◆ 2 ◆
「氷川っ!」
後ろからの呼びかけに、けれども声の主をすぐさま脳裏に浮かべながらも氷川は足を止めなかった。自分と同じく足音を吸収する絨毯が引かれた上を歩いているはずなのに、何故こうも音を立てられるのであろう。広い部屋を横切り近付いてくる人物のそれを耳にしそんな事を思いながらも、氷川は一人、扉をくぐった。
「あっ。こら、待て!」
その言葉を扉を閉める事により遮り、氷川は落ちそうになる溜息を飲み込み足早に廊下を進んだ。無駄な事だとはわかってはいるが、大人しく捕まる事もしたくはない。
「な〜に無視してんだよ、おい」
案の定、扉の開閉音が後ろで上がったのを確認して直ぐに、氷川の肩に手がかかった。しかし、その人物をちらりと見ながらも、氷川はなおも歩調を緩めない。
今更足掻く自分も自分だが、追う方もどうだろうか。まるで餓鬼だ。
その内心を表には全く現さず、硬い表情のまま氷川は前を見た。残念ながら目指すエレベーターはまだ遠く、この男をまく事は出来そうにない。
「俺から逃げられると思うなよ」
「……そんなつもりはない」
「それは良かった」
軽く眉を顰めながら答えた氷川は、態々自分を追いかけてきた男・木崎広志に向かい深い息を吐き出した。自分が嫌がっているのを知っている相手には全く効果のないこと。だが、これは計算でも何でもなく、氷川自身落とさずにはいられなかった溜息。
「あからさまに、よくもまあ」
言葉とは裏腹に、木崎は氷川のそれを軽く笑って流した。
「観念したと言う事か」
そう広くはない廊下で前から来た人物と擦れ違うため、氷川の肩に手を掛けてきた木崎が一歩後ろへと身を引いた。視界から消えた姿、けれども逃げる事の許されない、自身の肩を掴む手…。
「さあ、なら話してもらおうか。今朝の続きを」
いい顔をされていない事を知りつつも、長い付き合いだからだろうか全く気にも留めずに、氷川の肩にかけた手を逆の肩に伸ばし木崎は肩を組んできた。
友人である木崎が何の用で自分を捕まえようとしているのかはわかっていたが、やはりという感情は今の慰めには繋がらない。いや、余計に気が重いというものだろうか…。
氷川は肩に置かれた手を視界の隅で捕らえ、今度は相手に気付かれない小さな溜息を落とした。
木崎とは大学を出た後の警察学校からの付き合いなので、もう10年程になる。初対面の頃から、愛想の無い自分とは違い妙に人懐っこい男で、そんな元気な彼を脳天気な奴だと思ったていた。だが、その笑顔の下に計算されたものがあるのだと気付くのにはそう時間はかからなかった。それは木崎が自分を懐に入れたからか、自分が木崎を意識したからか…。とにかく、普段のお調子者といった外見とは違い、木崎は実に頭が切れる男だった。
そんな木崎の少々強引な性格に引きずられるように、気付けば親友と言える付き合いになっていた。傍目から見れば、取澄ましている氷川に木崎がじゃれにいっているといった感じだったのだろう、関係を築き始めた頃は可笑しな組み合わせだと思われていた。だが、今では友人同士なのだと誰もが認めている。所属も違うのに木崎の話はよく氷川の耳に入るし、反対も然り。
しかし、実際のところ周りが思うような関係とは少し違う。木崎は明るいだけではない、喰えない男なのだ。それに振り回され、遊ばれているのは氷川の方である。お堅い氷川が木崎を相手にしている、そんな周りの認識とは逆なのだ。
「…急いでいる」
にやにやと笑う木崎に眉を寄せたまま氷川は短くそう言い、肩にかかった手を外した。こんなところで捕まっている暇はないし、捕まれば事実を話すまで解放されないことは目に見えている。
木崎の事は確かに親友と呼べる立場にいる人物で、普段のその意識以上に自分にとってはなくてはならない存在である事は氷川にもわかっている。先日弟の死によってそれを再認識したばかりだ。
だが、全てを話し合う関係というものとはまた別のもの。…いや、実際はそうなのだろう。自分はこの男には何でも話すのかもしれないということに氷川は気付いている。だが、しかし…。直ぐに何の迷いも無くそれを実行に移せるかといわれれば、同じ男としてのプライドや別の人間としての限界があり、それは到底出来ない事である。そして、今目の前にあるのものは容易なものでもなかった。
氷川の取り付く島のないような冷たい言葉を気にするわけでもなく、木崎は軽く喉を鳴らした。
「おいおい、やっとこさ昼休みじゃないか。ゆっくりとはいかずとも、飯食いにいこうぜ」
そこで話を聞こうではないか。
32の男が唇を最大限に上げて笑う仕草は、到底可愛いと言えるものではない。
「…妙な顔をするな」
嫌な笑いをのせる木崎に、氷川は眉を寄せてそう返した。
「むっちんも、眉間に皺寄せちゃって。怖い怖い。そんな顔したら泣いちゃうよ、ボク」
「…その喋り方は止めろ、寒気がする」
「そうだよな〜、もうすっかり冬だもんな。
…だから人恋しくなったってか? ん?」
木崎が再び口角を上げニヤリと笑う。
「……」
氷川は返す言葉もなく、ただ息を吐いた。
今朝、駅から職場へと向かう途中、木崎の後ろ姿を見つけ氷川は声を掛けた。
木崎とまともに会話をしたのは半月以上前のことだった。いや、その時の自分の精神状態を考えれば、果たして正常に会話をしていたのか怪しいものだが、今月はじめに一緒に酒を飲みに行って以来のものだった。挨拶程度の事は何度かしていたが、互いに仕事に追われていたので立ち止まって話をすることなどなかったのだ。
先月、突然家を出た弟の死を知らされた氷川は、表面上は普段と変わらずに過ごしていたが、内面はみっともないくらいに取り乱していた。何処で何をしているのかわからずにいた弟を心配していたとは決していえない、探しもしなかったのだから。なのに、人間とは理不尽なもので、なくしてからその存在が急に自分の中で大きくなった。何もしなかった自分が情けなく、堪らなく、苦しくて…。氷川はどうにも出来ない感情を持て余していた。酒の勢いで木崎に胸の内をポロリと溢してしまったのも仕方がないと言えるだろう。
あの時は余裕が全く無かった。その前から木崎の視線が自分を気にしていたのは知っていたが、気にするなとは口先だけでも言えなかった。そして、友人に溢し気分が楽になるのならまだしも、更にやるせなくなり、氷川の中には小さな気まずさが生まれた。折角気遣ってくれる友人に対して何も出来ない自分というのは、情けない以外の何ものでもなかった。
何もかもが空回りする。そんな氷川には、忙しくまともに顔を合わす時間すら作れない友人に安堵さえしたのだ。彼が本気で自分を心配してくれていると知っていながら。
自分がこんなにも弱い人間だとは知らず、そしてこんなにも醜いものだとは思わなかった。
自分が今まで見てきた世界が一瞬にして色褪せた気がした。面白味の無いものに思えた。
だが、それでも氷川はその立ち止まってしまった場所からもう一度動き出す事が出来た。
そして、素直に木崎の気遣いがありがたいと思えた。
先日廊下で擦れ違った時、もう大丈夫だと氷川が言うと、「そうか…」とただ小さく笑い、今から張り込みだよと文句を言いながら木崎は今までと変わらず接してくれた。本当にありがたかった。
だからこそ、もう一度「心配を掛けてすまなかった」と挨拶をした後、氷川は木崎にきちんと礼を述べた。言わなくともわかっているだろうが、言わずにはいられなかった。
「いいや、元気になってなによりだ」
軽く流すようにいう木崎に、けれども氷川は真面目に返す。
「そんなに俺は気力が無かったか?」
「逆だな。気合は入りまくり」
「なんだ、それは?」
「潰れて堪るか、ってな感じに仕事をしていたよ」
軽く喉を鳴らし「俺も刑事だ、人を見る目はあるんだぜ」とおどける。
「実際、一人の時はどうしているのか気になっていたけどな。仕事と同じくずっと気を張っているのか、ってな。それじゃあもたないだろうが、お前は頑固な所があるから」
「すまない」
「ったく、ホント。凹むなら、俺の仕事が暇な時にしてくれ」
でないと、何も出来ないんだよな、と北風に首を竦めながら笑う友人に、感謝を心で述べながら氷川も笑い返した。
「ま、結局は自分一人で乗り切ったんだから、俺がいなくても大丈夫なんだろうけどさ」
「そんな事はない」
「嘘付けよ。俺は何にもしてないぞ。
ったく、ま、いいけどさ。でも、一人で何もかも抱えて越えていたら、そのうちガタが来るぞ。人間使える力は限られているんだ、知らないのか?」
もっと頼ってくれていいんだぞ。言葉にはしない木崎の思いが伝わってきた。何事でも相手に逃げ道を作るように話をする友人は、氷川にも例外なくそれをする。それは少し甘やかされているようで、こそばゆい感じがした。
「完璧人間は苦労するぞ、これからもっと」
「脅すなよ」
「脅しじゃねーよ。もっと楽に生きろよな」
朝の通勤時に人込みに紛れて話す内容ではない。だが、軽口めいたその物言いが何とも木崎らしく、真面目に諭されるよりも心に染みた。もし友人である自身がそれをすれば、自分を余計悩ませてしまうと木崎は考えたのだろう。その気遣いが氷川にはありがたかった。いつもは見過ごしそうなそんな小さな優しさが、とても大きく思えた。
「別に、完璧人間じゃない。俺は逃げているし、楽しているよ」
「ホントかよ。お前が言うほど嘘臭いものはないな」
周りが思うほど、氷川が頭の固い人物ではないと知りながらも、いつも木崎はそんな風にからかった。実に楽しそうに。
「いや、俺はいたって普通の人間だ。今回の事だって、一人で乗り切ったわけじゃない。
ただ、おかしなことだが、今更ながら単純な事に色々と気付かされた。生きて行くのは結構難しい事だとか、近くに他人がいるのは心地良い事だとか」
「へえ、お前がね」
「ああ。それが俺の弱い部分だったんだよ。自分の道だけが正しいと思っていたんだな、どこかで。ただ、目の前にある道を進んでいただけだ、俺は。偉くも何ともない。
それを、自覚したからかな…。あいつの…弟の事も、何となく見れるようになった」
「何か、お前がそんなことを言うのは面白いな」
「俺もそう思うよ」
氷川は恥しさを覚えながらも、木崎を見て笑った。相手はそんな氷川を見、口角を上げる。
「っで、そんな風にお前を悟らせたのは誰だよ」
「誰って、別に…」
別に…何だというのだろうか…。
氷川は言葉に詰まり、開いた口を閉じた。
あの青年に救われはしたが、全てが全て助けられたわけではなく、どちらかと言えばきっかけを与えられただけに過ぎないというか…。
(いや、やはり彼のおかげである事も間違いないのだろう…)
氷川はあの日から一緒に暮らす青年を思い浮かべた。だが、あっさりとそれを認めてしまうのもなんだか納得いかない。
「親友としては気になるね」
少し嫉妬するね、俺は。
そう茶化す木崎に呆れ、氷川は溜息交じりに言葉を落とした。
「お前が気にするような奴じゃないよ、あいつは」
それが失言だと気付くのにそう時間は掛からなかった。木崎の笑い顔が氷川にその事を教えたからだ。
「ふ〜ん。弟くんの事を乗り切れたのは、その「あいつ」さんね。なるほど」
「……」
「その言い方は、俺の知らない奴ってことか。余計に気になるな、どんな奴?」
「お前には関係ない奴だ」
「教えられないとは、怪しいな。いや、教えたくないとか?」
「…そんなんじゃない」
「なら、どんなんだよ」
「……」
口下手と言うわけではなく、どちらかと言えば無口な方ではあるけれど、交渉事には長けている方だ。仕事柄そういった能力がなくてはいけないのもあるが、元来の生真面目さが効果をあらわすのだろう。だが、この友人との会話は氷川は苦手だった。どんな時も相手に分がある。
要するに、木崎相手では勝ち目が無いのだ、氷川には。
どう話せば、自体を穏便に終わらせられるだろうか。それを瞬時に思いつくほど、この時の氷川の頭に余裕は無かった。何も隠さなくてもいい事なのだろうと思う反面、胸を張って言える事では無く、ましてそれをこの友人に話すなど、氷川にしてみれば展開が見えずに対応の仕方が決まらないというもの。
どうすればいいのかと思うばかりで、いい考えは浮かばない。木崎の視線が気になるばかり…。
「堅物のお前を諭せるんだ、単なる知り合いじゃないだろう」
単なる知り合いよりも関係が薄いものなのだが…。などという事も出来ず、「別に諭されたわじゃない」と興味を持った木崎には効果のない事を氷川は口にのせる。
「ああ、もしかして…」
「…なんだ」
「恋人か?」
「……まさか」
確かに木崎のその発想はわからないわけではなかった。だが、あまりの事で氷川は一瞬言葉を失い、そして軽く眉を寄せた。冗談ではない。
なまじ青年がそれを否定出来ない職業をしているからこそ、余計に面白くない。
「単なる同居人だ」
小さな苛立ちに押されるように、氷川は話すかどうか決めかねていた自身の現状を口にした。
だが、氷川の思いと木崎の思いは少しずれていた。
「…同棲中とはな。なんか、やられたって感じだな」
「だから、違う。同棲ではなく同居だ」
照れ隠しだと思う木崎は、全く氷川の言葉に耳を貸さずに話を進める。勘のいい男は自身のそれを時に過大に評価する。今回もそう、間違いだとは全く思っていない。
「別にこの歳だし、おかしくはないんだ、隠すなよ。どんな子? お前が一緒に住むんだ、本気なんだろう?」
ニヤニヤと笑う木崎の視線に疲れを感じ目を逸らしたが、それと同時に逃げないよう氷川は腕を拘束された。
「…離せ」
「話せよ」
楽しげに笑う友人に眉を寄せた氷川に声がかかったのはその時だった。上司の呼び声に返事を返し、「…木崎、離せよ」と言葉を落とすと、仕方がないなとあっさりと氷川を解放した。
そして、ほっと息を吐きながらその場は別れたのだが…。
(――こうも早く来るとはな…)
普段そう会うこともないのだ、その間にどう友人に自分の現状を話すか考えようと氷川は思っていたのだが、その結論が出る前に木崎はやって来たのだった。何故こういう時に限って相手の仕事に余裕があるのか、上手くいかないものだ。
「ほら、吐けよ。何なら、部屋にご案内しようか?」
「…結構だ」
理由はわかるが、楽しげな友人に氷川は少し苛立ちを覚える。
「怒るなよ」
「…怒っていない」
困りながらも律儀に返事を返す自分をおかしいと思った氷川に、「そう困る事もないだろう」と不機嫌になりつつある自分を牽制するかのように木崎は笑って肩を竦めた。
何処まで押し、何処から引けば一番自分に効果があるのか、この友人は知っているのだろう。計算していると言うほどのものではなく、考えもせずにそれが出来る。喰えない男だ。
「木崎、悪いが食事は一人で行ってくれ」
エレベーターの前で足を止めそう言いながら、氷川は上へのボタンを押した。
「何だ、マジで仕事か」
「ああ、食べに出る間はない」
「そっちも忙しそうだな」
「仕方ないさ。年末だ、何処もそうだろう。ま、今日は早くに上がるつもりだ。さすがに身体がもたないからな」
「恋しい彼女も待っていることだしな」
「…そんなんじゃない」
「じゃあ、どんなんだよ?」
同じ会話を朝もしたなと思い出し、氷川はふっと短い溜息をついた。
「……お前は、忙しいのか?」
「ん、今日は内勤だからな、何もなければ早く終わる。何かがあったら、生贄を出して適当に逃げる。
俺も身体がもたないよ」
肩を竦めて笑う男は、自分と違いどんな状況にあってもいつでも元気だ。自分を真似て同じ言葉を吐く木崎に氷川は微かに笑いを浮かべた。
「そうか、なら、いい。また今度にしよう」
「なんだよ、飲みに行こうってか?」
「別に急がない。疲れているんだろう」
「じゃあ、『D.B.』でいいな」
「…人の話を聞け」
「聞いているから言っているんだろう」
そう言いながら、先にやって来た下へと降りるエレベーターに木崎は乗り込み、「電話する。逃げるなよ」と笑って扉の向うに消えた。
自分が全て本当の事を話したら、あの友人は一体どんな顔をするのだろうか…。
遅れてやってきた、誰も乗っていないエレベーターに乗りながら、氷川はそんな事を考えた。自分の行動が誰にでもすんなり受け入れられるものではないのだとわかっている。
現状がどうであれ、売春をしている者に頼んで部屋に住んでもらっているのだ。現金を払っていないので買っているわけではない、だから犯罪行為ではない…。いや、男が相手であればそもそもそんなものは成立しない。
(…だが…。何を言っても言い訳にしかならないな…)
そう、そんな事は屁理屈でしかないのだと氷川自身わかっている。それが友人に通用するわけもない。
氷川の口からは、長い溜息が落ちた。
そもそも自分もわからないのだ。
一週間前の事を氷川は思い出す。あの時と気持ちは変わらず、今もあの青年を放って置けない感情は確かにある。だが、それが何故なのかという明確な答えはない。
目的の階まで止まることなく着いたエレベーターを降り、人気のない廊下を氷川はゆっくりと進んだ。
気が重い。
けれど、覚悟を決めなければいけないという事もわかっていた。
2002/12/14