何故この男がここにいるのだろう…。
 目覚めた瞬間目に入ってきた男の寝顔に、真幸は眉を顰めながらまずそう思った。
 そして、ゆっくりと体を起こし、部屋をくるりと見渡し、次に逆の事を考える。
 何故自分はここにいるのだろうか、と。

 カーテンの外はまだ薄暗く、起き出すには早い時刻である事を教えている。真幸はその窓で視線を止め、暫くぼんやりと眺め、体のだるさに再びベッドへパタリと横になった。
 間違いなく、自分がいるここは隣で寝息をたてている男、荻原仁一郎の寝室だった。見慣れない天井に視線を定め、睨みつけるように真幸は眉間に皺を寄せる。
 何故こんな所で自分は寝ているのか…。
 動き始めた頭を使い思い出す事は、昨夜はリビングで酒を飲んでいたと言う事だけだ。荻原が帰ってきたことも知らない。
 リビングで眠ってしまったのだろう自分を、荻原がここへ運んできたのだろう。だが、その理由がわからない。
 放っておけばいいものを、律儀にベッドへ運んだのはわかるが、何故ここなのか。しかも、狭い所で何故一緒になって寝ているのか…。
(何なんだ、一体…)
 自身に起きた状況はわかるが、何故なのかわからない。大したことではないのだが、それが妙にイラつく。
 真幸は溜息を吐き、再び体を起こした。
 落ち着かない。
 身体はだるく横になっていたいが、男と一緒に並んでいたくはない。
 生理的に嫌だというわけではなく、腹立たしいのだ。理解出来ない行動、それをもたらされたことがむかつく。何故朝からこんな事を考えなければならない。
 盛大な溜息をつきながら、ベッドから降りる。けれどそれ以上動く気力もなく、真幸は床に座り降りたベッドに肩肘をかけて持たれた。そして、また、目の前のシーツの皺を睨みながら、口から深い息を落とす。
 同じ運ぶのなら、大人しく自分が使っているあの客室へ運んでほしかったものだ、と。

 今朝もいつもと変わらず頭が痛い。だが、それは病気ばかりのせいではないだろう。締め付けられるような痛さよりも、苛立ちによるフツフツと煮えるような怒りが煩わしい。
 自分が発するそんな苛立ちを感じたのか、それとも充分睡眠をとったのだろうか、小さく鼻を鳴らしながら荻原が寝返りを打った。そして、ゆっくりと目をあける。
 真幸はそんな無防備な男の様子をしれっと眺めた。昇り始めた太陽に映し出される部屋の全てが、なんだかふてぶてしく感じる。特に、自分より後で目覚めるこの男が腹立たしい。
 一方、目覚めた荻原はまるでお化けでも見たかのように目を見開き、そしてくるりと体の向きを変え背中を見せた。
「……お前、起きるの早いな」
 体を起こしながら、寝起きの掠れた声で荻原がそう呟く。
「目が覚めたら、あんたが目の前にいた。驚いて眠気も飛ぶさ」
 真幸は荻原の背に向かって不機嫌な声を出した。嫌味のひとつくらいでは収まらない苛立ちを先程から抱えているのだ、これは仕方がないといえるだろう。
 いつもの事。そう、いつものことなのだ。自分がこの男に対して冷めた態度を取るのは。けれども、今朝はそのいつもとは違った。いつものように、荻原はそれを笑って流しはしなかった。
「…なら、ここにいることはないだろう」
 ガシガシと頭を掻きながら、荻原は自分以上に何故か不機嫌そうに応えた。理由はわからないがその言葉が癇に障る。
「なんだよ、それは。…あんたが俺をここに運んだんだろう」
「起きたのなら、ここにいることはないだろう、と言ったんだ。
 それとも何か。昨夜と同じように、抱いてリビングまで連れて行けっていうのか?」
「遠慮する」
「なら、何なんだよっ」
 手を降ろす勢いでバスッと布団を叩き、荻原はうるさげに言葉を吐いた。いつもへらへらと笑っているような印象が強い男のその声に、珍しく苛立ちが含まれている。だが、だからといって恐怖もわかなければ、困惑も浮かばない。
 いつもとは違う荻原を疑問に思うよりも、真幸の中では、何を逆切れしているのか、という腹立たしさの方が大きい。
「それはこっちが言いたいことだ」
 その態度は何なんだ、と訊きたいのは自分の方だ。
 真幸は背を向ける荻原にも聞こえるような、盛大な溜息を吐く。
「…何をだ」
「あんたが怒っているから、俺も怒っているだけだ。突っかかりに来ているのはあんただ」
「それはっ! …悪かったな」
 声を荒げた荻原はふと大きく息を吸い、短い沈黙後、打って変わって静かに謝罪を口にした。
「俺も驚いたんだよ。起きたら、お前が見てたから…」
 ぼそりと呟くようにそう言うと、勢いよく立ち上がりバタバタと音を立てながら、荻原は足早に寝室を後にする。しかし、チラリと見えた荻原の顔は不機嫌そうでいて、何故か頬を赤らめていた。
 それほどまでに怒っていると言う事だろうか…? だが、何故?
 寝起きに機嫌が悪くなるタイプなのだろうかと真幸は考え、けれどもそれを検討する事は自分には出来ないと小さく溜息をつく。大抵の場合、荻原が先に行動を起こしており、彼の寝起き姿を見ることなどないのだ。自分が早く起きた事もあったが、荻原の寝室に行きその顔を見ようなどと思った事は一度もないのだ、答えを見つけだせるだけの要素は手の中にはない。
 結局、おかしな奴だと思うしか自分には方法が無いのだ。
 だが、いつもならそれで流せるのだが…。今日は何故か気になった。多分きっと、わけのわからない事をしてくれた苛立ちからだろう。
 大きく息を吐き、だるい体に力を入れて立ち上がり、真幸も寝室からリビングへと入る。
 ダイニングキッチンのテーブルに肘をつきぼんやりとしている荻原に、真幸はソファの背に腰を降ろしながら声を掛けた。
「なんで、俺はあんたのところで寝ていたんだ?」
「…俺が帰ってきたら、そこで潰れていたんだよ、お前。
 っで、そのままだと風邪をひくし、ベッドへ運んだ。それだけだ、何もしていない」
「当たり前だ。酔った俺に何が出来る」
 軽く眉を寄せてそう言った真幸を、荻原は同じように眉を寄せてちらりと見た。そして、視線をテーブルに落とし短い溜息を吐く。
「お前じゃなくてな…。俺がお前に、だろう。この場合は」
「何かすることがあるのかよ」
「やろうと思えば色々あるだろう?」
 質問に質問で返しニヤリと笑い顔を見せる荻原に、真幸は「おい」と低い声を出した。
「ま、それはともかく。昨夜は何もしていない。ただ横で寝ただけだ、同じベッドで」
「…それは、「した」に入らないのか」
「入らないだろう。ベッドで寝て何が悪い」
「狭い」
「そんな事はなかっただろう。俺、蹴ったか?」
 機嫌が良くなったのかクククと荻原が喉を鳴らし、真幸の方に体を向けて足を組みかえる。
「俺も疲れていたからな。お前のベッドより俺のところの方が近いから、そっちに運んだだけだ、他意はない。何も問題は無かったんだから、怒るなよ」
「…怒っていない。それは、あんただろう。
 嫌なのに何故自分のベッドに寝かせるか、俺にはわからない。放っておけばいいものを」
「だから…。怒っていない、別に嫌だったんじゃない。…驚いただけだと言っているだろう」
 軽く眉を寄せ視線を外すと、荻原は立ち上がってコーヒーをセットした。再び見せられた背中が、何故か気になる。
 本当に訳がわからない。何か機嫌が悪くなるような事を気付かず内に自分は言っているのだろうか…。ころころと態度を変える荻原に首を傾げる。
 そんな時、ふと、真幸の頭に何日か前の夜の出来事が思い浮かんだ。そう、あの時も、目覚めた荻原は少しおかしかった。
「……あんた、さ」
「何だ」
「照れているのか?」
 まさかと思いながらも、別に間違っても問題などないと、真幸はさらりとそう言った。
 何を言っているのか、と流されると予想したのだが、返事は返らなかった。変わりに、 荻原が眉間を寄せた顔で振り返り、じっと自分を見つめてきた。
 なんだか、居心地が悪くなるような視線だった。
「…思っただけだ。違うのならいい」
 予想出来ない行動を返されるのに疲れを覚え、真幸はもういいと話を打ち切ろうとした。だが、荻原はそれには乗らなかった。
「当たっているのなら、どうする?」
「何が?」
「俺が照れているのだとしたら、笑うのか?」
「ああ、面白いと思う。だが、笑うほどのものでもない」
「…中途半端だな」
 真幸の言葉に、荻原が軽く肩を竦める。
「何だ…?」
「笑うのなら笑えよ、ってな。
 ああそうだよ、俺は照れているんだ。寝顔を見られるのが嫌いなんだよ。いや、苦手と言うのか。何せ、恥ずかしいんだよ」
「……誰が、何を嫌いだって?」
「お前、性格悪いな…」
 咄嗟に理解できず訊き返した真幸に、荻原は再び軽く眉を寄せる。
「あんた、寝顔を見られるのが苦手?」
「わかっているのに、訊き返すな。
 俺も人間だ。苦手なものがあって何がおかしい」
 開き直るようにそう言った荻原だが、恥ずかしいのか顔には微かに朱がさしていた。
 別に寝顔を見られるのが嫌だと言うのはわからなくはない。だが、他人の寝顔を見るのが好きなくせに、なんて我が儘な奴なのか。
 この男らしい。それをそう思ってしまいそうになった真幸は、軽く溜息をつき顔を伏せた。
 理解などしてはならない。
「…理不尽だ」
「何がだ」
「自分から俺をベッドに運んでおいて、寝顔を見られたからと怒るなんて…ガキか、あんたは」
「煩い。第一、俺が先に起きるはずだったんだ。いつも通りに起きないお前が悪い」
 居直りそう言った荻原に、真幸は眉をしかめこそすれ、呆れ果て返す言葉は何も出てこなかった。


「ほら、飲めよ」
 身支度を整えた荻原が、コーヒーを持って真幸の座るソファへとやって来た。いつの間にか自分のものとなったオフホワイトのマグカップが差し出される。
「…いらない」
「いいから、ほら。放すぞ」
 ソファに深く凭れた姿勢のまま、真幸は荻原から仕方なくカップを受け取った。荻原は先程の真幸と同じようにソファの背に凭れ、自分のカップに口をつけ熱いコーヒーを啜った。
 部屋に広がる香ばしい香りは、食欲の出ない自分すらもそそるものだが、荻原の淹れたものとなると飲む気にはなれない。
 真幸はテーブルにカップを置き、代わりにそこに放っていた煙草に手を伸ばした。
「ったく、飲めよ。今日はそんなに甘くしてないぞ」
「…そうかよ」
 どうでもいいよ、と真幸は深く吸い込み、ゆっくりと吐き出した紫煙をぼんやりと目で追った。確かに甘いものは苦手で、荻原のものを素直に受け取れないのだが、今ここで何だかんだと話したい気分ではなく、会話の発展を避ける。
「愛想の欠片もない。
 っで、今日はどうするんだ。学校か?」
 熱いコーヒーを飲み込み、ふっと息を付いた後、荻原は真幸の予定を訊いてきた。特に意味はないのだろうが、こうして荻原はよく同じ質問をする。YESでもNOでもこの男には大して関係がないのだろうに、何故訊くのか。
 自分の行動を把握していたいと言うわけではなく、単に朝に顔をあわせたから聞いただけだという感じで、特にそれを得て何かをするわけではない。自分の行動を知っておきたいのなら、自分に聞くよりも正確に知る方法をこの男は持っている。だから、本当にあまり意味はなく聞いてくるのだ。挨拶代わりなのかもしれない。
 だが、そんな荻原が、真幸には不思議だった。理解出来ない。
 そんなことよりも、いつまでいるのか、今日もここへ来るのか、などという事の方を聞くのが普通ではないか。
 荻原は、あの夜から居座るようになった自分に何も言わない。この部屋にいることに付いては何も。まるでそれは、何処までも受け入れられているようでいて、逆に気にするほどの事でもないような態度でもあるので、真幸には荻原のことが全く掴みきれない。そして、それに感化されるように、本当にいついてしまった自分が、わからない。
 わからないから、考えない。わからないことは、考えない。
 いつの間にかそんな方法を身につけてしまっている自分が虚しくもあり、救われもする。
 特に、この男といる時はそうしなければ身が持たないのだから、仕方がない。
 自分の今日の予定を聞いてどうするのか、と質問は投げかけず、真幸は「ああ、行くよ」と短く答えた。実際はまだ決めていないのだが。
「午後から雨が降るかもしれない、だとさ。傘持っていけよ」
「ふ〜ん、そう…」
 長くなった煙草の灰を、真幸は生返事をしながら湯気がのぼるマグカップの中へ落とした。褐色の上を灰が散り浮かぶ。
「何やってるんだよ、全く。なんて奴だ、折角淹れてやったのに」
 その言葉とは違い、怒った風もなく、荻原は軽く喉を鳴らした。
「あんたは?」
「ん?」
「仕事。急がないのか」
 いつもならもうこの部屋にはいない時間であることに気付き、真幸はその問いを口にした。
「ああ、今日はまだいいんだ。だから、久し振りにゆっくり寝ているつもりだったんだがな」
「…なら、寝ていろ」
「いや、起きたし、行く。する事はいくらでもあるからな。
 ああ、そうだ。昼から名古屋に行くんだが、土産、何が欲しい?」
「…はあ?」
 あれだけ忙しそうにしているのだから、確かにやる事はいくらでもあるのだろう。だが、ゆっくり出来るのならそうすればいいのに。こういう者を仕事人間と言うのだろうが、荻原の場合それとも少し違う気がする。それは楽しげにやっているからだろうか…。
 よく体が持つなと思うほど飛び回っている男の行動力に呆れていた真幸は、唐突に持ち出された会話についていけなかった。
「名古屋…?」
「そう、名古屋。いくらなんでも知っているだろう。
 っで、何がいい? あのシャチホコは無理だけど」
 笑う荻原に真幸は溜息をつきながら、短くなった煙草をカップの中に放り込んだ。
「…何も要らない。あんたも、観光じゃなく仕事なんだろう。土産など考えるなよ」
「ま、そうだけど。仕事って言っても、ちょっとした集まりに顔出すだけだからな」
 荻原は自分のからになったカップと、減ることなく灰皿と化した真幸のカップを持ち、キッチンへと入っていく。
 荻原が一体どんな仕事をしているのか、真幸は殆ど知らない。
 訊けば教えてくれるだろう。だが、訊きはしない。興味がないというよりも、関係がないというのだろうか。この男が何をやっていても、今の自分達の関係に影響は及ぼさないということを、真幸は自身でわかっていた。だから、訊いてはいないのだ。
 そう、どうでもいいのだ。
 荻原自身に関心がないわけではない。自分が嫌悪するような事をしているかもしれないだろうが、それに関わらず、結局は自分はここにいるのだろう。何を知っても。
 だから、意味がないのだ。
 ならば、臭いものには蓋ではないが、あえて訊かねばならない事でもないからと、訊いてはいない。なので、話を向けられれば耳を蓋することなくきちんと聞くだろう。だが、荻原は自らはあまり仕事の内容は話さない。
 おかしな関係だと思う。
 繋がるほど自分達の間には強い者は存在しない。なのにこうして暮らしている。
 他人と暮らすのはとても簡単だと錯覚してしまいそうになる。
 けれども、そうではない事を自分は良く知っている。今の関係が築けているのは、自分の努力でも何でもない。ひとえに、荻原のお陰なのだろう。
「ああ、そうだ。今日中には帰ってこないだろうからな、昨夜みたいにこんな所で寝ず、きちんとベッドで寝ろよ」
 テーブルの上の煙草をじっと見つめて思いに耽っていた真幸の耳に、荻原の笑いが混じった声が届いた。
 いつの間にか、自分はこの生活に浸かりきっている。



 荻原の部屋で暮らすこの生活に慣れてしまったのは、はたしていい事なのか悪いことなのか…。
 自分はこのままでいいのだろうか。それとも、しなければならないことがあるのだろうか。大切な何かを見落としているのではないだろうか…。
 真幸は暗い外に顔を向けながら、夜鏡となったガラスに映る自分の姿をぼんやりと眺めた。
 真夜中の人影が少ないファミレスで、一人頬杖をつき虚ろな自分の姿はどこか滑稽だ。
 住み付いた部屋の下にある喫茶店が、深夜遅くまでやっているファミレスだと知ったのは最近の事だった。そして、足を踏み入れたのは今夜がはじめてで、特に珍しくもない、変わりばえのしない店だった。
 微かに流れる有線放送だけが耳に届く静かな空間。少し前まで騒がしい高校生といった若者のグループがいたが、次はカラオケだとバタバタと出ていった。自分を含めここに残った数人の客はみな音を立てず静寂を作っている。
 眩しい光の中、そう広くはない空間に数人の人間がいるというのに、闇に支配された外と同じように、ここにも確かに夜が訪れていた。
 一人の部屋に持て余し、眠る気にもなれず、何となくやってきたのはいいが、結局何処にいても自分は一人だと今更ながらに実感するばかり。周りの空気によって自分が変化するわけでもなく、一人きりに暗い部屋と、明るい他人がいる場所という違いはあっても、心の中はそう変わるものでもない。
 考えることが沢山あり、けれども答えは出ないものばかりで、苛立ちばかりが募っていく。周りの者は全て解けたとに、自分だけ回答が得られない子供のような気分だ。悔しくて腹立たしくて、情けなくて…。もういいと放り出し逃げだしたいのに、それすらも許されない。
 答えを導き出せない問題を与えられた場合どうすればいいのかなど、誰も教えてはくれなかった。正しい間違っているに関係なく、今までは、全てに何らかの答えが用意されていたのだから。
 どんな答えなら納得できるか、それすらもわからない。いや、そもそも、今与えられている問題自体、自分は理解しきってはいないのだろう。
 ただ、苛立ちのみが募っていくだけ。
 店内ばかりを映し出すガラスから視線を外し、真幸は溜息をついた。
 注文したコーヒーは口をつける前に冷め切っていた。


 荻原の言ったように、昼過ぎから降り出した雨は夜中近くまで降っていた。激しい雨ではなく、しとしとと寂しげに降り続けていた雨。けれど長時間降ったため、道路には水溜りも出来ている。
 深夜2時。
 閉まる店から追い出されても部屋に戻る気はなく、真幸はそのまま、店を囲むように作られた生垣の乾いたレンガの上に腰を降ろしていた。最近では夜でも暑さを感じるようになってきていたが、雨上がりの今夜は初春の夜のような寒さを覚えるものだった。
 長袖のシャツを着ているとはいえ、肌が粟立っていた。それでも、戻ろうとは思わなかった。エレベーターに乗り込めば直ぐにこのビルの最上階にある部屋に着く。だが、真っ暗な部屋を思うと、動く気にはなれない。なにより、痛いくらいのその寒さが、今の自分には気持ちのいいものだった。
 暫くそうしていると、光を溢れさせていた店の電気一斉に消えた。その後30分もしないうちに、残っていた従業員だろう、2台の車が去っていった。その音が消えると、微かに遠くから聞こえる街の喧騒だけが動きを伝えるものとなった。
 周りには何の気配も、音もなく、まるで取り残された気分になる。
 いや、実際そうなのかもしれないと、真幸は口元に小さな笑いを作った。
 一番近くにある明かりは20メートルほど向うにある電灯だが、光を届けはしても、自身の影を作り出すほどのものでもない。ただ明かりが見えるだけのもの。自分を照らすほど強いものではなかった。
 周りを包むのは暗闇のみ。
 自分の姿を確認できる、周りに景色がわかる。そう、真の闇ではない。だが、光はない。自分は与えられなければそれを手に出来ない。自身では光を生み出せない。
 そんな思いを察したのか、一台の車が目の前を走り去る。まるで、自分を笑うように一瞬だけ視界を白い光に包み、直ぐに闇へと変える。何気なく追いかけた視線の先で、赤いランプが闇に浮かび、角を曲がったのだろう、それはふっと消える。
 真幸はそこから視線を空へと向けた。
 雨はもう上がったのだが、空には依然として黒い雲が広がっているのだろう、一つの星も見えない。あるのは闇ばかり。
 けれど、寂しいものでも、怖いものでもなかった。空がある。不思議な事にそれだけで優しさが心に落ちた。
 高い、高い空。どんなに手を伸ばしても届く事はない。だが、それをわかっていて手を伸ばしたくなる。いや、わかっているからこそ、伸ばしてみたくなるのだ。
 自分はあそこにいきたいのか、引っ張り上げて欲しいのか。それとも、落ちてきて欲しいのか。
 そんな事はわからない。いや、きっとそのどれも望んでいないのだろう。求めているわけではない。
 真幸は片腕をゆっくりと上げた。視界に入る空に向かって伸びる自分の手は、とても朧げなものだった。そして、暗闇に浮かぶ白い手は、まるで強欲に落ちてくる何かを掴むように空を握る。
 …それは自分に何を与えるものなのだろうか。
 力強く握った手を目の前におろし、一呼吸の後、真幸はゆっくりとその手を開いた。
 当たり前のことで、開いた掌には何もない。
 だが、大切な何かがあるような気もして、真幸はゆっくりと指を折り、もう片方の手でその拳を包んだ。冷え切った手は自分の体だというのに、重ねた手の感覚を何も伝えなかった。
 ふと、車の音に気付き、顔を上げる。
 一台の車が近付いてきていた。先程と同じように視界を真っ白に染める。
 真幸は目を細め、車が去るのを待ったが、予想に反してその車は真幸の目の前で停止した。後部座席の窓がゆっくりと降りていくのを、まだ光がちらつく目で眺める。
「何をしてるんだ?」
「……」
 苦笑いを顔に乗せた荻原が、「ったく、お前はなぁ」と溜息交じりに呟きながら車から降りてきた。
「仁さん」
 車内から声がかかり、荻原は助手席に体を向ける。
「ああ、サンキュー。
 ほら、風邪ひくぞ」
 背を向けた荻原が振り返り、窓から受け取っていたものを自分に向けて勢いよく投げてきた。闇の中をひらりと舞い、真幸の腕の中に落ちてきたのは、大きなストール。
「…ああ、わかってる。じゃあな、お疲れさん」
 助手席の窓から中にいる者達と短い会話を交わし、荻原はガードレールを跨ぎ歩道へと入った。その後ろから、スッと車が発進し去っていく。
「どうした。眠れなかったのか?」
 真っ直ぐと近付いてくる荻原は、暗闇でもわかるほどの笑みを顔にのせていた。
「それとも、俺のお迎えか?」
「…俺は子供でも犬でもない」
「なら、何でこんな時間にここにいるんだよ」
「別に、何処にいてもいいだろう」
 その言葉に、荻原は軽く眉を寄せたが、顔から笑みは消えはしない。
「かわいくない事ばかり言っていると、いつか痛い目を見るぞ」
 肩を竦め、真幸の手の中からストールを取り上げる。
「確かに拘束しているわけじゃないし、何処にいてもいいさ。だが、風邪をひかれるのは困るな」
 荻原はそれを広げ、ふわりと回して真幸の肩にストールを掛けた。柔らかい布が体を包み込む。
 あんたが困る事はないだろう、俺が風邪をひいたとしても。
 そう言いかけ、けれどももたらされた予想以上の温かい柔らかい感触に、真幸は口を閉ざした。
「お前、凄く冷たいぞ」
 荻原の手が頬に添えられる。その言葉とは違い、彼の手もまた同じくらいに冷たかった。それでも、合わさったところから熱が生まれる。
「…煩い。……よく、こんなものがあるな、もう夏なのに」
 触れる手を払い、真幸は肩にかかったストールを外し荻原に差し出した。
「掛けておけよ。
 実は俺、暑がりの癖に冷え性なんだ。だから、冷房を入れる時の必需品ってな。関節を冷やすのは悪いんだぞ」
「……あんたこそ、嘘ばかり言っていると痛い目見るぞ」
「酷いな、本当の事だ」
「…そうかよ。
 ……疲れているんだろう、行けよ」
「お前は? まだ居るのか?」
「…悪いか」
「いいや。でも、程々にしておけよ。冗談抜きで、風邪をひくから…」
 そう言っておきながら、次の瞬間、荻原自身がくしゃみをした。
「風邪を引くのは、あんただな」
「ったく、あげ足を取りやがって。
 寒いっ、畜生。こうなったら、お前もあがるぞ、ほらっ」
 問答無用というようにぐいっと腕を引っ張られ、立ち上がらされる。
「痛い」
「煩い」
 そう言いながらも掴んでいた手を放し、変わりに荻原は再び真幸にストールを掛けた。
「ほら、行くぞ」
「ああ、わかったよ」
 同意をしたことに満足したのか、荻原が先に足を進める。その背を少し眺め、真幸は再び空に視線をむけた。

+ END +

2003/01/09