Wild Cat

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 津山病院は戦後に建てられた、殆どの科を持つ中規模の総合病院である。
 周りをぐるりと背の高い樹で囲まれた敷地は贅沢といえるほどの広さがあった。三年前に新築した建物は外壁が妙に明るい空色で、一見病院の建物には見えない。
 外見と同様に、二階が吹き抜けとなっているエントランスホールは、病院とは思えないほど広々とした空間になっており、ゆったりと診察を待つことが出来る。日当たりに重点を置いた病院内は明るく、病室も全て南向きになっており、ナースステーションから一望できる廊下にも窮屈間は感じられない。そして何より、外にも中にも緑が多く、都心の中心部に在りながらも、それを感じさせない程の落ち着いた雰囲気。と、従来の暗いという病院のイメージを打ち破ったものだった。
 当然患者達の評判は良い。それに加え、以前が戦後すぐに建てられた、コンクリート剥き出しの愛想も何もない建物で、病院内も低い天井に採光の悪い暗い空間は、いかにも古くからある病院といったものだっただけに、患者からの文句も多々あり、相手をする看護婦や医師達にとって、新築のお陰でそれらがなくなっただけでも嬉しいことだった。
 正面玄関を入るとすぐに外来用の駐車場があり、通常、本館とよばれている一番手前の建物の一階には、各科の受付や外来診察室が配置されているので、いつでも人が沢山居た。
 そして今、その廊下を歩いていく二人の青年に多くの視線が集中している。
 一人は絶世の美青年。サラサラの明るめの茶髪。整った眉に、大きな黒目はまるで闇夜の空のように真っ黒だ。形の良い小さめの唇は少年のように赤く、真っ白な歯をさらに際立たせている。襟の開いた黒のノースリーブシャツから出た腕は男としては細めだが、均整のとれた筋肉がついており、少し焼けた肌が男の色香をかもし出している。黒のパンツに、黒のブーツ。首と左手首には細い銀の鎖をつけている。シンプルな格好。だが、それが余計に彼自身の美しさを引き立たせているのだ。そして彼と並んで歩くもう一人の青年も、淡い水色のシャツに青のネクタイ、ダークグレーのスラックスと、どこにでもいる格好をしているが、端正な顔立ちをしており、何より見るものを惹きつける雰囲気を持っている。
 この病院の医師の中で最も人気のある二人が並んで歩けば目を留めない者はいないだろう。それに加え、一方は少年を抱きかかえて歩いているのだから、目立たない方がおかしいのだ。
 気を失った少年を葉山は抱きかかえて病院に戻った。彼らに気付いた看護婦にこのまま連れて行くと伝えて、自分が属する整形外科のある第2病棟に向かう。
 看護婦に連れて来てもらえばいいのだろうが、少年が気付けばまた逃げ出すかもしれないので葉山が連れて行くことになったのだ。いくら抱くことが出来たからといって、そのまま連れて行くことなんて無理だろう。せめて車椅子に乗せようと神埼は言ったが、それを葉山は断った。神埼はそんな彼を馬鹿力だなと笑いながらついてくる。
 確かに少年を抱くことは力が要ったが苦ではなかった。医者は体力が無ければやっていけないので、ある程度力はあると葉山自身思っていたが、大人と呼べる男を抱きかかえて歩くなんて事は出来ないとも自覚している。もし、隣を歩く友人を同じように抱き上げろといわれても、抱くのが精一杯で、数歩も歩かないうちに体力を使いきるだろう。自分の力はそんなものだ。今難なくそれが出来ているのは、自分の力ではない。少年の体重が少し重い子供と変わらないぐらいしかないのだ。だから、運ぶことに関しては問題ではない。
 葉山にとって今問題なのは……視線だ。周りの視線が気になる。こんな格好だ、興味で見られるだろうと葉山も予測していた。だが、ここは病院だ。医者が患者を抱えている、単にそれだけのことで珍しくとも何とも無い。一瞬見られるだけですぐに視線は外される。そう思っていたのだが。
(まさか、こうも注目されるとは……)
 擦れ違った見舞い客の囁きに心の中で葉山は溜息をつく。自分も、視線なんて全く気にしていない神崎も私服姿のままで、医者だとは見られていないようなのだ。あいつ達は何者だと興味を引いている。
「何? 機嫌悪いね。」
 神埼が葉山の顔を覗き込むように見る。
 注目されている半分以上の理由はこいつのせいだろうと葉山は思う。黒ずくめの格好に天使のような美貌の友人は、どこからどう見ても医者には見えない。仕事中は白衣を着て、細いフレームの小さな眼鏡をかけているので、それなりに見える。何より、無条件のように子供を愛し、腕もいいので、小児科医としての評判は高い。といっても、それは子供に対しての愛情からであって、医者としての仕事への誠意はあまりない。現に大学を出て入った病院では、子供がこないところではやっていられないと、半年もしないうちにあっさり辞めた。その後すぐに津山病院の小児科に入ることが出来たが、そうでなかったら、今頃は医者をしていないだろう。仕事から離れると、全く医者には見えず、その辺のアイドルやモデルよりもずっとそれらしい友人を見ながら葉山は小さな溜息をつく。
「お前、今日はもう上がりだろう」
 彼にしては珍しく不機嫌さを隠さずに言う。神埼が白衣を着ていないのは、仕事が終わっているからだ。いつもなら、帰り際に急患がこようと捕まる前にさっさと帰るのだが、今日はわざわざ搬入口まで覗きにきている。それは救急車からの連絡で自分が乗っているのを知ってからかいに来たのであろうということは、葉山には簡単に想像がつく。だが、その後今になっても何故くっついて来るのかがわからない。何か企んでいるのかと考えてみるが、思いつかない。
「折角付き合ってあげているのに、そんなことを言うのか?」
「お前が来てもしょうがないだろう」
「そんなことないよ。第一、巽はこんな悪餓鬼の相手をする自信あるの? 気が付いたらまた逃げ出すよ。
 ま、片桐先生がこの少年を抑えられるっていうのなら、僕が行く必要はないのかもしれないけどね」
 葉山は返答につまる。
 確かに葉山は子供が得意ではない。だが、今腕に抱く少年は自分の弟と似たような歳だ。このぐらいの子供は別に苦手ではない。苦手なのは、行動や思考の予想がつかないもっと小さな子供だ。いや、その点で言えば、急に逃げ出したこの少年も、予想のつかない行動をとるのだから苦手と言えるのかもしれない。それでも葉山自身、そんな子供を嫌いなわけではない。単に対応の仕方がわからないだけなのだ。子供の方も葉山には威圧感を感じるのか何なのか、あまり懐かない。長身とあまり笑顔を見せることがないのが原因なのだろうか。
 そんな葉山とは対照的に、神崎は小さな子供を無条件で愛す。葉山にとっては、突拍子な行動に理解出来ない思考も、神崎に言わせればそこがいいのだとのことだ。子供以上の天使の笑顔を振りまく友人は、子供に好かれる。いや、子供だけではなく、全ての者に。だが、彼は子供以外の者を嫌う。あからさまに態度に出すのではなく、馬鹿にしながらも利用するので性質が悪い。そう扱われていることも知らずに彼を求める者から、知っていながらも溺れていく者までいる。正直、葉山はそんな神崎を気に入らない。
 しかし、それにも理由があるし、何より、年齢の大人、子供で線を引くのではなく、まだこの世の中に染まっていない無垢な者か、自分を一番大事にする、単なる社会の一人となった者かで判断している。そう、これは単なる好き嫌いだ。口を挟むことではない、と葉山は友人に対しては何も言わないようにしている。だが、一つだけは思い出したように時々口にする。嫌いな大人に自分を入れて苛めるな、と。最近は本命の恋人ができ、落ち着いてきた神崎に言う数は少なくなったが、学生の頃などはよく言っていたものだ。実際あの頃の神崎は今以上に荒れた生活をしていたので、言わずにはいれなく、色々言ったものだ。そのお陰で、10年も関係が続いているのだが。
 葉山と神崎の好き嫌いは別にしても、もし、少年がまた暴れ出しても、今は殆どの者が外来の検診やリハビリに出ている時間で、手が空いているのは片桐医師しかいないであろう。その片桐は、医者というより患者だろうと思うような痩せ細った老人で、昔はリハビリにきた患者を泣かせていたらしいが、今は治療には手も口もださない、患者に愛想を振りまくのを唯一の仕事としている者である。神崎の言うとおり彼に少年を抑えられるようには思えないし、下手にそんなことをさせたら、片桐が怪我をしてしまうだろう。
 神崎は本気で自分を手伝うためにきているのだろうか?
(……何かあるのか?)
 友人の性格を人並み以上には知っている葉山は考え込む。
 少年への興味か、帰りそびれた腹いせに苛めるか? いや、自分が来る前に何かあったのか?
 悩む葉山はふと横から面白そうに自分を見ている視線を感じる。
(どうやら、俺をからかっているのか……)
 呆れ交じりの視線を向けると、神崎は無邪気な子供のようにニコッと笑った。本当に性質が悪いものだ。葉山が溜息をこぼす前に、自然な動作で少年に視線を向け、口を開く。葉山にとっては、自然すぎて余計に不自然な動きだが、それも計算してやっていると考える方が正しいので、口には出さない。
「それにしても、こいつ病院嫌いなのかな?
 好きって奴もいないだろうけど、逃げるやつも珍しいよな。嫌いで逃げ出す歳でもないだろうに」
 神崎の言葉に葉山は腕の中で気を失っている少年を見下ろす。
 相変わらず顔色は悪いが、少しましになってきていた。


 気分が悪い。
 その感覚で覚醒がはじまる。
 周りがざわめいているのがわかるが、まるで水の中で外の声を聞いているかのようにはっきりとは聞こえない。くぐもった音が不快感を増す。
 少年は目をあけようとしたが、瞼はくっついてしまったのか動かすことができない。脳の命令を体が拒否しているようだ。
 しばらくそのままでいると、一定のリズム音が聞こえてきた。
 トクン、トクン――
 心地よい音とともに、自分が揺れていることにも気付く。それらの動きがとても気持ちよく、再び眠りに落ちそうになる。少年はその安らぎに身を沈めかけた。しかし、一度起きてしまった思考はすぐには眠れないようだ。頭が勝手に今の状況を掴もうと動き出す。
 確か…さっきもこうして目が覚めた。
 あの時は救急車にいた。そして病院に着き、逃げだし――捕まった。
(なら、ここは病院だ)
 先程焦って逃げ出そうとしていたのが嘘のように、捕まったとわかっても少年の心は静まっている。諦めたわけじゃない。暴れても逃げ出すのは無理だとわかった。なら、普通に帰ればいいだけのことだ。
 ゆっくりと目をあける。
 首を動かすとすぐ近くに救急車に乗っていた医者の顔があった。
「精神科に連れて行くほうがいいかもね」
「どっちにしろ、まずは捻挫をみてやらないとな」
 男の隣に自分を捕まえた茶髪の青年が並んで歩いている。それを見て急に自分の格好に気付く。まるで子供のように横抱きに抱えられているのだ、驚かない方がおかしいだろう。
「なっ!」
 少年はすぐに体をよじった。


「おっ?」
 大人しかった腕の中のものが急に動き出し、葉山は足を止めた。
「あ、気付いた。大丈夫?」
 神崎が少年を覗き込む。それを無視して少年は葉山の胸を左手で押した。
「…降ろして」
「だめだよ、巽。どうせまた逃げ出すからね。
 巽がそれでもいいのなら止めないけど、僕はもう追いかけないからな」
「…というわけだ。降ろすことは出来ない」
「…逃げない。だから、降ろして。自分で歩く……」
「もうすぐだから、大人しくしていろ」
 葉山はそう言って少年を抱えなおす。
「恥ずかしいから…」
 少年は俯いてぽつりと呟いた。
 確かに、抱えている自分も視線が気になって仕方ないのだ。抱えられている者の方はもっと恥ずかしいものだろうと葉山は納得する。実際歩くたびに注目度は上がっていっているようだ。だが、
「あはは。巽、引っかかるなよ」
「ん?」
「降ろしたら逃げ出すんだろ? さっきの威勢はどこにいったのかな?
 まぁ、走れるほどの力が残っているようには見えないから降ろしても大丈夫だろうけど、歩かせるより、そうして巽が連れて行くほうが早いよ」
 確かにそれもそうだ。歩かせればまた倒れるかもしれない。
「悪いがそういうことだ。恥ずかしいのはわかるが、我慢してくれ」
 な? と葉山は腕の中の少年に笑いかける。少年は二人を不思議そうに見て、しばらく考えるように黙り、そして呟いた。
「……僕はここで治療を受ける気はないよ。だから降ろしてくれ」
「はぁ? 何それ」
 神崎が肩をすくめる。そんな姿も様になっている。見とれていた患者が小さな溜息を漏らしたが気づく者は誰もいない。
「主治医じゃなきゃ駄目、とか?」
「……違う。……お金が…ない」
 考え込むような様子は見せないのに、少年は妙な間を作って言葉を紡ぐ。心此処に在らずといった感じだ。
「治療費って……君じゃなく、払うのは親だろう?」
 少しおかしい様子に気付いたのか、神崎の問う声が少し変わる。
「…いれば……ホームレスなんて…しない」
「ホームレスなの?」
 少年がしぶしぶと言った感じでコクンと頷く。
「へぇ〜」
「だから……降ろしてよ」
 少年は葉山の手の中で身をよじり抜け出そうとする。が、しっかり抱きかかえられていて抵抗は無意味に等しい。無駄だとわかり少年は小さな溜息をついて葉山を見上げた。
「……金が無い奴診ても仕方ないだろ」
「そんなのは関係ないさ」
 少年の眼は確かに自分が映っているが、他の何かを見ているように虚ろだ。葉山の言った言葉も聞こえなかったかのように、すぐには反応を示さない。
「……何故?」
 訊いておきながら興味がないように目を閉じる。
 少年の奇妙な間が示すものは何なのか…。葉山は自分の腕に抱く彼を見つめる。隣では神崎も何か考えているようだ。
 元々の性格から喋るのが苦手だとも考えられる。だが、ふと思いついたのは、ドラッグだ。思考速度のテンポ原因は薬物過多によるものでは? それならこんなにも痩せているのが納得できるが――
「…医者は患者を治すのが仕事だ」
 葉山の答えに神崎が同調する。が、神崎の場合、仕事だから患者を診るだけであって、医者は単なる仕事以上には思っていない。今は事の成り行きを楽しんで言っただけである。葉山の場合も、医者に憧れる若い者のようなことを言ってしまい、自分でも嫌になってしまうような台詞である。要するに、葉山も神崎ほどではないが仕事と割り切って医者をやっているということだ。
「……なら、外国でボランティア活動してろよ!」
 何か気に触ったのか、少年が声を荒げる。目をあけて二人を睨む少年の漆黒の瞳は逃げて暴れた時と同じ光をもっていた。その瞳は薬物中毒者のように濁ってはいない。
 感情の起伏が激しいのは単なる性格なのか?
「生憎それほどのものじゃない」
「左に同じ」
 神崎がニヤリというのが一番合う、美青年には似合わないような笑いで口角を上げる。友人の正体を知っている葉山にしては、悪餓鬼の笑いに見えるのだが、大抵の者は、こういうのを天使の顔した悪魔の微笑みというのだと認識するのであろう、妖しい美しさ。
「……偽善者が…」
 少年の呟きに葉山と神崎は声をあげて笑った。


 少年は医局のソファに降ろされ、ほっと一息ついた。
 ローカとは反対側にある窓の側に大きめのソファとガラス製の低い机があり、そのソファに腰を降ろして少年は部屋を見渡した。中央に机が向かい合わせの形でいくつか置かれている。背の高い観葉植物が部屋のあちこちにある。見たことのあるものだが、名前はどれも知らない。
 部屋の奥にある扉に眼鏡の男が入っていく。ドアの隙間からは灰色のロッカーが見えた。
 茶髪の青年が薬などを持ってきて机の上に置き、少年の前のソファに腰を降ろす。
 にっこり笑いながら話し掛けてくる青年を少年は伺い見る。会話の中身からして、彼も医者なのだろう。だが、全く医者らしく見えない。歳は二十代前半に見えるから、研修医なのかもしれないとも思ったが、あまりにも堂々としているさまからそれも考えにくい。
 前髪がかなり長めの茶色の髪をかきあげる仕草も、長い足を組みかえる動きも、笑いかけてくる笑顔も、すべての動作が、自分がどうすれば綺麗に見えるかを知り尽くして振る舞っているかのように見える。だが、それが嫌味に見えないほど、青年は美しい。そう、彼がどう動こうとそれは計算されたものではない、単純に彼自身が素晴らしいということだ。
 少年がじっと見ていても嫌ではないらし。視線を気にすることも無く、笑顔を見せる。見られることには慣れているのだろう。
 男が白衣を着てでてきて、少年の隣に座る。
 手を洗ったのだろう、微かな消毒液の匂いが鼻につく。男は自分の横に腰掛け、茶髪の青年に別の薬を持ってきてくれるように頼んでいる。白衣についた名札には、整形外科・葉山と記されていた。彼の場合、青年のような美しさではないが、整った顔は美形と言えるだろう、男らしい。何より、人を惹きつける雰囲気を持っている。かけている眼鏡が、自分の容姿に関心がないのを表している。それが妙におかしく、少年は笑いそうになり、上がりかけた口を慌てて下げた。
「ほら、右手」
 観察されているなんて気付いていないのだろう、葉山は少年の方を向き、手を差し出す。
「………」
「ここまで来たんだから、観念しな」
 葉山に言われたものを机に置きながら青年は笑った。
「…わかった、医者として患者としての治療はしない」
「………」
「俺が単に怪我をした奴を見るだけだ。病院は関係ない。だから治療費なんて要らない。これならいいだろう?」
 葉山はそう言い笑った。こうして笑うとクールそうな顔が妙に子供っぽく見えるのだと少年は気付いた。30歳前後の男にそんなことを言ったら怒られるだろうが、本当に優しく笑う。
 動かない自分の手を掴んだ彼の手が思いのほか気持ちがよく、抵抗は出来なかった。痺れて感覚が無い筈なのに、葉山の手をとても温かく感じた。何故だかふいに涙がでてきそうになる。そう、これは昔の自分には無かった感情。これを無くさない為にも、これ以上の失敗は出来ない。そして、自分は上手くやれる。
 少年は診られている手をじっと見つめながら、大分落ち着いてきた自分を確認する。
(この二人は…大丈夫だ)
 少年は自分の怪我に集中している二人を見て思う。簡単に信じていいものではないが、何故だか悪いようにはされない気がする。それに、病院より何より問題なのは、もうじきくるであろう、警察だ。
「ひびも入っていないみたいだし、4、5日で腫れも引くだろう」
 何なら、レントゲンを撮ってみようか? と言う葉山に、少年は首を振った。治療をしてくれるのは嬉しいが、警察が来るとわかっているのにゆっくりはしていられない。出来ることなら、すぐにでも逃げたいがそれは無理だ。警察への対応をしたらさっさと出て行く。そうするのが一番いい。
「捻挫はすぐ冷やして安静にしておくのがいいのに、無理に使ったからね。かなり痛いだろ?」
「確かに、車の中で診たときより酷くなっているな。もう無茶はするなよ。
 神崎も、怪我を突付く真似は止めろよ」
「あはは、ついね、つい。だってさ、この歳で全力疾走はキツイからね。気遣う余裕が無かったんだよ」
「あぁ、それは同感。倒れた割に体力有り余まっていたのか、速かったからな。追いつかないかと思った」
 そう言って笑う二人に、少年は唖然とし、すぐに眉を寄せる。
 自分を捕まえた時のこの二人は息一つ乱れていなかった。体力は落ちていたとはいえ、人並み以上に自身を守る能力はもっている筈なのに、まるで子供のように扱われた。その上、葉山は気を失った自分を抱きかかえてきたのだ。
 この二人がおかしいのか、自分が過信しすぎていたのか。それとも、力が全く出ていなかっただけで、低レベルな騒ぎをしていただけなのか。どっちにしろ、技術は別にして、今の自分より彼らの方が体力がある、というのは事実だ。
(このままじゃ、ホントにやばいのかもいれない)
 最低限、本来の力が出せる程度には体力を回復しないといけない。いや、まず、今日のように倒れることがあってはならない。こんなことは二度とごめんだ。
「よし。なら、僕が手当てをしてあげましょう。
 巽は今勤務中、僕はもう上がっている。もし誰かに聞かれ時は、その方が通しやすいだろう?」
「そこまでこらなくてもいいが……ま、そうだな」
 え? と思っている間も何も無い。少年があっけにとられている間に二人は場所を換えた。隣に座り微笑む青年。怪しい微笑だ。少年は葉山を振り返る。いや、無意識の行動なのだろう、その表情は焦って困惑し、助けを求めるかのようだ。
 こんな表情も出来るんじゃないかと、威勢のよかった少年の少し不安が滲む表情を見て、葉山が喉で笑ったのを少年は気付かなかった。
「心配しなくても、こいつはちゃんとした医者だ」
「そう、優秀な小児科医、神崎晶(アキラ)。身長177センチの体重58キロ。29歳の美青年」
 にこっと笑った顔を葉山が冷たい目で見る。
「…なんだ、それ?」
「さっきから僕達のことが気になっているみたいだからね、教えてあげたんだよ。
 っで、こいつが葉山巽。185センチで…75キロぐらいかな? 28歳の整形外科医。
 どう? 何か参考になった?」
 小児科と聞いてふと少年は思いつく。神崎が自分みたいな餓鬼に怒らず笑いかけてくるのは、どうやら患者の子供と同じように扱っているからなのだ。本人にはその意識はなくても、癖になっているのかもしれない。いや、単にからかっているだけなのだとも考えられるが……。
「……29には、見えない」
「あはは、よく言われるよ。
 それで君の名前は?」
「………」
 湿布のセロハンを外す音がビリビリとやけに響く。
 少年が自分から言うのを待っているかのように二人とも口を開けない。
 沈黙が少年に圧し掛かる。名前を言わないといけないわけじゃない。でも――
「僕は――」
 少年が言いかけた時、医局のドアが開いた。
「葉山医師?」
「はい。どうしました?」
 葉山は立ち上がり、入ってきた者達に近づく。
 看護婦の後ろにはスーツを着た男が二人立っている。
「警察の方です。先ほど運ばれた被害者に事情を伺いたいと――」
 振り向きやり取りを聞いていた神崎が湿布を張ろうと少年に視線を戻すと、彼は俯き、両手を握り締めていた。その手はまるで何かに脅えるかのように膝の上で震えていた。


「怪我は大丈夫ですか?」
「えぇ、たいして酷くはありません。軽い打撲と、捻挫ですね」
 葉山は看護婦に戻るように合図しながら答えた。
「そうですか、それは良かった」
名前を名乗った二人の刑事は、治療中にすみません、と少年の方に向き直る。
年輩の刑事が手帳を広げペンを持ち、若い刑事が、当然のようにソファに座り喋り出す。葉山は隣に立つ刑事に椅子を勧めたが、礼付きで断られた。こうなると自分も座りにくいので、そのまま中年刑事の隣に立っていることにする。
「災難なめに遭われましたね。怪我が軽くてなによりです」
 低い声で社交辞令のように言葉を吐き出した刑事に視線も向けず、少年はじっと治療をしてもらっている手首を見ている。
「駅周辺を捜索したのですが、犯人らしいグループは見つけられませんでした。目撃者の話では、二十歳前ぐらいの青年4人ということでしたが、間違いありませんね」
 普通こういうことは先に被害者の口から証言させるものではないのか。葉山は思ったが口には出さない。質問している刑事は二十代前半。意志の強そうな太い眉の下の小さな目は自分の力を過信し、それを疑わない傲慢さが感じられる。見た目どおりの歳ならば、一流大学を出て試験にパスした若手のキャリアといったところだ。わかりきったことに時間は費やしたくない、まして自分は喧嘩などを取り調べているほど暇じゃない。現場になんかいたくないが、仕方なくやっているんだ。さっさと終わらせよう。そういう雰囲気を隠すことのない態度。
 だが、少年がしばらくの沈黙後に言った言葉は、この若い刑事の計算を狂わせた。
「……僕は何もしていません」
「え? えぇ、それは目撃者の話でわかっています。一方的にむこうが――」
「いえ」
 少年は言葉を最後まで聞かずに言う。
「僕は警察の方に質問をされるような事には、関わっていないといっているのです」
無表情な顔を上げ、真っ直ぐ刑事を見つめながら言う少年。一方、理解できないのか、微かに開けた口が何とも間抜けな表情を作っていることにも気付かない刑事。そして、少年の横では彼の細い腕をとり包帯を巻く美青年。……何ともいえない場面だなと、葉山は傍観者を決め込むことにする。
「何を言っているんですか。現に今――」
「確かに少し揉めていたように周りには見えたかもしれません。が、それがどうかしたんですか?」
「どうかって、怪我を負わされているんですよ」
「あなた達は全ての喧嘩の始末をつけるんですか? 違うでしょう?」
「…これは暴行事件ですよ」
「違います。僕は彼らに暴力は受けていない。よって、事件は発生していません。僕と一緒に目撃されたという彼らを見つけても無駄ですよ。僕は彼らに罰をあたえようとは思はない。何故なら、彼らはそれを受けるようなことはしていないからです。探しても仕方ないですが、見つけたのなら聞いてみて下さい。彼らはそんなことは知らないと言うでしょう。それが、事実です」
「……確認は取れていませんが、最近ホームレスを狙って暴行を加える若者グループがいます。君に危害を加えたのはその者達だという可能性があるとこちらは考えています」
 その言葉に葉山は最近ワイドショーのネタとなっている事件を思い出した。
 浮浪者を狙って暴行を加える者は今までにもいた。オヤジ狩りなるものも葉山には今のところ無縁だが、診察に来る者の中には被害にあったという者もいる。
 そして、最近注目を集めているのが、ホームレスの男に暴行を加えた後、その被害者の体に『Game Over』と残していく若者グループだ。葉山が知る限りでも、彼らはこの2ヶ月程で7人を病院に送っている。幸い命に関わるようなことまではしていない。だが、TVでモザイクをかけて話していた、オヤジ狩りをしたことがある青年が言うには、殺さない中でどこまで痛めつけられるかが重要らしい。青年は鼻で笑いながら言っていた。「だって、殺すのは簡単でしょう」と。
『Game Over』――。そう、加害者の若者達にとってこれは単なるゲームなのだ。飽きるまで続くのだろう。  態々そんなものを残していく幼さには笑ってしまう。いや、そうやって彼らも世間を笑っているのだろう。現に彼らは未だに捕まっていない。それどころか、マスコミでの報道が下火になると新たな犯行が行われる。確か一番近い犯行が行われたのは4,5日前だ。彼らは騒がれているのが楽しいのだろう。そして、広く取り上げられれば、事件を真似する奴らが出てくる。そう、この少年も彼らの真似をした者達に襲われたのではないだろうか。
 そうだとわかっていても、同じような事件が起きれば警察は動かなければならない。手がかりがないとは限らないのだと。この事件の類似事件は毎日の様に起こっているのだ。警察もご苦労なことだ。
 だが、他人事であればこう思うだけだが、実際そんな事件に関係してしまうと、例え自分が悪くなくとも、関わりたくない、放っておいて欲しいと思うものだろう。
(それに、彼はどう見ても家出少年だしな…)
 案の定、少年は冷たい声ではっきりと言う。
「そんなのは関係ありません。
 何度言えばあなたの頭に理解されるのでしょう。わかりやすく言ったつもりでしたが、まだ、難しかったようですね」
 少し表情を崩して、軽侮の目で刑事を見る。その表情を向けられた男の顔がみるみる赤くなる。
「なっ! 何を言う! あんな屁理屈が通じるとでも…」
「理解できないと怒る。まるで小さな子どものようですよ。
 そうですね、あなたに理解させるのは面倒です。これは事実なのですから、理解できなくても受け入れてください。それならできるでしょう、刑事さん」
「いいかげんにしろ! 最近の若いものは人を馬鹿にして……」
「それは、あなたのことですよね?」
ですか、ではなく、ですよね、と確認のように聞く。
あまりの怒りに声も出ないのか、若い刑事は顔を真っ赤にしている。
「ま、どうでもいいです。僕はあなたに興味はありませんから。あなたに望むのは、これは事件ではないと僕が言っているのですから、それを受け入れ、さっさとお引取り下さいということだけです」
赤い顔の刑事が何か言おうと口を開いたが、言葉は出ず、そのまま閉じる。その行為はまるで死にかけで水面に浮く金魚のようだ。眉間に皺を寄せ怒りに耐えているようだが、頬は引き攣っていてみっともないことこの上ない。
「――名前は?」
今まで黙ってメモを取っていた刑事が沈黙を破った。
こちらは、街の警察官といった雰囲気のおじさん刑事だ。実際、若い刑事が座って、彼が立っているのを考えると、刑事になったのは最近なのかもしれない。
少年はまるで聞かせるためのようにあからさまに溜息を吐く。
「職務質問ですか」
「名前は?」
もう一度同じ質問。
「……凛」
「名字は?」
「さあ、忘れました」
「おい」
若い刑事が眉を吊り上げ、低い声で威嚇する。
少年はしばらく考えるしぐさをして呟く。
「……高野です」
誰が聞いても怪しい返答だ。再び声を上げようとした若い刑事を制して、中年刑事がメモを取りながら次の質問に移る。
「住所は?」
「ここ最近はS駅辺りです」
「S? 家出人か?」
「家出をする家がないので、それは違います」
「保護者の名前と住所は?」
「いません」
「いない? 未成年だろう?」
「いえ、二十歳です。
いきなりこういう事態になったので、証明するものは何も持っていませんが」
「二十歳か。もう少し幼く見えるね」
「良く言われますよ。しかし、今時、外見と歳が一致しないのは珍しくないでしょう。それに、見た目どおりの歳でも、中身が幼い者が多いですから、歳なんて関係なくなってきていますよ。今の若者は歳マイナス10歳の精神年齢しか持っていない。良く言われる分、あれは当たっています。ね、刑事さん」
最後の呼びかけを少年は若い刑事に向かって言った。相変わらずの無表情。そして男も相変わらずで少年の嫌味に素直に顔を赤くして反応している。声を上げなかったのは刑事としてのプライドか、単に出せないほど怒っていたのか。
「確かに、幼いものが多いね。でも、君の場合は反対だね。その辺の幼い大人より、遥かに大人らしい、しっかりしている」
「それは、誉めているのですか?」
「あぁ、そのつもりだが」
「なら、一応お礼を申し上げましょうか。しかし、誉めても何も出てきませんよ。そういうのは、大人ぶっている子供にいえば効果有りでしょうが、僕はそうではないので嬉しくありません。いや、不愉快です」
「それは、失礼」
「……いえ、ついイライラしていて、考えもせずにこちらも言い過ぎましたね。失礼しました」
「いえ、警察はいいイメージがないので、皆口が重い。感情をむき出して喋ってもらえるのはありがたいことだ。
 だが、君の場合はそれとは違うね。そう見せるように演じている、そんな感じだ。
 君はどうして加害者達を庇うんだい? 知り合いなのか、それとも何か言われているのか?」
「庇っていませんよ。第一そんなことをしても、僕には全くメリットがない」
「なら、何故?」
「何度も言っています。それが事実だからです」
 再び訪れる沈黙。
 だが、いつまでも繰り返され、永遠に続くかのように思えた会話は、神崎の一言で終わった。
 余った包帯を巻きながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「刑事さん、聞いていると思いますが、彼は救急車から降りると同時に逃げたしたのです。それからも暴れますし、訳の分からないことも口走ります。そうかと思えば、今のように人をからかうように話し出しもする」
「それが、何か……」
「事件のショックからなのか、元々のものなのかわかりませんが、今の彼はちょっと精神のバランスがとれていないように思えます。
見てわかると思いますが、こんなにやせ衰えてもいます。情緒不安定なのは、まともに食べていないことも原因でしょう。今の彼はこうして話している内容は理解していないとも考えられる。自分で言っていることが、嘘か本当かも深く考えずに。
 はっきりいって、僕にはこの会話は無駄に思えます。
もちろんそちらも仕事だということはわかっています。が、正常な状態でない彼に、今そんな質問は止めていただきたい。医者として言わせていただきますと、早く彼を落ち着かせて休ませてあげたいのです」
 そう言って悲しみを隠したような美青年の微笑みを向けられて断れる者がどこにいるのだろう。
神崎の半分以上でたらめな台詞を信じたのか、そうですね、では。と、二人の刑事は出ていった。

 葉山は閉まった扉から少年に視線を戻す。
 変わった奴だ。暴れたかと思えば、黙り込み、話をしたかと思えば、まるで薬物依存者のようにすぐには答えず妙な間を作る。なのに、今刑事と話していたのは別人と思えるほど饒舌だった。
「警察に喧嘩を売るのは馬鹿だよ、凛君」
 残った包帯を巻きながら、神崎が言うのを聞き、葉山はふと思い出した。
「……高野凛は、偽名か?」
「は? 何それ?」
「いや、さっき別の名で呼びかけられていたんだ。確か……四郎、だったかな?」
「あはは、すごいね、君。普通とっさに出来るものじゃないよ」
 神崎が声をあげて笑う。彼が普通という言葉を使うのには多少違和感がある。なにせ神崎の辞書には常識というものがないのだから……。もし同じ状況に神崎が陥ったなら、少年以上に常識ハズレな事をするだろう。葉山はそう思ったが、それは本人を前にして口に出して良いことではないので、眉を少し寄せるだけにしておく。
「凛君じゃなく、本当は四郎君なんだ」
「……どっちも僕の名前だよ」
 少年が躊躇いながらそう言った時、医局のドアがノックされた。看護婦も医者も医局に入る時にノックをする者なんていない。また刑事が戻ってきたのかと思ったが、三人の視線が注がれるドアは開く気配がない。
 どうぞ、と神崎がよく通る声を掛けると、一呼吸の間をおいてゆっくりとドアが開き、50歳位の年齢の男が顔を覗かせた。
「……香坂さん」
 少年に呼ばれた男は彼の姿を見るとほっとした顔をして、中に入ってきた。
「四郎、大丈夫なのか?」
「うん、平気だよ」
「そうか、良かった。いきなりお前が運ばれたと聞いてな、ビックリしたよ。
 いや、本当に良かった」
 葉山と話した男とはまた別の者だったが、同じ暮らしの仲間だろう。お世辞にも綺麗な身なりとはいえない。神崎が席を空け寄ってきた男に席を勧めたが、首を振って断った。すぐに少年に視線を戻しその姿を眺める。
「心配掛けてごめん。でも、ちょっとした貧血だからね、救急車なんて大袈裟だったんだよ」
 少年は笑ったが男の目は彼の右手に止まっていた。
「あぁ、ちょっとした捻挫だよ。大丈夫」
「……喜多さんも心配していたよ。自分を庇ったからこんなことになってしまったんだってな」
「そんなことないよ。喜多さんが気にすることじゃない、そう言っておいて」
「あぁ、……四郎、お前が言ってやれ」
 男が少し考えるようにして言ったが、少年はゆっくり首を横に振った。
「……僕はもう――」
 二人の間に妙な沈黙が落ちる。
 葉山と神崎も口を開かないので、音といえば部屋の外から微かに聞こえる看護婦達の声だけだ。それもはっきりと聞き取れるほどのものではない。
「……さっきの、警察のやつらか?」
 長い沈黙の後香坂が確認の様に聞く。多分彼らと廊下ででも擦れ違ったのだろう。
 少年は返事をせず微かに微笑んだ。
 香坂は自分達を見ている葉山と神崎に視線を向けすぐに少年に戻す。
「――わかった。喜多さんには俺から言っとくよ。他の奴らにもな……」
「香坂さん――」
「お前が居ないと寂しくなるな。たった1ヶ月だったが、楽しかったよ。ありがとう。
 ――ほら、だからそんな顔するな。笑ってろ」
 香坂が少年の頬に手を当てる。
 どういうことだ? と葉山は眉を寄せた。
 話の流れから見て、少年は香坂達と一緒に生活をしてきたと言うことがわかるが、それがいきなり別れ話とは。それを香坂は当然の様に受け入れている。
「ありがとう。僕も、楽しかったよ。本当に――」
「あぁ。じゃぁな、四郎。元気で」
「香坂さんも」
 そうして香坂は葉山と神崎に頭を下げて出ていった。

 神崎に少年のことを頼み、葉山は医局を後にした。
 とぼとぼとまるで残された者のように歩いている香坂にはすぐに追いついた。
「四郎は大丈夫なんですよね?」
 廊下の椅子に座るなり、香坂は葉山に聞いた。
「えぇ、捻挫は少し酷いですがすぐに治るでしょう。倒れたのは栄養失調からでしょうね、今点滴をしています」
「そうですか、よかった」
「えぇ。それで、少し聞きたいのですが」
「…?」
「失礼ながら、さっきの会話が気になりまして……。
 彼、治療をしようとすれば抵抗したり、警察に対しても、暴行は受けていないといったりしているんです。何故ですかね?」
「さぁ…。四郎がそんなことを…」
 香坂は不思議そうにもせずに、抑揚のない声で言った。暗にお前に教える事ではないと言われているように感じたが、気にせず葉山は聞く。
「その名前は? 警察には凛と名乗っていましたが」
「…さぁ、凛ですか……」
「ここ最近一緒にいたようですが、彼はちゃんと食事を摂っていませんね? あそこまでやつれていて今まで倒れていなかったのが不思議です。いや、そういう事はあったんでしょうか?」
 香坂の眉間に皺がよる。怒っていると言うよりは辛いといった表情だ。
「以前から何かおかしな事はありませんでしたか?
 そう、例えば記憶がとんでいるとか、意味不明なことを口走る。話す時に妙な間をつくる。薬を常用している」
 葉山の言葉に香坂は首を振り、小さな溜息をついて言った。
「……センセイはあいつのことを聞いてどうするんですか?」
「警察に言うのではありませんので心配しなくて結構です」
「なら、なぜです?」
 この質問は先程から葉山自身も考えているものだった。そう、何故自分はこんなに彼が気になっているのだろうか。
「……はっきり言って自分でもわかりません。だが、なぜか気になる。
 二十歳の男があんなに痩せているということに医者として気になるのもありますが……」
 そこで葉山はふと思いつく。
「あぁ、そうですね、あの目が気になるんですね。失礼ながら、あんな格好で、まともな生活をしていないだろうに、生きることを楽しんでいる。そんな風に感じてしまう強い瞳ですね」
 痩せ細った顔はお世辞にも健康そうには見えない。こけた頬も、剥き出した目も、青年と呼べる歳の男には見えず、飢えた少年と言った感じだ。だが、その表情は死んではいない。むしろ、馬鹿なことをやって騒いでいる同年代の者達よりも、確実に生きていると感じられる。家のない生活をしていても、そこにいることを後悔していないようだ。
「……四郎は私がつけた名前です」
 短い沈黙の後、香坂が呟くように言った。
「あなたが?」
「えぇ。はじめて会った時、名前を聞いたら付けてくれというので俺がつけたんです。  あいつは今みたいな生活をいろんな場所でしてきているみたいです。そして、その場所ごとに名前を変えているようです。その凛っていうのもどこかで付けてもらった名前でしょう。私も四郎の本名を知りません。……私達みたいな者にとって、落ちる前の生活がどうだったかなんて関係ないんです。だから、名前も呼ぶのに便利なだけのものであって、本名かどうかなんて、どうでもいいことなんですよ」
「そうですか……」
 躊躇いを見せながらも話し出した香坂に、正直葉山は驚いた。何があるか知らないが、香坂は少年が話さないものは自分も話さないと、少年を探る葉山に対して良い印象を持っていなかったのは確かなのに……。自分に話しても大丈夫だと思ってくれたのだろうか。だが、何故? 訊きたいと思ったのは事実だが、それが出来るほどの理由を自分は持っていない、言葉に表せられないというのも事実だ。とっさに口に出たのは、他愛のないことだ。それなのに……。香坂が考えを変えた理由はなんなのか。葉山はわからずとまどってしまった。そんな彼を気にもせず香坂は話を続ける。
「さっきのでわかると思いますが、四郎はもう私たちの所には戻ってきません。
 はっきりと聞いたわけではないが、あいつは何かから隠れているみたいです」
「隠れる?」
「えぇ、見つからないようにあんな生活をしているみたいですね。と言っても、四郎はあまり自分のことは話さないので、憶測ですが。多分、聞いた方にも迷惑がかかると考えて話さないのでしょう。今も警察が絡んできたので自分達に迷惑がかかれば悪いと考え、また別の場所へ行く……」
 感情が溢れてきたのか、男の声が微かに震えた。それを抑えるように、深呼吸をする。
「……何があったかは知らないが、四郎はすごくいい奴で……、こんな逃げるような生活をしているのが不憫でならない。
 私にとって彼は息子ほどの歳だが、良い友達だった。自分はこうなので力がないのはわかっているが……、四郎に何もしてやれない自分を恨みますよ。……俺がもっとまともだったら、あいつを救えたかもしれないのに――」
 香坂のその呟きに葉山は何も言えなかった。

 葉山が医局に戻ると少年はソファの上に寝転がっていた。その横で神埼が床に跪き、少年の体に手を伸ばしている。背はあるが痩せているので小さく感じる体。先程掴んだ二の腕も、自分の手首と変わらないぐらいの細さだったことを思い出し葉山は眉を顰めた。
「……なんだ、寝たのか」
 大人しい少年を不思議に思い葉山が覗き込むと、少年は寝息を立てていた。
 左腕のシャツを捲り上げて点滴をしている。その腕は痛々しいほどに細い。とても二十歳の男の腕ではなかった。
「ったく、点滴も嫌がって苦労したよ」
「悪かったな」
「っで、何か収穫あった?」
 葉山は首を横に振る。
「どうだ?」
 少年を診る神崎に聞く。
「すごいね」
「そんなに悪いのか?」
「いや、そうじゃない。
 こんなにやつれていたら、普通は体がおかしくなるものだけど、殆ど問題はないし、貧血もバランスのいい食事で治る程度の軽いものだ。人間ドックにくる中年親父よりも、健康だよ。それに、ほら」
 神崎が葉山の手を取り、少年の体に触らす。
「こう細いと、骨と皮だけかと思ったんだけど……ね、ちゃんと筋肉が付いてる」
「確かに。…これなら、腕におぼえ有りで喧嘩もするか。だが、筋肉が付いている割にはかなり軽かったな」
「ま、筋肉も見た目よりあるってだけだし、なにより肉自体がないからね。この辺なんてがりがりだよ。あばらが浮いていて、正しく洗濯板って感じ」
 神崎は再び葉山の手を少年の胸に置く。
 骨がさ刺さると言うのはこんなことを言うのだろうか。Tシャツを捲れば綺麗に浮き上がった肋骨を数えることが出来るだろう。トクン、トクンと胸に置いた葉山の手に心音が響く。
 葉山は先程香坂に言った言葉を思い出す。考える間もなく口から出た言葉。嘘ではない。だが、気になると言うよりは、惹かれたといった方が正しいのかもしれない。あの強い瞳に。
 そう、逃げ出し暴れたときはまるで傷ついた動物のようであった。警察に対してはクールに接し、香坂に対してはどこか済まなさそうに、悪戯をして思わぬ結果になり後悔する子供のようだった。そして今、ソファで大人しく眠る少年の表情は起きている時からは想像もできない穏やかさ。
(猫みたいだな…)
 寝顔を見ながら葉山はそう思いつき喉の奥で笑った。
 色んな表情で人を惹きつける姿が小さな動物と重なった。
 猫は猫でも捨てられた野良猫といった感じか。手を差し伸べれば毛を逆立て警戒するが、本心はどこかで温もりを求める寂しがりやといった小さな猫だ。逆に自分に惹かれる人間を馬鹿にし、甘えたかと思えばすぐにしなやかな肢体を翻し去っていく気まぐれな、クールで気高い猫は少年の横に座る友人だろう。葉山はそんな自分の思いつきに口の端を上げる。
(この二人、何となく似ているな)
「ん? 何?」
 目ざとくそんな葉山を見て、神崎は器用に片眉を上げた。
「いや、なんでもない」
「そう? ま、いいけど。
 よし。それじゃ、僕は帰るよ」
 神崎は立ち上がり、葉山の肩をポンと軽く叩いた。
「あぁ、悪かったな。お疲れ様」
「ホント、お疲れだよ。
 ま、僕はこの後デートでストレス解消。巽はキツイ当直」
 しっかり働けよ、と言いながら去っていく神崎に葉山は溜息混じりに声を掛ける。
「……神崎、あんまり吉井さんを苛めるなよ」
 デートと聞き、葉山は神崎の恋人の吉井恭平を思い出しながら言った。
 吉井とは何度か会ったことがあるがとてもいい人である。彼ならなにも神崎に捕まらずとも他に似合いの人がいただろうにと、吉井と神崎の関係を知りつつも葉山はそう思ってしまう。神崎のことだ、ストレス発散のために恋人を苛めることなんてなんとも思わないだろう。普段は神崎のプライベートには口を出さないようにしているのだが、吉井を哀れに思い一言言ってみたのだ。が、すぐに返された答えに、葉山は眉を寄せることになる。
「あはは、今日は恭平じゃないよ、この前知り会った社長夫人」
 ますます吉井に同情したが口には出さず、葉山は黙って友人の後ろ姿を見送った。

2001/07/15
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