◆ 1 ◆
生きるためになら何をやってもいいのだろうか。
俺の答えはYESだ。
その状況によっても色々あるだろうが、その時、「生きたい」と思ったのならその道をとるしかないのだ。これは当然のことだろう?
そう、目の前の人間を殺してでも生きたいと望んだのなら、俺はそうしてもいいと思う。
殺した後で後悔するとか、その後自分はどうなるだろうかとかを考える余地がある時は、自分の「生」と相手の「生」を天秤の上に載せているということだ。
その場合は生きるためならばではなく、生きていくなら、と言うことになる。
ただ自分の好きなように生きたいから、そんな理由で何をやってもいいのだろうか。
俺の答えはNO。
俺の最大の目的は生きること。この世で行き続けること、生き抜いていくことだ。
どんな汚れた場所でいようと、人間として最低だとしても、俺は自分が生きていくために動く。そのためには何だってする。
…だが、そうして生きている俺だけど…。…今の俺は本当に生きているのだろうか、時々疑問に思う事がある。
死にたいわけではない。絶対に、どんな場所でも生き抜く。それは、あの時決めたことで、今も変わらない。だが…。
この場にいることを認められていないわけではないが、俺自身を見ている奴なんてあまりいない。そんな中で生きている俺は、時々無性に存在理由というものが欲しくなる。
過去の記憶と感情だけでは物足りなく思ってしまうことがある。
淋しくなることがある。辛くなることがある。
そんな時、俺も人間なんだなと、当たり前のことに気付く。
そう、俺はとても弱い人間なのだ。とても汚い人間なのだ。どんなに醜くとも、どんなに残酷なものだとしても、どんなに罪深きものでも…、人間なのだ。
なら、少しくらい望んでもいいだろうか。
幸せになりたいな、と。
今が不幸だというわけじゃない。
だけど、時々思う。
彼と過ごした日々を。
最低最悪な餓鬼の俺を気にかけてくれた彼。俺を救ってくれた彼。
あの頃の俺は何もかもが苦しくて、迷惑ばかりかけていることも気にせず、自分を否定し続けていたけれど…。今思えば、そんなどん底の生活だったが、俺は幸せだったと思う。
幸せが何なのかはわからないが、彼と一緒にいたあの頃をそう呼ばなければ、今が不幸になってしまいそうな気がする…。
体は資本だ。
これは俺の体だ。どう使おうが自分の勝手だというものだろう。
そう、工事現場で働く者もスポーツ選手も、体力は使わない頭脳派の奴でも、皆がその自分の体を売っているのだと言えるだろう。
生きるために体を使っているのだ。俺も単なるその内の一人にすぎない。他の者と何ら変わらない。
なのに、何故世の中は援交だの売春だのと騒ぐのだろうか。まるでゴミであるかのように排除しようとするのだろうか。
確かに親のすねかじりの身分で遊びのため、人よりいいアイテムを持つために体を売る学生などのことは、俺も馬鹿な奴らだと思う。体がどうだ、モラルがなんだのというわけではなく、単純に馬鹿だなと思う。
彼らは普通にしていれば生きていけるのだ。なのに、単なる道楽のために体を売る。いや、売るというよりもそれも一種の遊びか? どちらでもいいが、やはり生活がかかっている俺からすれば、ふざけるな、馬鹿なガキはガキ同士遊んでいろ、だろう。一応そうは思うのだが…、やはり、援助交際自体はどうでもいいことだ。常識のある大人なならば、といったような真面目腐った考えは俺には出来ない。この世の中なんでもありなのだから、性に溺れている者達がいてもかまわないじゃないか。
ただ、それでこちらにとばっちりが来るのは、正直愉快ではない。当たり前のように客を探す姿がむかつく。単なる遊びで、他人の商売を邪魔しにくるんじゃないというものだ。ただむかつくだけで何かをしようとまでは思わない。なにせ、他人の事が言えるほど俺も行儀がいいとは言えないのだから。…ま、ガキ達よりはマシだろうが。
カモを持っていかれるのも別にいい。遊びか真剣かだなんて客側には関係がないことだから仕方がない。そんな俺とは違い露骨に怒りを表す商売仲間もいるが、結局は弱肉強食社会なのだから客を取られるのは本当に仕方がないことなのだ。それこそ、体を売るガキ達から言わせれば「若くないあんたが悪い」だ。
なので、仕事をするライバルとしては俺にとってはどうでもいい事で、「勝手にやっていろ」だ。そう、「勝手」に。俺の関係ないところでどうぞご自由に、だ。いや、百歩譲って縄張りに入ってくるのも、ま、良しとする。俺は別にシマを陣取っているネコでもヤクザでもないのだから。
だが、これだけは許せない。
俺を客としてみることは、絶対に許せない。
いちいち腹を立てるなよと自分でも思うが、俺はまだそう出来た人間ではなく、心にゆとりなどを持ってはいない。…っていうか、客と見なされるという事は、俺自身が否定されているようなものだ。こうして売る方として生きているのにそれを否定され、誰が穏やかでいられるというのだろうか。しかも、俺よりも年下のガキにそんな目で見られたとなると、怒りが沸くのも仕方がないというものだ。
女子高生といっても騒がれるような馬鹿ばかりじゃない。むしろそんな奴は極少数だという意見もあるうだろう。だが、少なくとも俺の周りには馬鹿ばかりがいるようだ。
一応同業者と言えないこともないこの俺に、「3万でどう?」だなんて声をかけるな。自分の顔を見て言え。同類か客かもわからない馬鹿が商売をやっているんじゃないって言うんだ、全く。
確かに、歳に合わない童顔で背も高いと言えるわけではないので声をかけやすいのだろう。だが、それならそれでおかしくないか? 同じ年頃だと思う奴に声かけるか、普通? 金を持っていそうな奴に見えるのか、俺は。
しかも、そんな目に合い不機嫌な俺に知り合いは、「そこまで幼いと思っていないだろうよ。ま、学生以上には見られていないか」なんて、なんのフォローにもならない事をぬかす。ついでにその男の機嫌が良ければ、「お前は、顔だけはいいからな。金目的ではなく、ただお前とやりたいんだろう、逆に買わせろよ」と付け加えもする。
だから余計に癪に障る。別に報告も何もしていないのに、情報通のあの男の耳に当然のようにその醜態と呼べる情けないものが入っていくのだから始末が悪い。狭い世界だから仕方がないといえば、それで終わりなのだが…納得がいかない。
周りの環境以外でも、客もおかしな者が増えつつ口が裂けても楽だとは言えないが、これを仕事だと言える程度には、誇りだなんておかしいが、恥ずべきものだとは思っていない。だから、決して順風満帆とは言えないのだが、俺はこの仕事を辞める気はない。
少なくとも馬鹿なガキらよりは、断然マシだ。自分のアイテムになるいい相手を釣るためでも暇つぶしでもない、生きるための金を得るために体を売っているのだ。体の快楽ではなくその日を生き抜くためにしている労働だ。
何も疚しいことはない。馬鹿なガキと一緒にするな。俺はこれをしなければ生きられないのだ。それこそ、人間として当然のことだろう。生きるために働いているのだから。
(――それなのに…)
目の前の男は俺に「こんなことはやめろ」と言った。
何が気に入らないのか眉間に皺を寄せ、話しをする俺ではなくテーブルに載ったワインボトルをじっと見つめながらそう言った。
自分自身で、俺は嫌な奴だと充分にわかっている。昔はそれが苦痛だったが、今はそれを多少なりとも受け入れられるようになった。
だから、俺は昔に比べるとずいぶんと変わったのだと思う。
自分が傷つかないために、苦しい時でも何でもないと、こんな事は大したことではないのだと言い聞かせ、そうやって波をやり過ごせるようにした。世の中からはみ出したこの世界から、更にはみ出してはしまわないように周りを固めるため、他人に嫌われないよう、同類と認められるように、自分自身を作っていった。
昔と比べ、俺は他人と話すようになったし、笑うようになった。生きるためにはと、辛いことも平気な顔で乗り越えられるようになった。
使い分けているというわけではないが、やはりこれは真の自分ではないなと今の俺を自身でそう思う時が時々ある。単に仮面をかぶっているだけなのだと。だが、それすらもやり過ごせるようになった。
この世の中、本当の顔なんて全く関係ない。付き合う相手はそれぞれが俺という人物を自分の中でこうだと決めて接しているのだから、俺なんて有って無いようなものだ。だから、気にすることではない。周りを騙しているわけではなく、全てが俺なのだ。それこそ、騙しているというのなら、自分自身の心だけだろう。
前向きとは言えないだろう。だが、逃げているだけだとしても、俺は変わることによって楽になれた。昔の自分を奥底に閉じ込められるほど、この世で生きるということに神経を使った。
単なる餓鬼がこの世界で生きていくのは容易なことではない。だが、その辛さがかえって俺に力を与えた。
同業者との接し方も客との関係も、全て体験しながら少しずつだが学んできた。それは生きている事の実感にも繋がった。
俺は職業がどうだこうだというのではなく、単に俺という人間が今まで生きてきた過程を見てきた上で、自分がどんなに最低な奴かという事を知っているだけで、存在そのものを否定しているわけではない。かつてはそんな日もあったが、今は絶対にない。
人に迷惑をかけていないこともないだろうが、そんなのは生きている誰もがお互い様という奴だ。否定されるいわれはない。
威張れた職業ではないが、餓鬼ではないのだ、とやかく言われるものでもない。
俺はそれなりに努力して、今を手に入れているのだ。そう、今現在を生きているのはこうしてきたお陰なのだ。この世界でなければ、俺はとっくに死んでいたのかもしれない。
なのに、目の前の男は、あっさりとそんな俺を否定した。
静かに湧き起こった怒りで俺の目の前が一瞬真っ赤に染まる。そしてその紅は、昔よく見た自分の血の色にとても似ている気がするものだった。ドロリとした奇妙な感触が、俺の体を流れる。
それが俺に震えを起こさせる。恐怖に似たもの。だが、それを見たくはなくて、その感情を怒りに変えることで自分を保つ。
単に軽口で言っただけだ。そう思い、何言っているんだよとやり過ごすべきだろう。相手は客だ。今までも何度か言われたことがあるだろう。そう、同じ言葉を何度も…。
そう頭で思い浮かべるが、直ぐに苛立ちで掻き消える。今までそれを口にした客のように、甘い睦言でも独占欲でも何でもないのだと、部屋の雰囲気が教えている。重い空気は、男の嫌悪を表しているのだと。
喧嘩を売られたのか。はたまた、単なる説教か…。
いや、理由なんて関係ない。怒りはただ、目の前の男を殴り飛ばしたい、それだけだ。
だがそんな怒りでも、相手は俺が誘い連れてきた客なのだと押さえ込む。
「……それはつまり、…俺に死ねということなのかな?」
荒れる感情を全て抑えこみ、口の端をあげて苦笑を見せると、男の眉が更に寄った。
「…そんなことは言ってない」
「言っている。この商売で生計を立てている俺にそれを辞めろという事は、つまりは生きるなと言うことだろう」
どんな思いでこの仕事をしているかは、知り合ったばかりのこの男にはわからないだろう。だが、最低でもこの仕事が無くなれば俺が無職になることはわかっているはずだ。他の仕事は合わないのだと、先に話をしたのだから。それをわかった上で言うのだ、この男は。
「金を稼がなければ生きてはいけない、今時の小学生でもわかる道理じゃないか」
「私は、そうは言っていない。君みたいに体を売って金を得るなんて間違っていると――」
「間違っているだなんて、誰が決めたんだよ」
「当たり前だろう。人間としておかしい行為じゃないか!」
それまで押えていた感情が爆発したかのように男が声を荒げた。きつく握り締められた手が男の感情を物語っていた。
「…オイオイ、ふざけるなよ」
思わずそんな言葉が口から出る。
例え間違っていようが何だろうが、需要と供給があるから存在しているのだ。買う方が悪いのか、売る方が悪いのか。そんな事はどうでもいい。それを支持する者がいる、それが事実だろう。悪いことだ、間違っている、そんな言葉が通じるのなら、世の中にこんな行為は存在しない。
「…ふざけてなどいない」
そんな事はわかっている。わかっているのに態々訂正を入れてきた男にムカッときてしまい、コートを脱いだだけでネクタイも緩めずソファに座っている男に向かって、俺は手にしていたグラスを放りつけた。
グラスはソファの上で跳ね、その勢いで絨毯に転がり落ちた。
「割れたら危ないじゃないか」
「……」
何事でもないようにそう言い、長い綺麗な指で落ちたグラスを拾いテーブルに置く。
どこからどう見ても、端整な顔立ちの男はいい男で、エリートサラリーマンか弁護士かといった感じだ。豪華なホテルの部屋には憎たらしくなるほどその姿は似合っていて、その空間を共にしている俺は、単なる場違い野郎だ。そう、目の前の男は血迷っても同性を買うタイプには見えない。
(しくじったな…)
知らず知らずのうちに溜息が零れ、俺は片手で顔を覆ってしまった。ガックリなんてものでは言い表せないくらいに落ち込んでしまいそうだ。
同じ場所でうろうろしていたので声をかけた。男は一瞬驚いた顔をしたが少し迷うように考え直ぐにオッケイした。その時俺はこういうことには慣れていないだけなのだろうと思った。
だが、やってきたのは高級ホテル。
身なりのいい男には似合ってはいたが、予想外だった。大抵同性を買う後ろめたさが客にはあり、こうした場所で堂々と、というのは、世間からはみ出た客かスキャンダルを握りつぶせるほど地位が高い客。後はそれこそ金を自分の価値と勘違いし、それを見せ付けたい客といったものが多いのだ。だから、普通にしか見えないこの男なら人目を気にするのだろうとそう思い込んでいた。実際に、声をかける前に見ていた姿も、どちらかといえばおどおどと迷っている感じがしたくらいなのだから。
エレベーターの中で男の後ろ姿を見ながら、俺は少し後悔していた。読みが甘かった自分が悪いのだが、人目を気にしないこの男が一体どんな性癖を持っているのかと考えると頭が痛かった。経験上から言って、こんなところで相手をする客はあまりいい者がいたためしがない。
周りを気にしないのは手馴れているのか、ボケているのか…。
部屋に着いてもなおそう思案していた俺に、男は話をしようとワインを開けた。
少なくとも慣れているわけではなさそうだということには直ぐに気付いた。緊張と言うわけではないが、静かなだけではない重い空気には、これから体を合わせようという雰囲気はどこにも入っていなかった。
グラスを傾けながら適当に訊かれることに返事をしつつ、いまいち何を考えているのかわからない男に俺は首を傾げていた。話の内容は仕事の事をぽつぽつと当り障りなく訊いてくるだけなので、あまり他の客と変わらないのだが…。大抵の客は、先に体を求めるので、なんだか調子が狂う気がした。
別にこの時間を男に売ったのであって、何を求められようと俺はそれをこなすだけだなのだが…。話好きというわけではなく沈黙ばかりが目立つ会話は、男も楽しんでいる風ではなく、どちらかと言えばこの状況に困っている感じなのだから、…正直、たまったものじゃない。
そんな事を考えていた所に爆弾が落とされた。
そんな生活は最低だ。やめろ、と男が言ったのだ。しくじった、そう思わない方がおかしいだろう。
顔に手を乗せたまま頭を軽く振り、どうしたものかと考える。
何様のつもりなのだろうか、一体。見目はよくとも、この男はかなりの馬鹿らしい。
俺は別に男に媚を売る者でもなければペットでもない。彼の上ではないが、下でもない。今夜を共にする契約をしただけだ。友達でもなければ知り合いでもない。
なのに、何故こんな事を言われなければならない!
思うのは勝手だ。他人にどう見られるものなのかは知っている。だが、だからといってそれを口にするか、普通。言わないのがマナーというものがわからないのか、口にしないのがルールだろう。
人間として非常識な客は今までにも何度もいた。自分の所有物と勘違いし散々な事をする奴もいたし、一人で同性を買う勇気がない複数の男の公衆便所になったこともある。体だけではなく、妻を寝取られたとか何だとか屁理屈をこねた旦那に、俺が買われたのだというのに金銭的なものを請求されたこともあれば、ヤクザに惚れられ、殺されそうになったこともある。
しかし、どれもが確かに自業自得だと言われればそれでお終いで、反論なんて出来ないと言うことは俺が一番わかっている。泣き寝入りと言うのではなく、穏便に。そう出来ないこともいくつかあったが、今回はそれが一番。
(ついてないな、全く…)
それで終わらせるしかない。そう決めると、苛立ちは直ぐに消える。これ以上考えないのが自分に一番いいのだ。
折角見つけた今夜の寝床を直ぐに出て行くのは勿体無い気もするが、この男とは居たくない。寒い外を思うとこの部屋は魅力的すぎるが、仕方がない。さっさとここを後にして、新たな今夜の相手を見つけなければ、寒い店のカウンターで夜を明かすか、借りを覚悟で殺風景な部屋を提供してもらうか、何処かに転がり込むか…。…どれもが面倒だが、此処に居れないのだからそうも言っていられない。
寒い冬の夜は俺を子供のように変えてしまう。
あの時のあの夜を思い出し、怯える。だから、俺は一人ではいたくないのだ。
寝床のためだけではない。この男が駄目なら早く他の者を見つけなければ、…俺は今夜その思いに囚われるかもしれない。もしそうなったら、苦し過ぎて自分はもう立ち直れなくなるのだと不安が襲う。明日自分が生きているのかすらわからなくなる。
この夜を一緒に乗り切ってくれとは言わない。ただ、誰かが傍にいたのなら、その温もりを少しでも感じられたら、俺は自分で今日という日を終え明日に向かえるのだ。自分の足で、確実に。
だから。ほんの少し、ほんの少しでいいから、その力となって欲しいのだ。自分が生きていくために、俺は他人を求める。顔などなくていい、ただ温もりさえあれば、それでいい。それなのに…。
一人でこの寒い夜を過ごさなければならない、それを思うと、俺の中にじわりじわりと焦りが広がっていく。
(……まずはここから出なければ…)
大きな溜息とともに俺は立ち上がり、男には視線もくれずに、彼の座るソファの横を通り抜けドアに向かった。
だが、直ぐに手首を掴まれ引き戻される。
「待ちなさい」
「何なんだよ、…放せ」
「出て行ってまた新しい男を探すのか?」
声は怒っているわけではなかった。聞ようによっては純粋に質問しているようでもある。だが俺にはその言葉は詰っているように聞こえた。
「関係ないだろう」
「…なくはない。私は君を…買ったのだから」
「……」
嫌味一杯に大きな溜息をつき、俺は寝室に向かった。大きな音を立ててドアを開け、そのままベッドに勢いよく座る。腹は立つが、確かに男の言う通り、買われたのは事実だ。
「なら、さっさとやろうぜ」
そう言うと男は目を細め、まるで汚い物であるかのように俺を見てきた。
「来いよ」
買ったのだと言うのなら、それなりの態度を示して見せろ。
男がどう思っているのかなんてこの際どうでもいい、俺は人肌が欲しい。今すぐに。誰かが傍にいなければこの寒さを乗り切れない。こんな夜に、説教など聞きたくはない。
むかつく相手でも何でも、今は温かければそれでいい。
いつもはそこまで感じる事はない。記憶の片隅に追いやった感情。だが、ふとあの時の感覚を思い出すと、止まらない。悪寒が俺を襲う。
「来いよ」
「……」
もう一度同じ言葉を繰り返しても、男はドアの前に立ち止まったままだった。俺は唇から深い息落とす。
「…やる気あるのかよ」
「何をだ」
「セックス。それ以外に何がある」
「君とする気はない」
俺の問いにきっぱりと男がそう答える。
(何言ってんだ、こいつ…)
驚き半分、怒り半分で「はあ?」と眉を寄せ頬を引き攣らせて大袈裟に首を捻ると、当たり前だと胸を張るかのような勢いで言った。
「男を抱く趣味はない」
そう言い切った男に脱力し、俺はドサリとそのまま後ろに倒れ込んだ。スプリングが弾み、体に震動が響いた。
「…おい? どうした?」
どうしたもこうしたもない。何て奴をひっかけてしまったのか…。
倒れたまま動かない俺を訝しみ、男がベッドに近付き俺を見下ろしてきた。視線を合わせにやりと笑ってやるとますます眉間に皺を寄せた。
この男は、正真正銘の馬鹿なのだ。
そう思うと、先程までの怒りが一気に萎えていった。真面目腐った顔をしているが、単なる天然男なのだ。
「あんたさ、やる気がないのに何で俺の誘いに乗ったんだよ」
怒っていた自分が馬鹿だなとおかしく思いながらも、俺は笑いをかみ殺しそう男に訊く。
「……何となく…だな」
「何となくで男を買うなよ。しかも、こんなホテルに連れてくるな」
「ん? …まずいのか?」
「普通、同性を買う時は世間の目から隠れるものだ」
「あぁ…。だが、別に私はそういうつもりではないんだから、まずい事は何もないだろう」
「誰が信じるんだよ、そんな事。
あんた、よくそれで無事に生きていられるな。仕事は?」
「…公務員だ」
「教師とかじゃないよな?」
「…見えるか?」
「いや、全然」
よっ! と掛け声をかけて起き上がり、俺は伸びをした。
「ま、何にせよそれなりの地位にいるわけだろ。そんな身分があるのに同性なんて買ったらまずいだろう。俺は、この辺で消えるよ」
口の端をあげて笑い、「これからは気をつけな」と肩をポンと叩き部屋を後にしようとした。だが、またもや止められてしまう。
「今度は、何だよ?」
腕をつかまれた勢いのまま、くるりと振り返りながら言うと、一呼吸ついた後男は言った。
「だから、私は、君を買ったんだろう…?」
「……そうだけど…、抱かないんだろう?」
「そうだが…。抱かなければ、一緒に居られないのか?」
「はあ?」
「言っただろう、話をしようと」
困惑した表情ながらも、真剣な目で男はそう言った。
2002/06/11