□ カラス

「あんたは、何一つ分かっていない。そんな奴に、俺がどうなのかなんて分析されたくない。ムカツク、うせろッ!」
 珍しく四谷青年が子供のように怒りを表し、旦那さまに噛み付いた。言い合う事は日常茶飯事で、これが二人のコミュニケーションの方法なのだろうと、このひと月程でそれに漸く慣れはじめた頃にこの状況。さすがに、いつものように口を出さない訳にもいかず、彼が机の上からカップを掴み上げたのを見ると同時に私は飛び出していた。
「四谷さん!」
 旦那さまが余裕を持ち接しているのも、対処法を十分に心得ているのも判っていたが、実際にそれを発揮するのかどうかまでは判断出来ず、最悪の事態を思い描き思わず動く。だが、四谷青年はそんな私とは違い全てを判っているのかもしれないと思わず思ってしまうほど、彼はあっさりと先の言葉を撤回した。
「否、俺が出て行く。その方が早い」
 怒りに任せ投げ付けると思っていたが、彼は腕を振り上げた勢いでそのまま後ろにカップを放った。凄まじい音を立て、テラスに面する窓ガラスが割れ散る。
 バリバリと砕けたガラスを踏み、青年は窓から外へと飛び出し走っていった。その動きは、まるで犬のように素早く、けれどもどこか優雅に。
「ま、待って下さい、四谷さん!」
 呆気にとられ、なかば呆然とその後ろ姿を見送りかけたのだが、自分の職務を思いだし追いかけようと足を運ぶ。だが、私は直ぐに呼び止められてしまった。
「中里、追わなくても良いよ。追うのならもう少し経ってからにしよう。それに、君まで彼の真似をして窓から出入りするだなんて、さすがに止めて欲しいなぁ」
 それにしても、派手にやってくれたものだ。
 ぼやきながらも、どこか楽しそうな主人は私と目を合わせ、笑いを含んだ声で言う。
「可愛いだろう、彼は」
「可愛い、ですか。この惨状では、私は同意しかねますね、正直」
 片付けの為に手伝いの者を呼びながら、私はそう応えた。口は悪いが年の割には弁える事を知っており、聡い青年だと感心する部分が多かったのだが。これではその評価も変えなければならないだろう。
「非常に残念です。こんな事をするとなると、やはり彼には誰か付けた方が、」
「私は出来の良い商品を買ったわけではない。彼が彼でなければ、ここにいる意味はないのだよ。心配するな、大丈夫だこのままで。少し元気なだけだよ、問題はない」
 今までにも何度か言った事がある私の言葉を遮り、主人は肩を竦めながらそう言った。自分好みに躾るつもりなど全くなく、故に付き人となる世話役などいらないと言うのが言分だ。しかし、こうして一緒に暮らす以上、身に付けて貰わなければならない事も沢山あり、主の希望は分かっていても簡単には納得出来ないのが私の立場だ。
「度が過ぎていますよ、これは。成京さま、今の内に対処しなければ、彼にとっても良くないのではないでしょうか」
 溜息混じりにする私の意見に、我が主は宥めるように僅かに目を細める。いつもその表情は、私が言えるのはここまでだと悟らせにくる。この人には適わないと確認させられる一瞬だ。
「中里」
「はい」
「たとえカッと頭に血を上らせたとしても、怒りに任せて暴力を奮う子供ではないよ、クロウは。彼は私達が思う以上に大人だ、とても賢い。多分、今のも出て行く為の口実なのだろう。確かに少しやり過ぎだがね」
 普段から口実など必要としないくらいに遊び回っているというのに、今更それを欲しがるだろうか。
「差し出がましいですが、何があったのでしょう?」
「喧嘩の原因かい? 特には、これと言ったものはないんだがね。ただ私が少し彼の欠点をいくつか指摘しただけなんだよ。それに対し、確かに個人的な意見も言ったが、別段貶した訳でもない」
「はぁ」
「揉めれば飛び出す口実になると、私は利用されたのだろう」
 そうなのかもしれない。だが、いくら賢いとはいえ、まだ十代の彼だ。言った本人はともかく、欠点を言われた方は心穏やかではいられないのも確かだろう。
「探しに行っても宜しいでしょうか」
 非は飛び出した彼にあったとしても、多少なりとも主人の方にも問題はあったのだろう。何年も付き合い主の性格を把握した私とは違い、彼はまだビギナーなのだ。そう考えれば一枚も二枚も上手な者を相手にしている、まだ少年とも呼べる青年が哀れに思えてしまい、思わず伺いをたてる。
「君の手を煩わせるのは気が引けるんだがね」
「少し彼と話してみたくなったんです。思えばまだ、彼とまともに会話をした事がないんですよ、私は。折角の機会ですし、駄目でしょうか。とは言え、まず見つけられるのかどうなのか、怪しいものなのですがね」
「否、それは問題ない。何処へ行ったのかは、判っているよ」
「え?」
 驚く私に主人は、多分あそこにいるだろうと思ってもみない場所を告げた。


 広い浜辺が見渡せる堤防に座るその姿を認めた時、私の喉からは苦笑が零れた。会議が終わり帰って行くのか、頭上を飛び去る黒い鳥を仰ぎ見ながら、主人の言葉を思い出す。
――もうすぐ日の入りだ。この時間にカラスは仲間と落ち合い情報交換をする、知っているか?
 この辺りのカラスは浜に集まるのだと主人は笑った。さすがに、なんて冗談を言うのかと私は溜息を落としたのだが、彼はそこに居ると断言されてしまい、疑いつつも来てみれば。
 まるで誰かを待つかのように大人しく、荒々しく飛び出していった青年が静かに座って居る。カラスはさておき、私には判らないがそう悪い訳ではないような二人の関係がおかしくて堪らない。
 自然と零れる笑いをどうにか抑えながら近付き、私は四谷青年に声を掛けた。
「あんたが来るなんて珍しいな。迎えか?それとも、説教?」
 呼び掛けに暫しの間をおき、髪をかき上げながら振り返った彼は、夕闇の中で口角をつり上げる。どこか慣れたその擦れた仕草は、けれども子供らしさが抜け切れてはいないように感じるものだ。
「怒られる事をした自覚はあるんですね」
「あんたの大事な御主人様に歯向かったんだからな。気に食わなくても、あんたが怒りるのは判る」
「それはどうでも良い事ですよ、今は関係ない。揉めたのは、貴方と成京の間での事ですからね。私が言いたいのは別の事です」
「何?」
「心当たりは、全くないですか?」
 考え込むように眉を寄せた青年は、直ぐに小さな笑みを浮かべた。
「ガラスを割った事、かな?」
「そうです。身の回りの世話をするのが仕事とはいえ、彼女達に余計な負担をかけるのは止めて頂きたいものです。不注意ならともかく、故意にしたのですから、本来なら貴方が片付けるべきものですよ」
 屋敷に戻り手伝いの者達に謝罪をしなさい。そう叱責すると、確かにそうだなと素直に答えながら、青年は私から視線を外し闇に解けはじめた海を眺めた。そして。
「だけど、俺はまた同じ事をするよ、多分」
 太陽が沈みその色を判断出来なくなった瞳を僅かに光らせ、静かにそんな言葉を紡ぐ。見えはしないのに、彼の瞳が蒼さを増した気がした。
「どういう意味ですか?」
「言葉通りのままだ。周りに迷惑をかけようが傷つけようが、それこそ自分を苦しめようが、俺は馬鹿をする。俺は自分の行動全てを制御出来る人間じゃないからな」
 そう言い斜めに私を見た青年の目には、何とも言えない思いが浮かんでおり言葉を失う。たった17年しか生きていないのに生意気を言うものだと、他の同じ年頃の者が相手なら説教のひとつもするだろう。だが、目の前の青年から漂う焦燥感や哀愁は、思春期だけでは言い表せない深さがあった。
「そんな顔、するなよ。あんたを見ていると、あいつを思い出すな」
 一体私はどんな顔をしていたのか。魅惑的と呼べそうな小さな笑みを浮かべ、四谷青年が喉をならす。
「誰を、思い出すのです?」
「あんたと同じ、お節介な奴が居たんだよ。今はもう居ないけどな」
 よいしょと軽い掛け声と同時に青年は堤防の上で立ち上がる。見上げると、人一人分近くの差から視線を向けられた。さらりと垂れる彼の細い髪が海風に踊る。
「中里さん。あんたにひとつ聞いてみたい事がある」
「はい、何でしょう」
「あんたは、俺が突然現れて嫌じゃないのか?おかしな事を始めた主人に嫌気はささないのか?何故、あの家の者はこんな馬鹿げた事を受け入れているんだ?」
 そこが理解出来ないと、呆れるように青年はそんな問いを放った。その姿が妙に微笑ましく、つい笑みを零してしまう。聡い青年はけれども、受け入れられる理由は自分にあると気付いていないようだ。その魅力が皆の心を掴み納得させているのだというのに。
「それだけ、あんた達にとってあの人は大きな存在なのか?」
「そうですね、確かにそうだと言えるでしょう。だが、決して絶対的なものではないですよ。あの人はあの通り、マイペースというか自由奔放なところがありますからね、全て理解し賛同するなど私には無理です。あまりにも酷い時は、私もそれなりの意見を言わせて戴いていますよ。まあ、馬の耳に念仏状態ですがね」
 少し芝居掛かった仕草で私が嘆くと、青年は歳に似合った笑いを零した。
「あんたも、なかなか言うなぁ」
「旦那さまに告げ口はしないで下さいよ。まだ職を失う訳にはいきませんから」
「する訳がないだろう。あんたがあいつをどう思っていようが俺には関係ないからな」
 クスクスと肩を揺らしながら笑い、青年は堤防の上を歩き始めた。それに合わせ、私もゆっくりと足を運ぶ。
「そう言うの、俺は嫌いじゃないよ」
「何がです?」
「あんた達の関係だよ。でも俺はそこに入れそうにはない。入りたいとも思わない」
「旦那さまは、貴方にそんな事を望んではいませんよ。気にする必要はありません」
「別に気にはしていないさ」
「それなら良いのですが」
「なあ、あんたは聞いているのか?俺とあいつの契約を。あいつが何を望んで俺を構い出したのかを」
 トンと堤防から飛び降り前に立った青年は、真っ直ぐと見つめ問い掛けて来た。それに対し、私は軽い笑いを零す。
「そうですね、少しだけですが聞いています。当然でしょう、突然貴方と暮らすのだと言い出したんですからね。訳が分からず問い詰めてしまいましたよ、私は。いえ、何を言っているのかと怒りもしましたね。だって、それこそ当たり前でしょう?」
 唐突に見知らぬ青年を引き取ると言われた時の衝撃は、今も忘れてはいない。
「そうだな。だが、あんたは折れた。あいつの言分に納得したんだ」
「それは、成京が何故貴方を選んだのか、分かるような気がしたからです。そうでなければ、どんなに家族が欲しいと力説されたとしても、納得などしなかったでしょう。たとえ、あの人の心がわかったとしても、そう簡単に受け入れられるものではありませんからね」
「普通は受け入れないもんだよ。誰かの人生を近くで見てみたいだなんて、傲慢も良い所だ。だけど」
 俺はそれに乗った、利用した。だから、咎めず受け入れたあんた達より俺の方がおかしいんだろう。
 本当はそうだとわかっているんだ、だけど、そんな自分が受け入れられない。そう言うように目を細め、曝しそうになった心を隠すかのように向けた背中に、私が思う以上に彼が苦悩している事を知る。
 悩んで当然だろう。自分の行動が正しかったのかどうなのか、全てのことに対し経験が少ない17の子供に、その判断が出来るわけがない。大人でも難しいのに、自信など持てるわけがない。
 なんて試練を与えるのか。純粋な子供に酷な事をするものだと、私は彼の後ろ姿に、少し主人を恨んだ。しかし。
「四谷さん。貴方の夢は何なのですか?」
 躊躇いつつも、敢えて私はその背中に声をかける。ここで何も言わなければ、彼は心を閉ざしてしまう、そんな気がした。自分が接しているのは大人ではなく、感受性豊かな少年なのだ。
「自分達は互いの望みを叶え合うのだと、成京は言っていました」
「…卑しいと思っているのか?俺のような親なしが、あいつを利用して自分の望みを叶えようとするのなど認めないと?」
 背中を見せたままのその言葉に胸が痛んだ。おどけたような声はけれども叫びに聞こえ、堪らない遣る瀬なさを覚える。
 まだ自分の半分ほどしか生きていない子供が出す声ではないと、私は見えないのを良い事に眉を寄せ天を仰いだ。
「私はただ、貴方の夢を聞いてみたいだけです。貴方を知りたいと思うから」
 顔を戻すと、四谷青年がこちらを振り返っていた。その目に口に、笑みが浮かんでいる事に気付き、私も微笑みを浮かべる。
「教えないよ、今はまだな」
「え?」
「もっと仲良くなってからだな、それまでは秘密だ」
「秘密ですか、それは楽しみです。教えて頂けるのが待ち遠しいですね」
 子供らしい言葉に笑うと、四谷青年は私の腕に腕を絡め、引っ張るように止まっていた歩みを再開させた。幾分かまだ自分より下にあるその顔を眺め、頭に浮かんだ問いを私は放つ。
「四谷さん。貴方は私が側にいるのは嫌ですか?」
「全然、問題ない」
「なら、旦那さまはどうです。お嫌いですか?」
「そうだなぁ。望んでいるとはいえ、自分の夢を嫌いな奴に援助してもらうような趣味はないよ、俺には」
 クスリと小さく笑う青年に、それは良かったと私も喉をならす。ふと、可愛いと言い切った主人の言葉を思いだし、私は一人納得した。
 屋敷に戻ったら、主人に伺いをたてよう。この青年の世話を自分にさせてくれないかと。私も彼の成長を側で見たいと話してみよう。
 腕に絡む温もりを心地よく思いながらそんな決心をした私の頭上を、一匹のカラスが飛んでいった。


END
2004/09/24〜2004/10/01