◆ 1 ◆


 日が沈むまでにはまだまだ時間があったが、路地裏にその光が届くほど太陽は高くはない。そもそも、夏場であればここに光が落ちるのかどうなのかすらわからない。何にしろ、輝く太陽の光はこの場には不釣合いで、この薄暗さが良く似合っているというものだ。
 薄汚れた建物の壁に凭れたリヒトは、そんな事を考えながら空を見上げた。背の高いビルの隙間から見えるそこでは、雲が勢いよく流れている。こうして待っていれば、直ぐに地球を一周して再び姿を現すかもしれないと思うほどの速い流れだ。
 だが、見えなくなった瞬間には、風の力で雲は形を変えている。例え本当に戻ってきたとしても、自分には見つけられるはずがない。
 夢と言うには馬鹿過ぎる想いと面白味のない現実を同時に思い浮かべながら、頭を壁に押し付け目を閉じた。視界を塞ぐと、雲に捕らわれた感覚が一瞬にして消え去り、その力は一点へと向かう。
 リヒトは自身の下腹部から上がる、濡れた音に耳を済ませた。わざと立てられるその音は、ビルの隙間風に乗り、一体何処まで行くのだろうか。ふとそんな事を考えたが、一瞬後にはどうでもいいことだと再び与えられる刺激に意識を戻す。
 寒空の下、躊躇いもなく地面に跪いている男の髪にリヒトは手を差し込んだ。
「…んっ…、なあ……」
 男の口に咥えられた自身を抜き取ろうと、握った髪を引っ張る。空気以上にそれは冷たかった。少し湿っぽい男の髪から片手を放し、額を押しやる。
 先端に唇を当てたまま、蹲る男が楽しげに笑った。
「…限界か?」
 仰け反らせていた頭を戻すと、自分を見上げる男の視線とぶつかる。男としては大きなその目は、普段は可愛らしさがあるものだが、今はもうそんな影は何処にも見えない。笑いを含みながらも、獲物を捕らえる様な真剣さが現れている。
 濡れた唇を歪め、そんな笑いをする男にリヒトは小さく溜息を吐いた。この男が本気になったのなら自分に勝ち目があるのだろうかと考え、そこから導き出される結論に再び溜息を吐く。勝ち目など何処にもないだろう。
 だからこそ、男が本気にならないよう、自分は事を運ばなければならないのだ。負けることが悔しいというのではなく、ただそれが面倒なだけである。そして自分はおろかこの男すらそんな事を望んではいないのをリヒトは知っていた。男もまた、見せる態度程本気にはなっていない。
「いや、まだだけど…」
 もう、いい。
 気だるげにそう言った言葉に、男は喉を鳴らした。
 自分が何を考え拒否しようとしているのか、この男は全て見通しているのだろう。だからこそ、こうも楽しそうに笑うのだ。
「遠慮するなよ、…飲んでやるよ」
 予想通り、男は止める事はなく、行為を再開した。その頭に大きな溜息を落とす。だが、その息が先程よりも熱を持っていることにリヒトは自身で気付いていた。
「…最低…、あっ…」
 抗議を落とすと同時に噛みつかれてしまい、思わず声を上げる。もたらされる快感は、先程までとは比べ物にならないものだった。男が本気で自分をいかせようとしている。その事実に戸惑うよりも、この行為の馬鹿さかげんに心が疲れた。
 リヒトは背中を預けた壁に再び頭を凭れかけさせ、今度は空ではなく横を向いた。通りへと続く通路から街の喧騒が聞こえる。
 間違っても先程自分達が通って来たその道に入ってくる者などいないように。
 今願うのはそれだけだった。
 ロングコートのボタンを下からいくつか外したそこを男の頭で覆われている自分の姿を客観的に想像し、その痴態さを誰かに見られる事に怯えている…などというわけではない。ただただ、本当に面倒なだけなのだ。
 この行為から逃れられないのであれば、望むのは一つ。さっさと終わらせる、それだけだ。だからこそ、第三者の登場は邪魔になる。
 ジーンズの前を広げられ性器を口に咥えられ追い立てられている状況では、他人の感情などどうでもいいというもので、やって来たものが不快に感じるだけなのなら問題などない。危惧しているのは、逆の事だ。誰かが来ることで更に発展するのだけは絶対に避けたい。
 そうでなければ、約束に遅れてしまう。
 冷静に頭でそんな事を考えながらも、リヒトの口からは熱い息が零れた。
「あっ、う……」
 きつく吸われ、その快感に膝がカクリと折れそうになったのを、どうにかして踏ん張る。
 男がそれに対し、満足げに喉をふるわせた。
(…さすがというべきなのか、な…)
 しつこいと思わずにはいられないゆっくりとした愛撫で、けれども確実に自分を高まらせていく男の髪に再び手を入れると、クチャリと濡れた音がいっそう高く上がった。
「…ああっ、…くっ」
 今度は先程とは逆に、男の頭を引き寄せる。
 我慢することもないだろう、そう判断し、リヒトは男の口内に上がってきた欲望をあっさりと吐き出した。
「…もう、いいだろう」
 小さく息を吐いた後、未だ捕らわれたままの自身を男の口から抜き取ると、そこに卑猥な細い糸が延びる。それを男は舌を伸ばして絡め取った。プツリと切れた銀の糸が男の口元を汚す。
 さっさと身繕いをするリヒトに男は一度軽く肩を竦め、地面についていた膝の汚れを叩きながら立ち上がった。
「折角やってやったのに、楽しめよ」
「頼んでいないだろう」
「合意だろう、これは」
 それを言われればそうだとしか言えない。この場に来たのも自分なら、男を蹴り倒してでも逃げなかったのも自分だ。拒否する事はいくらでも出来た事を自分も男も知っている。
 だが、だからと言って、素直に頷く事も出来ない。
 今は客を取っていないと言った自分に、それなら抜いてやるよと半ば強引に男が仕掛けてきたのもまた事実なのだ。男の言うように自分も面倒だからと流された点は誉められはしないが、楽しまなかったからといって溜息を吐かれるのは納得いかない。男が誘わなければ、こんな事にはならなかった。人のせいにするのかと言われようと、それが事実なのだ。自分からしてくれと頼む事など絶対になかったのだ。
 だから、リヒトとしては男に付き合っただけで充分であって、それ以上は鬱陶しいというものだ。その後もまだ絡まれるだなんて堪ったものではない。
「時間が無いんだよ」
 自身の反省点は承知しているが、それでも不機嫌にならずにはいられなかった。軽く舌打ちをすると、男が眉を上げた。
「おいおい、怒るなよ」
「怒っていない」
 その声は、自分でも説得力はないと思える、低い声だった。
「リヒト」
 男が伸ばしてきた手を払おうと手を動かしかけたが、グッと堪え、軽く目を瞑った。頬に触れられた手は暖かく、詰めた息を吐き出す。
「悪い…。…でも、ホント、時間がないんだ。マキに怒っているわけじゃない」
 怒っているのなら、自分自身の軽率な行動にだろう。
「なら、今度ゆっくりしようぜ」
 目をあけた自分に笑いかけそう言った男に、リヒトは呆れ顔を作り首を振った。
「俺はお前の客になる気はない」
 会う度という程ではないが、それに近い割合で男は自分を誘う。それが何故なのかはわからないが、もうそれが挨拶であるかのように聞き慣れてしまい、リヒトはいつも適当に流していた。男もまた、口にするだけで実際相手にされずともあまり気にはしていない。そう、ただからかって遊んでいるかのよう。
 なのに、今日は何故かはっきりと自分を見つめそう言う男に、リヒトは少し不安を覚えた。何かあったのだろうか…。
 一方男はリヒトの言葉に、自分もそれは嫌だなと声をあげて笑う。
「でも、たまにはいいだろう。お互いに楽しめるんだしさ」
 同業者ならではの醍醐味ってやつだよ、と口元を緩めながら、リヒトの頬に置いた手を男は降ろした。
 自分と遊ぼうというのか?
 そう問い返しかけた言葉を飲み込む。そんなはずはない。多少こうしてからかいはしても、男は金にならないセックスはしない。そしてそれは自分も同じだという事を理解している。体を売るのは寂しいから、相手が欲しいから、快感のため。そう身体をメインにしているのではない、金だ。それを欲しがる理由は違うが、金のために自分も男もこの仕事をしているのだ。
「良かっただろう?」
 そう首を傾げる男を、リヒトはじっと見つめた。
 男とは顔を会わせれば話をするし、時には一緒に仕事をしたり、遊んだりもする。純粋に友達と言えるものではなく、名前も住んでいる場所も知らないが、仲が良いのは事実だ。同志とまではいかないまでも、仕事に対して同じような価値観をもっているので気も合う。
 こうして自分の目の前にいる男の事はある程度知っているしわかっている。だが、それが男の一部でしかないのもまた事実。しかし、それは自分とて同じだ。誰もが相手により自分を使い分けているのだから、何も特別というわけではない。
 そして、この男は自分の前では軽口を叩き、人をからかうのが好きであった。
 いつも通り。そう思えばそうなのだ。だが、けれどもやはりどこかでひっかかりを感じる。何かが、おかしい。
「そうだな、良かったよ」
 男が何を考えているのか、わからない。
「なら、いいだろう。しようぜ」
 いつもと同じ言葉なのに、いつものようなからかいだけではない何かが含まれている。
 その理由はリヒトにはわからないもので、例え男に訊いても答えはしないだろう。第一、相手が言わない事を聞けるほど、自分は力を持っているわけではない。聞いたからといってそれを受けいれられるほど、人間が出来ているわけではない。だからこそ今自分が出来るのは、男の隠すそれに気付かない振りをするだけだった。
「機会があったらな。ということで、今日はもう勘弁してくれよ」
 自分より少し背の高い男の頭にリヒトは手を伸ばした。先程乱してしまった髪を直してやる。
「ホント、やばいんだよ、時間が」
 肩を竦め、何故か執拗に誘いをかけてくる男をかわし、表通りへと歩き始める。しかし、街の喧騒を前にしても、会話の内容は変わりをみせなかった。
「そうやって、いつも逃げるんだよな」
 数歩遅れて通りへと出てきた男が横に並ぶ。擦れ違う自分達の会話を気に止める者などいないだろうが、何処で誰が聞いているかわからない世の中でもある。
「今日は付き合っただろう」
 勘弁して欲しい、そう思いながらも顔には出さずリヒトは笑いを浮かべた。
 その場限りの付き合いが多い中では珍しい男との関係をリヒトは気に入っている。もし、こんな仕事の同業者としてではなく、もっと普通に出会っていたのなら友人になれたのだろう。そう、お互い何処かで一線を引く事はなかったはずだ。
 そんな友人関係だったなら、こうして少しどこかおかしい男に、どうしたのかと訊くことが出来、そして男もまた、自分にその胸の内を伝えることが出来たのかもしれない。それをするには今の自分達の関係には邪魔なものが多すぎる。それを断ち切る事は、自分には出来ず、男もまたそうである。
 辛いと思う事はないけれど、何かが間違っているのは確実であった。だが、その間違った中でだからこそ、自分は今まで生きてくることが出来た。その事を誰よりも強くリヒトはわかっている。
 男と自分との関係は、互いにこの中から抜け出さなければ永遠に変わる事ないのだろう。
「人に飲ませて、その言い方か」
「あんたがやりたがったんだろう。させてやったんだ感謝しな」
「はいはい、そうするよ。リヒトくんを鳴かせられて俺は嬉しいよ。満足だ」
「良かったな」
「ったく、ふてぶてしい奴だな、相変わらず。今の客が相手にしてくれないから、たまたまなんだろう。どうせ次に会った時はいつものように「やりすぎで疲れてる」で逃げるんだろう」
 当たり前だと答えかけ、笑いを向けて別の言葉を選びリヒトは口に乗せた。
「さあな、わかんないぜ、先の事は」
 男は眉間に皺を寄せ、「嘘臭っ!」と顔を顰める。
「そんな軽口叩いているのも今のうちかもな」
「なら、今のうちにいっぱい言っておこう」
「可愛くないね、ホントに」
 男がその言葉とは裏腹に楽しげに笑う。
 自分と馬鹿な話をすることで気が紛れるのなら、いくらでも付き合おう。リヒトとしてはそんな気はあるのだが、現実問題としてそれが可能かどうかはまた別だった。だから、男のその笑いには、幾分かほっとした。
「っでさ。その客、いつまでなんだ?」
「相手に出て行けと言われるまで、かな」
 リヒトは今一緒に暮らす男の顔を思い出し、笑いながら自分の状況を少し話すと、「珍しいものに捕まったな」と男の呆れ声が返った。
「ま、確かに」
 捕まったのは一週間程前で、その時は自分もそう思ったし今もそう思っているが、暮らしてみると相手の氷川は想像以上に普通の人間だった。堅物でもあり真面目でもあるが、融通が聞かないわけではなく、抜けているところもある。
 尤も、この一週間、朝は早い決まった時間に出かけ夜は遅くに帰ってくる氷川とまともに顔を会わせる時間などはなく、一緒に生活をしている感じはあまりないので、相手に関してはまだ知らない事の方が多い。氷川が話さないからといって、態々自分から訊く性格でもないので、リヒトは未だ一緒に暮らす男の職業すら知らない。交わした会話は本当に他愛のないものばかりだ。
 氷川は何故何も言わないのか。確かに忙しくて自分の相手をする暇はなさそうな所はあるが、勢いで拾ってしまった自分を持て余しての気まずさというのは全く感じられない。ならば、何故なのか。
 その理由をリヒトは特に知りたいとは思わないし、また知るべきことではないのだと理解している。自分もそうだから。問われれば躊躇わず答えるであろうが、あえて自ら話をしたいと思えないものを自分も持っているし、誰の目にも触れないところへ隠しておきたいものもある。
 自分にそれがあり、そんな気持ちがわかるからこそ、相手の隠すものを簡単に訊けはしない。
 それは、確かに真実だが、本心かどうかはリヒトにはわからなかった。綺麗事なだけであって、自分はただ相手に深く関わりあうのを避けているだけなのかもしれない。氷川が直ぐに関係が切れる客だからというわけではなく、もっと強い繋がりの者に対してもそうだ。
 自分は他人と関わりあうのが嫌いなのだ。
 それは紛れもない事実であり、けれども、全くの嘘でもある。
 今の自分は、それを隠した自分だから。
 苦労して作り上げた自分は、感情を手に入れた。笑えもすれば、泣く事も出来る。それは何よりも自分を救った。
 けれども、やはり、根本的な自分という人間の本質は変わる事はないのだろう。こうして時にふと現れるその顔は、自身ですら嫌になるものだった。だが、それを見ては生きていられないと、また一つ上に殻を被せる。それは偽りではなく、努力だ。努力して、自分を隠している、自分のために。
 確かに今の自分は作り上げたものだが、それは偽者だということではない。ただ、これが全てではないだけだ。そう、一つの顔に過ぎなくとも、この顔は自分である事は間違いがないのもまた真実。
 そして、そんな今の自分をリヒトは嫌いではなく、だからこそ、歯痒くなるのだ。完全にあの自分を消すにはどうしたらいいのだろうか。二度と表に出てこないようにするにはどうすればいいのだろうか、あとどれくらい殻を作ればいい…?
 自分は、自分に怯えている。
 作り上げた自分が一瞬にして壊される日がいつか来るのではないかと、そう怯えている。あの頃の地獄のような苦しみを受ける日がまた来るのではないかと。その事に疑問も持たず、ただ苦しみ続けるだけのあの日々が…。
 過去のことだと思い込もうとしているが、実際はただ自分はそこを逃げ出しただけに過ぎない。それはすぐ近くにあるのではないか。
 一度不安を覚えると、どんどんそれに捕らわれてしまう。それは、作り上げた殻が一つまた一つと壊れていっているからだと感じられてならない。努力して殻を作り、そして自らあっさりと壊す。
 一体自分は何をしたいのか。リヒトの中にその答えはない。
 ただ、今は、この自分の居場所を守るだけしか考えられない。そんな不安定な自分に一体どんな力があるというのか。
(…あるとすれば、破壊力だけだろう……)
 自身の意思に反して、壊すのは得意だ。そう、今まで多くのものを壊してきた。大切だと思ったものも、掛け替えのないものも。数え切れない沢山のものを壊してきた。
 だからこそ、何かを得るというのを嫌うのだろうか。他人に関わりあうのが、怖いのだろうか、自分は…。…いつか、この手で壊す時が来るだろう、そんな未来に怯えているのかもしれない。
 この街に来て、この仕事を始めて、リヒトは色々な事を考えるようになった。気付けば闇に捕らわれていた。だが、それを苦しいとは思わない。考えて見つけ出せる答えはないけれど、これもまた、生きている証拠だから。自分はどんな事をしてでも、生きて居たいから。
 だが、それでも思うのだ。
 自分はいつまでこうして生きているのだろうか、とも。
 一体、いつになれば、自分は自分を壊すのだろうか。
 生きろよ。そう言った男はもういないのに、何故ここまで生にしがみ付くのだろうか。
 雑路の風景に昔の記憶が重なる。
 歩く人々が皆紙切れのように思える。何の意思もない、操り人形。その中を泳ぐ自分もまた、そのひとつに過ぎない。この世に存在する色は、一色だけ。その赤い色だけが真実なのだ。
 ふと目に入る、ショーウィンドーに映った自身の姿。そこにはあの頃の自分がいた。叫びたくなる驚きはあったが、リヒトの口からは声は出なかった。叫ぶ必要性がなかった。それはいつも自分の中に居る影なのだから。
 今どんな暮らしをしようとも、過去は忘れられない、なくなりはしない。
「…リヒト?」
「……ん、何?」
 話し掛けていたのだろう男の言葉に、悪かったと訊き返す言葉は思いに捕らわれていた欠片もない平常のものであった。あまりにも慣れ親しんだ恐怖は、自身の感覚を確実に侵している。
「だからさ、他の客はとってないんだろう? なら、これから何処へ行くんだよ」
「仕事以外にも用事はあるさ」
「何?」
「ヒメとデート」
「…それは、それは…、……羨ましいことで」
 リヒトの言葉に長い沈黙を置き、男は真面目な声でそう返した。なんと言えばいいのかを考えたが、いい案は浮かばなかったのだろう。先程とは違い、隠すことなく困惑を顔に浮かべている。いつでも笑顔で取り繕う男のその顔にリヒトは口元を緩めた。
「羨ましいというのなら、一緒にどうだ?」
「止めてくれよ、冗談じゃない」
 鼻で息を吐きながら、大袈裟に手と首を振り眉を寄せる。
「頭のネジはちょっと緩いが、いい奴だぞ」
「ヒメちゃんは、ね。だが…」
 言葉を濁した男に喉を鳴らす。相手が指し示す眉を寄せる原因は自分とていいものではないが、今はそれは楽しい要素だった。からかいにきた男をやり返せるのだから、楽しくないわけがない。
「嫌われているな、あの男は」
「苦手なだけだよ。…お前はよく平気だな?」
「俺は苦手なんじゃなく、嫌いなんだよ」
 その言葉に肩を竦め、男は「ま、頑張れよ」と信号待ちの人込みで足を止めた。このまま話題の男のところに連れて行かれてはたまったものではないと思ったのだろう。
「やりたくなったら、来いよ」
 話を戻しニヤリと笑った男に、リヒトは同じ笑みを向けた。
「お前とやっても金にならねーんだよ」
「やっぱ、やらせる気無いんだなっ。そうケチるなよ!」
「煩い、ケチって当たり前だろう。俺は高いんだぜ、やりたきゃ金もってこいよ」
「誰が出すかよ」
「なら、話は成立したな」
 本気で体を重ねたいと思っていない事を自分に知られているのを知りつつ、まだぶつぶつと文句を言う男に、リヒトは爆弾を放り投げた。
「じゃあな。狭間によろしく言っといてやるよ」
 リヒトのその言葉は見事命中し、男が漫画のキャラクターのように顎を落とす。
「な、な、なっ! …っんなこと頼んでねーよ、何も言うなっ!」
「遠慮するなよ」
「リヒトっ! 覚えてろよ!」
「いや、忘れるに決まっているだろう」
 次いつ会うのかわからない関係だ、覚えているうちに会えるとは限らない。
 そう笑うリヒトに、男は「なら、思い出させてやる」と笑った。内容はともかく、子供の言い合いのように別れに言葉を掛け合いながら一頻り笑い合う。
 身を翻し横断歩道を渡り始めた男の姿から視線を外し、リヒトもまた体を前に向け歩き始めた。
 コートのポケットから取り出した時計で時刻を確認すると、すでに約束の時は過ぎていた。

2002/11/30

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