◆ 9 ◆


 ドアから差し込む廊下の光りに僅かに目を細めながら、伏せていた顔を上げリヒトは笑顔を作った。帰宅した氷川が自分を認識したのを確認し、片手を上げ挨拶を投げかける。
「何が、おかえり、だ。電気くらいつけないか、辛気臭い。……出掛けるのか?」
 小言を言いながら玄関に電灯を燈す氷川が、立ち上がった自分が靴を履いていることに気付き軽く眉を寄せるのを見、リヒトは喉の奥で小さく笑った。次に言われる言葉が簡単に想像でき、その予想を違えずに目の前の男が落としてきた問いに口の端を上げる。
「新しい仕事でも見つけたのか? …何だ、その笑いは。言いたい事があるのなら言えばいい」
「いや、別にないさ。ただ、嬉しいだけだ」
「嬉しい?」
「あんたが帰って来て、良かったよ」
「……一人で寂しかったとでも言うつもりか」
「言われたいのか?」
「遠慮する」
 そう即答しつつもどこか迷った風に視線を彷徨わせた氷川に、リヒトは今度は声を上げて笑った。単純に、楽しいとそう思う。
「心配するなよ、そんな意味じゃない。言われたいのなら、リップサービスくらいいくらでもするけどな。実際には深い意味なんていさ。ただこのまま擦れ違うよりも、顔を会わせる方が色々と気にかけなくてもすむだろう」
 それだけの事だと軽く肩を竦めると、靴を脱ぎながら、何を言っているんだかと氷川は小さな溜息を吐いた。その顔には、微かな疲労が浮かんでいる。ここ数日、氷川は数時間寝に帰ってくるだけのような生活であり、その僅かな時間も、ベッドに直行し倒れこむ訳ではなないのだ。疲れていて当然だろう。逆に、倒れてないのが不思議なくらいだ。
 意外とタフなのかもしれない。リヒトはそう感心しながら声をかける。
「お疲れのようだね、氷川さん」
「否、問題ない。今日は楽なものだったからな。それより、何処かへ行くのか?それとも帰ってきたところなのか?」
「ちょっと、散歩しようかとね」
 話し掛けながらもマイペースに、足をとめる事なく奥へと進んでいく氷川の背に、リヒトは少し声を大きくして応えた。寒いぞ。はっきりとは聞きとれなかったが、そう言ったような音が返って来る。冬なのだから当然だろうと胸の中で言い返したリヒトは、暫し考え、もう一度玄関に腰を下ろした。
「なあ、疲れていないなら、一緒に行かないか?」
 沈黙を裂く様に落とした言葉は、けれども小さすぎて相手までは届かなかった。二度目を言う気力はわかず、代わりにリヒトは溜息を落とす。その瞬間、リビングから良く通る声が飛んできた。
「留守電、聞いていないのか。昨夜は帰れないと入れておいたんだが、必要なかったか」
 居間へと続く扉の枠に持たれる形で、氷川がこちらを窺っていた。セーターに着替えた状態で、外したネクタイを片手に持っている。着替えながら気付いたのだろう留守番電話の点灯に、出掛ける前の自分を捕まえようしたらしい。答えが返るのをじっと待つ男に、リヒトは苦笑とともに肩を竦めた。
「直接聞いたから」
「なら、出ればいいだろう」
「それは悪かったな。でも、話す事なんてないじゃん」
 いつものように眉間に皺を寄せる氷川に、リヒトは内心ではホッとしながらも、小憎たらしい言葉をあえて吐いた。実際の所、留守電の内容は今知ったばかりであり、それを聞けなかった理由など面と向かって言えはしないものだった。
 リヒトがこの部屋に帰ってきたのは、朝よりも昼に近い時間だった。迫るチェックアウトに追い出されるようにホテルを出てきたのだから、氷川が昨晩帰っていない事さえ知らなかった。次に顔を会わせたら無断外泊の理由を尋ねられるのだろうかとさえ思っていたので、それは少々拍子抜けする事実だ。昨夜は仕事で帰ってこなかった。単なる偶然なのだろうが、それが自分にとって良かったのかどうなのか、今となってはもうわからない。
 今日一日、息苦しさを覚えながら長い時間を一人で過ごした。大川と夜を過ごした小さな罪悪感は自業自得であるが、多少の後ろめたさも自分は涸れた老人ではなく歳相応の若者なのだという事実で差し引きゼロに出来る程度のもので、割り切れた。だが、この後の事が気掛かりだった。帰宅早々、氷川に何を言われるのだろうかと考えると気まずさを覚えないわけにはいかない。心配していたと言われれば、口先ばかりにしか聞こえないだろうがそれでも謝罪を述べる事は出来る。だが、契約は解消だ、出て行けといわれたなら。
 自分に反論する余地はない、それは知っている。雨風を凌げる場所の提供を受けているのだから、氷川が望む売春行為は理解も納得も出来なくとも辞めなければならない。交友関係にまで干渉する気はないだろうが、実際の所は何ら逸れと変わらない行為をしたのだから、この事で終わりにされても当然の事。しかし、反故したのは自分自身とわかりながらも、実際そうなれば縋りつくのだろう自分が簡単に想像でき、堪らなかった。
 大川と寝た事に、後悔はない。今になって思えば、氷川は帰ってこなかったのだから、主のいない一人きりのこの部屋で夜を過ごしていたかもしれない事を考えれば、自分の行動を評価したくさえある。そう、実際の所、金のやり取りをしようと何をしようと、氷川にばれなければ問題などないのだ。そんな事よりも問題なのは、この生活に慣れ切っている自分自身だ。いや、慣れているよりも、無意識の内にこの関係に執着している事こそが何よりも拙い。
 たった半月ほどだと言うのに、何て事だ…。
 自分の弱さよりも醜さよりも、ただその事実にリヒトは恐怖を覚えた。もう既に、離れたくないだとかこの関係が気持ちいいだとかではなく、氷川との生活を自分の中に取り込んでいる現実が耐えられなかった。いつまでもこの関係が続くはずはなく、そんな事は誰に言われるまでもなく十二分に知っている。だから、無くしたとしても理解出来るだろう。ただ、それを失う痛みを、あの時と同じような苦しみを味わうのかもしれないという予感が、純粋に怖かった。
 もう二度と、あんな辛さは味わいたくはない。そう思ったからこそ、どん底で生きる術を覚えてきたというのに、この数年間の事は無駄だったというのだろうか。
 自分はまだ、苦しまなくてはならないのかもしれない。許されたと思っていた訳ではないが心の何処かでそう勘違いしている面もあったのかもしれない。だからこそ、こうして目の前に落ちなければならない穴が、自分の歩く道にあるのだろう。
 そこへと進むしか道はないのに、逆らうなど滑稽だ。そう思う。だが、今はまだ落ちたくはないと抗う心が確かに自らの中にあるのにリヒトは気付いている。それこそが罪であったとしても、それを捨て去るには自分は本当の痛みを知りすぎているのだろう。ある程度の苦痛ならば消化する術を覚えた。だが、本当に大切なものを、時間を空間を失う事に対しては、人間は無防備なのだ。どんな経験をしたところで、その苦痛からは逃れられない。その痛みに慣れることなどない。
 慎重に生きてきたつもりなのに、何がどう、どこで狂ったのか。
 その真実を見つける事も今となっては無駄でしかなく、気付けば嫌なところにストンとはまりきっている自分に気付いても、リヒトは声なく笑うしかなかった。ソモソモそんな自体に引きずり込んでくれた男の存在すら霞むほど、この事実に囚われている。
 悪いのは、氷川なのか。間違ったのは、自分なのか。狂ったのは、あの時からなのか、それとも――。
「どうかしたのか?」
 そう声を掛けられ、リヒトは沈んでいる自分を無理やり浮上させた。だが、軽くかわそうと吐き出した言葉はあまりにも色褪せたもので、遣る瀬無くなる。
「…ん? いや、どうもしない」
 時たまやってしまうこの失敗は、けれども自分にダメージを与えるだけで相手には意味不明のものなのだろう。微かな困惑を眉に寄せた氷川の顔には、いつも以上の何かがあるわけではなく、見慣れたそれに軽い笑いをリヒトは向ける。
「俺、出掛けて来るよ」
「何処へ」
「ああ、そうだな。教会…カナ」
「教会?」
「そうだ。今日はイヴだからな、教会へ行って来るよ」
 ふとした思い付きだった。言葉にした途端、行こうという明確な意思を持った。そうして、昔ある男とした約束をリヒトは思い出した。クリスマスは教会へ行こうといっていた、その男の笑顔が記憶に蘇る。蒼い目をした、とても優しい青年だった。
「私も付き合おう」
「えっ?」
「何か問題があるのか?」
 足を踏み出しかけた背中に、思いも寄らぬ声がかかった。リヒトがゆっくりと振り返ると、そんな言葉とともに居間から出てきた氷川が、廊下を歩きながら脱いだばかりの外套に腕を通している。本気なのかと、リヒトは再度驚きを表した。
「ついでに、何か食べてこよう」
「まだなの、あんた」
「ああ。君はもう食べたのか?」
「まだだけど。別にどうでもいいよ、腹減ってないし」
「そう言わず付き合えよ」
 ほら、行こう。戸惑うリヒトを追い越し、早くも玄関のドアを開けた氷川はそう言い促した。帰ってきたばかりだろう、物好きが。寒いの、知っているんだろう。だったら大人しく家にいろよと胸の中の動揺を隠し呆れ顔で言いながら廊下へ出ると、氷川は笑う事無く無表情で鍵をかける。自分に付き合うことへの可笑しさに、気付きもしていない。そんな男の横顔に、リヒトは堪らないなと気付かれないような溜息を落とした。


「残念だったな。折角足を運んだのに」
 氷川の言葉に声のない笑いを落とし、リヒトは寒さに首を竦めるように肩を上下させ、数度頭を横に振った。
「別に、」
 この時間ならば当然なのだろう、赴いた教会はライトが燈され誰でも出入りが自由なように開放されてはいたが、人影は皆無だった。僅かながらも礼拝堂には人の匂いが残っていたので、今夜そこで祈りが捧げられたのは確かなのだろうが、神父の姿さえなかった。煌びやかで、けれどもどこか寂しく空しいキャンドルが燃える音が、微かに響いているだけだった。
 そうしてそこで、祈りの言葉を口にするわけでもなく、たった数分立ち尽くすように佇み、リヒトは自分に付き合う氷川に声を掛け教会を後にした。満足したわけではないが、少しホッとした。いつか約束を交わしたあの相手来るかも知れないと言う期待を毎年抱いては教会を訪れ、そしてそんな奇蹟のような事は起きないのだと認める度、悲しさや理不尽さよりも安心を覚える。
 心の底から会いたいと思う人がいる。しかし、会いたくもない。会うのが怖いのだと気付いたのは、この生活を飲み込んだからか。それとも、過去を捨てたいからなのか。
 答えが欲しい訳では無い。だが、無性に知りたくなる時がたまにある。そんな時はどうすれば良いのか、その対処法をわからない答え以上に教えて欲しいとリヒトは思う。そうすれば、きっとこんな夜も平穏に過ごせるようになるのだろう。
「別に賛美歌を聴きたかったわけじゃないし、いいんだ」
 ただ、教会に行きたかっただけだからと応えると、氷川は何も言いはしなかった。もしかすれば、ただの気紛れの思い付きではなく、この夜にその場所を目指した自分に何らかの思いがあるのをこの男は察知しているのかもしれない。だからこそ、ついて来たのかもしれない。ふと、リヒトはそんな勘繰りをし、そして氷川をズルイと思った。しかし、それ以上に不器用だと感じてしまい、口元が緩むのを止められない。
 ただ単純に、心に温かな風が流れ込む。様々なことに対し脅えてもいるし、それと同じくらいのものを既に捨て去り手にしようと望む事さえ止めている。自分は、臆病だと思う。だが、それ以上に醜い。しかしそれが何だというのだろう。氷川に対し生まれる感情は多分、正常なのではないだろうか。卑屈になっていたとしても、相手を蔑んでいたとしても、それは確かな自分の感情なのだとふと気付く。
 調子が狂う。しかし、嫌ではない。
 刑事だとか、大人の男だとかは関係なく。本当におかしな男だ。
「何がおかしい。変な奴だな」
 不機嫌な声に、いつの間にか喉を鳴らしてしまっている事に気付き、リヒトは謝罪を口にした。
「ワルイ。だけど、あんたに変って言われるのは心外だ。あんたの方がおかしいよ」
「それこそ、君に言われたらお終いだろう」
「なら、終わってみるか? 今の人生、終わらせてやろうか?」
 軽口だった。それ以外にあるわけもない。それなのに、氷川は目を見開き驚いた。動いていたはずの足がどちらからともなく止まり、決して軽くはない沈黙が落ちる。
 予想外の反応だった。何を言っているんだと、いつものように軽く眉を寄せるのだろうと信じ切っていたリヒトにもまた、次の言葉が直ぐには吐けない状況だった。ナゼ、と。何故なのかとの問い掛けは声には繋がらず、ただ唇だけが軽く動く。
 先に動いたのは氷川だった。パーティーでもしたのだろうか、近付いてきた賑やかな一団に、金縛りが取れるよう前方に目をやる。その横顔を見ながら、リヒトは先程感じた温かさの分、一気に胸が温度を下げるのがわかった。まるで痛みを感じたくはないと、先にそれを閉ざすかのよう。
 強い北風が、迷いや不安、全てを凍らせるかのように掛けていく。可能ならば、自分もその風に流されたいと思った。だが、この世の中、そんなふざけた奇蹟は、例え聖なる夜だとしても起こりはしないのだ。
「なあ。ホントに今夜一緒に過ごす彼女とかはいないの?」
「…唐突に、何だ」
「その歳の刑事だしさ。結婚、考えないわけじゃないだろう」
 行こうと促すように、騒がしい一団と擦れ違うと同時に足を運ばせながら、リヒトは氷川に問い掛けた。何もかも、今落ちたはずの気まずさも苦味も全てがなかったかのように、自然に話し掛ける。気持ちも話題も、転換など簡単な事だ。それをしたからといって、ただ空しさを溜め込むだけの事で、揉めるよりも数段楽なものだ。
「刑事ってさ、結婚していないと出世しないって聞いたけど」
「そんな事もないだろう。あまり興味がないのでわからないが」
「興味がないって、仕事だろう。あんたなら、自分のそれに誇りを持っているんだと思っていたけど、思うほどそういうタイプでもないのかな?」
 軽く首を傾けながら上目遣いにリヒトが覗き込むと、氷川は一瞬眉間を寄せた後、器用に片眉を上げ訊ねてきた。
「君にはどんな人物に見えるんだ、私は」
 どこか挑発的な表情ながらも、純粋に質問しているかのようにも感じる。持って生まれた能力なのだろうか。この男はどんな時でも、相手に好感をもたせる事が出来るのだろうと今更ながらにリヒトは感じた。確かに苛立つと、腹立たしいと言われる時もあるだろうが、悪意を持たれる程嫌われ恨まれる事はないのかもしれない。
 リヒトはポケットに仕舞っていた手を出し、氷川に向けて指さす。
「堅物、真面目。融通が聞かないから、回りは苦労させられそう。でも、自分は正しいんだとそんな迷惑をかけている事に気付かない。気付いても、それは彼らが悪いんだと、自分のせいだとは思わない。そんな嫌な男」
 向けていた手を払い顔を顰めると、氷川は微かな笑いを浮かべた。
「酷いな」
「ああ、最低だ。そう思っていたよ、会った時は。でも、今は、実はかなり不器用で、理想と現実のギャップに折り合いをつけられていない感じに見える。その生真面目な顔の下には、結構情けない顔も持っていたりする。意外なほどに、極々普通の男だ」
「当たり前だ。何処にでもいる、三十路の男だ」
「そう。だから余計に、そう問題がある訳でもないのに女気がないのは不思議だったりする。実は、バツイチとか? それとも、女が引くような趣味を持っているとか、セックスが救いようのないほど下手だとか」
「そこまで訊いていないだろう。黙れ」
「なんだ図星? 俺が教えてやろうか」
「そうではない。君には謹みがないのか、と言う事だ。こんな所で声も押さえずする会話ではないだろう。第一、まだ結婚を気にする歳でもなければ、君に心配されるいわれもない」
「ま、確かにそうだ」
 先程と違い予想通りのその反応が面白くケラケラとリヒトが笑うと、氷川は眉間の皺を増やし睨んできた。
「よくもまあ、そう次から次へとふざけた言葉が出てくるものだ」
「あんたは、ちょっと口下手って感じだもんな」
「…そうか?」
「ああ。その場に必要な言葉を落とすばかりで、自分の言葉はあんまり話さない。そんな感じだ。でもま、殆どそんな奴らばかりだけどな、この世の中。己の立場や他人の視線を忘れきるなんて出来ないもんだろう」
「ならば、君もそうなのか」
「それこそ、当然だろう。俺も、コレでもそれなりに頭は使っているんだ。たまに、間違えて失敗する事もあるけどな」
「その割には、余計な言葉まで吐いている気がするが」
「それは愛嬌ってもんだよ。とってもイイ性格の持ち主なんでね、俺は」
 からかわれている事を自分自身でわかっているのならば、何処にも問題はない。話半分に、適当に相手をすればいいのだとリヒトは氷川に助言する。そういう事が特に苦手そうな氷川ではあるが、出来ない訳でもないだろう。その能力がなければ、刑事などしていないだろうし、あの木崎という喰えなさそうな男を友人に持つ事もないだろう。
 口にしてからかっている程、氷川が無能だと思っている訳ではない。むしろ、頭は切れる方で、真っ直ぐ向き合えば心の中を見透かされそうな強さを持っているのだとも感じている。だが、それを受け止める気はリヒトにはない。例えそれが何にも負けないものであったとしても、何よりもの真実であったとしても、氷川のそれは自分と関係を持つものではない。ただこの男はそうなのだと認識する以上の意味はそこにはない。それが、自分にとっての氷川という男だ。
 氷川の堅実さに苛立つのも、実直さを心地良く思うのも、弱さを微笑ましく思うのも、全ては取り繕った自分という人間が思うことで、心につく傷の奥底までは染みわたりはしない。
 彼のように。あの時自分を救った男のように、幸せを与えてくれrるわけでも地獄に突き落としてくれる訳でもないのだから。
「――そういう事で君に勝つのは、難しそうだな」
 いちいち真面目に受取らず自分の事は適当にあしらえばいいのだ。自分とて、発言全てに責任を持っている訳でもないので、まともに対応されると困る。
 そんな風に自分への対処法を示したリヒトに、それもまたいい加減な戯言だというのを気付いていないのかもしれない氷川は、暫し口を閉ざし考えた後、そんな言葉を吐いた。やはり、この生真面目さは、そう簡単に変えられそうなものでもないようだ。
「別に勝たなくて良いだろう。確かに、俺の方が他人を扱うのは上手いのかもしれないけど、あんただって下手じゃないだろう」
「どうだろうか、深く考えた事はない。――ああ、そうだ。思い出した」
「何を?」
 時間がきたのだろうか。視線の先でパチリと消えたイルミネーションの光に、リヒトは目を数度瞬かせる事でその残像を消し去りながら、氷川の言葉を促した。
「仕事、見つけたんだが」
「誰の」
「君の仕事に決まっているだろう」
 当然だとそれを信じる男に言える言葉などなく、反論はせず大人しくリヒトは話しに耳を傾ける。だが、段々と伝わるそれは理解しがたいもので、自然と眉間に皺が寄った。
「……本気?」
 嘘だと、冗談だと思ってはいないのだが、そう問わずにはいられない。それほど、唐突に思い出し氷川が伝えてきた話は、驚き以上に呆れるものであった。
「俺があの店で働くと?」
 氷川が言うには、先日自分達が偶然会ったあの喫茶店でアルバイトを探している、らしい。そんな情報ならば、行きつけの店なのだからそれを得ても不思議ではない。そう納得出来る。だが、それを聞き早速、一緒に住んでいるとはいえ良く知りもしない男娼を紹介するのは如何なものだろう。常識を疑わずにはいられない。
 リヒトは言ってしまいたい言葉全部をまとめたような、盛大な溜息をひとつ落とした。
「余計な事をしたのだろうか」
 この場合、当人の意見を聞かずに話を進めた事よりも、そんな行動を起こす氷川に問題があるのは明白だろう。人の目を気にしないわけではないだろうに、何故そんな事が出来るのだろうか。理解しがたいものだ。だが。この男だからこそ素でそれが出来るのだろう、と自分が納得もしている事にも同時に気付く。これは間違いなく、この男の危なさだ。
 半月前の、弟の死に苦しみ苛立っている氷川の姿が、瞼の裏に浮かんだ。
「あんたって、相当な物好きだな。その性格で世話好きって、何か凄く損しそうだ。気をつけなきゃ悪い奴にひっかかるぞ」
「私の事は関係ないだろう、今は君の事だ」
「私じゃない、俺。君じゃなく、お前」
「ナニ?」
「別に無理して直せとは言わないけど、余所余所しい感じがするな、それ。ひとつ屋根の下で暮らしているというのに、変じゃないか? 前にも言ったのに直さないのは、何か意味があるの? 不必要に馴れ合わない為とか? でも、だったら、仕事の斡旋なんてしないよなぁ。あんたってホント訳わかんないね」
「別に意味などない、仕事柄の癖みたいなものだ。だが、これからは気をつけよう。それよりも、どうなんだ。働く気はあるのか?」
「喫茶店の店員ねぇ。別に、やってもいいのなら、俺は問題ないよ」
「どう言う意味だ?」
「だからさ。俺は自分で言うのもなんだが、客受けはいい方だ。ただし、一部の世界限定。わかってる?」
「ふざけるな」
 一部が何を指し、それが何をする仕事なのか思いついたのだろうか、氷川が顔を顰める。
「いや、ふざけてなんかいない、単なる事実だ。卑屈になっているわけでも、あんたをからかっているわけでもない。あんたこそ、エロイ事考えたんだろう」
「……」
「ま、確かにそれもあるが、問題はそこだけじゃない。いいか、氷川さん。俺は別に何だっていいさ。働ける場所があるのなら、やってみる時間も気もある。だが、あんたはどうなんだよ。こんな俺なんかを紹介して良いのか? 立場とかないわけじゃないだろう。問題が起こったり、俺が起こしたりしたらどうするつもりだ。全く責任はないとは言えないだろう。少なくとも、関係は変わるぞ。馴染みの店を失っても良いわけ?」
「考えすぎだ。大丈夫だろう。出来るのなら、やってみてはどうだ」
「…考えがなさすぎだよ、あんた。楽天家なのか」
「君…じゃない。お前は、言いたい様に言ってくれるがな、俺は俺自身の直感を結構評価していたりする。心配するな、問題ない」
「なんだよ、それ」
「お前なら務まると思う。そう信じられる」
「鈍感なあんたの直感って、役に立たないんじゃないのかよ」
「鈍感だからこそ、たまに閃くそれは真実なのさ。多分、な」
「微妙すぎるぞ、それ。やっぱり、あんたってオカシイよ」
 本気の言葉か、冗談なのか、それすらもわからないとリヒトは考える事を放棄した。ただ、信じるといった言葉が妙にこそばゆく、笑えるものであった事に満足を覚える。それだけで充分で、他はどうでも良くなる。
 だから。
「いいよ、俺はやってみても。でも、まだマズイ事がある」
「今度はなんだ」
「あの店、制服だろう。カウンターにいた店員二人、同じシャツを着ていたと思うんだけどさ、袖の少し短いやつ。俺、あれはちょっと、な。別に着てもいいけど、やっぱさ、拙いだろう」
「何がだ。はっきりとわかるように言ってくれ」
 少し考える素振りを見せた氷川だが、一体何を指しているのかわからなかったのか、そんな事葉を口にする。それに対し目を見開いたリヒトは、やはりこの男は面白いなと笑いを落とした。気を遣ってくれとは言わないが、まさかここまで完璧に忘れ去られるとは。
「俺、手首や腕に傷が一杯あるからね。客にそれを曝けるのって、悪くない?」
「あぁ、…そうだな」
 しまったといった表情を見せた氷川の腕に、リヒトは腕を絡める。
「あんた、忘れていただろう」
「忘れては、いない」
「嘘ばっかり。絶対、忘れていた」
「……」
「なあ、俺、あんたのそういうところ嫌いじゃないかも」
 まるで連行するかのように少し情けない刑事を引き、信号が変わったばかりの横断歩道を渡る。前を見つめたまま落とした曖昧な言葉を氷川がどう受取ったのか、リヒトにはわからない。だが、どんなところがだと反論してこない所を見ると、言葉少ない告白に当人も思い当たる節があるのだろう。何より、振り切らない腕が、男の無言の理由を教えている。
「それこそ。どうにかなるだろう、服なんて」
「そう? なら、いいんだけど」
 暗い路地へと入り腕を離した所で、氷川は思い出したかのようにそう言った。別段魅力も何も感じはしないが、折角紹介してくれたのならば面接ぐらいには行こうかと、リヒトは軽く笑う事でその話を終わりにし、氷川の前へと体をまわす。
「それよりもさ」
「何だ」
「ちょっとその身体貸してよ」
「え…?」
 驚く相手の答えなど待たず、リヒトは氷川の身体に腕を回した。コートの肩に頬を当てるとそれは柔らかく上質なものである事がわかったが、それでも充分だった。思い出してから胸の奥で揺らぎ自分を落ちつかせなくしている記憶とは違う、別人の物だと訴えるものだったとしても。確かに生きている温もりが腕の中に居る事が、それに触れている事が、涙が出てきそうなほど心を振るわせる。嬉しいのとも辛いのとも違う、ただ単純に沸き起こるそれは、理屈ではカバーなど出来ない衝動なのだろう。決して、氷川を身代わりにし慰めている訳でもない。だがそれは、一方的にされている者には通じないものだったとしても、自分は満足を覚える。
「……どうした?」
 何をするんだ、離れろ。いつもならばそう言うのだろう氷川も、突然の行動に驚いたのか、それとも先程同様悟る何かがあるのか、静かにそう尋ねるだけで引き剥がそうとはしなかった。けれど、その声は充分に戸惑いを含んだもので、リヒトは氷川の肩に顎を置き小さく喉を鳴らす。
「昔さ、あんたみたいなわけのわかんない、バカな男に抱きしめられた事があったんだ」
「それが、どう関係ある」
「あまりないかも。たださ、その時の俺は、抱きしめ返す事をしなかった。その背中に腕を回す方法があるのだと、それを自分が出来るのだとは考え付きもしなかった。ただ、今のあんたみたいにじっとしてさ。そう、こうして離れていくまで、何もしなかった」
 ゆっくりと体を離し、リヒトは難しい顔をする氷川にニヤリと笑いかけた。
「何故かな。今ふとそんな事を思い出したんだ」
 寒い夜に一人で居るのは嫌いで、手当たり次第人の温もりを求めた。その中には、本気で愛を語ってくれる者もいれば、傷を舐め癒してくれようとした者もいた。けれどそんな者達よりも、何故だろうか、体を重ねもしない氷川の方が自分を救ってくれている感じがする。あの頃の事を思い出すのは未だに辛いというのに、不思議な事に、今なら楽に過去として振り返れそうなほど心が落ち着いていた。
「…その人を抱き返したかったのか?」
「さあ、後悔とかは全く無いから、そうでもないんだろう。今もただ思い出しただけだよ。ちょっとあんたをからかってやろうという気もあったし」
 でも、驚きも嫌がりもしないし、面白くなかった。
 そう言い、再び歩き出したリヒトは強い力で腕を引かれ、次の瞬間には氷川の腕の中に収まっていた。
「…らしくないじゃん」
「別に、こんな事は大したことじゃない。そうだろう?」
「ああ、そうだね」
 大した事じゃない。
 緩められた氷川の腕から体を離しながら、リヒトは笑いを含んだ声でそう答えた。けれども、内心、触れた温もりもその強さも、何よりも大切なもののように感じる自分がいた。それを氷川に悟られはしないよう、「あんた、やられたらやり返せって性格だよな。気をつけないと」と軽口を叩きながら背中を見せる。視線を合わせれば、自分の意思に反して瞳に心の奥底を映してしまいそうだった。
 助けて欲しい、そう思うわけではなく。けれど、見捨てられもしたくはない。
 ただ。自分は未だに迷いの中にいるのかもしれない。その現実に気付かされたくはなかった。
 落ちそうになった沈黙を無意味に軽口を叩く事で誤魔化し、リヒトは氷川と並んで夜の道を歩いた。だが、自分が一体何処を歩いているのか、何処へ行こうとしているのか。よく判りはしなかった。隣に氷川がいる、それさえもどこか遠くの事実だった。
 自分が求めるのは他の誰でもなく、教会へ行こうと約束を交わした、あの青年なのだろう。
 それを認めずはね返す気力は、今夜のリヒトにはなかった。

Step2 END
2004/08/22

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