Wild Cat

- 1 -

 今日は夜勤で出勤は5時からだと、昼過ぎまでベッドを出ず、起きてからも部屋でゆっくりしていた。だが、それがいけなかったのだと、葉山は電車に揺られながら後悔していた。
 ざわめく車内。女子高生の高い声がやけに耳につく。何をそんなに騒ぐことがあるのだろうか、葉山には意味のわからない言葉で続く会話。聞く気は無いのに勝手に耳を通り過ぎていく。その中には自分に対してなにやら言っているものもあるようだと気付き、深い溜息をついた。
 185センチの長身、適度に筋肉の付いた体は服を着ると細く見える。足もスラッと長く、誰もが彼の隣に立つのは気が引けるだろう。それに加え、整った顔は男らしく、切れ長の大きめの目とスッと通る高い鼻が顔のバランスを綺麗に見せていた。一つだけ難点を言うならば、大きな黒縁眼鏡をかけていることだけだ。似合っていないわけではない。どちらかといえば、似合っているといえるだろう。しかし、よく今の時代にそんな眼鏡が売られていたなと言いたくなるような一昔、二昔も前の眼鏡だ。例え似合っていようと、その眼鏡はやめろと誰もが言いたくなるものである。それも、眼鏡を外せばかなりの美形なのだからよけいに、だ。
 友人曰く、葉山は他人のことならよく気が付くが、自分自身のことはわかっていないそうで、もっと自分が人目を引く存在なんだと自覚しろとのこと。だが、絶世の美青年でなかなかの性格の持ち主にそんなことを言われても信じられるわけがない。からかっている以外に考えられないのだ。
 自分が醜男だとは思っていないが人並み以上とも思っていない。第一、葉山としては自分の顔はこれが普通であって、美的センスがないのではなく、そもそも対象外なのだから、関心が無い。ただそれだけのことだ。
 そんな葉山の無頓着なところが女心をくすぐるのだ、と勤務先の看護婦や患者が時々口にしている。今も電車の中で彼を肴に盛り上がっている女子高生も、眼鏡を外した顔を見てみたいだの、今のままでもかっこいいなどと言い争っている。だが、当の葉山にとってはやはりどうでもいいことだった。

 葉山が気付いた時には、すぐに出掛けないと間に合わない時刻になっていた。慌てて読んでいた本を鞄に入れて着替えを済ませ、玄関で靴を出して履こうとした時チャイムが鳴った。相手を確かめず開けたそこには見知らぬ中年の女性がいた。
 相手はすぐに葉山が出たことと、美形ぶりに一瞬見とれる。一方、葉山は見知らぬ人間に当惑する。誰なのかと思い出そうとしても思い出せない。
 先に動きを見せたのは女性の方だった。もう何十年もしてきたのだろう完璧な笑顔でこう言った。
「こんにちは、中西生命保険の者です」
 思い出せるはずが無い。
 葉山は思い切り溜息をついた。もちろん心の中で。
「すみません、出掛けるところなので……」
 靴を履きながら葉山は言ったが、長年営業をしてきた者だ。それならパンフレットだけでもと取り出した物を渡しながら簡単な説明を繰り出した。いや、繰り出すなんてものじゃない。葉山にさえぎる隙をあたえない。まるで壊れたテープレコーダーのようだ。どこで息をついでいるのか不思議に思うくらいの勢いだった。
 こういう相手は勝手に喋らせておけばそのうち満足するのだろうと考える葉山は、普段よく喋る患者相手には右から左に話を聞き流しながら適当に相槌を打つ。だが、今目の前にいるのは知り合いでもなければ、患者でもない。何よりもいつ終わるかわからない話に付き合う時間は葉山にはないのだ。こうなれば実力行使しかない。
 葉山は彼女の肩を抱き、鞄を左手に持ったままドアを開けた。
 さすがにこれには驚いたのか彼女は口を閉じる。いや、正確に言うと舌の動きが止まった、だ。口は軽く開き、斜め下から葉山を見つめる目はうっすら濡れて輝いている。
 そんな彼女には気付きもせず、葉山は廊下に出るとさっさと抱いていた肩を放す。カチャリと勝手に扉が閉まり、鍵がかかる。それをノブを回して確認すると、
「失礼」
 そう言って葉山はエレベーターに向かった。後ろで呼び止める声が聞こえたが振り返る気はない。ちょうどやってきたエレベーターに乗りこみ、扉が閉まってから大きな溜息をついたのだった。
 マンションから最寄りの駅まで走って5分で来たのだが、電車は出たところで次は7分後とついていなかった。いつもは車で通勤しているのだが今は車検に出している。こういう時に限ってこうなるものだと、イライラしながら電車を待つ。早ければ明日の朝、勤務先の病院の方に車を持ってきてもらう事になっているが、こんなことなら代車を借りておくべきだったなと今更ながら考える。
 やっとやってきた電車は、夕方の時間ということで中高生の山だった。扉が開いた瞬間乗りたくないなと思うような煩さだ。他人の迷惑も考えず床に座り込んでいる者までいる。それでも仕方なく乗り込みつり革につかまって立っている葉山にいくつかの視線が突き刺さってくるのだ。いつもは人の視線を気にしない葉山だが、今日はうっとうしくて仕方が無かった。
 こうなれば、自分が本を読んでいて出すごしたことは棚に上げ、あの保険の勧誘のせいだと苛つく。第一オートロックマンションに入ってくるのがおかしいのである。葉山の住むマンションの管理人はとてもいい人なのだが、夕方になると再放送のサスペンス番組に夢中になり仕事が疎かになるのだけが問題だった。
 車窓を流れる街を見ながら、葉山は今日何度目かの溜息をついた。

 駅に到着したのは5時5分前だった。
 ここから病院までは歩いて15分強。走っても信号が多いので5分で着くのはまず無理だ。葉山は定時に着くのを諦め、周りの波と同じスピードで歩き出した。
 駅を出て建物に沿って歩いていくと、すぐに小さな人だかりが前に見えた。その中から数人の若い男達が抜け出て走り去って行く。
 何だ?と興味を引かれたが走って見に行くほどの野次馬根性は持ち合わせていない。だが、近づくにつれ周りを囲む人の中から、警察は、救急車は、という言葉を聞きとめると、そうも言っていられなくなった。
 葉山は野次馬達の間をすり抜け、騒ぎの中心に入っていく。
 そこには一人の少年が倒れていた。
 何人かの者が伺うように少年に声をかけているが、気を失っているのか全く動かない。
 葉山が駆け寄るより早く、一人の男が少年にしがみついた。
 一見しただけで浮浪者だと思われるような格好をした男への嫌悪からか、それとも少年にすがりつく気迫に圧されたのか、側にいた者達が数歩下がる。
「…お、おい、おい。四郎!」
 意識を失っている少年を揺すりだした男を葉山は止め、屈み込んだ。
「動かさないほうがいい。どうしたんですか?」
 いきなり声を掛けられ男はビクリと驚いた。周りは好奇心を剥き出しにして見ているだけの傍観者だ。関わり合おうなんて普通はしない。そんな中で葉山に声を掛けられ男はすぐには反応ができなかった。何よりホームレスの生活を長く続けている間に他人と話すのが苦手になっていた。
 その間に葉山は少年の体を調べる。体にはいくつか痣になりそうな赤く腫れたところや内出血があるが酷くは無い。右手に少しすり傷があるが、血が滲んでいる程度なので心配するものでもない。酷いのは右手首の捻挫だ。これはまだ腫れあがってくるだろう。左手をとり脈をみる。少し弱いが問題はない。
「喧嘩ですか?」
 腕時計を見ながら葉山は隣に座り込んでいる男に訊く。
「……あ、あぁ」
 遠くの方から救急車の音がする。
「あ、あんた、医者か?」
 男が確認というよりも不安そうに聞いてくる。
 そうだと葉山が答えるとほっとし、邪魔にならないように少年の向こう側に移る。
「なぁ、四郎、大丈夫だよな?」
「頭を蹴られたり、ぶつけたりしました?」
「……いや、それはなかったと思う。
 何もされてないのに、急に倒れたんだ。っで、その後で、蹴られたりしたんだ……。だが、四郎はちゃんと、頭を庇っていたし……」
 しどろもどろ男が話すのを聞きながら、葉山は少年を仰向きに寝かした。
 男の言うように、頭に怪我は無い。しかし、急に倒れたというのが気になる。殴られて倒れたなら、痛みで意識をなくしたなだと想像できるのだが。
 不思議に思いながら体を触っていて葉山はふと気付く。先ほどまで蹲るように体を丸めていて気付けなかったが、少年の身長は思ったより高い。170センチ程だ。そして、その背には似合わない細い体。もっと幼ければ、成長途中の子供で細いのも頷けるが、見た感じだと17、8歳くらいだろう。遅い成長期だと、単純に片付けられるものではない。あまりにも細い体型。いや、やつれていると言ったほうが正しいだろう。シャツを捲りあげた腕は細く、長い髪に隠れた顔も肌の色が悪く頬もこけている。
 前に座り込んで少年を見つめている男に目を移す。60歳前後の痩せた男からは浮浪者特有の臭いがする。
 半袖のTシャツに大きめの長袖シャツをひっかけ、裾を折った青いジーンズ姿の少年。お洒落とは言えないが、どこもおかしくはない、どこにでもいそうな格好だ。喧嘩をしたと聞いたので服の汚れは気にならなかった。金髪と言えるほど脱色したぼさぼさの長めの髪も、最近の若者はこんなものだろうと思っていた。だが――
(もしかしたら……)
 葉山が少年の手を取った時、救急車が背後に止まった。
 野次馬を避けさす声が聞こえる。駅の前のことなので先ほどよりもその見物人達は増えているようだ。
「葉山医師(センセイ)!?」
 いきなり名前を呼ばれて振り返ると、救急隊員が担架を持って立っていた。その内の一人、竹中と葉山はちょっとした知り合いだった。
 竹中が新人の頃に葉山の勤める病院に怪我人を運んできた。ガス爆発に巻き込まれた、重度の火傷の上体中にガラスなどの破片が刺さった患者達だった。医者ですら目を背けたくなるような状況は新人の竹中には強烈だったのだろう。気分が悪くなりそのまま倒れこんだ。その時面倒を見たのが葉山なのだ。といっても、葉山自身急患の治療をしなければならないので、竹中を寝かせて、後は手のあいた看護士に頼んだだけで、すぐに彼のことは忘れてしまい、後日礼を言われて戸惑ったものだ。
 お互い忙しい身なので、急な呼び出しは当たり前の中、何度か飲みに行ったこともあったが、最近はあいさつをかわす程度の付き合いだった。
「医師のお知り合いですか?」
 少年を見て竹中が聞く。
「いや、たまたま通りかかっただけだ」
「津山に行きますが、医師も?」
「あぁ、頼む」
 そう言って葉山は竹中と一緒に車に乗り込んだ。扉を閉めようとする救急隊員を制して男に声をかける。
「あんた彼の知り合いだろう。来てくれ」
 だが男は首を振る。
「いや、津山ならすぐそこだ。後で行く」
 少し迷ったが、そうかと頷き、葉山は救急車を出してもらった。
 少年をひどく心配していた男が乗り込まないことには驚いたが、もしかしたら救急車に乗ることに抵抗があるのかもしれない。そう思い、葉山は強くは言わなかった。あれほど心配していたのだから必ずくるだろう。
 だが――
 救急車が去ると共に、野次馬達も去っていく。
 その場には男だけがぽつんと残った。
 男は遠くなる救急車をじっと見ていた。いや、動けなかったのだ。
 つい先ほど笑ってくれた少年の顔が目に浮かぶ。倒れたまま動かなかった。心配で付いて行きたかったが、行けなかった。これからのことを思うと涙が浮かんできた。だが、このまま泣いてなんかいられない。早く仲間のところに行って病院に行かなければ。いや、自分は行けそうにない。行けば自分は四郎を困らせるであろう。だから、早く誰かに行ってもらわなければ。
 そう思うが救急車のサイレンが聞こえなくなっても、男は足が立ちすくんで動けなかった。

「喧嘩ですよね? 意識が無い……」
 竹中が少年に呼びかけるが反応は返らない。
「頭に外傷は無い。体も右手首の捻挫以外は大丈夫そうだが…爪が気になるな」
「爪?」
 葉山の答えに竹中は少年の手を見る。目が行くのは腫れあがった手首だが。軽く手を握った形でいるので爪は見えない。捻挫の手をわざわざ開かせるのは躊躇う。
 それがわかったのだろう、葉山が左手を取って竹中に見えるようにする。
「栄養失調のようだな。ほら」
 シャツを捲りあげた手は骨と皮だけのように細く腕を掴む葉山は折れるのではと感じたぐらいだった。
 少年の爪は白くガタガタになっている。
 爪は皮膚の表皮で作られている。そして、皮膚より透明度のあるそれは、体の内部のことを教えてくれる。健康な時爪は淡いピンク色、体調が悪い時は白っぽくなる。少年の白くなった爪は、貧血が考えられる。他にも疲労感や動悸、頭痛に微熱などの症状を伴う。表面にできた幾つかの溝、小さな点状の陥没。これにも色々理由はあるが、やはり栄養不足によるものだろう。
「栄養失調? それで倒れたんですか?」
「断定はできないが、おそらくそうだろう」
 そう、まさしく症状はそうかたっている。栄養失調になる原因も色々ある。だが、今の時代に、それもこんな若い者が栄養失調だとは珍しい。考えられるのは、食べ物を摂る事を体が拒否する拒食症。それとも、食べたいが食べ物を調達できなかったか――。それは、幼児の虐待によく見られるが、この少年は子供ではない。格好で人を判断するわけではないが、今時の金髪の少年だ。そんな状態になればどんなことをしてでも、食べ物を手に入れるだろう。そう、今の世の中馬鹿げた理由で他人を傷つける青少年達が沢山いる。罪を犯すことをなんとも思わない者が。まして、食事は人間が生きていくためには絶対になくてはならないものなのだ。誰もがそうだとは言えないが、食べ物がなかったら、たとえ罪を犯してだろうと手に入れたいと願うだろう。そして、少年にはそれが出来るはずだ。
(なら、やっぱり拒食症か……)
「この歳で、ホームレスなんですかね…」
 竹中の呟きに葉山は何も答えず、少年の顔にかかった髪をかきあげてやった。
 それに気付いたのか小さな声が唇からもれる。
「…んっ……」
「おい、大丈夫か?」
 ゆっくりと瞼が上がり真っ黒な眼が覗いた。至近距離で葉山と目が合うがまだ状況が判断できないのか、その眼は虚ろで何も見えていないかのようだ。
「大丈夫ですか?どこか痛いところは?」
 竹中が聞いても少年はただ天井を見つめるだけだ。
「右手首に捻挫が見られます。他にも幾つか痣もありますので、動かすと痛みがはしるでしょうが心配いりません。今捻挫のほうを治療しますから」
「すぐに病院に着くからスプレーして湿布をはっておいてくれればいい。念のためレントゲンをとるから。あ、掌の傷も消毒だけしてくれればいい」
 葉山の言葉に返事をして竹中は手当てを始める。
「他に頭など痛いところはありませんか?」
 葉山がそう聞いても少年はまだ反応しない。
 もしかして頭を打っていたのか?
 葉山がどうもおかしいと焦りだした時、
「……きゅうきゅうしゃ…?」
 まるで蚊の泣くような小さな声で少年が呟いた。葉山にその声が聞こえたのは奇跡にちかいかもしれない。前に座った者はもちろんのこと、少年の腕の掠り傷を消毒していた竹中にも聞こえなかっただろう小さな声。
「ええ、もうすぐ病院に着きます」
 葉山がそう言ったとたん、少年は目を見開き体を起こそうとした。自分が今治療を受けていることさえわからなかったのか、利き手だろう持たれていた右手を引きよせ、力をいれて…崩れ落ちる。
 たかが捻挫という優しいものではなく、少年の右手首は赤黒くなっている。何もしなくても相当痛いはずだ。それなのにそこに無意識で力を加えたとなると、どれほどの痛みが生まれるのか。
 少年は激痛にうめき声をあげ、蹲る。
「だ、大丈夫ですか!?」
 慌てて竹中が少年を伺った。
 葉山も手伝い少年を寝かしつける。
「大人しくしていてください」
 その言葉に素直に従うように、少年はそれからじっとしていた。だが、竹中や葉山の問いかけには一言も喋らず、目を瞑り浅い息を繰り返していた。手首が相当痛むのだろう、左手で腕を握り締めている。その頑なな姿に、葉山と竹中は肩を竦めるしかなかった。
 それからすぐに救急車は病院に着いた。
 緊急搬入口に着き、先に下りた救急隊員がドアを開ける。葉山が降りると病院から看護婦と医者が出てくる所だった。
「怪我は見たところ大したことはなさそうだ。意識は戻っている。混乱しているのか何も喋らないが、大丈夫だろう」
 出てきた若い医師にそういいながら看護婦に鞄と上着を渡す。
 ストレッチャーが地面に下ろされ、動きだすその一瞬――
「え!? あっ!!」
 数人の声に背を向けていた葉山が振り返り目にしたものは、走っていく少年の後ろ姿だった。誰もが一瞬、何が起こったのか理解できなかった。だが――
「どうかしたの?」
 ハッとする美声に止まっていた時が動き出す。少年の姿を見ていた者が声の主を振り返り、その美しさに再び時が止まる。その中で葉山だけが声をかけた者を確認もせず走り出しながら叫んだ。
「神崎、来いっ!!」
 十年来の友人だ、声を聞き違うはずはない。まして、誰にも真似など出来ない天使のような美声だ。だが、出てきた者が彼だと当たったとしても、果たして葉山の助けになるかどうかはまた別の話だ。
 案の定、呼ばれた青年が遠ざかる葉山の背中に文句を言った。が、葉山には届いていないのか、それとも信じているのか、そのまま走って行く。
「神崎センセェ〜……」
 まだ学生のような若い医師が、状況に理解できず情けない声で青年の名を呼んだ。
 はぁ〜と小さな溜息を一つつく。そして、ここはもういいから仕事に戻ってくれと指示を出し、神埼はもう見えない葉山の後を追った。


 目が覚めた時、少年は自分の状況がわからなかった。
 両脇に一人ずつ男が座って自分を見ている。どうやら寝かされているようだが、何故だか思いつかない。左に座ったスーツ姿の眼鏡をかけた男が何か言っているようであったが、声は耳に入らない。いや、声だけではなく何の音もしなかった。
 動かない思考で考える。自分は一体どうしたのだろうか……。
 …そう、確か知り合いが若い男達に絡まれ、人目のつかないところに連れて行かれようとしていたのを目撃し、代わりに自分が彼らの相手になろうとしたのだ。獲物は誰でもよかった男達は自分より幼く見える者を標的にするのには何の感情もないようだった。
 他人の目は気にはならないが、知り合いの前で喧嘩などしたくない少年は、助けた男が他の仲間を呼びに言った間に、その場を離れようとした。だが、それが気に入らなかったのだろう。男達は少年を囲むように立ち、殴りかかってきた。
 少年の腹をめがけて男の一人が右足を蹴り上げたのを、斜めに避けてかわし、勢いのついた男の足を少年はひょいっと掴みあげた。バランスを失い男は体制を崩す。地面に尻をついた男を他の者達が笑う。今度は自分がと、違う男が右ストレートを放つが、これもまた少年は半歩左に寄っただけでかわす。続いて後ろにいた男が少年を捕まえる。が、男は何をされたのか気付く間もなく、腕をとられ跪いていた。そこに最初に蹴りをかわされた男が再び襲い掛かる。少年はさっと身を引き横に飛びのき、男の拳は空を切る。
 通行人たちが何事かと見るが、喧嘩とわかり立ち止まるものはいない。そんな人の中にふと気付くと、助けた男がおろおろとして見ていた。大丈夫だと言う代わりに少年は微笑む。
 一方、ホームレスの餓鬼なんて簡単にやれると思って笑っていた男達の予想みごとに裏切られた。だが、これで諦めるわけにはいかない。細い少年はどう見ても自分達より弱そうなのだ。今のはまぐれだと男達は攻撃をだす。
 しかし、結果は同じで、少年への攻撃は全くきまらない。それでも男達は悪態をつきながら攻撃をくりだす。今まで何人もの人間を痛めつけてきた自負からか、もともと馬鹿なのか、状況判断が出来るほどの頭を男達は持っていないようだ。
 少年はそんな男達を嘲笑うかのように、自分は避ける一方で手は出さない。だが、それに気付いた男達の闘志は、冷静な少年とは逆に燃え盛る。余裕で攻撃をかわすし少年。しかし、奇声を上げ男の一人が横から顔をめがけて放ってきた拳を避けるために後ろへさがった瞬間、光が暗転した。
 ほんの一瞬意識が失われ、気付いた時には少年は自分の体を支えることが出来ず、そのまま倒れこむ。受身を取ろうとしたがそれも間に合わず、咄嗟に伸ばしていた右手に全体重がかかる。右手のお陰で体が地面に叩きつけられるのは防げたが、体に力は入らず、起き上がることが出来なかった。
 男達は自分達の攻撃で倒れたと勘違いしたのか、地面に横たわった少年を笑いながら蹴る。それも、聞くに堪えない言葉をはきながら。
 少年は薄れていく意識の中、腕で頭を守りながら、右手首の痺れに何故だか冷静に、当分は使えないなと考えていた。
 そして、次に目覚めた場所は知らないところ。
 この経緯を考えれば、ここがどこなのか見えてくる。
 スーツの男が何者かはわからないが、右隣にいるのは、ヘルメットに名札つきの制服を着た男。そう、救急隊員だ。
 自分の居場所に予想がつき、無意識のうちに口からその言葉が零れた。
「……きゅうきゅうしゃ……」
 その呟きにスーツ姿の男が反応した。
「ええ、もうすぐ病院に着きます」
 男の声が耳に入る。それと同時に他の音も蘇った。煩いサイレン音が耳につく。
 だが、それを気にしている時ではなかった。
(救急車なんだ!)
 そう実感した瞬間、冷や汗が噴き出してきた。
 このままここにいては駄目だ。その思いが頭を占め、逃げなければと少年は体を起こそうとした。が、力を入れた右手が激痛を放ち、崩れ落ちる。
 声にならない痛み。息もつけない。
 蘇った痛みは意識を失う前とは比べ物にならないものだった。見ると手首は紫色に腫れ上がっている。折れてはいないようだが……この痛みなら折れていた方が痺れたままで痛みを感じずマシだったのかも知れない。
 肩で息をして痛みをこらえていると、大人しくしていて下さいと寝かしつけられる。
 目を瞑り、痛みのお陰ではっきりと覚醒した頭でこれからのことを考える。その間に幾つかの質問をされたが少年は全て無視をした。二人も諦めたのだろうか、怒りはせずに質問を止める。
 救急車のスピードが減速し左に曲がり音が止まる。病院に着いたのだ。そのまま少し走り今度は右に折れ、またすぐ左に。緩い短い坂を上がりきって救急車は止まった。
 この時を逃せば、逃げることは出来ない。少年の鼓動は高鳴る。
 目を瞑ったままなので、全神経を耳に集める。
 ドアが開きスーツの男が降り、救急隊員の男が頭の方に回ってくる。そして、運び出される。
 ゆっくりと目を明け横を向く。
 外に続く道。
 ストレッチャーが地面につき、救急隊員から看護婦へ。
 動き出そうとした瞬間を狙って少年はそこから飛び降りた。
 一瞬後で叫び声があがったが、後ろを気にする余裕はない。振り返らずとも追いかけてくるだろうことは嫌でもわかる。
 坂を駆け降り右に、そして次は左。100メートル程前方に門が見える。外に出て人ごみにまぎれれば逃げ切れる。
(もう少し…)
 だが、少年の息はすでに上がりきってしまっていた。それでもここで捕まるわけにはいかないと、力を振り絞って足を運んだ。が、膝に力が入らず倒れ込みそうになる。
 その時、いきなり左の二の腕をつかまれ後ろに引っ張られる。その力を利用して何とか倒れずに体制を立て直した。しかし、捕まってしまってはどうにもならない。
 腕を振ったがしっかりと掴まれた大きな手は振り払うことが出来ない。
「こら、大人しくしろ!」
 声から救急車に乗っていたスーツの男だとわかった。少し聞こえた会話からこの男が医者だというのがわかっている。怪我人を心配してのことだろうが、捕まるわけにはいかない。
「くっ、放せ、放せよっ!!」
 普段なら振り払うことも出来たかもしれないが、全力で走った後だ、体がだるくて力が入らない。肩で息をする自分の力では適わないとすぐにわかった。引っ張られて数歩後ろに下がる。
 だが、力では適わなくても他にも方法はある。医者に手を出すのは躊躇うが、そんなことを言ってはいられないのだと、少年は自分の腕の下から男の手首を掴もうと右手を伸ばした。
 小さな頃から護身術をやっていたので、掴んでいる手を外す事は簡単だ。手首を掴み、自分の方に引き寄せて外し、脇をしめて左肘を落とす。ただこれだけのことだ。そうすれば彼は地面に跪くだろう。そして、少しの間腕は痺れて力が入らないだけで問題はない。そう、躊躇う必要はない
    しかし、それは実行できなかった。少年が男の腕を掴むよりも早く、いきなり前に現れた者によって伸ばしかけた手を掴まれたのだ。それも捻挫の上を。
「っく! あっ!」
 激痛に声があがる。
「お? 痛いのか?」
 前に立って自分の腕を握り上げ観察している青年を少年は睨みつけた。
「放せっ!!」
 そう言って右腕を振った。掴まれて走る激痛のせいで痛みは痺れてしまい、もうどうでもよくなったのだ。だが、実際動かすと神経を引きちぎられるかのような痛みだ。それでも少年は腕を振る。
「おい、神崎!」
「はいはい。
 ったく、こんなに腫れているのに振り回すなよ」
 自分が掴んでいたことは棚に上げ、そう言って青年は手を離し、少年の脇に腕を入れた。スーツ姿の男も同じようにする。
 そうしてそのまま引きずられるように二人に挟まれて少年は連れていかれる。
「放せよ!!」
 少年はもちろん抵抗し暴れるが、大の大人二人に掴まれてはどうすることも出来ない。
「急患で来て逃げる奴なんてはじめて見たよ。もしかして、巽(タツミ)、車の中で悪さした?」
「お前と一緒にするな」
「心外だな。最近は僕も大人しくなったもんだよ」
「どこがだ」
「やっぱり、人間は歳とともに丸くなっていくもんだね」
「…なに年寄りくさいことを」
「でも、そうだね。昔みたいに遊ぶのは結構体力いるんだけど……巽が言うのなら、老体に鞭打って頑張ろうか」
「今もしてるんだろ、それ以上頑張るな」
 二人は少年の抵抗も何のその、無駄話をしながら引きずっていく。
 が――
「お?」
 がくんと今まで抵抗していた少年の力がいきなり抜け、二人が同時に見下ろすと、再び少年は意識を手放していた。

2001/07/01
Novel  Title  Next