葉しか口には上らない。だが、俺のそんなからかいに軽く肩を竦めただけで、マサキはその話を切った。
そして…。
「それより、ここ、座ってもいいか?」
「…どうぞ」
何を思ったのか、俺の隣に、マサキは腰を降ろした。その重みで、ソファが微かに揺れ沈む。必要以上に他人が側にいるのを嫌う人間のその行動に、俺は心底驚いた。
「…これまた、珍しい」
「俺も人間だ。人恋しくなる時もある」
更に意外すぎるその言葉に、俺は一瞬理解できず、間抜けな声を上げる。
「は? ……お前が、人恋しい…?」
「…俺だって、感情を持っている」
少しふくれて言いながら、マサキは背をソファに預けた。開いたローブから見える胸元を、水滴が伝っている。
それから目を逸らし、俺はグラスに口をつけ、…飲むことはなく、唇を外した。
「…ま、そうだな、そんな気分の時もあるよな」
そう、繊細が故に自分の中に閉じ篭ろうとするところがあるこの青年ならば、寂しいと、感傷に沈む事もあるだろう。だが、それを口にすることも有り得ないというものだ。
けれど、俺はそんな思いを飲み、ただ俺に向けた彼の言葉に応えを返した。何がどうして、何故そうなったのかを聞くことはせずに。
「俺も他人の事は言えない。そう、俺だってそう風になる時があるな」
「…それこそ、あんたが? だな」
「おいおい、酷いな。俺にはそれかよ」
「意外すぎる、似合わない」
「…ホント、キツイな、お前。人間誰だってそうだろう。ったく。
っで、どうした。人恋しくなり、俺の温もりを感じたいって言うのか?」
相変わらずの冷たい言葉に肩を竦めながら、俺は軽口を叩く。
「あんたじゃない」
それを受けるかのように、裸の足を無造作に組みながら、少し不機嫌な色を見せ、マサキは言う。男にしては白い、細い足だ。
「なら、誰だ?」
その問いに、「そういう意味じゃない」と呟き、マサキは目を閉じた。
「…でも、こんな気分になる時は、…丁度あんたがいる。…間が悪いな」
「それは…、良いと言うんだろう、嬉しいね。…って、今までも?」
「そう、今までも」
いつだろう、と思わず考えてしまったが、特に甘えられた記憶はない。忘れるほど前からの付き合いではないし…、誰かと間違えているという事もありえないとは言い切れない。本人は酔ってはいないというが、良く喋り俺に感情を見せるのがいい証拠だろう。
「覚えがないな。もっとわかるように甘えろよ」
手にしていたグラスをテーブルに置きながら軽く笑うと、マサキは目をあけ、「なんだよ、それは」と呟きながら天井を見つめた。
そして、ゆっくりと視線を向けてくる。
「なら、例えば、どんな風に?」
「そうだな…」
俺はニヤリと悪ガキのような笑いを向け、どこかぼんやりとしているマサキの腕を引いてソファに凭れていた体を起こさせ、驚くその肩に腕を回して引き寄せた。
流された視線に真剣になったのか、それともからかってやろうとふざけたのか、自分でもどちらの意思が俺を動かしたのかわからない。
足の上にかかる重みで、俺は自分のその行動を少し後悔した。
だが、初心なガキでもないので、「ゴメン」などと言い手放す気は何処にもない。内心は焦ろうが、パニックになろうが、状況に対応できるだけの場数は色々と踏んでいる。それこそ、可愛げがないと舌打ちされるほどに。
「…何の真似だよ」
起き上がろうとする肩を押さえつける俺に、マサキは低い声を発した。
「こんなのはどうだ?」
「…男の膝枕など、嬉しくない」
「可愛くない事ばかり言うな」
俺はそう言い、湿った髪をガシガシとかき回してやった。マサキは僅かに肩を竦ませたが、抵抗はしなかった。
「猫みただな、なんか。悪くはない」
「猫ねぇ…」
どうでもいいという風に、ふっと軽く息を吐く。
「ジンよりも可愛げがあるな」
「…それはどうも」
起き上がるのは諦めたのか、力を抜き、マサキはそのまま目を閉じた。
「…どうだ?」
「…何が」
「気持ち良いか?」
「何でだよ。体が痛い。腰が悪くなる」
目を閉じたまま、相も変わらず悪態を吐く。
確かに痛くなりそうだな、とソファでの無理な体勢のその姿を眺め、俺は喉を鳴らした。
「あんたがやっているんだぞ」
「ああ、自覚はあるさ」
マサキの肩に肘を置き、頬杖を付きながら横顔を見下ろす。
「…重い」
「俺もな」
なら止めろよ、という可愛げのない言葉を無視し、顔にかかる髪をかき上げてやると、チラリと横目で睨むようにマサキは俺を見た。だが、直ぐにまた目を閉じる。酒が回ったのだろうか、いつものように眠気がやってきたのかもしれない。
こんな時のマサキは、考えるのが億劫なのか、感情を見せやすくなる。
それを知っていて、俺は訊いた。
「…なあ、マサキ、寂しいのか?」
「そこまで、言ってない」
再び愛想のない彼の言葉を無視し、俺は足に乗る頭を軽く叩きながら言う。
「…温めてやろうか」
「……何を」
「お前を」
「…いらない」
「言っていることが違うぞ。人恋しいんだろう?」
「……俺は、…これで充分だ」
ポツリと呟くようにそう落とし、そして、口元に笑を浮かべた。
「…お前、俺をからかっているのか? ホントは寂しくともなんともないんだろう。酔っ払い」
「何の事だよ。何で…」
「笑っている」
「……そりゃ、笑うさ。俺も人間だからな。
…こんなんじゃ、駄目なのかもしれないがな。そう、駄目なんだ…。…お前はいつも、上手く笑うな、本当に」
呟く言葉は、さすがの俺でも、何を言っているのか全くわからない。
「…意味がわからないぞ」
「ん? そうか?」
マサキはそう言いつつも、また肩を揺らせた。
「……彼女が、俺に言ったんだ」
暫く沈黙を作り、もう答える気はないのだろうと思った時、マサキは僅かに目を開きポツリと言った。
「彼女…?」
「ああ、…俺を引き取った人。
自分の誕生日にさ、物はいらないから、俺に笑えって。笑顔をくれってさ…」
マサキを引き取った女性が、彼に大きな影響を与えている事は、少ない会話の中でも気付いていた。彼がどれだけその女性を大事にしているのかも。
「…そうか。それで、お前は笑ったのか?」
「一生懸命俺を笑わせようとする彼女がおかしくてね。
…いつでも笑っていろ、その方が可愛いから。よくそう言っていた。…だから、この日だけでも、俺は笑うんだ…」
でも、どう頑張っても、あの頃のようには笑えないんだがな。
自嘲気味にそう言い、マサキは切ない笑いを溢した。
頭で理解するのと、心で納得するのは、全くの別ものだ。
マサキが彼女へ向ける感情に、俺は間違いなく嫉妬している。
濡れた髪に伸ばしかけた手を、俺は触れる前に握り締めた。
俺自身がこの青年の家族を奪った。その事は今になって悔いても、どうにもならないことだ。だが、割り切れるものでもない。俺にはそういった過ちが沢山ある。その一つ一つをこの胸に抱えられるかと聞かれれば、答えはNOだ。
だが、マサキに関しては、やり直せるのならやり直したいと、そんな甘い事を何処かで思っている。純粋な子供のように。
けれど、それは、ただ願う事すら許されはしないことなのだろう。俺が、奪ったのだから。
なのに、そんな事を棚に上げ、何もかも失った彼を救った女に、俺は言いようのない感情を持ってしまうのだ。醜いと嫌悪さえせずに、そんな自分を認めているところさえあるのだ。
決して手に入れてはならないものなのに、俺は、欲しくてたまらない。
「…なあ、マサキ」
暗い感情から目を逸らし、俺はいつものように笑う。
「俺には誕生日プレゼントをくれないのか?」
その言葉に、マサキの眉間には皺が寄った。
「なんで、俺が。…食事に付き合っただろう」
「あれが? あれだけ?」
そう言うと、確かに祝いといえるような席でなかった自覚があるのか、軽く眉を寄せ、「…欲しいものがあるのかよ」と言った。
「ある。お前」
「……何?」
「お前を抱きしめたい」
「……」
「その彼女より、簡単だろう。じっとしていればいいんだから。なあ、抱かせろよ」
茶化すようなその言葉に、マサキは上を向き、両目で俺を見た。
その瞳に何もかもが見透かされそうで、俺はただ笑顔を貼り付ける。
「…その言い方は、妖しいな」
「別に、とって喰うつもりはないさ」
片眉を上げて笑う俺を暫く眺め、「…それで?」と、マサキは溜息交じりに言葉を繋いだ。
「それをしてどうする。何か得られるのか、俺を抱いて」
「どうもしない。けど、温もりは得られるだろう」
一時的なものでも、今はそれが欲しい。
その心を、最奥に隠し、俺は笑う。
「人恋しいお前に感化されたんだ。俺も今、人の温もりが欲しい」
なるほど、誰でもいいってわけだ。
マサキは呆れながらも、そう笑った。それは、わからなくはない、と。
誰でも良いわけではない。
だが、その誤解をとる気もない。想われるのが苦手な彼には、それはなくてはならないものだから…。そして、俺にも…。
体を起こしたマサキは、ゆっくりと左手を俺の右肩に置いた。間近で見る彼は、潔いというか、どこかすっきりとした表情をしていた。
「俺も、あんたの馬鹿がうつたのかもしれない…」
そう言い、手を俺の首へと回し、左肩に顎を置くように凭れてくる。
俺の頬に、濡れた髪が触れる。
力任せに抱きしめたい衝動を抑え、ゆっくりと両腕をマサキの体に回すと、彼の空いていた右手もまた、俺の背中に回った。
その腕に力が入る。
「…あんたの方が、温かいな」
温かい。
けれども、寂しい…。
「お前、ちゃんと温まったのか?」
俺の言葉に、「こんな格好だからな」と、マサキは軽く喉を鳴らした。
「…荻原」
声が響き、体に伝わる。
「どうした」
俺の肩から顎を外し、マサキはそこに頬をつけた。
まるでそれは、子供が甘えるような仕草だった。
「……笑うのは、難しい…」
「…ああ」
「なのに、…泣くのも難しいんだよな」
指が動き、俺のシャツを掴む。
「俺は、あんたが少し、羨ましいのかもしれない…」
感情を簡単に表現出来るのが。
呟きと同時に吐き出された溜息が、俺の首を掠めた。
…そんなことはない。
俺だって見せかけるために色々な努力をしているんだ…。
それすらも隠し、俺は笑う。
「なら、お前もそうしろよ」
子供をあやすよう、抱きしめたその背を軽く叩く。
「…出来ないから、羨ましいと言うんだろう」
「そうだな。じゃあ、それを出来ないのがお前なんだから、それで良いんだよ」
なんか、いい加減だな。いいようにあしらわれている気がする。
マサキはそう言いながらも、楽しげに笑いを溢した。
もしも…。
もしも、今ここで俺のこの想いを伝えたとしたら、お前はどうするのだろうか…。
思いこそすれ、俺はそれを口に出す事は出来ない。
その見えない答えに、俺は怯えている。
そして、何よりも、今はこの関係を崩したくはないと願っているのは俺自身なのだから…。
「荻原…どうした?」
しがみ付くように、いつの間にか回した腕に力を入れていた俺に、マサキは少し心配げにそう聞いた。
「…何でもない」
力を緩めた腕の中で、マサキが体を動かし、離れて行く。
「何だよ、気になるな。言えよ」
顔を覗き込みにきたマサキの額に、俺は自分のそれを押し当てた。
「なあ、来年も、こうしてくれるか?」
「……なんで、俺が。温めてくれる奴は、他にもいるだろう」
笑う俺とは違い、マサキは顔を顰める。
「そうなんだがな。ま、減るもんじゃないし、いいだろう」
「…調子に乗るな」
そう言い、今度こそ本当に体を離したマサキに俺は手を伸ばす事はなく、「ケチだな」と子供のように拗ねた言葉を落とした。
そんな俺を、マサキはじっと真剣に見つめ、溜息を吐いた。
だが…。
「…その時になって、強請れ。そうしたら、俺も考えてやらないこともない。…約束は、出来ない」
これ以上の譲歩はないというように、マサキはそう言い、リビングを出ていった。
消えた後ろ姿から、テーブルのグラスに視線を向け、俺は肩を揺らせた。
俺が羨ましいと言ったが、彼の方が俺なんかよりも、ずっとかっこいい。潔い。
「…最高だよ、お前は」
喉から零れる笑い声とは違い、俺の視界は、何故か潤んだ。
+ END +
2003/02/28
Special Thanks to Nori_sama