□ スコール

 突然の雨はまるで刺し貫くかのように体へと叩き付ける。雨宿りをしようと店の中へ飛び込む者、時間に余裕がないのか慌てて走り去る者。蜘蛛の子を散らす様に通りは閑散となり、水を跳ねながら走る車の音ばかりが目立つ。
 その中を、どこか優雅に傘をさしゆっくりとこちらに歩いて来る人物に気付き、俺は溜め息を落とした。まだ距離があり表情は見えないというのに、その男が笑っているのが分かる。暇ではないだろうに、なんて物好きな奴なのか。
「何をしているんだい、クロウ」
 予想通りの笑いを含んでいる声に応える気にもなれず、睨み付ける事さえ億劫で、ただ視線を外す。目を向けた頭上の空は暗く、けれども遠くの雲の切れ目には青空が覗いていた。
「風邪をひくぞ」
 この気温で風邪などひくわけがない。暑い街にもそうだが、ほてった体には丁度良い水浴びだ。
「水も滴る何とやら、だな」
「はっ!濡れていなくとも、俺は十分に良い男だろう。違うか?」
 嫌いな訳でも、苛立つ訳でもない。だが、この男と話すといつも子供の様に無暗やたらに反発したくなる。それは多分、男が俺にそうさせているのだろう。掌の上で踊らされている様な妙な感じだ。ムカツクわけではないが、やはり面白くはない。
「確かにそうだとも言えるだろう。だが外見はともかく、君の場合中身がねぇ」
 嘆くかのような声を出し、まるで子供に手を焼き頭を痛ませる親であるかのように、壮年の男は片手でこめかみを押さえる。
 悩んでいると言うのならば、俺がその頭に、一発で天国に逝ける別の物体を押しつけてやろうか。腹立たしい。
「育ちが悪いんだ、俺は」
 男が何故現れ、何をしに来たのか、察しはついている。だが、俺は敢えて気付かない振りをし、話題を逸らせた。こんな男に協力は不必要だ。
「それはあまり関係ないね。施設で育っても親がいなくても、立派な者もいるだろう」
「なら、俺は落ち零れか?」
「さあ、どうだろうね。それよりも私が言いたいのは、環境だけが人格を形成する訳じゃないという事だよ。物事の善し悪しを考えられるようになったのならば、それ以降は自身に責任があるはずだろう。違うかい? それとも君はまだ分別のつかない子供だとでも?」
「生憎だが、俺のその善し悪しの基準は、あんたとは違うようだ。俺は自分が間違っているとも愚かだとも思わない。そうした根拠のない自信が子供のようだと言われたら、確かにそれまでで反論出来ないんだろうがな。六十手前のあんたから見たら十代の俺なんて洟垂れ小僧だ、仕方無い。けれどそれで文句なしに納得し鵜呑みに出来るほど、無垢な餓鬼なわけでもない」
「そうか。だが、だからといって、高山を苛めても良い訳じゃないだろう」
「人聞きが悪いな。苛めてなんかいないさ、俺は」
 漸く本題に触れた男に視線を置きながら、ゆっくりと腰を上げる。水を含んだジーンズは生温く、俺は不快感を覚えた。軽く脚を動かしながら溜め息を吐く。
「あいつはあんたに泣き付いたのか?」
 その問いに、男は小さな笑い声を落したようだ。けれど、俺の耳にそれは届かなかった。車の走り去る音に背中を押され、答えを確かめる事はせずに足を踏み出す。
「俺は、あいつが欲しい。なぁ成京さん、俺にくれよ」
「私のものではないよ、彼は」
 ふと気付けば、進む先にその人物がいた。
「否、あんたのものだよ」
 少なくとも、あいつはそう思っている。
 雨の中傘をさし駆けてくる男は、自分が話題にされているなど思ってもみないのだろう。
「風邪ひきますよ」
 ぶっきらぼうな声とともに傘が差し掛けられる。どいつもこいつも、芸がない。
「あまりクロウを甘やかすなよ、高山」
「いえ、そんなつもりは…」
「あんたら煩いよ。用がないなら帰れ」
 俺は溜息交じりにそう言い、延ばされた手を押し返す。軽く顔を顰めた男のスーツの肩で、弾いた雨が小さく光っていた。いつの間にか雨雲は去り、空は明るくなっている。
 ひと時の激しい雨は、舞い上がっていた空中の汚れを地上へと叩き落とし、目に見える世界を幾分か綺麗にしていた。だがその代わりに、雨を浴びた俺は汚れてしまったのかもしれない。
「クロウ。君も一緒に帰ろう」
「遠慮する」
「行きましょう」
 宥めるかのようにそっと肘に触れて来た男の手を避け、俺は空を見ながら歩きだす。
 暫くすると、横に高山が並んで来た。喰えない男の気配はない。どうせろくでもない会話を交わし、こういう事になったのだろう。やはり、こいつはあいつのものなのだと実感する。
 それでも。
 それでも、俺は諦めなどしないし、妥協もしない。この男の全てが欲しい。その思いは変わりはしない。多分、俺のこの狂気にあの男は気付いているのだろう。知らないのは、当人ばかり。
 気の毒なものだ。
「ダンナさまに付いていなくていいのかよ」
「下田がいますのでご心配は無用です」
「誰が心配するんだよ。俺はお前も帰れと言っているんだ。鬱陶しい、そう面と向かって言われなければ分かんないのか」
「分かっていたとしても、自分はこうするんです。貴方に迷惑だろうとも」
 堪えて下さい。押さえられない苛立ちは自分に向けて下さって結構ですので。
 納得出来ずとも理解しろ、そう言いたいのか、単にあの男に口堪えするなと言いたいのか。珍しく反論らしきものをする男の真意は、俺には全くわからない。内容が内容なだけに考える気さえ沸かない。
「虹が出るはずなんだ」
「虹――デスカ?」
 唐突な話題に訝しがる男に、そうだと俺は頷きながら振り向き空を指さす。薄暗いそこに落ちる光は淡く、空気中に水分を多く含んでいる事が分かる霞みがかったものだった。
「絶対に虹が架かる。俺はそれを見たいんだ。出来れば、ビルに邪魔されないところで」
 少しでも視界が拓ける場所へ行く。そう宣言し、お前はそれでもついて来るのかと尋ねた俺に、男は当然だと頷き軽く笑った。
 何が当然なのか、それこそ気にする無意味さを知っているので無視し、俺はその笑いだけを飲み込み肩を竦める。付き合うのは、仕事だから。男の態度からはそれ以外のものはない。だが、それが寂しいだなんて、思ってはやらない。絶対に。
「虹、好きなんですか」
「そうだな、嫌いじゃないな」
 小雨を顔に受けながら、他愛のない問いに俺は答える。
「直ぐに消えてしまうものだと最初から分かっているところが、何よりもイイ」
 さらけ出した本心は、けれども現れはじめた虹の前では直ぐに色をなくす。空中に解けるそれに側の男は何を思ったのだろうか。空に目をやる俺には、分からなかった。
 だが、これでいいのだと考える自分が確かにいる。理解されるよりも、受け入れられるよりも、相手が何を考えているのか分からない方が良い時も確かにあるのだ。
 今はただ、こうして同じものを見ているというその事実だけで充分だ。
「高山」
「はい」
「俺は、誰かが嫌いなわけじゃない」
 俺の言葉にどれ程の威力があるだろのだろうか。
 高山が落とした溜め息の様な小さな息の意味が気になったが、聞き返しはしなかった。この男ならば、自分の事ではなくあの男の事を思い描いているのだろうと気付きながらも。

 空に描かれた虹は、俺には少し眩しいものだった。


END
2004/08/16〜2004/08/19