小さな足音

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「いつまで寝てんだよ、兄貴! さっさと起きろ!」
 そんな言葉と共に、小さな物体が葉山の腹の上に落ちてきた。うっと息を詰まらせ、やってきた衝撃に冷や汗を流す。まだ睡眠を欲するかのように閉じた瞼をどうにか開けた葉山の目に、黒い固まりが飛び込んで来た。
「くっ…、やめろっ、要!」
 腹に落とした仔犬を、今度は顔に置こうとする弟を、葉山は誡める。何て起こしかたをする奴なのか。
「爪で引っ掻いたら、どうするんだ」
「大丈夫だよ」
「保障のない自信を持つな。そもそも、犬を上から落とすんじゃない。可哀相だろう」
「いや、こいつは楽しそうだよ」
「ったく、お前は普通に起こせないのか」
 何を言っても、こうなっては無駄だ。
 ベッドの上で体を起こし、葉山は眼鏡をかけ、傍らに立つ弟に視線を向けた。注意をされた事など微塵も気にしていない要は、懲りずに仔犬を両手でぶらりと掴みあげると、葉山の膝の上にのせる。犬は遊んでもらっているつもりなのだろう、しきりに小さな尻尾を振っていた。だが、その円らな瞳に罪は全く無いとはわかっていても、撫でてやる気には到底なれない。
「おい」
「そう怒るなよ。素晴らしい一日の始まりを、可愛いこいつで目覚めさせてやろうと俺はしてやっただけじゃん。ほら、トリスも喜んでいる」
「…馬鹿馬鹿しい」
 何を言っているのかと呆れ果て、葉山は仔犬をベッドに降ろし、寝室を出た。耳に入った名前を、犬につけられたものだと思い出すのに少し時間が要ったのは、センスの違いからだろう。それの有無は判断など出来ないが、自分と父親ではかなり違うようだと改めて認識する。犬の名前に人名は確かにおかしくはないが、あの仔犬には似合わないというか、正直ピンとこない。だが、それは自分には関係のないことなので、葉山は口にはしないことにした。何より、文句を言いながらもあっさりと受け入れている弟に言っても仕方のないことだ。
 そんな事を考えながら、一つ大きな欠伸を吐く。リビングはカーテンを締め切っていた寝室と違い、朝の光で溢れかえっていた。眩しいくらいのそれは、今日も暑くなるのだろう夏の盛りを教えている。乱れた髪をかきあげながら、葉山は時計に目をやり疲れを覚えた。
「……まだ、8時前じゃないか」
「当たり前だ、7時45分なんだからさ。これを9時前と表現することになったら、大変だ」
 直ぐに犬を従え寝室から出てきた要が、淡々とした口調でそう答える。確信犯なのは明らかだ。わざと早い時刻に起こされた事を察し、葉山は眉を寄せ弟を振り返った。
「何のつもりだ」
 怒りはないが、面白いものでもない。
 大抵夜勤明けの日は、昼から夕方まで眠り、睡眠を調整するためにその夜は遅くまで起きておき、次の日は朝遅くに目覚めるというのが習慣になっていた。何らかの理由で起きてしまっても、10時過ぎまではベッドでゴロゴロとしている。それは、要も知っていることだ。
 昔は確かに無茶な生活をしていた事もあるが、最近は取れる時には睡眠をとるように葉山は気遣っている。例に漏れず、昨夜眠ったのは、もう空が白み始めた今朝の事。睡眠時間は4時間ほどだ。充分なものだとは言い難い。
 耐えがたい睡魔に襲われているわけではないが、計算したその時間に、葉山は体が疲れた気がした。実際、気分的には、目覚めてからの弟の行動に疲労を覚える。何より、予定よりも早く起こしたという事はそれなりの理由があるのであり、それを思うとかなり憂鬱であった。
 長い付き合いだ、弟をあしらう事には慣れている。だが、自我が芽生えた頃ならいざ知れず、会う度に自分の弟と言うよりは、葉山要という一人格を強烈にしていく青年なのだ。いつまで自分が主導権を握っていられるのか、微妙なところ。
 いや、もうすでに自分はこの弟に負けているのかもしれないと葉山は眉を寄せながらふと思った。その判断が当たっているのか間違いなのかはわからないが、この手の中からは既に離れてしまっているのであろう。
 それでも、自分は弟だからと許す部分が常にあり、それはこの先も消えはしないのだろうと葉山は確信する。確かに家族であり、兄弟であるが、世間一般的なそういったもの以上の繋がりを持っていると意識しているのは、多分弟よりも自分の方なのだ。親のように自分を躾けた兄に対しての弟の執着よりも、その存在に救われ続けた自分の方が重症なのだと葉山は思う。弟は、自分と家族を繋げる存在であり、また自分と言う人間を許してくれた存在である。複雑な家庭に育ったわけではないが、思春期時代に世間からはみ出さずにこれたのは、この弟がいたからこそだろう。本人にはそんな事は口が避けても言えず、常に上に立ち続けてきたが、間違いなく互いの存在から得たものは自分の方が大きい。
 弟にとって、自分に代わる存在はいくらでもいただろう。母親でも父親でも、また、あの家に仕える者でも誰でも良かったはずだ。しかし、自分は弟でしか駄目だった。半分だが血の繋がった弟だからこそ、その存在を受け入れられたのだ。
 歳を重ねる度に知る事実。いつか、弟もそれに気付くのだろうかと思うと、その度に葉山は複雑な心境にかられた。彼の性格だ、利用されていたとは思わないだろう。だが、尊敬し続けた兄が、実は軟な人間だったとわかった時、一体何を思うのだろうか。大きくなってもまだまだ子供のような弟は、けれどもここ数年の著しい成長をみれば、兄である自分の弱さに気付く時がすぐそこにまできているように葉山には思えた。
 一体、いつまでこうして自分を慕ってくれるだろうか。
 苦笑しながら近付いてくる弟に目を細めながら、葉山はぼんやりとそんな事を思った。普段は意識して考えずにいるのだろうか。ふと途切れた集中力の合い間に思った事は、酷く現実離れしたような曖昧さで、けれども確実に自分に圧し掛かってくるようにも感じられた。落ちる光に、一瞬全てを消し去られそうな不安を覚える。
 …疲れているのだろうか。
「どうした、兄貴?」
「…眠い」
 漠然とした孤独を覚え、それを誤魔化すように葉山は適当な言葉を付いた。何だというのだろうかと大きな溜息を落とすと、弟は自分に対してのものだと思ったのだろう、「そう怒るなよ」とからからと笑った。そして。
「出掛ける準備、してくれよ」
「出掛ける? 何処へ」
「決めてないけど、折角の休みなんだし、行こうぜ。いいだろう?」
 弟の言葉に全てを察し、葉山は再び大きな溜息をついた。妙に浮かれているのは、自分のアイディアに酔いしれての事だろう。ドライブだと思いつき、それは楽しそうだと勝手に結論をつけ、それでは兄を叩き起こすかと実行に移したらしい。
「一人で行って来い」
 葉山はそう言い、髪をかきあげた手を降ろさずに振った。しかし、こんな事でめげるわけも納得するわけもない要は、どこかからかうように肩を竦める。
「馬鹿だな、兄貴。一人で行って何が楽しいんだよ」
 それはそうだろう。だが。
「俺は疲れているんだ、考えろよ」
「大丈夫だって。兄貴は寝ていれば良いじゃん。問題ないさ」
 思いついたら突っ走る、単純だと言えば本人は頬を膨らませるその性格は、周りの迷惑は気になどしない無敵なものだ。葉山とて、こうなってしまってはなかなか敵わない。本人は至って真面目なのだから、お手上げだというもの。
 何度その我が儘に振り回されただろうかと、キッチンへと入っていく弟の姿に、葉山は脱力した。疲れるなと思いつつも、付き合わなければならないと諦めている自分がなんだか哀れである。だが。
「聖夜は…」
「あいつも連れて行くよ」
 同居人を嫌う弟があっさりとそう言った、返答そのものよりもその態度に、葉山はなるほどなと軽く口元を引き上げた。
「だってさ。あいつが行かないと、兄貴も行かないだろう」
 どこか不貞腐れた声がキッチンから届く。だが、葉山には要は照れているのだと顔を見ずとも察する事が出来た。昨日の今日だ。そう簡単に態度を軟化させられないと言う弟のプライドは、けれどもあまり自分には通じず、多分一枚上手の同居人も誤魔化せられないであろう。気付かないのは、本人だけだ。
「脅したわけじゃないだろうな」
 散々この同居を反対し、青年を突っぱねてきた要だが、自分で考えて納得した事ならばその考えを覆す事はないだろう。ただ、素直に認められないだけで、実は既に青年を認めているのだと気付きながらも葉山はそう弟に問い掛けた。
「そんなわけないだろう。あいつが脅されるタマかよ」
 予想通りの弟の反応に、葉山は気付かれない程度に喉を鳴らす。本当に、素直ではない。だが、これはこれで、ある意味とても素直なものだ。わかりやすい。
「なあ、良いだろう? 行くよな、兄貴」
「ああ、付き合うよ」
 何だかんだと言っても、同居人の事でこの弟に心配をかけたのは事実である。取れるご機嫌はとっておくべきだろう。
 一晩かけて、弟は自らの気持ちに折り合いをつけたのだ。それは、兄である自分のためであるのだろう。青年を認めたくないと言う気持ちを押し殺し、妥協を選択した弟のその気持ち考えれば、休日を潰すのも仕方がない。
 自分はともかく、それに体力のない彼をつき合わせるのは申し訳ないが、放っておくわけにもいかないだろう。何より、外に連れ出すのも、たとえ相手が要であっても自分以外の人間と接しさせるのも、いい刺激となるだろう。この家で退屈をしているとも思えないが、こう言うのもたまには必要だ。自分が彼の身体に気を使えば、問題は発生しないはず。
 そう納得し、葉山はふと、その件の同居人の青年の姿が見えないことに気付いた。普段なら、とっくに起きている時間であるのだが。
「それで、聖夜はどうした?」
「だから、取って喰いはしねーよ」
「そんな事は思っていない。訊いただけだろう」
(ったく、こいつは…)
 呆れるくらいに単純だというか、純粋だというか。真っ直ぐに育った弟に、葉山は再び苦笑を落とした。一体、誰に似たのだろう。育てた自分でも、父親でもなく、あの母親の血が濃いのだろうと言う事は簡単に想像が出来た。
「…何がおかしいんだよ」
 ふと、振り返った要が、葉山を睨む。
「いや、何も」
「さっさと着替えて来いよ」
「ああ、そうだな」
 わかったよと、頬を膨らませる弟に肩を竦め、葉山はリビングを出て洗面所に向かった。数歩も行かないうちに、廊下に同居人が現れる。
「あ。おはようございます」
「何だ? ああ、出かける準備か?」
 青年の手の上のタオルに軽く首を傾げると、彼はそうだと頷いた。
「手伝わされているのか。悪いな」
「いえ、全く」
「我が儘で気まぐれな奴なんだ、済まないな」
 葉山はリビングにちらりと目をやり、幾分か声を顰めて青年の耳に囁くと、青年はその言葉に軽く目を見開き軽く首を振る。そんな事は、と呟く同居人に、付き合わせるかわりにあれのあしらい方を伝授しようと葉山は続けて言葉を紡いだ。
「ご機嫌を取れば、案外律儀な奴なんで、それを返すから。ま、適当に相手をしてやってくれ」
「そんな風に言っていいんですか」
 彼、怒りますよと笑う青年に、「聞こえないところだから、問題はないさ」と葉山は応える。
「それよりも、体は大丈夫か? 今日も暑いぞ」
「大丈夫ですよ。…それとも、それを望んでいるんですか?」
 自分が出掛けられないほどだという診断を下したいのかと問う青年に、葉山は肩を竦めて応えた。どこか真剣な青年の目に、思い違いがあることに気付く。
「馬鹿。お前を置いて行きたいんじゃない、その逆だ。有効ならば、それで大人しく家で過ごす時間を手に入れたかっただけだ」
 葉山の言葉に、青年は静かに笑う。その肩を軽く叩き、よろしくと弟の事を頼みながら、葉山は洗面所の扉を開けた。青年の身体の感触に、ここに来た時よりは肉がついてきただろうかと考えながら歯ブラシを咥える。
 洗面台に置いている時計が、8時のアラームを響かせた。



「俺が運転するんだから、俺の車だろう、やっぱり」
 そう言った、まだあどけなさの残る青年の言葉を、彼の兄は素早く却下した。
「お前の車なら、俺は行かないぞ」
 それは絶大な効果をもって青年に届いた事だろう。聖夜はちらりとその二人に視線を向けた。それを真似るように、足元の仔犬が首を振るのを視界の隅に収める。本当に、よく人に懐く犬だ。
「何でだよ、ったく」
 不服そうに青年が頬を膨らます。それに対し、あんな派手なものに乗れるかとぼやきながらその兄が椅子から立ち上がり、「どうせ帰りは疲れて俺に運転を頼むんだろう、俺の車にしろよ」と棚に置いていた車の鍵を弟に向かって投げた。放物線を描き飛んだそれを受け取った青年は、先の言葉を否定する事はなく、軽く肩を竦めて笑う。
「ぶつけても知らないぞ。俺、運転上手くないからさ」
「お前の車を擦るよりも、俺の車をへこまされる方が損害は少ないだろう」
「何だよ、そんなに俺の車に乗りたくないわけ? 別にキズのひとつやふたつ、俺は気にしないけど」
「俺は気にする、後が怖いからな。非常事態以外は、遠慮する事にしている。何より、お前の車は窮屈だ」
 一体どんな車に乗っているのかと興味をそそられはするが、口を挟む事はしない。出掛ける時に知る事が出来るだろう。
「でもさ。兄貴の車、禁煙だろう」
「運転中くらい、我慢しろ。そもそも、お前は吸いすぎなんだ。味もわからないのに手持ち無沙汰に吸うだなんて馬鹿げている」
「ああ、そういや、あいつが来てからあまり吸っていないな」
「その調子で止めろよ」
「はいはい、わかりました、努力します」
「そうしろ。それで、車はどうするんだ」
 お前の車で行くのなら、どうせ片付けをしないと乗れないんだろう。葉山がコーヒーを飲んだマグカップを洗いながら、青年に訊いた。
「仕方ない。借りてやるよ」
「ぶつけるなよ」
「…さっきと言っている事が違うじゃん」
 肩を竦めながらも、それでひとまず区切りをつけたのだろう青年は、次に何処へ行こうかと色々と提案を出しはじめる。その声を訊きながら、聖夜は体を戻し、脚の上に仔犬を引き上げた。ぬいぐるみのような犬は、早速遊んでくれと言うように、服の袖を噛み始める。可愛いものだ。
 聖夜は仔犬のその仕草に目を細め、聞こえてくる会話は耳に流しながら、その声の主の事を考える。
 昨日やってきた葉山の弟、葉山要は、当然と言えば当然に自分を疑い、敵意を見せてきた。だが、昨夜その自分が居ない所で一体兄弟でどんな話をしたというのだろうか。今朝顔をあわせた時、自分に対する青年の態度が軟化していることに気付き、聖夜は少し驚いた。
 確かに昨日様子を窺った限りでも、青年が言うほども自分を憎んでいるわけではなく、ただ戸惑っての事だというのはわかっていた。しかし、彼にとって兄である葉山が選んだ同居人としての自分の価値はとても低く判断されたようで、戸惑いばかりではない嫉妬も確かにそこにはあった。何だって自分のような者がここに居るのか。聖夜自身思うそれを、青年は何度も意志の強い瞳で問い掛けてきていた。
 出て行けと言うその言葉は、真実であった。だが、その意味ほどの強さを青年は持ってもいないように聖夜には思えたので、正直堪えるものではなかった。
 根が優しい性格であるのか、甘やかされて育ったからなのだろうか。自分が否定される経験をあまりしなかったのだろう彼は、他人を否定するのが上手くはなかった。下手だった。面白くないといった目を向けるその中にも、どこか躊躇いが見え隠れしていた。
 それは自分に対してのものではなく、多くは兄である葉山の判断を貶すことに対しての罪悪感なのであると聖夜にはわかっていた。だが、それでも少しだろうが自分に対しての躊躇いも確かに青年は持っており、そこに好感を持ったのはもう仕方がないと言えるだろう。ついからかってしまったのも、彼だからこその事。
 少し突付けば直ぐに狼狽する。それは会ったばかりの自分以上に、兄である男はよく知っているのだろう。その葉山との会話では、一枚も二枚も上手の相手に青年はいいように宥められていた。葉山本人は至って真面目に弟に接しているような態度であったが、余裕を持ってのものだったのだろう。
 そうして、青年はあの兄に、異常な同居人のことでまでまるめ込まれたらしい。
 自分が起きた時、すでに起きていた青年がぶっきらぼうに挨拶してきたのは、絶対に葉山が何かを言ったからだろう。そうでなければ、青年の性格上昨日の今日でこの態度はありえないことだ。おはよう、と送られたその言葉はただのそれでしかなく、けれども様々な思いを混ぜあった色をしていた。何を言ったのかは予想もつかないが、この青年に対して葉山はそれだけの兄としての威厳を持っているのだと聖夜は考える。兄弟とは、そういうものなのだろうか。
 いや、多分。威厳などと言うそんな固い言葉を使うものではないのだろう。ただ、弟の事を思う兄と、兄の事を思う弟の、自然な関係によってのものなのかもしれない。面白くはないが兄が言うのであればと弟は認め、兄はそんな弟を労う。そんな、当人達には何て事はない、当たり前のものなのだろう。
 昨日のように声を荒げる事はなく、それでもあからさまに打ち解けるわけでも歩み寄ってきたわけでもない青年の姿を、聖夜は少し眩しく思った。素直だと、昨夜は羨ましく思いつつもどこか軽く見ていたそれを、今は重く感じる。あまりにも純粋すぎるそれは、接するには少し荷が重いものだ。傷つけはしないかと、こちらが臆病になりそうであり、また傷つけようとする時が来そうで、少し怖く思った。
 そんな思いを抱く事など全く気付かない青年は、見つめられていた事に眉を寄せ、「…何だよ」と唇を尖らせる。何でもないと首を振ると、おかしな奴だなと小さく舌打ちをする。それでも、昨夜のように侮辱するような言葉は吐かず、「さっさと飯でも食えよ」とまるで気遣うように言うのだ。聖夜としてはもう、明らかなその変化に笑うしかない。
 それを、嬉しいと思ったのか、まずったと思ったのか、覚えていない。零れるのこの笑みの意味は何だろうと考える前に、青年は出掛ける提案を発表し、聖夜を驚かせたのだ。その後は、簡単な準備を言われるままに手伝い、気付けば葉山が起きていて、「我が儘で気まぐれな奴なんだ、すまないな」と本人に聞こえないよう落とした声で謝ってきていた。
 我が儘と言うよりも、青年はただただ正直なだけのように聖夜は思う。いや、葉山もそれを充分に知っているのだろう。そこに悪意は殆ど無く、多分自分が無理難題を口にしているのだと気付けば、それを我慢するくらいの忍耐は持っているはずだ。子供の頃はどうだったかはわからないが、少なくとも今の彼はそう見える。
 決して私利私欲のためには動かない、それが出来る人間であり、また周りにそれを信じさせられる人間とは、多分この青年のような者をいうのだろう。実際にはどうだというのは関係なく、ただそう思える相手だというのが大事なことである。数年後、社会に出たこの青年はきっと、日本を背負う男の一人となるだろう。
 人を見る目が自分にあるかどうかなどわからないが、不思議なくらいに葉山要という若者の事をそう思えた。何の根拠もないただの好意の感想程度のものでしかないのだろうが、聖夜は、悪くはないと心で呟く。
 この国の未来も、そう悪くはない。
 願うならば、自分も青年と同じように、同世代の若者達と一緒に歩んでみたかった。
 心に浮かぶそれは、聖夜に懐かしさと切なさを覚えさせる。一体、どこで道を外したのだろうか。いや、何故自分は取り返しが付かなくなる前に、間違った道を歩んでいる事に気付かなかったのだろう。逃げるのが、自らの意思を持つのが遅すぎた。それは、父親のせいではなく、きっと自身の甘さだったのだろう。弱かったわけではない。驕りが招いた当然の結果なのだ。
(そう思わなければ、これまでの人生を否定しなければならない…)
 そのつもりは、ない。
 何度も懺悔し、父を詰り、自分の運命というものを嘆いた。だが、結局は、過去は消えるわけでも変えられるわけでもなく、実際に自分が歩いてきたものなのだと、そう受け入れるしかないのだと気付く。だから。たとえ自ら最低だとわかっている人生でも、自分の過去を否定する事は聖夜には出来なかった。確かにしたいと、全てを捨てたいと思った事はあったが、今はしてしまったら最後、生きていられないような気がする。
 今を支えるには、前を見るためには、苦しみも悲しみも過去に経験した何もかもが必要なのだ。苦汁を飲んできたからこそ、狂わずに未来を求められるという人間もいるのだ。この世の中には。
 だからこそ。自分を図々しい奴だと、この世の中に生きる資格はないのだとは思わない。真っ直ぐ生きている純粋な青年には到底なれはしないが、青年には青年の道があるように、汚れた自分でも人生という道は存在するのだと考えたい。前向きではなくそれはただの居直りだと、自分が傷つけた者達なら捕らえるだろう。やはり自分勝手な最低な奴だと唾を吐きかけるであろう。それでも。
 与えられた道が汚れたものであっても、それに似合った歩き方をしなければならないわけではない。ゆっくり歩くか速く歩くかは、当人が決められる事だ。立ち止まるのも戻るのも、本人次第なのだ。そこに、希望はあるはず。
 促されるままに振り返ることなく歩く事を強制され、その通りに歩いてきた。だが、これからは自分で歩こうと、それをするためにあの父の声を振り切ったのだ。自分はその父親と同じ道を与えられているのかもしれないと、聖夜は思う。だが、たとえそうだとしても、彼と同じ歩き方はしない。同じ人生は歩みたくはない。あの頃はなかった意思が、今は確かにある。そこに自ら望みをかけるのは、悪い事なのだろうか。
 純粋な青年や、そつなく歩く葉山と同じような歩き方は出来ない。真似すらこの自分には無理だろう。だが、それでも。
 こうして彼らと同じ空間にいると、少しは近づけるような気がした。

「そう言えば、兄貴、夏休みは?」
「まだ、決まっていない。多分、来月の中頃だろう」
「相変わらず忙しそうだね、ご苦労さま」
 労うと言うよりも、茶化すような口調で青年は言った。それを気にするでもなく、「お前のような馬鹿学生よりは確かに忙しいが、そうでもないさ」と葉山は淡々と答える。
「馬鹿はよけいだ、馬鹿は。俺だって、それなりに頑張っているさ。兄貴ほども賢くないけど」
「そうか、ならいいが。遊んでばかりで家に寄り付かないと母さんが泣いていたぞ」
「はいはい、そうですか。ったく、嘘ばかり言いやがって」
「中国語落としそうだと、親父が留年するんじゃないかと怒っていたぞ」
「げっ! 何でオヤジが知ってんだよっ!」
「冗談だ。…落とすなよ」
「うっ…! ……微妙」
「要」
「…後期は心を入れ替えて頑張ります」
「今から頑張れよ」
 その兄の言葉に、弟は何も言わずにただ肩を竦めた。
(…頑張れよ、か)
 二人の他愛ない会話を訊きながら、聖夜は軽く笑う。
 葉山兄弟の会話が、世間一般的な兄弟の物言いなのかどうなのかわからないが、遠慮のないそれはけれども思いやりはあり、耳の心地よいものだ。内容もそうだが、声に似た響きがあり、家族の会話だと思い知らされる。だが、疎外感は、感じない。
 それが当然の事なのだろうと、妬む事もなく受け入れられる。
 聖夜は脚の上の仔犬の頭を撫でながら、軽く目を細めた。自分は兄弟がいないので、彼らの関係を羨ましく思いこそすれ、それ以上にどうだとは思わない。自然な形で存在するそれは、それ以上でも以下でもないと言うことだ。そして、自分もまた、そうなのだと思う。
 それよりも。兄弟ではないがそれに似た関係であった従姉と自分の会話は、今の彼らのようなものであったのだろうかと聖夜は考えてみた。気負う事も何もなく、ただありのままの自分を素直に見せる事が出来たのは確かだが、そこにあった思いが一体どのようなものなのか、正直、今思うとわからないとしか言えないものだ。あの頃は確かに、姉のように慕い、友達のように接していた。それこそ、血の繋がりよりも濃い関係が、思いがあると思っていた。そう強く意識はしなかったが、自分の支えになっていたのは確かだ。
 しかし、それを深く考えることなく切り捨て、裏切った自分は、もう二度とあの関係には戻れないのだろう。それを思うと寂しさに似た思いも確かに胸に存在するが、けれども後悔はなく、いつかは終わるのだと出会った時から確信していたようにも思う。
 欲がないわけではない。諦めが言い訳でもない。だが、自分には人間として当然の意欲というか、自ら何かを選ぶというような意思があまりなかった。他人から言われる言葉をそのまま受け取り、そこに自らの感情を組み入れることはしてこなかった。
 それは、弱さではなく、ただの卑怯だと聖夜は知っている。それ故に、それまでの人生は、自らの感情とのギャップを抜きにすればとても楽な道であり、だからこそ、思いのままに動き出した今は苦しんでいるのだ。
 今現在の自分はたとえ罪を犯しておらずとも、真っ直ぐな性格で強い精神をもった従姉とは、まともな会話ひとつ交わせないように思える。
(…そう思うという事は、あの頃の僕はやはりあの頃の僕でしかなかったのだろう)
 従姉と二人でいる時は落ち着けた。楽しかった。だが、それでも。自分は全てを晒け出すわけではなく、その立場を計算し、卑しくもただ自らが安らげるために彼女を利用していたのかもしれない。
 考えれば考えるほど、論点とずれていくような思考と、結局は纏まらずに答えなど見つけ出せない自らの無能さに幕を下ろし、聖夜は眠いのだろうか丸まった仔犬の体を撫でた。今、考えても仕方がないことだと、頭から従姉の笑顔を追いやる。
 だが、上手くいかない。
 今は、自分自身の事で精一杯なのだ。
 いつかは。いつかは従姉に会いたいと思う。いや、会わなければならない。
 その時は、自分が少しでも成長している事を聖夜は願った。自分を傷つけないためにではなく、許すためにではなく。ただ、彼女の苦痛を少しでも取り除く事が出来るほどに、自分の足で真っ直ぐと立っていたい。心に余裕を持っていたい。それが出来るだけの力を身に付けていたい。
 今は、会っても彼女を傷つけるだけで、自分には何も出来ないことを辛く思う。時が経てばたつだけ、溝は深まるのであろう。それはわかっているが、今の自分にはまだ、父親に向かう事は出来ない。逃げるだけで精一杯だ。
 待っていて欲しい、などとは決して自分が口に出来る言葉ではないのは熟知している。だが、今はそうとしか言えない。この間にも、彼女は自分と同じように苦しい選択を迫られているのかもしれない。裏切った自分を恨んでいるのかもしれない。
 この空の下で、一人泣いているのかもしれない。
 普段は勝気な女性だが、実は気弱な性格である従姉を思い、申し訳ないと聖夜は小さな溜息を落とした、その時。
「聖夜…? おい、どうした?」
 思いのほか近くであがった呼びかけに、窓の外を見ていた聖夜はハッと振り返った。視線の先では、葉山が苦笑して自分を見下ろしている。
「ボケッとしてるなよ。出掛けるぞ」
 どうかしたのかと再び問い掛けてくる葉山の後ろから、青年の声が届いた。首をめぐらせると荷物を持ってリビングを出て行く彼の背中が見え、その後に続く仔犬を捉える。そこで漸く、自分の手の中からいつの間にかその小さな温もりが消えていた事に聖夜は気付いた。
「何でもないです。少し、ぼんやりとしていただけです」
「そうか」
 俺と同じ、寝不足か?
 ならば、車で寝ていればいいさと言いながら、葉山は戸締りをはじめる。開け放たれた廊下へと続く扉から、早くしろよと青年の声が飛んできた。


 特に用意するものはなく、少量の荷物とともに三人でエレベーターに乗り込み下まで降りる。途中で止まる事もなく一階に着き、エントランスを抜け外に出ると、夏の熱気に飲み込まれた。冷夏になるかもしれないといっていた先月の予報は当たらず、今年は特に暑い日が続いている。
 管理人室の窓から、いつもの優しい笑みを浮かべた初老の男が会釈を寄越した。それに葉山は同じように頭を下げ、青年は片手を上げて応える。
「一応、ケージも積んで行くか」
 駐車場で青年はそう言い、葉山の車に持っていた荷物を放り込むと、来客用のスペースへと走っていった。向かった先にあるのは、プジョー206CC。真夏の陽の光の下に出れば、目が覚めるような色で輝くのだろう、澄み切った海にも負けないほどのブルーだ。
 確かに、葉山にはあまり似合わない車だ、と聖夜は小さく笑った。
 その自分の車から犬用の道具を手にして戻ってきた青年が、その笑いに気付き眉を寄せたが、それでも止める事が出来ない。
「…変な奴だな」
 胡散げに言う青年の言葉に、聖夜は自らもそうだなと、心の中で同意した。
 学生の身分でその車に乗れるわけを考えるのは、止めて。

2003/09/03
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