◆ 8 ◆


 徹夜で仕事をし、頭も体も使い果て、どうにか午前中にとった睡眠はたったの2時間だ。だが、それでもまだマシだというものだろう。仮眠を取るために寝そべっていたソファから体を起こし向けた視線の先には、極限の疲労を浮かべた状態で机に向かっている仲間の姿があった。
「側で、悪いな」
「ああ、氷川さん。いえ、あちらの方が、ちょっと辛いですね」
 頭に響きます。
 溜まった雑務をこなしていた若い刑事は、苦笑を浮かべながらそう言い、部屋の隅に視線を向けた。そこには自分達の上司の姿があり、彼は部屋に大きな鼾を轟かせて眠っていた。熟睡していた氷川は気にはならなかったが、もしかしたら自分が目覚めたのもこのせいなのかもしれないとそう思う。本人も気を使っての事だろう、部屋の隅にクマのような身を横たえてはいるが、あれではあまり意味がない。
「時々、止まるんですよね、鼾。焦りますよ」
 睡眠時無呼吸症候群かもしれませんよと、パソコンの画面を見ながら別の刑事が低く笑う。その後方を、バタバタと何人かの刑事が慌しくかけていくのを、氷川は寝起きの目でぼんやりと眺め欠伸を付いた。
「何かあったのか?」
「渋谷の女子高生殺人のやつですよ」
 そう言えば、今朝そんな話を耳にしたなと氷川は思い出しながら、ネクタイを締め直し上着に袖を通す。どこの課が担当になったのかと聞くと、丁度部屋に戻って来た同僚が笑いながら言った。
「権堂とこだ。何たって渋谷だからね、あいつはあの署と抜群の相性だからさ」
 これ以上に面白い事はないと笑う男は今から寝るのだろう。氷川が先程まで寝ていたソファに腰を降ろしながら言葉を続ける。権堂が過去にその件の署と揉め事を何度も起こしており、名指しで拒絶されているのは周知の事。
「うちの本部があと数時間早く片付いていたら、こっちに回ってきたんだろうな。人手がないから仕方無しにだ。可哀相になぁ、渋谷の所長。また倒れるぞ」
 気の毒だと言う男が一番、この事態を楽しんでいるのだろう。その言葉に続きながら好き勝手な事を言い始めた仲間に、「上に行ってくる」と声をかけ氷川は部屋を後にした。

 約束をしていた人物と半時間程話しをし、その後部屋に戻り報告書やらの雑務を片付け、区切りがついたところで遅い昼食を摂りに外へと出た。後輩の若い刑事との気力の違いを考え、それが年齢的なものなのか、身体にガタがきているのか、単なる怠けなのかを分析しようとするが、結果など出るはずがない。納得のいく答えなどそもそも存在しないのかもしれないと、冬空を眺めながらふと思う。
 丁度ランチタイムが終わった時刻だ、空いているだろう。そう思いながら向かった店は、氷川の予想を裏切った繁盛振りだった。そこで漸く、先日の夜もこのようであった事を思い出す。
「雑誌の威力は、凄いですね」
 いらっしゃいませと声をかけてきた店主に、氷川はそう苦笑した。
「クリスマスイヴですしね」
「ああ、そうか。すっかり忘れていました」
 街の彩りが今日のためであったのだと今更ながらに気付く。注文をした氷川は、手持ち無沙汰に体を少し捻り、少し曇った窓から外を眺めた。クリスマス用のこの装飾は、すぐに新年へのものに変わるのだろう。今年ももう後僅かなのだ。
「マスター、ちょっといいですか?」
 奥から出てきた藤咲が、氷川に会釈をしながら磯野に声をかけた。
「こんなものでいいですかね。良かったら、張っておきますから」
 手にしていた紙を磯野に渡し、藤咲は出てきた扉の中へと戻っていく。だが、直ぐに料理が載った皿を手にして出てきた。
「お待たせしました」
「ありがとう」
 氷川の前にパスタとサラダが乗ったその皿を置き、例の言葉に軽く頭を下げると、藤咲は磯野の傍による。出された料理に手をつけながら、氷川は二人に視線を向けた。時間からして、昼食ではなく早いティータイムの客が殆どなのだろう。それぞれ交わされる会話に店は賑やかだが、店員はそう忙しいわけではないようだ。
「どうです?」
「ああ、いいだろう」
 磯野が頷きながら藤咲にそれを返す。その紙には、従業員募集の旨が記されていた。氷川は思わず、二人に声をかけた。考えるよりも早い行動に、自分の方が驚く。
「店員募集、しているんですか…?」
「ええ、また辞めてしまいましてね」
 この忙しい時季に困ったものだと、話に加わった氷川を訝ることもなく、藤咲は苦笑した。それに対し、磯野は眉を寄せ、軽く頭を振る。
「厳しすぎる教育係のせいで、誰も居着いてくれない」
 店主のそのぼやきに、けれどもその人物である青年は全く取り合わずに軽い笑いを零すだけ。
 常連と言うほど顔を出しているわけではないが、親しんだ店である。それなりに店の状況は氷川も知っていた。本人達からきちんと説明されたわけではないが、会話の端々からある程度の事は推測でき、それによると藤咲がなかなか厳しい指導者である事がわかった。藤咲以外の従業員が良く変わるのは、ひとえにそれが原因であるらしい。
 この店のオーナーは、裏で調理をしている羽場という男であり、雇われ店主である磯野はその友人だ。そして、ウェイター兼バーテンである藤咲の三人がこの店を切り盛りしている。だが、三人だけで全てが賄う訳もなく、当然他にアルバイトなどを入れているのだが、長く居着く事は殆どない。来る度にその顔が変わっているのは、この店では当然の事であった。
 客商売でそれはあまりにもまずいと思ったのだろうか、中心となる三人が出来る限り働いているようで、今では他の従業員はこの規模の店にしては少ない、2、3人だ。しかし、それすらも今はいない状態だと言う。昨日、一致団結と言うのだろうか、不幸にもバイトの青年に二人揃って辞められたらしい。
「何度も同じ事を言わせる、まして覚えようともしない奴だったら、居ない方がマシだと思いませんか、氷川さん」
 ニコリと藤咲に笑顔で問い掛けられ、氷川は言葉に窮した。客としては人当たりのよい青年だというものなのだが、この青年は笑顔の裏に厳しさを持っているのだろう。
「確かに、僕の意地も悪いですけどね。無能な者の相手をするほど暇じゃないと言う状況なのでね、限度がありますよ」
 この忙しさですからと、何があったのかは知らないが意味深な言葉を繋いで藤先は軽やかに笑った。本人は全く何も気にしていないらしい。反省する理由がないと思っているのか、それともその行為を無駄だともおっているのか。頼むから、事件だけは起こさないでくれよと、思わずそう思う。
 氷川は何と言えばいいのかわからずに曖昧な表情浮かべ、ふと思いつき磯野に視線を向けた。
「……それ、条件とかありますか?」
「募集ですか? いや、特にないですよ」
「経験とかは無くとも良いんですか?」
 氷川の問いに、藤咲が答える。
「ええ、特には。強いてあげるのなら、男が嬉しいってぐらいですかね。それは書けないので書いていませんが」
「こいつと上手くやれる者を望んでいますが、…無理でしょうな」
 諦めに似た声でそう言った磯野は、「心当たりでも?」と首を傾げた。
「本人に聞いてみないと何とも言えませんが、私としては、こちらがよければ是非にという者が、一人」
「どのような人ですか」
「…覚えていないでしょうかね、先日私と連れていた者なんですが」
 そう言った氷川の言葉に考えるように暫し沈黙を落とした磯野は、思い出せなかったのか問い掛けるように藤咲に視線を向ける。藤咲はそれに頷き、「ほら、その蝋燭をくれたお客さんですよ」とカウンターの隅を指差した。そこには、あの日青年が配っていた小さな蝋燭が2つ並んで置かれている。帰り際に彼が二人に差し出したものだ。
「ああ、あの銀髪の青年ですか」
「ええ、そうです。今、わけあって一緒に暮らしているんです。客商売は苦手ではないと思うのですが、どうでしょう」
 学歴は無いが、自分が見る限り人との接し方は上手いのだと氷川は磯野に伝えた。本人曰く、他人とは上手くいかないと思っているようだが、短い間だが接してきた氷川にはそうは思えない。ただそう言い、自分が思い込むことで他人から逃げているような、一線を引いているように思える。それは刑事としての感なのか、青年に引かれた自分のよく目なのかはわからないが、悪い人間には到底思えない。
「氷川さんが保障されるのなら、大丈夫なんじゃないですか、マスター」
「そうだね…」
 刑事であるという事も、氷川がどのような性格であるかという事もわかっているのだろう。問題はないと言う風に、藤咲はあっさりとそう言った。だが、磯野は少し眉を顰める。
「まあ、今時の若者はああなのかもしれないけれど…、客商売だからな。悪いがはっきりと言わせてもらうと、うちとしてはもう少し大人しい外見がいい。藤咲は若いし違和感がないのだろうが、あの髪はねぇ。少し派手だな」
 茶髪くらいまでならわからなくもないんだが、と磯野は難しい顔をした。
「私はともかく、羽場はああいうのが嫌いなんですよ」
 申し訳なさそうにそう付け加えた磯野に、そう言えばここの従業員は確かに派手な外見の者はいなかったなと氷川は思い出す。目の前の藤咲は多少弄っているのだろうが、ほんの少し茶色い程度で違和感はない。
 言われてみれば確かにそうだと、氷川は磯野に同意した。今時珍しくはないとはいえ、やはり外見は大切である。しかし、藤咲だけが何を言っているのかと大きな溜息を吐く。
「マスターはともかく、氷川さんまで何を納得しているんですか。彼のは天然でしょう」
「え…?」
「何だ、混血かい?」
「違いますよ、多分。確かに整っていましたが、日本人の顔ですよ」
「天然って、どう言うことだい、藤咲くん」
 氷川の問いに藤咲は軽く目を張った。知らずにいた事に驚いたのだろう。だが、直ぐにその表情を消し、軽く笑いながら言葉を紡ぐ。
「抜くにしても染めるにしても、ああはなりませんよ。病気か体質かまではわかりませんが、あれは地毛ですね、白髪。俺の友達にも若白髪の奴が居たんでね、わかります。脱色とは全然違いますよ」
 一度会っただけの藤咲の言葉を、勘違いだろうと一笑する事は氷川には出来なかった。
 青年の腕に刻まれた傷痕が、氷川の目の奥に蘇る。
「…氷川さん?」
「……」
 藤咲の声に、まともな返答が出来なかった。



 驚くには充分の事実を突きつけられた昼食の後、それでもそのことに考えを向けているわけにもいかず、氷川は片付けなければならない仕事に向かった。休みなしで働いてきたからだろう、せめて一段落ついた今日くらいはと定時になるとそそくさと帰る同僚を見送った氷川も、7時には出先の署を後にした。
 すっかり夜の帳が降りた街は、けれども人口の光りに照らされ擦れ違う人の顔を確認出来る程に明るい。人波と同じように駅へと進み、氷川は地下鉄に乗った。この時間帯に帰宅する事は珍しいのでわからないが、車内は心持ち今夜は空いているように思える。
 それでも、腰をおろす事はなく吊革につかまり、流れるコンクリートを車窓から眺めた。窓に映し出される車内の様子に関心を向ける気にはならず、自分の姿すら通り越して味気ない窓の外に氷川は目をやる。
 仕事で家に帰れないと言う事はよくある事だが、青年と暮らし始めてからは初めての事だった。相変わらず忙しくしていたが、同居人が居るからと意識しての事だろう、無理をしながらも氷川は少しの時間があれば部屋に戻っていた。だが、昨夜はそれさえも出来なかった。
 一応連絡はしておこうと何度か自宅に電話をかけたが、相手は出る事はなかった。留守電にしておくので、電話は取らなくてもいい。受ける場合はそれなりの対応をしてくれと前もって言っていたので、あの青年は一切通話を受けないことにしたのかもしれない。それでも、そう広くもない部屋なのでベルの音には気付いているだろうと、何度目かの時に今夜は帰れないと留守晩電話に吹き込んだ。
 果して本当にそれを訊いているのかどうなのか。部屋に居るのかすらわからないが他に方法はなく、氷川はそれ以上の事はせずにいた。だが、仕事の合い間にふと気になってしまう。それが何故なのかはわからないが、大丈夫だろうかと青年の事が心配になる。昨夜から今朝にかけて、そんな感情を持て余した。
 だが、朝になると、その感情は薄れていった。夜の世界で生きていた者だからだろうか、出会ったのが、顔をあわすのが夜だからだろうか。日が昇り始めると、何故か気にならなくなった。
 そうしてまた、日が沈んだ今、彼の事を考え始めている、と氷川はそんな自分に苦い溜息を落とした。一定の音を響かせながら進んでいた電車が、停車駅に近付き速度を落とす。その振動に耐えながら、滑り込んだ明るいホームを見、氷川は目を閉じた。
 夜といういうものは不思議である。闇は人に色んなものを与える。そのうちのひとつが、自分に青年を意識させるのだろうか。それが何かはわからないが、氷川はそんな風に思った。
 確かに、社会的地位はなく、危うい生活をしている男だ。だが、自分よりも生きていく事を知っている者でもある。心配など、必要ないものであると自分は充分知っている。だが、そう思ってしまうのが止められないのだから、呆れるばかりだ。いつの間にか、そこにいるべきものとして彼を見ているのかもしれないと、氷川は自分の感情に気付く。
 それを馬鹿馬鹿しいと一笑するには、あまりにも彼の事を考えるのが日常となっている。
 下りる駅に着き、氷川はホームへ出て足早に階段を上がった。改札を抜け地上に出、ふと息をつく。歩きながら見上げた空には、まだ月は昇っていなかった。
 本来なら、もう一駅私鉄をに乗り換えた方が自宅には近いのだが、何かを考えたい時は氷川はこうして歩いて帰る。15分程増える散歩に意味があるのかはわからないが、こうした時間の無駄使いは思うほど悪いものでもない。
 賑やかな街を、駅に向かう人の波を切るように歩く。
 口を開けば相変わらずふざけた男ではあったが、思った以上に非常識な人間ではなく、青年はそれなりに分別を弁えていた。居候との自覚があるからなのか、それとも客には従うと言う精神なのかわからないが、家の中ででしゃばる事はあまり無い。むしろ、心地良いと思える程度の存在感を氷川に与えている。
 意外な事だが、青年の生活は極めてまともで、淡々としたものであった。確かに一緒に過ごした時間は極僅かだが、それでもその所作を見ればわかると言うもの。同じテーブルに付き食事を摂れば、箸使いは上手く、背筋をきちんと伸ばして座る姿はこちらの方が居ずまいを正されてしまいそうになるほどだ。だが、邪魔にならない程度の会話と、人をからかうかのような話術を織り交ぜ、そんな洗練された姿を隠そうともしているようでもあった。
 ソファに寝転がっていても、氷川が近付けばさり気なく体を起こす。邪魔だと口にする前に、その場を避ける。まるで自分の行動を読んでいるかのように、手を貸す事もある。違和感なく行われるそれに氷川が気付いたのは、同居を始めて数日の事だ。さり気なくそれを指摘すると、青年はあっさりとこんな言葉で返した。
――客商売が長いからね、自然に体が動くんだ。
 冗談めかしたその言葉に氷川が眉を寄せると、楽しげに笑う。
――意外なのか? あんたが思った以上にまともだろう、俺は。確かに、あんたからしちゃあ、誉められたものじゃないよな。だが、それをどこで教わったかの何て、今はどうでもいい事だろう。別に、俺は勝手に体が動くだけで、あんたに尽くしているわけじゃないし、そう嫌な顔をするなよ。癖なんだから、仕方がない。ま、我慢する事も出来るが、人間我慢は身体に毒だろう。第一、尽くすって言うのはもっと徹底しているもんだぜ。何ならしてやろうか。俺に傅かれたくはないだろうけどさ、何であれ経験は良いものだろう。
 ぺらぺらと喋り、一人でそう結論をつけた青年は、何を言っているんだと呆れる氷川の前に膝を付き頭を下げた。ただ、からかっての事なのだと後でわかったのだが、その時の氷川は心底焦り、止めてくれと懇願した。もう、少しばかり気を使われるのなど、どうでもいい事にしよう。
 客だと見られるのは、主人だと思われるのは嫌なことだが、結局はここに彼を連れてきたのは自分なのだから、多少そうした関係は必要なのかもしれないと、そう思う。何も、自分は友人を呼んだわけでも、ペットを飼い始めたわけでもない。全く見ず知らずの男を、そう言った意味ではなくとも条件を提示し契約を結んだのだから、その関係を貫き通す義務が自分にはあるのだろう。都合のいい人形ではなく相手は生きた人間なのだ、対等だと考えるのが当然の事といえば当然の事だが、何故か青年との間ではそれが当然とは行かないのだから、これはもう仕方がない事なのだろう。
 そう考える事で、氷川は青年の態度を少しは理解しようと努めた。信じられないという思いはなくはないが、ある意味自虐的のようにも取れるそれに、頭ごなしに怒鳴りつけることも難しい。だが、自分が奢っていないとは言い切れない部分も多少あるだろうが、やはり青年の方に問題があるのは間違いが無いだろうとも思う。
 どうすれば自分の真意が伝わるのか、理解してもらえるのか、具体的ないい案は浮かばないまま、小言のように口を挟むばかりなのが現状だ。
 上下関係がはっきりとした客商売を長く続けてきた彼には、普通が普通ではなく、当たり前だとはいかないのだろう。多分、自分はただ当然のように、体を売るな、君と寝る気はない、まともな仕事を探せなどといっているのだが、青年にとってはそれはあくまでも客の命令でしかないのかもしれない。軽口を叩きながらも自分の立場を弁え出すぎることはないのも、氷川に気を回しているのも、全てがそうした仕事としての接し方なのかもしれない。
 考えれば切りがないことだと言えるのだろう。今の生活は、苦痛ではない。ならば、このままでいいのかもしれない。何も自分は彼を教育しようだとか、社会に復帰させようだとか大事に考えているわけではなく、ただ人間として当然の思いを言っているだけなのだ。相手も馬鹿ではない、そうした言葉だとわかっているだろう。自分だけではなく、他の者にもそう言われた事はあるだろう。子供ではないのだ、受け取った言葉を自分なりに処理するくらいには彼は大人だろう。
 自分もそう深く突き詰める事もないのだと、そんな風に氷川は考え納得しようとした。だが、それは無責任でしかないのだと、自分の浅はかさを逆に気付かされもする。
 思った以上に問題も何もない青年との同居を、氷川は今はまだ後悔はしていない。やはりあの時思ったように、そのまま放っていたら気になって仕方がなかっただろう。弟の事からも、多分立ち直れなかったはずだ。だが、青年にとっては果してこれが良かった事なのかどうかはわからない。確信がもてない、自信もない。
 似ても似つかない男だが、不思議と同居人は弟を思い出させる。だが、それは不快ではない。むしろ、穏やかな気持ちにさえなる。
 表通りから離れ、住宅が並ぶ道を歩きながら、家々に飾られる電飾に目を細めた氷川は、ふと友人の言葉を思い出した。
――お前、弟さんと重ねているんじゃないのか…?
 今朝、顔をあわせた木崎の姿が瞼に浮かぶ。先日の夜から考えていたのだろうか、友人は真面目な顔で話し掛けてきた。
――お前が決めた事なら、俺は反対はしない。だが、心配はする。せずにはいられないのが、当然だろう。もし逆の立場だったら、お前は俺を放っておけるのか?
 どうなんだと少し笑いを含んだそれは、けれども真剣なものだった。
――追い出せとは言わん。お前が納得するまで続ければいい。痛い目を見たとしても、自業自得だ。一度それを味わうのもいいさ。
 その言葉に酷いなと肩を竦めた氷川に、どちらがだと同じように木崎は肩を竦める。
――いいか、氷川。何にしても、彼は他人なんだぞ。弟さんを重ねる事も、寂しさを埋めるためだとかいうのも、馬鹿な事なんだぞ。
――わかっている。確かに、彼を見て弟を考えない事はない。だが、自分を慰めるためにこんな事をしているわけでもない。きっかけはそうであったが、もう弟の事は俺の中では区切りをつけた事だ、彼には関係ない。
――なら、今の状況は、あの青年自身に惹かれての事か?
 どうなのだろうか。自らそんな問いを浮かべながらも、気付けば氷川は頷いていた。
――放って置けないと、そう思った。それが同情なのか、ちっぽけな正義感か、欺瞞か何かはわからないが、放ってしまえば後悔すると思ったんだよ、おかしな事だが。別に、具体的に何かをしてやりたいだとかは考えなかった。確かに今思えば、考えがなさ過ぎるとは思うが、後悔はしていない。
 気負う事も無く自然に出た言葉は、自身の胸の奥にある真実なのだと、口に出した瞬間氷川は思った。友人に向けても恥しくは無い、確かな想いがあった。
――…お前がそう思うほどの、何かが彼にはあると言う事か。
――木崎…。
――別に詮索はしないさ、心配するな。何となくだが、俺にもわかる気がするしな。
 あの時は、苛立ちの方が強かったが、俺も人を見る目はある方だぞと木崎は小さく口元を緩めた。
――一見は今時の若者だが、そうでも無さそうだ。
――ああ。
――だからこそ、気をつけろよ氷川。
 世の中には、自分には理解出来ないところで生きている奴が居るんだ。信じられない生活をしている奴が居るんだ。それは、この世界では当たり前の事なんだ。そんな奴を見たからって、自分の生活を嘆く事も、恥じることもない。どうにかしようとは思うなよ。
 そんな言葉を紡いだ木崎は、上司に名前を呼ばれて立ち去った。話の途中だが、もう言いたい事は言ったというように「じゃ、またな」と手を上げ駆けていく。そんな木崎の後ろ姿に、氷川は小さな溜息を落とした。
 友人は、なんだかんだと言っても自分は青年に同情したと思っているのだろう。確かに、知ってはいてもあえて見なかった人種である。理解しようとしなかった人間である。今になって、それに目をむけ世の中の理不尽さに嘆いているかのように、彼には自分がそう見えるのかもしれない。あながちそれは、間違っていないのだろう。
 だが、もっと違う何かがあるのも事実だ。言葉では上手く言えないが、体を売って生きる青年というだけではなく、彼そのものの何かに自分は惹かれたように氷川は思う。一緒に暮らし、出て行ってくれと思った事は一度もなく、逆に心配までするような存在になった。それだけ、あの青年の何かが自分の心に触れたのだろう。今までの自分なら、とっくの昔に後悔し、頭を下げてでも出て行って欲しいと頼んだはずだ。いや、別の者だったのならば、今でも自分はそうしただろう。自分が受けとめきれないものを抱え込みたくはないと、早々に匙を投げ逃げただろう。
 だが。何故だかわからないが、あの青年だけには、そんな気が起こらないのだ。彼の身体に付く疵を見てしまったからか、それとも彼が作るこの関係が妙に心地良いからなのかわからないが、いつの間にか自分は真っ直ぐとあの青年を見ている。後ろめたさに押しつぶされそうになりながら彼と過ごしたあのホテルでは思ってもみなかった穏やかさが、この関係にはある。
 それはとても小さく、何かがあれば簡単に崩れてしまいそうではあるが、今の自分全ての理由に出来るだけの存在感もあった。たとえ脆くとも、確かにそれはあるのだ。その事実だけで、今はいいのではないかと氷川は思う。
 まだ、半月にも満たない付き合いなのだ。これから信頼を築けるか、それとも減滅しあうか、どちらに転ぶかなどわからない。自分は彼の事を全て知っているわけではなく、彼もまた自分を知らない。そう、自分達はまだ答えを出せるほどの付き合いはしていないのだ。これからなのだと、素直に思うことが出来る。
 想像でしかない判断で決めるのではなく、もっと会話をし、同じ時間を過ごし、青年自身を見る事が自分には必要なのだと氷川は思った。物理的に考えれば、仕事が忙しく、到底そんな余裕などもてそうにもない。だが、だからと言って諦めるのでも切り捨てるのでもなく、そうしたいという理想ぐらいは胸に留めておくべきだろう。
 そんな思いに、ふと、今まで自分はそう言った努力はしてこなかったのかもしれないと気付く。時間がないと削り捨ててきたのは、些細な事だと思っていたが、一番大切なものだったのかもしれない。
 角を曲がると、自宅のマンションが見えた。その光景に、氷川が頭に描いたのは、あの部屋に住む青年ではなく弟の事だった。彼が何故自分を卑怯だといったのか、あの時、自分はもっと考えなければならなかったのだろう。何故避けられているのか嫌われているのか、その事実に溜息をつくばかりではなく、もっと何かをしなければならなかったのだ。
 今になって気付いても遅い。その弟はもう、この世にはいない。
 だが、同じ過ちを繰り返し続け、最後まで気付かないよりはマシなのだろう。
 見上げた建物には、幾つもの光が燈っていた。だがそれは、あの青年の不在を教えるものでもある。
 自室の闇を地上から見つめ、氷川はマンションの中に入った。
 一日中部屋に居るなどとは、流石に思っていない。先日も、夜の街でばったりと会ったのだ、いなくとも不思議ではない。一度夜中の仕事を始め、その日のうちに辞めた。もしかしたらまた、仕事を見つけたのかもしれない。そんな事を考えながらエレベータに乗り込み、氷川は自室の前に立った。
 鍵を開け、扉を引く。
「よっ、おかえり」
 玄関に、青年が座っていた。

2003/08/23

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