◆ 2 ◆


 季節や時間というものは、人間に大きな心理操作を与えるものだ。暑い夏には狂った者が多くなったり、寒い冬には色々考え込んだり、訳もなく人恋しくなったり。朝から雨が降っていたら憂鬱だったり、空に浮かぶ月がいつもより色を変えていたら興奮したり。
 そんな日常の自然の変化を人間は意外と敏感と感じ取る。潮の満ち引きに生死が関係するとか、満月の夜には何かが起こるだとかは、単に昔から言われている事で科学的な根拠はない。だが、多くの者はそれを信じる。
 でも、だからと言って、これはないだろう。
 男にも何らかの事情があり、俺のように寒い冬の夜にその心に捕らわれそうになっているのかもしれない。それはそれで別にいい。
 しかし、自分が関わるとなると、どうでもいいことでは済まされない。自分の事を棚に上げてと思うが、…やはりこれはないだろう。俺達のような駆引きめいたこの関係で。
 自分より10センチ程背の高い男を見つめながら、俺は口から溜息を出した。
「は? じゃあなにか? 話し相手が欲しくて俺を買ったのか?」
「……」
「そうなのか?」
 そのまま顔を凝視すると、男はさすがに気まずくなったのか後ろめたさからか、視線を横に逸らす。
「…おい」
「…そうだ…。…聞いて欲しいというのではなく、君の話を聞きたい…」
「抱く気はないが興味はあるって? こんな事をやっている馬鹿な奴らはどんなんだってか?」
 軽く鼻で笑いながら、男の顔を見ながらそう口にする。
「……そうだ」
「…まじ?」
「…ああ」
「…否定しろよ」
「いや、君の言う通りだ」
「……最低だな」
 思わず低い声で俺はそう呟いた。
 その言葉が誰に向かって言ったものかは、自分でも量り切れない。確かに、不躾もいいところのそんな感情で俺を相手させようという男をあっさりと受け入れられはしないのは事実だが、そう思われる自分にも、そしてこんなことが当たり前のこの世の中にも嫌気がさす。
 人は自分が一番可愛い。それが当たり前だ、否定しようとは思わない。そうでなければ他人も愛せないだろうと俺は思う。だが、この世の中には自分以外の人間を人間だと思わない、自分一人しか愛せない者が少なくない。
 それはそれで、そう言う人間だと納得出来ない事もない。だから、他人を大事にしろとは言わないが、思いやりなんて大層なものではなくとも、人と人の間にはそれなりのマナーがあるのだから、それは守れよと思う。例え自分の醜さを隠すための嘘だったとしてもそれは必要なことだ、人と人が関わりあうには。
 相手に不快や警戒心を持たせないように、気を使うというよりも自分を優位に立たせるために嘘をつくのは当然の事。人間は本心だけでは上手く回らない世界で生きているのだから。
 なのに、この男は馬鹿なのか、それとも計算してやっているのか…。
 多分前者なのだろうが、馬鹿だという一言で済ませられるほど、発した言葉は単純なものではない。まして、それをわかっていても卑屈にとってしまいたくなる性格の俺には、頭にくるものだ。
「…俺達みたいな奴は、あんたにとっては、珍しい生き物だってか?
 おいおい、何だと思ってんだよ、一体。別に特別でも何でもない。人権を無視するかのようなそんな言われ方をして笑っていられるほど、俺は馬鹿じゃないつもりだがな」
 別にこの仕事を傷だとは思っていない。だが、男の言葉は単純に交わした会話だけを取れば、俺のそんな部分を抉るに等しい。
 誰が好き好んで人目を憚ることなくこの仕事を選ぶというのか。誰もがおかしい事に気付きながらも生きていくためにしている。そんな心理をわかれとは言わないが、それでも少しは礼儀というものをもって欲しい。俺はこれでも生物学上は男と同じ人間なのだ。  単なる好奇心ではなく、面と向かってこんな事を言われるほど人間を捨てたわけじゃないし、気楽に生きているわけでもないのだ。
「……。…気に障ったのなら、済まない」
 男の謝罪に俺は喉を鳴らす。
「思っていないくせに言うなよ。
 好奇の視線を向けられるのはわかっている。慣れているし、いちいちそれに腹を立てていても仕方がない。だが…。あんたは、違うだろう。それは興味じゃない。嫌いなんだろう俺みたいなものが」
「……」
「あんたがどういうつもりなのかは知らないが、興味じゃなく軽蔑する目だよ、それは。  そんな目で見られるのは初めてじゃない。ゴミ以下のように思われているからな、俺のようなものは。だが、それなら関わらなければいいんだよ。見て見ぬ振りをして通り過ぎろよ。
 あんたは、話を聞きたいだなんて口では言っても、全身で拒絶しているじゃないか。さっさと目の前から消えてくれ、そんな目をしている」
 男は俺の言葉に顔を上げ真っ直ぐと見つめ返してきた。だが、直ぐに眉に皺を寄せ俯く。
 この仕事を始めるまで、俺は確かに卑屈な面ももっていたが、それを表に出すことなど殆どなかった。大抵の事は流されるままに我慢して通り過ぎるのを待つ、そんな性格だった。今もそれはあまり変わっていないのかもしれないが、それでも、自然に遊ぶかのように色んな事を口に出来るようになった。感情はさほどこもらなくとも、表面上では色んな者と対応できるだけの社会性を手に入れた。
 この世界で生きていればそれは当然で、黙っていては何も出来ないのだから、生きる知恵と言うか職業病と言うか、そんな感じで会話をする。そしてそれが当然になると、感情よりも口が先に出たりしてしまい、自分でも何を考えているのかわからなくなる時があるようになった。
 これは俺にだけ言えるものではなく、人と関わる者達の多くがこんな感覚を味わうのだろう。理不尽だと思いながらも客だからと下げなくてもいい頭を下げたり、歳が下だからと、どうでもいい事で立場を確認させるような事をやったり。胸の内に関係なく行動をとる。
 自分とは少し違う、けれども自分以外ではない、そんな存在を見つめるたび、一体どれが自分と言う人間なのかと首を傾ける。全てが自分なのだろうか。だが、後悔したり否定したりする事もあるのだから、認めたくないし、受け入れたくないと思う心もある。なら、それはどうなる、その感情は?
 哲学者ではないのだから、そんなものを追求しても何にもならない。こんなものだと嫌な自分を目に止めずに流しさる。そうして俺は生きている。それが生きる方法だ。
 今も本当はわかっているのだ。男がそこまで俺自身を軽蔑はしていないと言う事に。
 なのに、こんな言葉が出てくるのは、からかいたいからか、さっさとここを出るためなのか。それとも、男を詰ることで自分を少しでも正当化しようとしているのか…。
 どれにしろ、簡単に言えばこれは言いがかりみたいなもの。怒る心は確かにあるが、そんなものはとても小さい。それに、それは男に対してというよりも、こんな自分自身に対しての憤りに近い。だから、まともに取る必要はないのだ。
 男の目には確かに俺のような人間を否定するかのような色もあるが、それは真っ当に生きている人間なら当たり前で、簡単に受け入れる方がどうかと思うもの。それよりも、困惑の色を濃くあらわしている。目の奥に深い闇を隠している、揺れている。
 だから必要以上に、その闇に当てられ、それから逃げるために、男にきつく当たるのだろうか。男の闇に怯えているのだろうか…。…まさか、そんな事は決してない。
 ただ、この世界は確かに自分で選んだ場所だが、何処かで抜けたいと思っているのは事実だし、逆にこのままずっと依存して生きていきたいとも思っている面もあったりする。そんな相反する感情に左右され、それをどうにか押さえ込む自分に、こう面と向かってこんな視線を投げかけてくる男に耐えられないのだ。迷う自分を見たくないのだ。…男の顔に昔関わった幾人かの顔が重なり、今の俺を非難する。最後には、自分自身が。
 それに耐えられず、俺は必要以上に言葉を発する。
 それなのに…。
「…そう感じたのなら、悪かった。
 確かに、今まではそう思っていた。理解出来ない者達だと。…だが、今は、知りたいんだ。何故、体を売るのか…」
 辛そうに眉を寄せ、先程までの一見ふてぶてしく見える態度をしおらしいものに変えてそう言葉を呟くのは…、…卑怯じゃないか。これでは、自分が悪い事をした気分にさせられる。
 俺は俺を守るために行動を取っている。だから、この男もそうするべきだ。
 なんて奴だ、勝手な介錯で言いがかりをつけるな。お前みたいな奴にそんなことを言われたくはない。
 ここでそう怒ってくれれば、全てが終われるというのに…。男はやはり俺のような人間は最低な奴だと再確認し、俺は嫌な客を捕まえたと悪態をつけるのだ。…だが、これではそうもいかない。
「……どうして…。何故聞きたいんだよ、そんなこと」
 何か理由があるのではないか、そう思ってしまう。この男が抱えるものに引き寄せられそうになる。それがどんなに厄介なものかわかっているのに…。
「…言いたくないのなら、いいけど」
 口ではそう言いつつも、聞いては駄目だ、聞かさないでくれ、と頭が訴える。だが、感情はもう闇に向かってしまっている。
 自分の中の対極する感情に苛立ちが沸き起こる。
「俺には関係ないか…」
 男にそう言い置き、リビングに戻り置かれたままになっていたワインをグラスに注ぎ、俺は一気にそれを飲み干した。騒いだ感情を押さえ込もうと、得意ではない酒で誤魔化そうとする。
 だが、それでも感じたものは直ぐには引きはしない。

――お前は優しすぎるんだ。いや、馬鹿なんだよ。馬鹿すぎる。
 以前、俺がこの世界で生きていくきっかけになった男が言っていた言葉が、頭を掠める。普段から皮肉しか口にしないその男の言葉など覚えていなくともいいというものなのに、どうしてだか記憶から消えることはない。
 男は俺の事を馬鹿な子犬のようだと言って低い声で笑った。人について行く野良犬のようだと。可愛がられるばかりではなく、傷をつけられることもある。なのに、同じ相手でも目の前にいれば尻尾を振ってついていく。だが、性質の悪いことに単なる馬鹿ではない。傷つけられるという事を学習しているのに、ついて行くんだ。傷つけられてもいいからと思っている。そして、求めているのは人の温もりではなく、単なる一人ではないという事実だけ。
 男のそんな介錯は、俺には肩を竦めるものでしかないけれど、全く当たってはいないと言い切れるものではなかったりする厄介なものだ。
 人の事をとやかく言うその男の方こそ性質が悪い。俺を適当に扱っているかと思えば、時にそんな感情の奥底を刺激するかのような事を話す。それが、もっと俺を思ってのことであれば、もしかしたら甘える事も出来るのかもしれないが、突き放してそれを語る。こんな奴だと自分を知っておけ、俺に迷惑をかけるなよ。そんな風に俺に釘を刺す。
 俺が馬鹿だというのは自身でとっくに気付いている。いいように扱われながら、そんな男との関係を切らない俺が馬鹿でなくてなんだというのか。それ以外に似合う言葉などないだろう。だが、わかっていても治るものではないのだ。恩を受けたとしても、それ以上のものを俺は返している。なのに、未だ男とは相変わらず。それは、俺が望んでいるからなのか、ただの現状維持でしかないのか…。どちらにしろ、馬鹿は馬鹿でしかないということは確かだ。
 そして、馬鹿だと認めている俺は、それを軽く笑って流そうとする癖がある。男の言うとおり、傷ついてもいいからと、傷つきたいなと何処かで思っているところもあるのかもしれない。自分で言うのもなんだが、本当に性質が悪い。
 ソファに座りこんだ俺の口からは、苦笑の声が上がる。
 そこに後を追ってきた男が現れ、俺と同じようにグラスにワインを入れ口をつける。コクリと一口飲み込むと、それを机に置きながら自分もソファに腰を下ろした。
 再び向かい合う形で座った後、ポツリと男は言った。
「…弟がそうだった…」
「……何が?」
 往生際が悪いというかなんというか。今更になって俺は誤魔化すかのように言う。何かを決心したかのような男の顔を見て後戻りは出来ないなと悟りつつ、けれども素直に話を聞きたくはないとそう口にする。
 だが、男は俺の言葉など耳に入らなかったかのように反応は示さず、口を開いた。
「弟は、同性に体を売って生きていた。それを知ったのは、あいつが死んでからだ」
「……」
「あいつが自分は男に性的欲求を感じるんだと言いだしたのは、大学を出た時だ。私はもちろん家族の誰も理解など出来なかった。それから直ぐに弟は家を出た。探そうと思えばそれも出来たが、しなかった。
 …今年の秋、私鉄で飛び込み事故があった。
 目撃者の話では、電車がホームに入る直前にふらりと倒れこむように女性が落ちたのだと言うことだった。直前に顔を見たが思いつめた様子も何もなかったが、気分は良くなさそうだったようにも思う。…終電間近の時間だ、疲れているのだろうぐらいにしか思わないし、他人の様子など観察している者などいない…。その証言が元で、捜査は少し困難なものだったようだ。私のもとに知らせが来たのはかなり経ってからだった。
 …目撃者は女性と勘違いしていた、…本当は、男だった。…私の、弟だったんだ。
 その後の調べで、弟がどんな生活をしていたのかがわかったんだが……」
 そこで淡々と喋っていた男は言葉を切り、深い溜息を吐き出した。
 顔を手で覆い俯く男の姿は、先程のような凛としたビジネスマンのような雰囲気は何処にもない。それこそ、死にそうなほどの疲労を抱えた者の姿だ。
「…っで、俺に何を訊きたいんだ?」
 今訊いた話の内容を無視するかのように、俺は呆れた色を消しもせず口元に小さな笑いを乗せてそう口にする。
「何を聞いてもあんたには理解出来ないだろう。聞くだけ無駄だろうに」
「……何故…?」
 男は顔を下げたまま、呟くように訊き返す。
「何故って…。理解出来ないものは出来ない、当たり前のことだろう。
 弟さんの事は気の毒だが…、それで終わりだ。わからないでおいておけばいいだろう」
 見ていない事を知りつつも、俺は肩を竦めた。そうして、男が飲み残したグラスを取り、中の液体を喉に流しこむ。封を切って時間がたつからか、少し鉄臭い。まるで血のようだ…。
「…それでも知りたい。あいつは、何故…」
「知らないね、俺はあんたの弟じゃないからな」
「……。…なら、…君の事を聞きたい」
 口内に残った鉄の味が喉に絡みつくようで、俺は僅かに眉を顰めた。いや、そればかりではなく、状況に眉間を寄せる。
 ビジネスだ、これは。俺はこの時間をこの男に売っているのだ。そう考えると、直ぐには嫌だとは言えない。体を繋げるのなら相手に快感を与えるのが仕事だ。なら、この場合はこの男の納得がいくまで話に付き合う。時間を提供しているのならばそう言うことだ。
 だが、俺は人の感情になんて付き合いたくないと言うのが正直なところだ。男の思いがわかった今は特に。
 自分と同じ心の闇など存在しない。それをわかりつつも、何処かでわかち合えるものを俺は探しているのかもしれない。いや、そこまで大袈裟に考えていなくとも、この闇に捕らわれたくはないと人を求めるのだから、やはり似たようなものなのかもしれない。
 闇に惹かれるのは事実だ。自分の中に大きなものがあるからか過剰に意識しているだけだと言われればそれまでだが、他人の闇が気になる。その者を救いたいだとか、自分を助けて欲しいだとか思わず、ただ、闇に目が行く。そんな程度だが、それは厄介なもの。
 助けられるほどの力も何もない俺が、簡単にそれに触れてもいいことなど一つもない。それこそ、余計にその者を苦しめる可能性の方が大きいというもの。
 そこまでわかっていてもなお、煮えきらずにズルズルと引かれてしまうのだから、本当に俺は馬鹿以外のなにものでもない。あの男が言うように、自虐的な面が未だにあるのかもしれない。
 おかしな空間だ。何もかもが可笑しすぎる。
 先程までピリピリと張り詰めていた雰囲気が見事に消え去った。俺に嫌悪を抱いていた男が、おそらく近くの者にはあまり見せないのだろう自分の弱い部分を見せている。男に腹を立てていた俺が、面倒だと思いつつもこの男に付き合おうかと思い始めている。
 目の前に座る男から視線を外し、部屋をぐるりと見渡し大きな窓で視線をとめる。
 闇に広がる街の光。輝くその光景を宝石箱をひっくり返したようだと言ったのは誰なのか。綺麗な宝石とは比べ物にはならないのだろうが、確かに輝く光はそれのように美しい。
 だが、宝石の価値を理解出来ない俺としては、この光を人の営みだと思うと、あまりにも似つかわしいものなののようにも思う。あんな石ころと人間の日常を同じにするな、か。それとも、純粋に自然の産物を愛でるものにすれば、汚いこの街と同じにするなと逆の事を思うのかもしれない。
 同じ物を見ても人それぞれ捕らえ方が違う。それが面白くもあり、苦しみの原因でもある。周りと自分との異質が、当たり前ではなく狂っているのだと捉えてしまうと、もうどうする事も出来なくなる。
 人間と言うのは、そんな純粋な生き物なのだ。一人では生きて行けない弱いもの。だが、それを弱さだと気付かず、傲慢に生きる者がこの世には多い。
 それを考えると、この男も、そしてこんな俺も、まだまだ捨てたものではないと思う。ちょっとした事がきっかけで、大きく変われる。眉を顰め合っていた同士だというのに、今は同調し始めている。
 俺はともかく、こんな男が生きなくてどうするというのだろう。変われる可能性をもった人間が、この世の中にいなくてはいけない。でなければこの世界は終わりに向かうだけ。
 救うことは出来ないが、それでも何かをしてみたい。
 性質の悪いことにそう思っている自分がいる。俺はそれに苦笑し、軽く肩を竦めた。最低な人間だ、俺は。自己満足のために、彼の傷を弄ろうというのだから。
 だが、それを言うならば、こんな俺に話を振ってきた男も男だが。
「……今、何時?」
 俺がそう訊くと、男はゆっくりと顔から手を外し腕時計を眺め「…11時半だ」と言った。
 流れも何もないその問いに律儀にも心に沈み込でいた男が答える。その行動が可笑しく、俺は小さく笑いを漏らしながら再び尋ねる。
「携帯、持ってる?」
「…ああ」
「ちょっと貸して」
 スーツのポケットから取り出し渡された携帯で、俺はすっかり覚えてしまっている番号に電話をかけた。
 なるべくなら借りを作りたくない相手だ。だが、今日はいいかもしれない。
 これは賭けだ。気まぐれな電話の相手が俺の要求をのんだのなら、男の話に付き合おう。そして、駄目ならこのまま出て行く。
 相手の男は数回のコールの後、つまらなさそうな声で電話に出た。
『…誰だ?』
「俺」
『ああ、何だ?』
 聞き返してくるという事は、少なくとも機嫌が悪くはないらしい。その一言で、賭けは男の勝ちだということを確信する。
 俺はホテルの名前を継げ、「上を頼む」とだけの用件を言った。
『……仕事は?』
「仕事中だ。無理ならいい」
『いいぜ。部屋は?』
 一瞬必要ないだろうと躊躇ったが、男に部屋の番号を聞きそのまま伝えると電話の向こうから低い笑い声が聞こえた。
『直ぐに用意させる。迎えをやるから待っていろ』
「別に要らない。自分で行く」
『そういうなよ。河北がお前に会いたがっていたからな。今度相手してやれ』
 予想外のその言葉に俺は思わず小さく唸った。
「……足元見やがって」
 そう呟くと、電話の向こうで男の喉がクククとなる。そして、『じゃあな』と、短くそう言うと直ぐに通話は切られた。
 早くも馬鹿なことをしたかもと後悔する。借りた利子は高すぎた。
(ったく…)
 俺を犬呼ばわりしておきながら、自分はハイエナのような汚い事を平気でする、そういう男だ。俺と違い、頭が切れ力があるので、その性質の悪さは比べ物にならないというものだ、全く。
「ありがとう」
 リダイヤルメモリを消し携帯を戻すと、「…いや」と男は躊躇いながら受け取った。突然の電話に驚いたのだろうが、その内容を聞くほど、マナーがないわけではないようだ。別に直ぐにばれるので、聞いてくれてもかまわないのだが。
 電話での少し理不尽だと感じる腹立たしさを消すために、俺は「さて。俺に何を訊きたいんだ?」と、前に座る男に視線を合わせた。
「…さっきも聞いたが…どうしてこんな事をしている?」
「生きるため」
「…何もこんな事をせずとも生きられるだろう」
「それはどうかな。俺はこの世界でなければ今まで生きてはこられなかったと思っている」
「……」
 茶化す風にではなく、真面目にそう答えると男は言葉を詰まらせた。
「あんたからすれば、生死を簡単に口にする俺みたいな餓鬼の生きるなんて言葉は、説得力も何もないか。だがな、考えてみろよ。あんたはこの俺がいるような世界で生きられるか?」
 暫く考えた後、男は小さく首を振る。
「……いや」
「だろう。普通真っ当に生きてきたのならこんな世界に足を踏み入れはしない。ここは生きる場所じゃないからな。
 だが、こんなところでなければ生きられないという者もこの世の中にはあるんだ。俺からすれば、確かに最低な場所だとわかっているが、生きていける場所だ。そして、あんたが言うまともな生き方、そんな社会は俺にとっては生きられない場所だ。俺が居てもいい場所がない」
「…それは、どういう意味だ…?」
「言葉通り。あんたが俺のように生きられないのと同じさ。まともな社会では、人は一人では生きられない」
 そう答えた時、部屋にチャイムが響いた。飛んできたのか、やけに速すぎる。
 それに首を傾げた男に、
「行こう」
 そう言い立ち上がった俺を男が見上げる。
「あんたに付き合ってやるよ。だけど、ここで向かい合って話をするなんてつまらないからな、別の場所に行こう。こいよ」
 何処へいくのかと訊いてくる男を無視して外に向かう。
 ドアを開けると、ホテルに似合ったロマンスグレイといった感じの男が立っていた。いかにも優しいかっこいいオジサン。だが、その紳氏といえる男の内面を知っている俺には胡散臭げにしか見えない。ベッドの相手はしたくはないサドの変態オヤジの顔以外の何でもない。
「用意が出来ました」
 恭しく頭を下げる男に「…どうも」と軽く返事をし、訝しむ男に視線を向け、ついて来いよと手招きをしながらニヤリと笑う。俺なら、勝手に行けよと、何処に向かうのかも知らされていない場所へなど危なくて行きはしないのだが、男は現れたのがホテルの従業員だったから安心したのか失態を見せたくないのか、不機嫌ながらにも何も口にはせずに大人しくついてきた。警戒心がなさすぎと言うか何と言うか、男の素直な行動に軽く苦笑を漏らす。

 変態オヤジに案内されるままエレベーターに乗り込み、最上階へ向かう。
 小さな浮遊感が起こり、その後は微かな機械の音と沈黙に包まれる。ガラス張りのエレベーターの中は外の闇と同様に、明暗が混ざりおかしな雰囲気になっていた。夜鏡となったガラスに視線を向け、その雰囲気に苦笑を漏らす。
 一流ホテルの名に相応しく、外には感情を微塵も出さずに真っ直ぐとドアに顔を向けてピシリと立つ紳士。けれども俺を覗いほくそ笑んでいるのが想像できる。そう言う男だ。もう一方は、軽く壁に凭れて立ち、眉を寄せ状況を掴もうと思案する端整な顔立ちの今夜俺を買った男。そしてそんな彼らを眺める俺。
 それぞれ見目はいいのだから、この取り合わせは女ならば歓声を上げるものなのかもしれない。だが、漂う雰囲気は気味が悪いもの。欲望、嫉妬、疑惑に警戒、それらが混ざり合い、俺に向かってくる。重い空気。
 額をガラスにつけ、夜鏡ではなく外の景色に目を凝らす。
 どれくらいの高さなのだろうか、先程部屋から見たよりも小さな街の光。けれども遠くまで見渡せられるので、宝石の数は増えている。そう、まるで星のよう。
 12月に入ると直ぐに街はクリスマス一色になったので、いつもより光は多いのかもしれない。男をつかまえる前に見た装飾された木を思い出し、俺は何とも言えない息をつく。
 綺麗なものは嫌いではないが、ああいった電飾はどうも好きにはなれない。折角の木に何を貼り付けているのかと思ってしまう。それぞれのそのままの姿が綺麗なのだと俺は思う。だから、葉の落ちた木はそれでも枝を張り、来年の春に芽を出すためにこの寒さを乗り切って行くのだと感じるのが好きなので、それに電気をつけるのは信じられない行為だ。人は明るければ綺麗だと感じるので、枝だけの淋しさよりいいと思うのだろうが、俺は逆に飾られた木を見ると哀しくなる。そんな事をする人間が全く理解出来ない。どうしてあるがままのその姿でおいておけないのか。
 寒い冬に緑の葉をつける木を神が宿ると崇めた昔の者達。元々はそういった習慣からのものなのに、今はただ単にそんな由来も何も関係なく明るく騒げばいいようになってきている。葉を張らない木や、冷たい機械や建物などにも光を散りばめる。それに何の意味があるのだろうか。
 心が淋しいからだ、人は淋しいからそんな事をするのだ。特にこの国の者達は、信じない神でも何でも関係なくイベントに興じる。淋しいから、楽しい事に便乗したい。答えなんてそんなものなのだろう。
 それを否定はしない。だが、苦笑してしまうのは確か。そして、そんな俺も淋しいから素直に騒ぎに乗れないのだと思う。光は嫌いではないのに、街に溢れる大量の明るさを受け入れきれない。
 この季節は好きだが嫌いなのだ。寒さは温かさを教えてくれる。だが、俺を捕らえもする。
 あの時、夢中で寒い夜空の下を走った俺の目に、いつまでたっても消えることなく飛び込んできた明かり。街路樹に飾られた電飾は、人気がなくなってもなお輝き続けていた。あの光景が忘れられない。音のない世界、そこにあるのは闇が支配するはずの夜だというのに、地上には散りばめられた光が存在した。そのアンバランスな世界は夢のようだった。そう、悪夢のよう。逃げ回る俺を誰かが何処かで見つめている。この光は俺を捕らえるためのもの。そんな恐怖にかられていた。
 だから、嫌いなのだ。必要以上の光というものは。
 闇が好きだというわけではないが、時々、真っ暗な世界に捕らわれたくなる。何も見ずに、ただ自分だけを感じ、そして、消えてしまいたくなる。
 だが、実行はしない。一笑してそれを飛ばす術を俺は手に入れたから。
 エレベーターの到着音に顔を上げ、振り返った先にある男の顔を捉えてニヤリと笑う。
 顎をしゃくり先に男を下ろさせそれに続こうとしたが、案の定、男が周りを気にしている隙に、扉を押えていたオヤジの腕に捕らえられる。
「…わかっている」
 男には聞こえないように小声でそう返すと、「それはありがとうございます」と紳士面で河北が笑った。気に食わない顔だ。だが、それを表には出さずに俺も軽く笑う。
「…逃げられるのなら逃げたいけどね」
「ご冗談を」
「…都合がついたら狭間に連絡する」
 先程の電話で今の事態にあるのだから、俺にはそう言った意見は与えられていないのだろうと思ったが、そうではないようで河北は俺の言葉に頷いた。正直、この仕事の後に来いというぐらいの事は言われるのだろうと思っていたので、少しでも変態オヤジの相手が先送りになった事に心で息をつく。
 狭間も利息が高い事に気付いて気を使ったか。…それとも何か企んでいるか。どちらだろうと、このオヤジの相手をしなければならないというだけで大変すぎるのだが。
「直接来ていただいても構いませんよ。あなたなら」
「それこそ冗談だな」
 耳に囁き、カリっときつく噛まれる。痛みには顔を顰めず、オヤジの言った言葉に軽く鼻を鳴らして肩を竦めた。そして俺は掴まれた手を振り払い、先に降りた男に向かって真っ直ぐと歩く。
 直ぐに扉が閉まる音がしてエレベーターが降りていった後、口から大きな息を吐く。そんな俺の姿に、男は軽く眉を寄せた。
「こっちだ」
 そう誘い、手前の扉を抜け奥に進む。
「…ここは」
 たどり着いた先で男が発した呟きに、俺は目の前の光景に目をくれる男をそのままに足を進めながら、完結に答える。
「屋内プール」
「それは見ればわかる」
「あ、そう」
 なら訊くんじゃないよ、と心で悪態をつきながら肩を竦める。口に出して言っても、どうせ返事は返さないだろう。会話を楽しむ術を俺が持っていても、相手にその気が無ければどうにもならないのだ。

2002/06/19

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