不思議な男だ、というのが、保志翔という青年に対する第一の印象だった。
筑波はその出会いを、今でも鮮明に覚えている。
薄暗い静かな店内は、海の底を思わせる空気を持っていた。だが、あの時、それを自分達が消し去った。たった4人の男で、その領域を侵した。それなのに、そんな事など微塵も気にかけずに、あの青年はただ静かにその姿を現した。
海に浮かぶ月の様に、闇の中の唯一の光であるかのように、その姿は全ての者の目を惹きつける力を持っていた。だが、彼自身は光ではなかった。そう、青年は深い海の雰囲気を纏っていた。
店の空気とは違い、それは誰にも侵される事のないものだった。
青年の姿を一目見た時、瞬時に筑波が悟ったそれは、何よりも保志翔という人間を語っているものだった。そう、筑波のその直感は違うことなく、保志と言う男はただ静かで、けれども優しくはない、光など見せない人間だった。深い深い海の底のような男。
突然現れた青年と視線を絡ませ、声ではない言葉を交わしてから、漸くそこに生身の人間である空気を筑波は感じとる事が出来た。だが、まるでそれは、店の空気の変化に対応したかのように、深海の雰囲気を脱ぎ去ったかのような感じでもあった。しかし、だからと言って実際に違和感を与えられたわけではない。
ただ自分が変に意識し過ぎているせいだろう、と筑波は思おうとした。
だが、出来なかった。そう簡単に納得など出来ないほど、青年が見せたあの海の底の様な雰囲気は魅力的なものだった。
極少数の、特別なものしか行く事が出来ない、海の底。多くのものは、容赦なく切り捨てられる。光は届かず、決して魅力的だと言える場所でもない。だが、それでも、そこを住処とするものは、闇に守られている。そこにいれば、自分も何ものからも犯される事はないのではないかと思えてしまう、不思議な場所。地上でしか生きられない人間がそこへと向ける思いは、どこか憧れにも似ている。
そんな雰囲気を見せた青年は、けれども、さらりとそれを脱ぎ捨てる。誰もが羨むようなものでも、彼にとっては魅力などないというのだろう。味気ない空気に馴染み、ただ笑う。闇も光も、自分の中には存在しないのだと言うように。
不思議な男から、面白い男だと、筑波の中でその青年は姿を変えた。
実際、保志という青年は、本当におかしな男であった。
声が出せないからだろう。保志は、見た目と中身にギャップがあった。
黙って立っていれば、歳相応の男でしかない。見目はいいので人目を引く方ではあるが、あまり自分を主張してはおらず、一見は冷めた男だ。だが、その冷たさも、そう感じさせはしない。
ただそこにいる。現状をただ表現する言葉が似あう、そんな人間だった。人に感動を与えない、どこか無機質な男。
だが、会話を交わし始めると、それは消える。色のない姿に、自ら色をつけているようだと、筑波は保志の変化をそう思う。
声の変わりに、保志は少し大袈裟な表現で相手に応える。
その姿は、相手とわかりあうためというよりも、少し人を馬鹿にしている様なものでもある。だが、それでもそれを嫌だとは感じさせない。保志翔という人間はこうなのだろうと、何故か納得させる力を持っている。
保志翔という人間の中身を表すのには、たった一言の言葉でいいのかもしれない。
何に対しても、淡泊だ。
そう、マイペースなどと言う以前に、全ての事に関心が薄い。いや、薄すぎる人間だ。無関心と言い切れれば、それは大きな個性となるだろう。だが、関心が極端に薄いというだけでは、そう目立ちはしない。
まるで、自分を他人の目から隠しているかのようなのだ。それも、計算ではなく、本能的に。
けれども、それは、何かを守るために身を隠すような必死なものではなく、もっと極々自然なものでしかなく、だからこそ、誰もが外見に騙される。
声がなくてはこの社会ではやっていけないからと覚えた処世術のように、保志は言葉を流すために口元を僅かに上げて笑う。器用に片眉を上げながら、肩を竦める。喋れない自分に何を言っても無駄だというように、軽い溜息を吐く。呆れたように全ての表情を消し、ただ目を細める。そして、苛立ったように、真っ直ぐと視線を投げかける。
その表情だけを見ていたのなら、喜怒哀楽が激しいようにも思う。ころころと変わるほどでもないが、関わる客達は彼を声が出ないだけの普通の青年と思っている事だろう。
だが、保志という男は普通ではない。筑波はそう確信している。
あの表情の変化を見ていると、そう演じようとしているだけではないかと、何故か疑いたくなる。違和感があるわけではないが、それでも裏の世界で生きてきた筑波には、どこか腑に落ちない点があるのも事実。
それが初めて会った時の、あの深海の雰囲気からくるものだと思い付くのに、そう時間はかからなかった。
あの空気を纏う男が、こんな処世術を身につけるだろうか。必要ないのではないかと、シニカルな笑いを浮かべる保志を筑波は見据えた。それは単なる仮面だろう、と何度も目で問い掛けた。だが、その視線はいつもあっさりとかわされる。
保志にとっては、自分の意思を、存在を主張するために表現が大きくなるのも当然だというところなのだろう。それ以上の会話など必要のない事なのだろう。
そう、自分の考えを口にしたところで言ったところで、そんなパフォーマンスをしてどんな意味があるのか、と同じようにあっさりと流されるのだろう事はわかりきっており、筑波は直接問う事はしなかった。
しかし。保志という男が自分の意見を誰かに聞いて欲しいなど、相手に伝える努力をするなど本当にするのだろうか。そう思い始めると、キリがない。
だが、態々手の込んだことをしそうにもないとも思える部分もあるのだから、なんとも厄介なものであった。結局、筑波自身、何を考えているのかわからなくなる。
こうして、全ての者があの青年のいい様に納得させられていくのかもしれない。そう思うと、ガキでしかないと思いつつ、何故か自分は騙されはしないと筑波は思ってしまう。だからこそ、保志の行動ひとつひとつが気にかかる。
けれど、本人から答えを見つける糸口すら帰る事はなく、結局は謎が更なる謎となり、雁字搦めに絡まってしまうだけなのだ。
そんな水掛け論を一人でし、そもそも騙されるとは何なのかと、筑波は自身に苦笑した。何をこうも気にしているのだろうかと。
そう、相手は自分など微塵も気にかけていないのに、何を考えているんだ俺は…。
呆れて抱えた頭に、けれども別の事が浮かび上がり、筑波は驚愕する。
本当に、何故自分は青年を気にしているのか。
不思議な男。
面白い男。
おかしな男。
だからこそ、気になるのだろうか。
その問い掛けは、けれども既に筑波の中では答えの出ているものだった。いつの間に答えが出来ていたのか、自身でもわからないのだ。驚くしかないだろう。
何処なのかもわからない場所に本当の顔を隠しているような青年だが、そんな保志にも、唯一の例外があった。サックスだ。
サックスを吹く時だけ、保志は子供のようにどこか無邪気だった。はしゃぐわけではなく、表面上はいつもと変わらない。ほんの少し、楽しそうに吹いているといった感じで、笑顔を見せるわけでもない。だが、確かに纏う空気が変わるのだ。
サックスを吹く保志は、自分の居場所はここだという、確固とした自信を持っているように筑波は感じる。そう、それはまるで、子供のような揺らぐ事のない自信だ。
その強い思いが、自分は気になるのかもしれないと筑波は思う。
だが、安い笑いも呆れた視線も、保志の仕草を疑いながらも、それが嫌いではない事にも気付いてはいる。そう、気にいっているからこそ、真実を知りたいと思うのかもしれない。
惹かれはじめている。
保志翔という人間に自分は惹かれているのだと、筑波は自覚する。
それは、驚くところも確かにあったが、どこか嬉しいものでもあり問題だとは思わなかった。ただ単純に、誰かにこうも興味を持つのはいつ以来だろうかと心が躍った。
過去を辿った筑波の頭に、祥子の顔が思い浮かんだ。彼女を好きになって以来だとしたら、もう10年にもなる。その間、自分はただ我武者羅に走り続けてきていたのかと、長いそれに苦笑する。
気になるものがあるということに、筑波は子供のように興奮した。
だが、問題が浮かび上がったとなれば、悠長にワクワクとはしていられない。
佐久間秀。
筑波がこの世界に入ってから知り合った男だが、同じ世界の人間ではない。佐久間は単なる医者だ。だが、それでもこの世界では、何かと顔が売れている。佐久間という男を名前だけではわからずとも、天川の付人だと言えば大抵の者が顔を思い出す。
実際のところ、天川を影で操っているという噂は耐えないが、佐久間はあまり動いてはいない。ただ付き合いとしての交流は、愛想の良い性格なので広くこなしているが、懐にまで入れるものは殆どいない。
密売業を生業とする天川の影響力はこの世界の中でもとても大きいが、その息子は未だに確かな地位も何も築いていないといったところだ。そう、天川の息子でしかない。だが、父親の方はそれで終わらせる気がないのは、後を継がそうと思っているのは周知の事実。本人のやる気はともかく素質がない事など、いくらでもカバー出来ると考えているのだろう。
そう。天川司がその事業を引き継ぐのは、決められた未来なのだ。その次期頭が入れ込んでいるのが佐久間という男にしては見目のいい医者であるというのは、殆どのものが頭に入れている情報だ。
そんな位置にいる佐久間は、一見人当たりの良い好青年だが、ヤクザ社会で何の危険もなく歩いていけるのだから、普通の青年であるはずもない。信憑性にかけるものもいくつかあるが、煙のないところに火はたたず、全てが憶測というわけでもないだろう。
誰もがそう考え、多くの者が若い外科医に一目を置く。実際、何度も接した筑波も、佐久間は食えない奴だと見ている。間違ってはいないだろうそれは、私的な感情からだけのものではない。
確かに、常に顔を会わせれば、自分をからかうかのような発言をするふざけた男で、辟易しているのは事実だ。だが、あの笑顔が曲者だとも気付いている。鬱陶しいと追い払いつつも、何をするかわからない危険を感じ、完全に放っておく事も出来ない人種。
組という組織でいえば、天川は一応味方ではあるが、佐久間は到底そうは思えない。得体の知れない男というか、表面は完璧に取り繕っているので、見えていない本性の存在自体に気付き難い、面倒な男なのだ。常にこちらは気を張っていなければ、いつの間にか丸め込まれそうな気がする男。
要するに、佐久間の全てが、筑波は苦手だった。
そんな男が、何故か保志翔にちょっかいを出そうとしているとわかれば、放っておく事は出来ないというものだ。
自分と関わったばかりに、佐久間の目が保志に向かったのかもしれない。そう思うと、少しの後悔が筑波の中に浮かんだ。
だが、しかし。
本人に確認したところ、保志は佐久間を知らないといったが、本当は知っているようだと筑波は気付く。問い掛けに応えていた彼は、嘘をついているようには思えなかった。だが、一度自分の側を離れ、次に戻ってきた時の保志の表情が先程までとは少し違い、筑波はそう確信した。
ならば、何故知らないと言い張ったのか。それはわからないが、問題はそんなところでもないのだろう。自分に関係なく、保志と佐久間との間でなんらかの関係があるなど考えていなかった筑波は、正直、焦りを覚えた。
そして、そんな自分の感情に、筑波は驚愕する。
彼らが知り合いなのであれば、自分に関係ないのであれば、気にする必要など全く無いのだ。なのに、余計に気になる。この青年が、保志が心配になる。
気に入っているという自覚はあるが、果してそれは一体どんな感情だというのか。筑波は自分に問い掛けるが、答えは出ない。具体的にどうしたいのか、わからない。
このままでいいのだろうか…? だが、保志の事が気にかかる。全てではなくとも、もう少し彼の事を知りたいと思う。そして。佐久間と関わって欲しくないと思う。
しかし、この感情は、相手を束縛出来るものではないともわかっている。子供みたいに、自分の感情でどうにか出来るものではないのだと。
「…お前と居ると、疲れる」
思わず落ちたのは、保志に対する悪態ではなく、弱音だった。だが、相手にはそうは聞こえなかっただろう。けれども、筑波は訂正する気力もなく、自分の重い空気に感化されることもなく寛いでいる保志の頭に溜息を落とした。
上手くも不味くもなさそうに、ただ煙を吸い込む青年に、煙草を強請る。
「ホント、疲れるよ…」
そう、心が躍るからだろう。ひとつひとつに反応するからだろう。この男と居ると疲れると、筑波は静かな狭い部屋でぼんやりと考えた。視界の中で、紫煙が空気に溶けていく。
この疲れは決して嫌なものではない。だが、疲労は許容範囲を超えてしまったのか、処理出来ずに燻りだしたようだ。このままでは、消化不良か何かになりそうだと、いい加減な事を筑波は考える。何を考えれば上手くいくのか、わからない。
「……俺にはお前が何を考えているのかわからない」
自分の能力不足をさらけ出すのに躊躇いはなかった。わからないのなら聞いてみるしかないのだと、そこまで自分が切羽詰っている事を知ったらこの男はどんな反応を返すのだろうか、それを見てみたい気にもなった。
だが、筑波は直ぐに自分の発言に後悔をする。
「他の奴ならそれで終わる。だが、お前の場合は、それが気になる。
わからない事を気にするから、疲れる。でも、止められない」
これでは、女々しいだけではないか。何を女のような事を言っているんだ。
そう呆れながら、けれども生まれた言葉を喉の奥で止めておく事も出来ず、筑波は保志に問い掛けた。
「なあ、保志。…俺はどうすればいい?」
気になるんだ、お前のことが。
言い訳のように付け加えた言葉に、漸く保志は反応を示した。
声が出ないと言う少し珍しい人間だから、気になってしまうのだと。それだけにしか過ぎないのだと。
声の代わりに文字で示されるそれを追いながら、筑波は堪らない、やるせない気分になった。
こんな風に、当然のように自分を雑に扱う保志自身に怒りさえ感じた。だが、直ぐにそれは悲しみに変わる。
そうでしか生きてこれなかった、こうして生きてきた、だからこれが当然なのだと納得する部分が自分の心の中にある事に筑波は気付いた。自分もまた、全て正確な、正しい道を選んできたわけではない。人それぞれなのだ、反論など出来ない。
だがそれでも、自分の感情は、保志に決められるわけにはいかない。そう思われても仕方ないのだろう、だが、決して保志の言うように興味や同情ばかりではない。絶対に違う。
筑波はそう確信し、自ら新たな疑問を生み出した。ならば、この感情は何だと言うのだろうかと。
不思議な事に、先程までわからなかった事を瞬時に悟る。そう、気になるのも、自分の思うようにしたいなどと思うのも、自身が思っている以上にこの青年に惹かれているからなのだ、と。
自分は保志翔が好きなのだ、と筑波はその心に気付く。
そして。
もしかすると、保志は自分のそんな感情を知っているのではないかとも思いつく。だからこそ、当たり触りなく自分を遠ざけようとこんな発言をしているのではないかと思い始めると、今までの事が全てそこに繋がるように思えた。
素っ気無い態度も、どこか戸惑った様子も、説得するような言葉も、深い溜息も。全てが困惑から来ているものではないだろうか。そう、今にして思えば、自分の態度は自覚がなかったがあからさま過ぎていたのではないか。
参ったな、と筑波は気付いた自らの感情に軽く頭を振った。揺れる視界に、保志の言葉が入ってくる。
疲れるのなら、気にしなければいい。
確かに、その通りだ。だが、もう気にせずにいられはしないところまで来ているのだと、筑波は片手で顔を覆う。
自分は結構単純な人間なのだというのは、よくわかっている。それに加え、流され易くもあると。友人に言わせれば、純粋なのだと、子供みたいなのだというが、そこまで酷くはないと筑波は思っていた。だが、あの友人の言葉は当たっているのかもしれないと、今漸く納得する。
好きだと気付いた感情に、本当に好きなのかと疑えばYESという答えしかなく、その想いはどんどんと膨れ上がっていく。焦る心がさらにそれを煽る。これが恋なのかどうなのか、流石にそこまではまだわからないが、それに近い感情であるのは確かだろう。
この執着が、男同士だという禁忌に負けそうには思えない。
だが…。
大切であるのなら守らなければならないと言うのを、筑波は充分に知っている。単なる言葉ではなく、身をもってそれをしなければ、何も守れないのだと。
「…俺は迷惑なのか?」
そうだと頷いたなら、この想いを消し去ろう。自分の感情だけでどうにか出来ると信じるほど、自分はもう子供ではないのだ。
筑波は長い沈黙の中、覚悟を決めてそう問い掛けた。
答えは、決まりきったはずのものだった。しかし…。
保志は首を横に振った。考えた事もないと、それを否定した。
「…やはり、お前はわからない奴だ」
安堵か、それとも拍子抜けしたのか。筑波は思わずしゃがみ込み、そして笑った。全く何を考えているんだと、そんな返事でいいのかと問い掛けたい言葉を卑怯にも飲み込む。
「俺は振られたわけじゃなさそうだな」
今度の言葉は、心からの安心感が言わせたものだった。単純に、筑波は嬉しかった。
何の事かわからないという保志を適当に交わし、冗談交じりに、けれども本気でその言葉を口にする。
「俺が嫌になったら言え。ただし、早くしないと、戻れなくなるかもしれない」
笑いながらのそれは、けれども内心は切羽詰ったものでもあった。本当に、もう戻れそうにないと、言った傍から筑波は実感する。その言葉を理解したわけではないのだろうに保志が浮かべた軽い笑みは、失いたくはないと思うものだった。
そう、この笑みを自分は手に入れたい。たとえ、それが叶わず側で見ているだけでしかなくとも、この笑みを消したくはない。
自分が、守りたい。
もう長い間忘れていた強いその思いに、筑波は心の何処かで何かが目覚めた気がした。
+ END +
2003/06/04