はらはらと散る桜。
陽射しの関係だろう、隣の木はまだ五分咲きといった感じだというのに、荻原が立ち止まり見上げたその樹はもう、花弁を落とし始めていた。暖かな春の光に目を細めて眺めるそれは、今自分が立つ場所を忘れさせる。心に温かさが、安らぎが落ちる。
人込みの中、突然立ち止まりトリップしそうになった自分をどうにかするでもなく、ただ黙って一歩後ろに立ったままの存在に、荻原は軽い苦笑をもらし、視線を頭上から前方へと戻した。夜は閑散となるが、昼間は人が絶えることのないオフィス街。スーツ姿の人々が散りゆく花に目もくれず、ただ前へと進んでいる。立ち止まる者を気にも留めずに。
「樋口、何時だ?」
苦笑を落とされた事を知っているのだろうか、静かに立つ後ろの存在に、荻原は声を掛けた。
「1時20分です」
「よし。なら、時間は充分にあるな」
予想以上に先の仕事が早く終わった。そんな時はいつもまた別の仕事を入れるのだが、今日は他の事を思いつく。次の仕事で人と会う約束は3時。しかも、多少待たせても全く問題はない相手だ。時間はある。
実行可能な思いつきに、自身で笑った荻原に、樋口は感情の含まない声で訂正した。
「残念ながら、ありません」
「何故?」
振り返り、自分より背の低い青年を荻原は見下ろした。言葉同様、可愛げのない表情だが、それはいつものこと。
「霧島さんが来ます」
「…なら、来る前にさっさと行こう」
仕事を持ってくるのだろう者の名前に、荻原はそんな返答を返し、歩道脇に止めている車に近付いた。その言葉を実行するのは無理な事だとわかっているが、だからといって自身の希望を口に出してはならないわけでもない。
荻原のそんな子供じみた態度に、樋口は返事はせず、同じ様に車へと近付いた。外で待つ様子を見せないという事は、霧島は直ぐに来るということなのだろう。荻原は僅かに眉を寄せる。
だが、しかし。
逆に言えば、やって来る男と交渉が出来れば時間を作れるということなのだから、無理に逃げ出すよりも良いではないか、と軽い笑いを浮かべ直す。
そんな荻原に、車から勢いよく飛び出してきた中年親父のような男が、ドアをあけて頭を下げた。
これでも自分よりも若い、まだ二十歳そこそこの青年なのだとは、いつ見ても信じられない。だが、それは事実であり、付き合うと外見とは違い中身は幼すぎるという事が直ぐにわかるものでもあった。
「御苦労様です」
男の言葉に、「ああ、待たせたな、山下。お疲れさん」と、荻原は軽く返事を返しながら車内に体を滑らせた。
だが。
バタンと閉じられたドアとほぼ同時に、「…われぇ、何すんねんっ!」と怒声が響き、振り返る。スモークガラス越しに荻原が外を見ると、山下が頭を抑え樋口を捕まえていた。しれっとした表情を見せながら樋口が言葉を口にする。車内の荻原には聞こえなかったが、その口の動きと山下の反応で、「馬鹿」と言ったのだろうと予測が出来た。
「何だと、ああ? 喧嘩売ってんのかっ」
顔の色を変えた山下の姿に、荻原は軽い溜息を吐く。
真っ昼間の街中でよくもまあそんな姿を晒せるものだ。醜いとまではいかずとも、それに近いのだ。少しは恥じらいというものを持って欲しい。そう呆れた荻原だが、口にはしないし、止めようと行動も起こさなかった。折角隠れた場所にいるのだから、この男の連れだと顔を世間に見せる事もないのだ。
自分が他人の振りを決め込こもうとも、直ぐに別の止める人物が現れるので問題はない。いや、たとえそうでなかったとしても、樋口がひとりでどうにかするだろう、と荻原は深くシートに凭れて天井を仰ぎ、首を回して肩を解した。仕える者を放って怒り狂う山下とは違い、樋口は愛想のない表情ながらも、自分を気にしているのが感じ取れる。
「――お前ら、何をやっている。中に入れ」
荻原の予想通り、直ぐに睨み合う二人に声が落ちた。
第三者のその声に、樋口がさっと行動を起こし、助手席へと体を滑り込ませる。
「…申し訳ありません」
「いや、いいよ」
謝罪の言葉に軽く手を上げる荻原の横に、二人を一喝した男が入ってきた。
「失礼します。
――いいから、お前も早く乗れ」
荻原に挨拶した男は、ドアを閉めようとしていた山下にそう言い、運転席を顎で示した。それに従い入ってきた山下の顔は、気に入らないといった不貞腐れた面だった。本当に、その見た目と違い、子供でしかない。
「ったく、何をしているんだ、お前らは。あなたも止めてくださいよ、社長」
「お前がくれば止めると思ってな、待っていた」
待たないで下さいよ、と溜息を吐く男・霧島に喉を鳴らしながら、荻原は山下に声を掛けた。
「俺は別に気にしないんだけどな、山下。
同等でも使わない事もないが、『御苦労様』っていうのは上が下を労うのに使う言葉だ。っで、『お疲れ様』が同等の者や下が上に対して使う言葉だ。ま、もっと正確に知りたければ辞書でも引いてくれ」
「は? 何だ、山下。お前そんな事を言ったのか?」
荻原の言葉で事態を察した霧島が、呆れた声を上げた。
「…済んません! 俺、知らんかったです。御苦労様ってお疲れ様の丁寧な言い方かと思て…、ずっと使うてた…」
「よく今まで怒られなかったな」
荻原は軽く笑いながらそう言いはしたが、山下だから仕方がないと、自分同様周りも呆れ果てて口にしなかったのかもしれないと思い納得もした。この若者は、許されているのではなく、それだけ見捨てられているという事なのだろうが、同情心はおこらない。
「ま、悪気があっての事じゃないんだしな、樋口も怒るな。山下も、樋口は無意味に他人に当たる奴じゃないんだから、自分に非があるのだと、切れずにきちんと教われ」
「…はい、わかりました。…済みませんでした」
しゃがれた声で子供のような口調で謝る山下に、この件はこれでもう終わりだ、と霧島が行き先を告げる。動き始めた車は、けれども直ぐに信号に捕まり停止した。
返答によってはこのままここで降りるのも悪くはない。
そんな事を企みながら、荻原は霧島に声をかける。
「っで、何を持って来たんだ、お前は」
「加持商事の件ですよ。今からそちらに行ってもらいます」
そう言い、簡単な説明をした霧島に、荻原は溜息を吐いた。車がカクリと震動をさせて走り始める。
「俺じゃなくともいいだろう」
溜息交じりに荻原は言い、どうなんだと霧島に視線を送った。それを受けた男は、流すように笑う。
「そうかもしれませんが、あなたの方が確実です。いいじゃないですか、時間があるんですし」
「ない」
「何故?」
「行きたいところがある」
「どこですか?」
「大学」
その言葉に軽く眉を寄せた霧島だったが、直ぐに口元に笑いを浮かべた。
「ああ、例の青年か?」
言葉を崩した相手に荻原は手ごたえを感じ、同じようにニヤリと笑う。
「そうだ。いいだろう、健吾。行かせてくれよ」
「さて、どうするかな」
荻原から視線を外し、手元の書類を繰りながらも、下の名前で呼ばれた霧島は楽しそうに喉を鳴らした。
「たまには息抜きをさせろ」
「最近してばかりだと聞くがな」
砕けた言葉は、最早上司と部下といったものではない。
お前は良くても俺には俺の立場があるんだ。そう言って、普段は真面目に礼儀を持って荻原と付き合う霧島だが、元々は大学時代の連れという上下関係のない始まりだったので、けじめ以上の誠意はない。
「その青年、そんなに気に入ったのか。いいね、俺も見たいね」
「お前も行くか?」
その言葉に、霧島は肩を竦め、パシンと指先で手の中の書類を弾いた。
「馬鹿か、お前は。俺が行ったらこっちはどうするんだよ」
「やってくれるのか?」
「しますとも。他ならぬ、仁一郎くんの頼みとあらばな。
その変わり、ゴールデンウィークに纏まった休みをくれよ」
頼むよと言い苦笑した霧島を荻原は笑った。霧島の恋人は、海の向うなのだ。
「オッケイ。斉田には話をつけてやる。ついでに、飛行機も取ってやろう」
こうして交渉は成立した。実に簡単に。
「お前はここでいろよ」
途中で霧島と山下を降ろし、樋口の運転で大学に来た荻原は、車を降りながらそう命令を下した。
「しかし…」
「心配せずとも、間に合うように戻ってくる」
そう言い笑った荻原を樋口はじっと見つめ、「わかりました」と頭を下げた。戻らなければ探し出す覚悟を決めたのだろう。ここで霧島のように軽口をつけば可愛げがあるのだが。
「ま、好きにしていろよ」
これが山下なら、「大人しくしていろ」と言わなければならないのだろう。
自分の言葉に再び頷く樋口に、荻原は身を翻し、後ろ手を振っておいた。山下と違い、こちらが心配をする必要がないという点ではとても楽だが、反応が薄いのもそれはそれで物足りない。
あの青年の方が、同じように愛想なしだが、愛敬はある。
ふとそんな風に二人の若者を比べてしまった自分に荻原は苦笑した。何だか、年寄りじみている、と。
さて、どうやってあの青年を探そうか。
そう思った荻原は先日と同じように、とりあえずはと歩いていた学生を捕まえた。先日、荻原が探す人物があっさりと見つかったのはたまたまだろう、と思ってのことだったが、認識は甘かった。違ったらしい。
目的の人物の名前を出すと、今出ている授業の名前があっさりと返ってきたのだ。
「飯田なら、日本経済史のところに居るだろう、多分」
「…良く知っているな。あいつの友達?」
「なんだ、知っていて訊いてきたんじゃないのか? あんた誰?」
うちの学生じゃないのか?
赤い髪の青年が荻原を見て首を傾げた。その横に立つ少女は、口を挟まずただじっと荻原を見ている。派手な青年とは少しつりあわない、真っ黒な髪に化粧気のない娘だった。だが、素材は上質と言えるだろう。黒目の大きな瞳に、荻原は軽く笑いかけた。パッと花が咲くように、白い頬が赤く染まる。
「あんたも、あいつの連れ?」
「さあ、どうだろう。ガードが固くて難しいからな。友達…候補ってところかな」
荻原の可笑しな答えに、「何だよ、それは」と青年が笑う。
「ま、いいや。多分その授業だから、行ってみればいい。居なかったらその辺の奴に聞けばわかるよ、あいつ目立つから。ああ、教室は経済棟だけど、どこかまでかはわかんないな。
えっと、…掲示板に授業項目載ってるよな?」
青年が傍らの少女に尋ねると、彼女はコクンと頷いた。
「あんた、経済棟はわかるよな、あの建物。じゃあ、入って突き当たりを右に行けば直ぐ掲示板があるから、そこで調べれば良いよ。日本経済史、な。人気のない先生だから、多分受講生も少ないよ」
「ああ、ありがとう」
じゃあな、と立ち去る気さくな青年に礼をいい、荻原は教えられた建物に足を進めた。
あのクールな青年と、友達だという赤い髪の青年の組み合わせを考え、微かに笑みを落とす。何だか意外ではあるが、似合っているのかもしれない。あのクールな性格と付き合うには、あれくらいの元気さが必要なのだろう。
そんな事を思った荻原だが、ふと自分もそうではないか、と思い当たる。
「…おいおい、あれと同レベルかよ」
呟いた言葉は、空気に解けるほど真実味をおびた。そう、あの青年にすれば、それはあながち外れてはいないのかもしれない。
大学など何処も似たようなもので、授業中の講義棟には人影は少なかったが、それでも掲示板の前には幾人かの者がいた。それに混じり、教えられた講義をしている教室を探し、階段を昇り、3階の一番大きな教室を目指す。
荻原は教室に入ると、直ぐに目的の人物を見つけた。それもその筈で、200人は入るだろう教室にいる受講生は、せいぜい20人といったところなのだから、見つけられない方がどうかしている。
後ろの出入口から数える方が早いだろう、真ん中よりも幾分後ろよりの席に青年は座っていた。
静かな教室に荻原の足音が響くが、誰も気にしない。通り越す時に見下ろした、一番後ろに居た、いかにも体育会系の男は完全に熟睡しているようだった。
青年の隣の席にゆっくりと荻原が腰を降ろすと、直ぐには気付かず、数拍の間を置きふと彼は振り返った。一瞬目を見開き、直ぐに眉を寄せる。
真っ直ぐと注がれている目は黒板を見ているようでいて、けれども何も映していない虚ろなものだった。何かを考え込んでいるようなその無防備な姿も悪くはないが、やはり自分は、この強い視線が好きなのだろう。だからこんな事をしているのだろうか、と自信に呆れながらも、荻原は笑いを顔にのせた。
「よう」
「…何をしているんだ」
教師の声が響くだけの教室。顰めた声は苛立ちを含んではいたが、抑える理性は残っているようだ。
「お前を探して遥々と」
「ふざけるな」
「ふざけてなどいないさ」
「…何故、ここが…」
「別に、発信機なんてつけていない。見張っているわけでもない。気にするな」
なら、尚更どうやって。
そう眉を寄せた相手に、荻原は口角を上げる。そして、机に肘を突き、指先で自分のこめかみを軽く突付いた。
「勘だよ、勘。俺の勘は良く当たるんだ」
更に睨みにきた青年に、荻原は喉を鳴らした。予想通りだとしても、笑わずにはいられない反応だ。落ち着いては見えるが、歳相応の幼さが見えるそんな仕草は、どこか微笑ましくさえある。
実のところは、何てことはないのだ。青年の性格と生活環境を見れば見つけ出す事など簡単だ。殆どマンションと学校の往復なのだろう。街中での移動中はさすがに無理だろうが、それさえも不可能ではない。通る道も立ち寄りそうな所も限られてくる。何処かで遊ぶとしても、その行動範囲は狭いものだ。
「…なら、ここまで勘でわかったのかよ」
青年は黒板に視線を戻し頬杖を付きながら、煩そうに呟いた。
「まさか、また訊き回ったんじゃないだろうな」
「いや、一人だけだ。目立つからな、お前は」
荻原の言葉に、少し首だけを傾け、冷めた視線を青年は投げてくる。目立つ自覚はあるのだろうが、それを納得はしていないらしい。
「捕まえたのが、偶然お前の友達だったからわかったんだよ。本当に偶然だぞ」
「誰だ」
「名前まで知らないさ。赤い髪の男だ。可愛い彼女も連れていたな、大きな目の」
「…なるほど。…多分、連れていたのは、彼女じゃなく妹だな」
香川って奴だ、と青年は答え、再び黒板に視線を戻した。
暫くその横顔を見ていた荻原に、前を向いたまま青年が口を開く。
「…今朝、挨拶をされた」
「誰に?」
「…それこそ名前なんて知らない。頭の禿げた、ここの守衛のじいさんに」
「それなら、多分、金田かな。人の良さそうな奴だろう、いつでもニコニコ笑っている」
「やっぱり、あんたの知り合いか……」
青年は溜息交じりに言い、頬杖を外し、今度は腕を組んで椅子に深く凭れた。組んでいた足を逆に組み直し、ちらりと荻原を見る。
「まあ、でも、別に守衛が学生に挨拶するのなんて、珍しくないだろう?」
気にするな、と言いかけた荻原の言葉は、青年の口から落ちた言葉により、喉元で消滅した。
「…少し我が儘ですが、彼はいい子なんですよ。よろしくお願いします。――これでも普通かよ」
俺にはそうは思えない。
ここぞとばかりに悪態をつくように、鼻で軽く笑う。それは、機嫌が悪いというよりも、性格を疑いたくなるような、妙にはまった態度だった。
だが、それを突っ込む事など荻原には出来ない。今は謝罪を口にする時なのだから。
「……それは、悪い」
「ああ、悪いね。…俺はあんたの連れじゃないんだ、ちゃんと言っておけ」
「…わかったよ」
そう頷きながらも、荻原の口からは溜息が落ちる。
先日この青年を連れ出した時にでも見ていたのだろうか、金田は。世間には認められない家業に身を置いていたわりには、極々一般的な男を思い出しながら、荻原は再び息を吐いた。悪気など微塵もないのだろうが、これはこれで邪魔をする連中よりも性質が悪いのかもしれない。
「あんたの言葉は信用出来ない」
「なら、どうすればいいんだよ」
「どうやっても無駄だ」
「じゃあ、言うなよ」
「言わずにはいられないだろう」
忌々しげに吐き出された青年の言葉に、面白味も何もない声が重なった。
「そこの二人。五月蝿い、出て行きたまえ」
厳しい声が、マイクを通して教室に響く。
注意を受けた青年は、眉を寄せ、ただじっと今までと同じように黒板を見ていた。その声が耳に入っていないような、平然とした態度だ。だが、側でいる荻原には、気に入らないといった感情を持っているのが感じ取れた。
こういうことでも、怒るらしい。
少し意外な、けれども年齢を考えれば当然なそれに、荻原は内心で笑みを落とす。クールだが、喜怒哀楽は人一倍ある。感情は豊かだが、それを何故か表に出す事をしない。けれども、隠しきれるほどの完璧な態度を取れない。その微妙さが、微笑ましい。
荻原はそんな青年から、教師の方へ視線を向けた。声同様、何の面白味もない50代半ばの男が視界に入った。スーツなど、一体いつから着ているのかと思うほどにくたびれている。
一喝した事で満足したのか、再び資料に視線を落とそうとしたその男に、荻原は、「失礼しました」と立ち上がり頭を下げた。隣から、青年の視線を感じたが目は向けず、顔を上げ教師を見る。
「自分一人が騒いでしまっただけです。本当に、申し訳ありません」
こんな態度を返されるなどと思っていなかったのだろう。不満顔ながらも何も言わずに出て行くか、不機嫌に居座り続ける生徒を想像していたといったところか。
間抜けにも、荻原の姿勢に圧倒されるように軽く口を開いたまま、教授は目を瞬かせた。
そんな男に踵を返し、荻原は教室を後にした。
やれやれ、と廊下に出てふと息を吐く。折角ここまで来たというのに、とんだ邪魔が入ったものだ。
だが、短い時間だったが、顔をあわすことが出来たので良しとしよう。特に何かをするために来たわけではないのだから。
腕時計で時刻を確かめると、約束にはまだ余裕はあるが、そろそろ戻らなければ樋口が動き出しそうな時間でもあった。
肩を竦め、歩き出す。だが、後ろから上がった靴音に、荻原は直ぐに足を止めて振り返えることとなった。
「…何をしているんだ」
教室を出たところにある灰皿の横に立っていたのは、不機嫌そうに眉を寄せながら煙草を咥える青年だった。
「お前まで出てくることはないだろう」
「あんな事をされて、居られるか」
確かにそうだ。だが、この青年なら、居座りそうにも思ったのだが。
「いいのか?」
「ああ。…どうせ受講はしない」
一度灰皿に灰を落とし、咥え煙草のまま、青年は歩き出す。
「ま、確かに、生徒に誠意を求める割には、お粗末なものだったな」
「……」
お前が言うな、と言うように荻原に一瞥を送り、横をすり抜ける。そんな青年の隣に並びながら、「お前はこれからどうするんだ?」と荻原は問い掛けた。
「ゼミの顔出し。…ついて来るなよ」
煙と同時に吐き出されるその言葉に、荻原は肩を竦める。
「さすがに、それはな。第一、俺も仕事だ。暇じゃないんだよ」
「なら、来るな」
「そんな中、態々苦労して足を運んだというのに…。お前、ホントつれない奴だな」
「俺はあんたに会いたくない」
身も蓋も無い言い方だが、それでも荻原は喉を鳴らした。そんな自分を怪訝そうに見る青年の姿に、更に笑みを溢す。
まだ会ったばかりのこの青年を、自分で思っている以上に気に入っているらしい。会いたくはないという言葉にさえ喜ぶのだから。
講義棟を出て、別の棟へと足を向ける青年の名を呼ぶ。
「なあ、マサキ」
嫌だと、迷惑だと言いつつも、完全に無視する事は出来ずに自分を振り返る青年に、荻原は再び笑いを落とした。
「いや、何でもない」
怪訝な顔をした青年は、溜息を吐いて簡潔に言った。
「帰れ」
「ああ、そうするよ。じゃあ、また、…そうだな、夜にでも」
「……それはない。俺は絶対にあんたとはもう会わない、誘いにも乗らない」
来ないのなら、押しかければいいだけのことだ。部屋は知っている。
しかし、それを今口に出すほど自分は親切ではないと、荻原はただ笑って手を上げた。
「じゃあな」
春の強い風に乗るように、青年に背を向け荻原は歩き出す。
自分は何度、青年にこうして「またな」と挨拶をすることになるのだろうか。その数だけ青年と会い、その数だけ、未来を約束するのだ。
悪くはない。
あの青年となら、それも楽しいだろう。
そんな思いを持った荻原を笑うように、桜の花びらが風に舞った。
+ END +
2003/03/04
Special Thanks to Tomomi_sama