夏の陽が沈みきったころ、いつの間にか住み慣れてしまった部屋を後にし、俺はいつものようにあてもなく街へと繰り出した。
まだ西の空が僅かに赤い色をしているが、それも直ぐに消えてしまうのだろう。真上の紺色の空を見上げ、視線を街へと戻すと、上着を手に持ちネクタイを幾分か緩めたサラリーマンの姿が目についた。まだ明るいとはいえ、それなりの時刻なのだと、今更ながらに気付く。
だが、普通のサラリーマンとは違うあの部屋の主は、まだまだ帰宅する事はないはずだ。あの男の中には、就業時間の感覚などありはしないのだろう。常に趣味のように仕事をしている。
あれほどまでに働いて、一体何を得ているのだろうか。
俺は陽が沈み、少し解放されたかのような緩んだ空気が漂う街を、ゆっくりと波に乗り歩きながら、ふとそんな事を考えた。擦れ違うサラリーマン達は、会社から離れて得た自由を喜んでいる者ばかりだ。若者のようにはしゃぐ彼らが、今と同じように楽しそうに仕事をしているとは、あまり思えない。
その点で言っても、あの男は特別なのだろう。口では色々と言いながらも、あの仕事を楽しんでいる。生き甲斐にしている。その熱の入れようは、俺でも少し羨ましくなるくらいのものだ。
自分が社会人になった姿を、俺は全く想像出来ない。四年になるまで就職活動は殆どしてこなかったが、特に焦ってもいなかった。なるようになるだろうと、確かにそんな甘さもあったが、まずは夏までに院に進むかどうかを考えればいいと、それを選べる余裕が俺にはあったからだ。
仕事をしなければ生きてはいけないと、理屈ではわかっている。だが、多分このまま、院か別の専門学校かどこかに進むだろうと、漠然とだが考えていた。だから、自分が働くことはまだ先で、その姿は夢にも見なかった。
今は、その未来は何一つ得られはしないと理解しており、考えないようにしている。一年後の姿は、俺にはもう、本当に夢でしかないのだ。
だから、思う事はあまりなかった。だが、考えてもおかしくない歳でもある。
俺は一体、どんな社会人になっただろうか。あの男のように、仕事を楽しめる者になれただろうか。自分に自身が持てる仕事をする事が出来ただろうか。
単なる夢物語としてでも、時々考えてしまう。あの男が側にいるからこそ、思い描いてしまう。
社会人と学生の違い。その境界線が何処にあるのかは、わからない。だが、もしかすれば、今までとは違うその立場に立った時、俺は少しは変われたかもしれない。その可能性を得られたかもしれない。
働く事を望んでいたわけではないのに、それが得られないとわかると、子供のようにそこに夢をみてしまう。我が儘にも、欲しいと願ってしまう。
人間とは、とてもおかしなものだ。
今までは関心などもてなかった、擦れ違う草臥れた中年のサラリーマンの姿に、一瞬目を奪われる。
本当に、おかしなものだ。
適当に入った若者向けの少し騒がしい店で、喧騒に苛立つ事はなく、ぼんやりと俺は取りとめのない事を考える。死への恐怖は変わらずこの胸にあるが、今は心の奥底で眠っているようだ。
だからだろう。今夜は、気分が良い。体はだるくはあるが動き回るのは苦ではなく、時たま小さな頭痛が起こるが直ぐに引くので、体調は良いと言えるのだろう。尤も、重い病を抱えているのだから、気休め程度でしかないのだろうが、それでも俺には貴重なものだ。
食欲も少しはあるので、綺麗に盛られた料理を軽くつつきながら酒を飲む。一人だが店の中で浮く事はなく、俺はゆっくりとその空気を味わう。こういうのは、とても久し振りな気がする。
一人暮らしなので、食事は外でとる事の方が多かった。何かと構いにくる周りの奴らも、似たような一人暮らしの者ばかりで、何だかんだといっても誰かとよく一緒にいたように思う。騒ぎの中に身を置くのはあまり好きではなかったのに、彼らの誘いにのっていたのは、その方が楽だったからだろう。そして。
どこかで、適当なその場限りの付き合いの彼らでも、離れられていくを怖がっていたのかもしれない。だからこそ、どうでも良いと、そうなってもショックを受けないように、初めから冷めた感情を持つようにしていたのかもしれない。
自分は何に対しても、臆病だったのだろうか…。
変化自体が怖かったのか、それに付いていけない自分が予測でき脅えていたのか。束の間訪れただけのこの安らぎの中で、それを見出せるほどの器用さを、俺は持ってはいない。そう、この思い出すら、一瞬後には形を変えそうな曖昧なもの。
だが、それでも、俺は色々と考える。
今までは、この答えの出ない思いを、鬱陶しいものだと捨てていた。考えても意味などないのだと、否定していた。だが今は、答えなどなくてもいいのかもしれないと思える。根拠など何処にもないが、これでいいのだと、何故か信じられる。
そんな俺は、まるで言葉を覚えた子供が話し続けるように、頭の中に次から次へと色々なものを浮かべる。
その多くは、この数ヶ月間の事だ。
何も知らないくせに知った風な口を聞く、何処にでもいる馬鹿な学生。社会の厳しさを見ていないくせに、それを簡単に否定し笑う、単純な若者。あの男にすれば、俺はそんな者なのだと思う。
何だかんだと言っても、自分の足だけで立ち、動き回っている大人の男にすれば、こんな俺は生意気な餓鬼でしかないだろう。
なのに、俺を気に入っていると言う。
人を使う事をなんとも思っていないような節があるくせに、人一倍周りに気を配れる奴で、何のメリットもないのに、それを俺にも分け与える。手を貸しているのに、恩義背がましくしないどころか、それ自体を気付かせない。器用な奴。
そして、俺は差し伸べられた手を握り返し利用しながら、そんな事はしていないと首を振る厚顔さ。厚かましいにも程がある。
なのに、あの男は全てを、ただ笑って流してしまう。
それだけでもう、圧倒的な差を見せ付けられているというのに、なかなか認めない俺は、彼の目にはどう映っているのだろうか。餓鬼らしいと笑っているのか、呆れているのか。
その答えが何であれ、俺はいつものように顔を顰めるだろう。
だが、それでも。俺は荻原に、俺の事をどう見ているのか、訊いてみたい気がする。
店を出た時は、すっかり夜は更けていた。だが、真っ直ぐあの部屋へと戻る気にはなれず、そのまま街を歩く。
繁華街の人はまだ暫くは消えそうにないが、そこから少し外れると、流石に人影は疎らになる。ほろ酔い気分のサラリーマンが騒ぐ姿も、暗闇の中ではどこか物悲しさがあった。
それでも完全に消えない人波に乗りながら、俺は酒が入り少し心地良い気分で、夏の夜の街を泳ぐ。まだ昼の熱気が残り汗が滲むほどの気温だが、それでも夜の薫りがする。見上げた空には、少し赤い月が浮かんでいた。
歩き慣れた街。明かりが消えた店も、派手なネオンが点る店も、ビルに囲まれたこの都会では味気ないものでしかない。だが、それでも。この頭に記憶として埋め込まれたそれらは、単純に思い出として俺の中に残るものでもある。
何度俺はこの街を、この店の目を通っただろうか。知る事は出来ない、けれども答えは確かにあるその問いを、いつの間にか夏模様になった店に視線を向けながら問う。立ち止まる事はなかったかもしれないが、ショーウィンドウに写る自分の姿を目にした事があるかもしれない。通り雨に合い、軒下に飛び込んだ事があったかもしれない。
こっちの店は、確か一度だけ来た事がある。ゼミの新歓の時だったか、連れとの飲み会だったかと、俺は考え軽く笑いを落とす。あまりにも昔の事のように、思い出せない。
自然とゆっくりになった足を止め、車道を挟んだ向こう側にある歩道に目をやる。こちら側の歩道と同じく、少なくはない人影が行き交っている。高校生風の数人の男女が、楽しげに大きな声ではしゃぎながらダラダラと歩いている。
あの場所が、はじまりだった。
俺は見えない過去を見るように、僅かに目を細め、口元に笑みを浮かべる。あの場所であの男に会わなければ、俺はどうなっていたのだろう。
何度考えても、おかしすぎるものだ。今まではそれを笑えなかった。だが、今は単純に面白く思う。そんな自分が、更におかしい。
まさかこんなに関係が続くなど、あの時は考えてすらみなかった。強引に乗せられた車の中で、逃げ出す事ばかりを考え、諦め、自分の不運を呪っていた。
あの出会いが、偶然だったのか必然だったのかなど、どうでもいい事なのだろう。あの場所で出会い、そして今がある。この事実だけが、確かなものだ。
もう一度笑いを落とし、俺は止めていた足を、再び動かしはじめた。
いいものなど、そう多くはない。だが、それでも。
この街には、俺の沢山の思い出がある。
別れを告げるというよりも、ただ、自分の心を確認するように、思い出を探す。
それはまるで少女趣味で、自分の行動に嘆きたくなるような気もするが、それでも今夜は、笑って流せる。ただ単純に、街の様子を追いかける。
どれくらいそうして街を歩いていたのだろうか。携帯で時刻を確認すると、いつの間にか日付が変わっていた。
そこで漸く、帰る気にはなれなかったあの部屋を、俺は思い浮かべる。
荻原は、もう帰ってきただろうか…?
この時間ならまだかもしれない、と考える俺が進む歩道の先に、スーツ姿の男が二人現れた。先程街中で見たような者とは違い整った姿だが、擦れ違いざまにアルコールの匂いを嗅ぐ。
何気に彼らが出て来た建物に目をやると、地下への階段に電気が灯っていた。その先には小さな看板が見える。
足を踏み入れたのは、気分が良かったからだろう。記憶ばかりを追うのに飽き、新たな発見をしたくなったのかもしれない。そう、いつもの俺なら気になったとはいえ入ることはないのだろう、と自分で自分の行動に呆れながら、俺はその細い階段を降りた。
階段を降りきった所に、上からも見えた、小さな看板が申し訳程度に掲げられていた。横の黒い扉に目をやり、迷ったのは一瞬。いかにも一見はお断りだといった風情だが、もし本当にそうなのであれば出ればいいだけの事で、注意を受けるだろうと中へと入る。
看板に刻まれていた店の名の通り、そこは深海を思わせるバーだった。
意外と広さがある店内は黒で纏められ、蒼いライトが灯されている感じのいい店だ。だが、客は数人しかいない。
俺は誰も座っていないカウンターに腰掛け、ラストオーダーは過ぎてしまったのだろうかと、中にいる自分とそう歳の変わらなさそうなバーテンに声を掛けた。
「まだ、飲ませてもらえますか?」
その問いに青年は大きく頷き、初めて来た客だとわかったのだろう、少し離れた場所にあったメニューをさり気なく引き寄せ、そこに記された営業時間を軽く指で示すた。ギリギリだが、確かにラストオーダーまではまだ数分ある。
メニューには沢山の名前が記されていた。だが、酒は飲むがあまり興味のない俺には、書かれたものが何なのかわからない。なので、適当に目についたカクテルを注文する。
「カミカゼを」
その俺の声に、「保志さん…」とカウンター内の扉から姿を見せた店員の声が重なった。前にいた青年が軽く振り返る。彼より幾分幼い、少年とも呼べそうな店員が側まで来て俺に軽く頭を下げると、小さな声で青年に用件を告げた。だが目の前のやり取りなので、俺にはその内容が丸聞こえだ。
「早川さんが呼んでいますよ。昨日の件で、先方が頷かないとか何だとか。あまり機嫌が良くないんですけど」
その言葉に青年は頷くと、後ろ手で器用に、酒が並べられた棚の空きスペースを指で数度叩いた。それは店内に心地良く響く音だった。用を終えた若い店員が再び奥に戻っていく。だが、青年はそれに続く事はせず、俺の手の中からメニューをスッと抜き取った。
その行動に少し驚いた俺に、「いらっしゃいませ」と低い男の声が入り込んできた。声と共にカウンターに入ってきたのは、フロアーにいた壮年の店員だった。いや、年や雰囲気からして、店主なのかもしれない。
青年は、その男にメニューを渡し俺に軽く頭を下げると、先程少年が出入した扉を潜りカウンター内から姿を消した。
「カミカゼ、でよろしいんですね」
メニューを俺の側に置きながら優しく微笑み、40半ばほどの男はそう確認をしてきた。俺が頷くと、「かしこまりました」と棚から瓶を取り出す。もしかして、あの青年はこの男を呼ぶために棚を叩いたのだろうかと、ふと思いつく。
それに気付いたかのようなタイミングで、男は俺のその疑問をあっさりと解決させた。
「今の彼は、喋れないんです」
「えっ。ああ、…そうなんですか」
「ええ。そして、カクテルを作るのが不得意でしてね。注文を受けた時は別の人間をああして呼ぶんですよ」
軽く笑いながら、男はそう言った。その言い方に、それで役に立っているのだろうかと思わず考えたが、優しく笑う男の笑みに、それは杞憂だと俺は気付く。
「お見えになるのは、初めてですよね」
「あ、はい。何度も前を通っていたのに、失礼ながら、今日までこの店に気付きませんでした。それで、好奇心に駆られ入ったんですが…、良かったんでしょうか?」
「ご心配なさらずに。こんな店ですから、確かに常連の方の繋がりが多いですが、そう言う決まりを設けている訳ではないんですよ」
「なら、良かった」
俺の呟きに、男は笑顔で頷く。
数種類の酒を入れたシェイカーをリズミカルに振り、微笑を消さないそのバーテンは、中身をロックグラスに注いだ。
「お待たせ致しました」
出されたものは、少し白濁したカクテルだった。カランとグラスの中で小さく氷が揺れる。
色合いから柔らかいものだろうかと俺は思ったのだが、それは苦味と酸味が強い辛口のもので、舌と喉を刺激した。だが、これが癖になるのだろう。
知らずに頼んだが旨くて良かったと、カクテルは愚か酒の知識も殆どないのだと俺が話すと、バーテンは「気にいったものをその都度覚えればいいんですよ」と言い、簡単に説明をしてくれた。俺が頼んだこのカクテルはアメリカで生まれたもので、日本軍の神風特別攻撃隊からきているものらしい。だから、攻撃のような、刺激の強い酒なのだ。
「気軽に、好みや体調などを仰って頂ければ、お勧めのものを作らせて頂きますし、このカクテルをもっと辛めになど、レシピに拘らないものでもお受けします。バーテンダーは注文を受けたものを作るばかりではありません。お客様を知り、その方にあった飲み物を調整出来なければ」
なので、そう硬く考えずに楽しんで下さい。
何となく、酒を良く知るバーテン相手では、無知な俺は少し構えてしまいがちになるのだが、そんな雰囲気は微塵も感じさせずに微笑む男の言葉に、妙に納得する。こうして出されたものの名前や材料を聞いていれば、自然と知識は深まっていくのかもしれない。
「よろしければ、もう一杯如何ですか?」
折角初めてお越し頂いたサービスです、と空になったグラスを下げながら男は言った。だが、気付けば、店に残る客は俺一人。壁にかけられた時計に目をやると、営業時間は既に過ぎている。
「でも、もう…」
男との静かな会話にすっかり夢中になっていたのだと今更ながらに気付き、これ以上は迷惑だろうと俺が断ろうとした時、先程の喋れないらしい青年がカウンター内に入ってきた。まだ客がいるとは思っていなかったのだろう、俺を見て、僅かに目を開く。
「ああ、保志くん。別に構わないよ、練習をしてくれて」
男の言葉に頷き、青年は俺に軽く頭を下げると、カウンターを出た。目で追うと、彼は店の奥にあるステージへと上がった。そこには、グランドピアノが置かれている。
「ピアノ、ですか」
「いや、彼はサックスを。今は演奏は彼に任せてばかりで、あのピアノは時たま私が息抜きに弾く程度なんですよ」
見栄えがいいので置いているだけなんです、と男は笑った。その声に重なるように、トントンと音が響く。再び振り向くと、青年がサックスを持ち立っていた。そして、こちらに向かって、すっと腕を上げ指を差した。
「何かリクエストはありませんか」
「え?」
何でもいいですよ、と男が笑顔を浮かべたまま僅かに首を傾げた。席を外すタイミングを失っていることを、俺は悟る。
生憎サックスの曲など全く知らないと答えると、「彼もまだ殆ど知りませんよ」と男は肩を竦めた。
「私が使っていたピアノの楽譜を見て、好き勝手にアレンジしたものばかりですよ、彼の曲は。センスがいいのでそれで十分なんですが、最近は少し勉強してもらってもいます」
耳の肥えたお客様もいますからね、と男は言いながら、「あまり音楽には興味はないですか?」と俺を促した。
「なら、…どれでもいいですから、ビートルズの曲を」
俺の注文に深く頷き、男は視線をステージへと向けた。だが、その注文が聞こえていたのだろう、彼が口を開く前にサックスの音が響きだす。
先日、別の店で同じ曲を聴いたが、サックスとピアノでは感じが違うと、俺は妙な関心をした。その俺の前に、男がカクテルを出してくれた。世界一周という意味の名がついた緑色の綺麗なカクテルは、爽やかで少し甘い味がした。流れる曲と酒を味わいながら、あの男の事を思い出す。
自分と5歳しか違わないのだから、彼もビートルズ世代というわけではないだろうに、懐かしいなとこの曲に耳を傾けていた。学生の頃ギターで弾いていたなど、あの男の場合口から出任せだと十分に考えられる事で、けれどもその姿を思い浮かべ、俺は軽く笑う。似合わない、そう思うのに、簡単に想像出来てしまう自分が嫌だ。
だが、不思議と腹立たしくはないのは、この曲に酔っているからだろうか。
サックスの音が、ここまで優しく響くなど、俺は初めて知った。
長く居座ってしまった事を謝罪し、礼を言い出て行く俺に、「是非、またお越しください」と男はそんな言葉をかけた。俺はそれに軽く頷き、店を後にした。
階段を上り歩道に姿を出すと、静かな街が俺を向かえた。人影がなくなった歩道は、けれども寂しさなど感じさせない、安らぎがある。眠った街のすぐ側では、未だ明かりが煌々としているのだろうに、それでもここには確実に夜が訪れている。
静まり返った街の中は、とても気持ちが良かった。夜空を見上げれば、月の他に幾つかの星も見える。
何の前触れもなく、ポケットで携帯電話が震えた。
無粋な奴だと、こんな時間にかかってくる者など一人しか知らず、少し不機嫌な声で通話に出ると、予想通りの声が聞こえてきた。
『何処にいるんだ?』
だが、それはどこか不安な、頼りなげな感じがして、俺は軽い笑を零した。なんて声を出しているんだ、この男は。
『飲んでいるのか?』
「少しだけだ」
本当かよ、と溜息交じりに言う荻原に、もう家なのかと問う。
『ああ、お前と違い、とっくに帰っている。夜遊びも大概にしろよ』
この男にだけは言われたくない言葉だ。今夜はたまたま俺より早く帰っただけだというのに、よくこうも傲慢になれるものだ。
俺は内心で溜息を吐きながらも、煩いの一言でそれを蹴る。
『ったく、心配していたのに。冷たいな』
「頼んでいない」
相手がめげないと、俺を捨てないとわかっているからこそ言えるもので。
予想通り、荻原はふざけた答えを返す。
『折角早く帰ってきたのに、部屋はもぬけの殻だ。寂しいぞ、おい』
「そんなの知るか」
いつの間にか、こんな会話のやり取りが当然のものとなり、苛立つ事も少なくなった。はじめはあんなに、ふざけた言葉に振り回されていたというのに。おかしなものだ。
汚れている事を気にせず、ガードレールに腰をかける。そんな俺を見ていたようなタイミングで、荻原は言った。
『おい、帰って来いよ』
その言葉に、俺は笑う。
そう。いつから、そこが俺の帰る家になったのだ。冗談じゃないぞ、と腹を立てるのは今更過ぎて、もう笑うしかない。この2年間住んだ狭い部屋よりも、あの荻原の部屋の方が、今はもう、俺の匂いが染み付いているというのは確かな事実なのだ。
だが、それでも、素直に認めたくはない。いや、この男にそんな態度をみせては、付け上がってしまうだろう。
「そこは俺の家じゃないぞ」
『何を言っているんだよ。ここから出かけたんだろう。なら、「帰って来い」が正しいだろう』
「…そうか? 違うと思うが」
そんなことはない。お前より長い間日本語を使っている俺が言うんだから、間違いないさ。
そんな屁理屈を言い、荻原は笑った。
『それより。まさか、寝るまで飲む気じゃないだろうな?』
「いや、もう店じゃない」
『なら、タクシー拾って、さっさと帰って来い』
終電はもうないぞと言う声に、「30分だ」と俺は言う。
「いや、のんびり歩いたら、もう少しかかるかな」
何度も歩いた道だが、流されるまま進んでいたので、ゆっくりと歩いた事はあまりなく、正確な時間は導き出せそうにない。
そう。今夜は、ゆっくりと歩いて帰ろう。
もう、こんな時間は作れないのかもしれないから…。
『お前、相当酔っているな』
歩いて帰るという言葉を、酔っ払いの我が儘だととったのだろう。車で来いよという男に嫌だと返すと、盛大な溜息が落とされる。
『大丈夫なのかよ』
「気にするな。酔ってなどいない」
『なら、何を夜中に好き好んで歩き回るんだよ。ったく、危なっかしいな』
「煩い」
『何処にいるんだ? 迎えに行く』
「来なくていい」
『遠慮するなよ』
「迷惑だといっているんだ」
子供じゃないんだ、大丈夫だと、俺は止めていた足を動かし始める。このままでは、本当にいつになったら辿り着けるのかわからない。
『おい、道で寝るなよ』
…真剣な声で言う事だろうか。
「そこまで器用じゃないさ」
『だといいがな』
1時間だけ待ってやるから、その間に帰って来い。荻原はそう言い、タイムリミットの時刻を伝えてきた。
「強引だな」
『知らなかったのか?』
「知っている。だが…。やっぱり、あんたは相当馬鹿だな」
さっさと寝れば良いものを。
俺の皮肉などさらりと流し、楽しそうに荻原は喉を鳴らした。通話口から聞こえるそれは、なんだかとても懐かしく、もっと近くで聞きたくなる。
確かに今こうして繋がっているのに、その姿が見えないと言う事は、少し空しい。
じゃあなと電話を切った後も、俺は暫く手の中の携帯を眺めた。
世代を越えて支持される曲のように、この世界に残り続けるという事は、想像以上に難しい事なのだろう。人間もそう。
俺が死んだら、誰かが俺の事を語るだろうか。それは、いつまで続くのだろうか。
荻原は、俺をどう思うのだろうか。
忘れないで欲しいと、消える俺は、それがどんなにエゴだとわかっていても、そう思ってしまう。この世にすがり付いてしまう。だが、誰かにそれを願えるほど、俺は強くはない。
忘れるなということは、その者に傷を残すということだろう。その痛みを相手に抱えさせ続けるなど、俺はしたくはない。誰かの傷になど、なりたくはない。
だが…。
一台の車が、俺を追い越し走り去っていく。眩しいほどのヘッドライトに照らされた一瞬、地面に延びる自分の影に目を奪われる。直ぐに闇となったそこには、俺の影は落ちない。だが、確かに今ここに立っているのだと、実感する。
明日…いや、もう今日か。
今日、荻原への手紙を書き直そうと、俺はふと思いつく。読まれることはないのかもしれないが、書きたくなった。
俺の事を忘れるなと記そう。
そう言えるのは、荻原だけしかいないと、俺は気付く。
我が儘を言えるのも、傷をつけて許されるものも、あの男しかいない。
一瞬先の未来でも、それはその時にならなければわからない。
空に浮かぶ星も、未来を教えはしない。見えない。
だが、俺は…。
俺の未来は、この体がなくなっても、荻原の中にあるような気がする。
あの男に、俺という傷をつければ――
それは、自身に嫌悪を感じる恥ずべき行為だというのに、今の俺はただ、小さく笑う。
悪い奴だ。
だが、それでも。俺はこの手にナイフを握り、あの男に…。
小さな傷でいい。いつか完治すれば、痕が残らないほどの、小さな傷を、男の胸に刻みつけたい。最低な人間だと誰に嫌われようと、俺は、あの男に…。
それはただ、自分が満足するためのもの。心にそれを抱き、罪と言う名の馬鹿な安らぎを得たいだけなのだろう、俺は。
そう。一晩寝れば、こんな考えは姿を消しているかもしれない。明日になれば、馬鹿なことだと、手紙を書かないかもしれない。曖昧な、今だけの真実。
だから。
だから、とりあえずは。俺はこのままあの部屋に帰り、そして…。
そして、素敵な店を見つけたんだと、俺を待っているのだろうあの男に自慢することにしよう。この世から消える俺が見つけた、綺麗な闇。深い海のそこにある、安らぎの空間を、あの男に教えよう。
だが、それもまた…。
この夜空の下では、直ぐに闇に解けてしまうのかもしれないもの。
俺は再び一人で笑い、少し肌寒い夜気を切るように、ほんの少しだけ足を速める。
男が待つ、あの部屋に向かって。
+ END +
2003/05/03