小さな足音
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寝室からリビングに出ると、そこは真っ赤に染まっていた。
まだ熱いくらいの強い西日が、四角に切り取られた窓から差し込んでいる。葉山はその光に軽く目を細めながら、大きな欠伸を一つした。手にしていた眼鏡をかけ、部屋を見渡す。
帰宅してからの喧騒の原因の姿はなく、同居人の姿もない。静かなリビングで暫し佇み、今度は溜息を吐く。何となく、空しさが胸を襲う。
それは、誰もいない部屋だからというわけではなく、こんな時間に目覚めるのは人間としてどうだろうかという、ふと思いついた小さな疲れからでしかない。だが、それでも、確実に精神を蝕んでいるようにも思う。
いつの間にかクーラーは切られており、その変わりに開けられている窓からは、微かに街の音が入り込んでくる。高台となった場所に建てられたこのマンションから見える都心の喧騒に比べれば可愛いものだが、それでも今日という日を終える準備をしているその音は、やはりどこか寂しく、虚しく聞こえる。部屋を赤く染める夕日は、同じような色でも、朝陽とは全く違う刺激を人間に与えるものだ。
この生活サイクルに不満はない。これから先はきつくなる一方だろうが、仕事はそれなりにやりがいがあり、問題もない。
だが、時々、無性に虚しさを感じるのも事実だ。そして、それは、数瞬で消え去り忘れてしまうもの。だからこそ、思い出すと余計に虚し過ぎてやるせないのだろう。
これが当然だと納得し、けれども何かがおかしいと迷い、そしてまたこれでいいのだと思い込む。その繰り返しは永遠に続くのだろう。それこそが当たり前なのだ、この社会で生きる者にすれば。
人間とはそういうものだと、頭ではわかっている。迷う事こそが、生きている証なのだろう。だが、それでも時々、何もかもを手放したい衝動にかられ、次の瞬間には、手放せせられない自分を許している。なんとも不器用な生き物だ、人間とは。
シャッと心地良い音を響かせながら、葉山は勢いよく夕日が差し込む窓のカーテンを引いた。微かに風で揺れるそれを少し眺め、裸足のままキッチンへと向かう。
吸い付くような床の感触。ペタペタと音を立てながら歩き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し喉を潤す。その葉山の耳に、カチャリと扉の開閉音が届いた。
「…聖夜か?」
葉山の呼びかけに、「はい」と答えが返るのと同時に、同居人の青年が姿を現した。キッチンに入っていた葉山を眺め、すっとしゃがみ込んだ。カウンターの向こうに姿を消した青年は、直ぐに小さな犬を手にして立ち上がった。
「あいつはまだ帰って来ていないのか?」
仔犬を放って、飼い主は一体何処に行ったのだろうかと、葉山は自分の弟に悪態を付きながらシンクに凭れ、もう一度ペットボトルに口をつけ蓋をした。
「ま、そろそろ腹も減る頃だから、帰ってくるだろう」
「この犬も、お腹が空いているようなんですが」
どうしましょうか、と僅かに首を傾げながら、青年は腕に抱えた仔犬の頭を撫でた。眠いのだろうか、仔犬は目を瞑ったまま、大人しく青年に体を預けている。
「それの餌はあいつが何とかするだろう。それよりも、まずは俺達の食い物だ。何か食べたいものはあるか?」
好きかどうかはわからない。そう言っていた青年が、愛しげに胸に仔犬を抱いている姿は微笑ましく、葉山は軽く笑いながらそう訊いた。だが、返る答えはわかっている。いつも同じだ。
「別に、特には」
元々食に興味がないのか、それとも体調がそうさせているのか、青年は葉山の問いにいつもそう答える。好きなものはと聞いても、わからない、思いつかないとしか答えない。だが、それでも訊いてしまうのは、この会話を自分は楽しんでいるからなのだろう。
「作りがいがない」
口ではそう言いながらも、葉は山軽く喉を鳴らした。
「すみません。でも、僕よりも、弟さんに聞く方がいいんじゃないですか」
彼なら答えてくれるのでは、と青年は真面目に言い、抱いていた仔犬をソファに下ろした。
「あいつに訊いたら大変な事になる。ま、適当に何か作るか」
「手伝いましょうか」
冷蔵庫を覗きこんだ葉山に、少し遠慮気味に青年はそう言った。
「邪魔になるだけでしょうが」
「石鹸で手を洗えよ、犬を触ったんだからな」
冷蔵庫の中に向かったまま葉山がそう答えると、青年はキッチンへと入ってきた。言われたとおりに手を洗う水音を耳にしながら、葉山は献立を思い描き、材料をテーブルに出していく。
「ついでにこれも頼む。そのタワシで擦って土をとってくれ」
取り出したジャガイモをシンクに置くと、青年は真剣な表情で頷いた。
殆ど食べ物が口に出来ない人間は、大抵料理を目にするのも嫌がるものだ。精神的に拒食となっていれば、見ただけで吐き気を催す者も珍しくなく、この青年の場合もそれに近い。だが、何故かこうしてよくキッチンに立つ。
本人に聞いたわけではないが、食事ではないただの料理としてならば、それを脳が拒絶はしないらしく、実際調理中に気分を悪くした事はない。
人間とは不思議なものだと、理屈では判断しきれないものだと、青年の行動に葉山はそう思い知らされてばかりだ。
尤も、この場合は、食事ではなく調理に興味が大きく傾いているからなのだろう。青年を見る限り、知らなかった遊びを覚えたように、料理をしている。そう、炊事についての青年の知識は、正直、どうやって生きてきたのかと疑わしくなる程度のものでしかなかった。
学校で少し習っただけだという青年は、包丁の握り方はもちろん、フライパンで物を焼く事は知っているが、それには油が必要だという事さえ知らなかった。学習していないはずはないのに覚えていないという事は、全くそれ以外で今まで炊き事に触れた事がないと言うことなのだろう。
今時の若者としては、珍しいものではない。カップラーメン以外には作れない、すなわち薬缶でお湯を沸かす以外には出来ないという青年は沢山居るだろう。だが、接した限りではそんな常識のない人間ではなく、葉山にはわからないような難しい本も読んでいる青年のその一面は、とても意外なものであった。同時に、変に真面目な青年が見せるそんな面は、どこか微笑ましささえもあった。
やはり頭はいいのだろう、覚えは早い。だが、技術はそれに追いつかない。不器用というわけではなく、まだ時間が足りないだけだろう。青年に包丁やフライパンを持たせたりするのはとても危なっかしく、あまり時間をかけて料理をしない葉山は、いつもさっさと自分で終わらせてしまう。
なので。邪魔になると考える青年の言葉は尤もで、けれどもそれに頷くのもかわいそうな感じがして、彼でも出来る簡単なものを選び、葉山は手伝うという申し出を大抵の場合は受け入れる。だが、それが余計に相手に気を遣わせているのだと、他人にかけてしまう迷惑を気付ける青年なので、いつもそれを口にするわけでもない。
葉山としては、そこまで気を使わずとも、やりたいのであれば迷惑をかけるくらいにやっても構わないのだが、青年はまず自ら一歩引く。自分も大人で、迷惑をかけられそうならそれを押さえる術を持っており、そう気にされると、かえってかわいそうに思ってしまうというものなのだが。
本当におかしなものだ。葉山は青年と接していて、まるで自分に自信がない小さな子供を相手にしているような気分になる時がある。欲求はあるが、それを口にしていいのかどうか迷っている。だが、その迷いを相手に隠せるほど器用ではなく、まして、欲求を我慢できるほど大人でもない。そんな子供に見えてしまう時がある。
だが、ある意味、葉山以上にこの青年は大人だった。何事も全てをわかっていて、行動をとっているのだと思えるほど、色々と考えている。ただ、その中に、ほんの僅か子供のような面を持っているからこそ、かえってそれが目立ち、気になるのだろう。
青年は、他人とのコミュニケーションは下手ではない。だが、スキンスップは上手くない。甘え方は知識として知っていても、実際にその行動をとったことはないといった感じのもので、本当に妙なものだ。
葉山は、洗われたジャガイモを切りながら、レンジを操作する青年に気付かれない程度に、小さく笑った。厄介だと思う事もなく、そんな青年を気にいっている自分が、何だかおかしい。
自身で思っていたよりも、自分は世話好きなのだと、妙に納得する。元々そんなところがあるからこそ、何処かで自分に線を引いていたのだろうが、こうも実感する事はなかった。
仕事柄、人と深く付き合わなければならず、だが個人的には関係を深めるわけにも行かない立場であるので、自分は人間関係には淡泊な方だと思っていた。いや、実際にそうだった。そうでなければ、医者など務まらない。
だが、青年と関わり、そうではない部分もみつける。この青年だからこそ気にいったというのも確かにあるが、この歳になり人恋しくなったというのもあるだろう。
何を思ったのかと呆れたが、突然犬を飼いはじめた弟とさほど変わらない。そんな自分に葉山はもう一度苦笑し、そして、もう直ぐやってくるのだろう威勢の良い弟の姿を思い浮かべ、小さな溜息を落とした。
あの弟がこの事態を知り怒るというのは、初めからわかっていた。隠して青年と暮らし始めたのを気にいらない以上に、葉山が誰かを世話しているというのが単純に腹立たしいのだろう。昔からそうだ。
友人を自宅に呼べば、いつもその輪の中にもぐりこんで来た。遊びに行くといえば、自分も連れて行けと、何度泣かれた事だろう。それほどまでに自分に懐いている弟を、葉山は可愛く思ってもいたが、鬱陶しく思うこともあった。
父も母も弟を可愛がったが、他に仕事や付き合いが多く、面倒は兄である葉山が殆ど見ていた。なので、要があれほどまでに自分に対しての独占欲を見せるのは、他でもない自分自身が原因なのだと、今ならわかる。だが、歳が離れていたとはいえ、弟の面倒を見ていた葉山もまた子供だったのだ。
気紛れで、要を扱っていた。可愛がる時もあれば、厳しく接する時もあった。それが躾だと言える場合ばかりではなかったのは、葉山が一番知っている。小さな弟が、本当に可愛かった。自分の後を追いかけてくる要が。
だが、それに飽き嫌気がさすことも確かにあったのだ。何故自分がこんなに面倒をみているのかと苛立った事も一度や二度ではない。それでも、それこそ馬鹿な仔犬の様に、要は自分の後を真っ直ぐと追いかけてくる。
その姿が、重荷になったこともあった。大学に通うようになり忙しくなった時、弟と何日も顔をあわせていないことに気付き、ほっと安らぎを覚えたことさえあった。
自分の寂しさだけを埋めるには、無垢な一人の人間は大きく、手に余ったのだ。それに気付き、自分は怖くなったのかもしれない。人間を育てられるほど、自分は立派なものではないのだと。
子供の葉山には、わからなかったのだ、追いかけてくる弟が自分と同じ人間なのだとは。だからこそ、気のみ気のまま扱った。そして、その結果、要は未だ自分を追いかけている。
青年に対しての弟の感情は、手にとるように葉山には良くわかった。
兄である葉山が、こんな大事を自分に黙っていたのがショックなのだ。自分以上に面倒を見る存在というものが気にいらないのだ。兄の愛情は、弟である自分に向けられるべきもので、それを他の者にやりたくはないのだ。
そして。そんな事を考える自分自身への苛立ちを消化できず、葉山か青年に怒りを向けるしかないのだ。
そう、要とて、自分ばかりが育てたわけでもない。むしろ、二十歳である弟が小学生の頃から葉山は線を引くようにしてきたのだ。人格形成期に、一番側に居たのは確かに葉山だったが、人並以上に広い人間関係を作っているのもまた事実。彼とて、兄に向ける独占欲は異常だと気付いているだろう。そう、少しおかしいことだと。
要は要で、色々と我慢している。本来なら、こんな風にしたのは自分だろうと、詰られてもいいほどなのに、要は純粋に未だ追いかけてくる。だが、それでも、物事がわかる大人になり、人との関係を覚え経験し、兄弟のあり方を考えている。
これ以上は、たとえ兄弟でも踏み込んではならないものだというのは、わかっているだろう。我が儘なところもあるが、根が素直だからだろうか、あれでいて人の心には敏感でもある。
だから。青年に対しても、葉山に対しても、自分が深く口を出す事ではないと、心得ているはずだ。青年に敵意をみせれば、怒られる事もわかっている。だが、そうせずにはいられないという要の葛藤も、葉山とてわかっている。
誰よりも知っていると自負しているだろう自分が、青年を認めているのを痛いほどわかっているからこそ、あの弟は、頷く事が出来ないのだ。結果は見えているだろう、馬鹿ではない。ただ、悔しくて、認めたくないのだ。
(なんて、最低な兄なんだろうな…)
葉山は、深い溜息をついた。
仲の良い兄弟だと周りから良く言われるし、実際もそうだが、そう単純なものでもない。いっそ弟が嫌ってくれたのなら、もう少し上手い関係が作れただろう。少なくとも、こう要の心を傷つける事はないだろうし、自分も自分が情けなる事もない。
それは逃げなのだろうが、そう思わずにはいられない。
傷つくのはいつも要なのだ。葉山には、それがやるせない。なのに、上手い立ち回りも自分は出来ない。可哀相に思え甘やかす。だが、結局はそれが要に痛手となって返るのだ。堪らない。
(淡泊ではなく、冷血なんだろう…)
家族というものが得意ではない自分は、そんなものはいらないと何処かで切り捨てているのに、それでも自分を慕う弟を可愛いと思う。なのに、自己満足のために利用するだけで、弟を守る事をしない。
冷淡な人間だ。葉山は自分の事をそう思う。
弟だけではなく、あの友人にしてもそう。自分には何も出来ないと、たとえ無駄でも手を貸すべき時もあるというのに、何もしない。
本当は、自分は面倒を避けているだけに過ぎないのかもしれない。
自分の力のなさを、態々実証したくないのかもしれない……。
「――葉山さん」
「…ああ、何だ?」
手は動かしたまま、考えの中に入り込んでいた葉山は、青年の呼びかけにひと呼吸の間を置き首を傾げた。その耳に、チャイムの音が響く。
「出ましょうか?」
「ん、ああ。要だろう、頼む」
青年は頷き、キッチンから出て行く。直ぐに玄関のドアが閉まる音が響き、バタバタと賑やかに、要がリビングへと駆け込んできた。
「兄貴っ!」
青年に迎え入れられたのが気に食わなかったのだろう。不機嫌に叫ぶ弟に、葉山は顔を向けないまま、何だと白々しく問い掛けた。
「飯はもう少し待てよ。犬はそこだ、お前も大人しくしていろ」
キッチンへ戻ってきた青年にも、もうここはいい、と葉山は軽く首を振った。
「喧嘩はするなよ、二人とも。もししたら、飯を食わせないからな」
その言葉に、舌打ちしながら不服を訴える弟の声が聞こえたが、葉山は右から左へと流しておいた。
軽く炒めたレタスとマッシュルームとコーンを炊き上がったばかりのご飯に混ぜ、味を調え大皿に盛る。ジャガイモと豚肉の炒め物も、同じように皿に盛り付けたところで、葉山は声をかけた。
「食べるぞ」
冷たい野菜スープをガラスの器によそい別けていると、やって来た青年がそれをテーブルに並べた。青年の後から入ってきた要は、手にした袋からガサゴソと何かを取り出している。
「あの犬、餌はやらないのか?」
「これからやるんだよ」
ドッグフードを青いプラスチック皿に入れながら、要は言った。その餌の上から牛乳をかけ、残りを冷蔵庫に仕舞う。
皿を持っていこうとする弟に、葉山はここで食べさせろと、汚されても良いように床に新聞を広げた。それに従い、要は仔犬をリビングから連れてくると、その上に座らせた。
「待てよ、待てよ――、ほら、食っていいよ」
餌を見て騒ぐ仔犬を一度押さえつけ、要はその手を離した。仔犬は勢いよく、さらに顔を突っ込み食事をはじめる。
「手、洗えよ」
「わかってるよ、煩いな」
不機嫌な顔を隠さない弟に、けれどもそれに付き合う気もなく、葉山は軽く肩を竦めるにとどめる。
「あの犬、どうしたんだ」
黙れば何か言い出しそうな要に、葉山は餌をがっつく仔犬を顎で示しながら訊いた。
「誕生日に買ってもらった」
「そんなに前から飼っていたのか」
知らなかったな、と葉山が言うと、「俺も知らなかったぜ。兄貴がそんなものを飼っていたとな」と、青年をチラリと見て鼻を鳴らす。
「そうか。なら、お互い様だな」
「ちげーよっ! 俺があいつを飼いはじめたのは先日からだ!」
「誕生日に買ったといったのはお前だろう」
要の剣幕を他所に、葉山はテーブルにとり皿を並べ、漸く席に腰を下ろした。
「でも、来たのはこの前なんだよ。生まれたてだと親から離せられないからちょっと待てって言われたの。そうそう、あいつ俺と同じ誕生日なんだぜ、凄くない?」
ふいに思い出した事柄を楽しげに言い笑顔を見せる要に、葉山は食事にしようと箸をとる。怒っていると思えば、直ぐに笑う。だがそれは、笑ったと思えば、直ぐに怒るということだ。今ここで機嫌をとろうとしても、あまり意味がない。
「何だよ、愛想がないな」
案の定、軽く膨れた要は、それでもいただきますと手を合わせ、箸を持ち上げた。
「ホントはさ、別の種類の犬を買うつもりだったんだけど、丁度同じ誕生日の奴があってさ。っで、あいつにしたんだ。飼い犬が飼い主と同じ誕生日ってさ、何か良い感じじゃん」
「あれは何という犬なんだ?」
「ミニチュア・シュナウザー」
「名前は」
「トリス」
口をつけたスープをコクリと飲み込み、葉山は素直な感想を口にした。
「また、変わった名前にしたな」
「そう、兄貴みたいだよな。トリスなんて、名字だっつーの」
「お前がつけたんじゃないのか?」
その言葉に、要は顔を顰め、嘆くように大袈裟に頭を振る。
「っんなわけねーじゃん。親父だよ。何か知らないが、昔のCMがどうだこうだで、やっぱり犬といったらトリスだろう、って強引に決められたんだよ。
俺はもっと、素朴なものが良かったんだけどな〜。ゴンとかタロウとか、ポチとかね」
「ああ、昔のCMって、あれか」
「兄貴、知ってるの?」
「あの酒のCMだろう。都会の雑路の中を仔犬が歩いていたやつだ、知らないか?」
「知らないね、そんなの」
弟の答えに、葉山は同居人に視線をむけた。一瞬きょとんとした青年だが、聞いてはいたのだろう、軽く首を横に振る。
「…ジェネレーションギャップ、だな、兄貴。そうだよな、結構オヤジな年だもんな」
「黙れ、煩い」
「図星だからって、怒るなよ。
でもさ。大体、犬のCMなんて珍しくないだろう。なんで、それなんだかね、親父は」
「あの当時は珍しかったんだ、動物が出るCMっていうのはな。だが、そいつと違い、あれは確か柴犬みたいな犬だったけどな」
黒い塊と化している犬を上からチラリと眺め、葉山は肩を竦めた。右の耳から、ペチャペチャと犬の咀嚼音が入ってくる。ここで食べさせるのも問題があったのかもしれない。あまり聞いて楽しい音ではない。
「親父は犬というより、その酒なんだろう。ウィスキーだったけ? ま、何でもいいけどさ」
未だ名前を決められた事が不服なのか、要は顔を顰めてそう言い、口一杯にご飯を頬張った。
あの父親の考えなどどうでもいい事だが、弟が飼い出した犬の名前がトリスというものであるのと、普段は感じないがこの二人の若者と自分の間には、やはりそれなりに年齢の違いによる差があるものなのだと、葉山の頭に今更ながらに刻み込まれる。
(確か、あのCMは…80年頃だっただろうか…?)
少し味が濃くなったジャガイモを口に運びながら、葉山は計算をする。これが正しければ、要が覚えていないのは無理もないことだ。
その時はまだ、弟は生まれてはいなかったのだから。
「ご馳走様でした」
手を合わせ小さく頭を動かした少年を、要はちらりと眺めた。完璧に無視する事は出来ず、先程からそうして何度か見ていたのだが、食は全くといっていいほど進んでいなかった。とろい奴だと思っていたが、食べる気がなかったのだろう、そのまま食事を終える。
「…何、お前。もう、食わないのかよ」
「ああ、うん」
声をかけられたことに驚いたのか何なのか、微かに笑いを浮かべ、少年は頷く。そんな仕草が、癪に障る。真っ直ぐと向けられる目が、見ていたのかと自分を笑っているようだった。
「へえ、何か、いい身分だな。居候の癖によ」
「要、絡むな」
「絡んでねーよ、事実だろう。何が気に食わないのか、用意されたものを満足に食う事もしない。悪いのはこいつだろう」
「要」
怒る代わりに、硬い声で自分の名前を呼んでくる兄を、要は不満げに睨み上げた。
「俺には、出されたものはきちんと食べろだとか、箸の持ち方ひとつにまでウダウダ言いにきたのに、こいつには甘いんだな」
「身内だからな。第一、子供の頃の話だろう、引き合いに出すな。
それに。お前は、もう少し状況を読めるようになれ」
「何だよそれはっ!」
葉山の言葉に、何のことだと要は箸を机に叩きつけて立ち上がった。ガガッと床を擦り、椅子が動く。
「好き嫌いで食べないわけじゃない。食べたくとも食べれない、そう言う病気があるのは、お前でも知っているだろう」
「はっ! こいつがその病気だっていうのかよ。そんなヤワな奴だっていうのかよ」
なら、もっと病人らしく大人しくしていろよ、と要は葉山を見据えたまま悪態をついた。そんな要に、葉山は怒る訳ではなくただ面倒くさそうに溜息を吐き、髪を掻きあげた。
「情けない事を言うな」
「何がだよっ! ふざけんなよ。
ああ、そうか。そうなんだろうよ。こいつは病気なんだろうな、ここの」
自身の頭をトントンと叩いた要に、葉山は眉を寄せた。嫌いな目が、メガネの奥で作られる。
だが、自分でも悪い事を口にしているという自覚はあるが、もう引っ込みがつかず、そもそも少年に対して酷い事を言っている気はしないと、勢いに任せて要は言葉を繋ぐ。
「そうでなきゃ、こんなこと出来ないよな。何が拾った、拾ってくれただ。ふざけるにも程があるって言うんだよっ!」
「…聖夜、向こうに行っていろ」
「何でだよっ!!」
再び溜息を落とした兄が、座ったままの少年にそう声をかける。それは些細な事なのだろうが、要にとっては信じたくはない事だった。理屈としてはわかるが、自分を宥めるのではなく少年の方を先に気にする事実が、胸に痛い。
怒鳴った要の言葉に、静かな声で葉山は答えた。
「お前の馬鹿な言葉を、聖夜には聞かせたくはないんでな」
「なっ…!」
葉山の言葉に、要は息を飲む。それは、少年を傷つけるのは絶対に許さないと、だから自分が守るのだと、そう言うことなのだろうか。
何故そこまでと、心に痛みが広がったが、それ以上に憤りが起こる。
「そんなに大事だって言うのかよ、可愛いってか? はっ! どこがだよ。そんな殊勝なたまじゃねーだろう、こいつはよ」
そう言うと、要は葉山から少年へと視線をむけた。
「もっと可愛げのある奴なら兄貴のように同情してやってもいいが、お前に同情なんか必要ねーよな、そうだろう? 兄貴の前じゃ大人しい振りでもしてるんだろうが、その性格なら何処へ行ってもやっていけるんじゃねーかよ。そんだけ面の皮が厚いんなら何だってやるんだろうが。猫被りやがって、気にいらないなっ!
お前なんかに兄貴の側に居られたくねーよ。さっさと出て行けよ!」
その言葉に、少年は軽い笑みを口元に浮かべ、僅かに目を細めた。
反論はせず、ただ真っ直ぐと自分を見る少年の目に、要は一瞬飲み込まれそうになる。何故かその目に、自分が思う少年とは違う人間の匂いを感じた。そうまるで、沢山の事を経験してきたような深い大人の厚みと言うのだろうか、そんな雰囲気を少年は見せた。
(な、何なんだよ…)
その空気は、自分一人が暴れている事実を苛立たせるのではなく、虚しいものに変えた。いや、自身の幼さを諭されたような、そんな気分になる。
「要」
口をつぐんだ要に、葉山が声をかけてきた。
「……なんだよ」
「いい加減にしろ。文句があるなら帰れと言っているだろう」
「なんで、俺が!」
「ここは俺の家だからな。出て行くのはお前だろう」
至極当然の事だと、葉山はそう言い、熱いお茶を啜った。
何もかも、全てがやるせない。そう、結果が見えていての足掻きは、空しいだけのものだ。だが、そうせずにはいられないのだと、要は苛立ちに任せ、テーブルを殴った。何故、自分の思いは誰にも理解されないのだろうか…。
「止めろ」
「チクショ…ッ!」
ドンドンと同じように二度腕を振り下ろした所で、ガンッと要の片膝に衝撃がやって来た。葉山がその長い足を活かし、テーブルの下から蹴りを入れてきたのだ。
その勢いを殺す事は出来ず、そのまま後ろに引いていた椅子へと倒れこみ、こける手前でどうにか要は踏ん張り、体勢を整えた。
「…痛いなっ!」
「当たり前だ、蹴ったんだからな」
「弟を蹴るなよっ!」
「なら、俺の言う事を大人しく訊け。暴れるのなら、他所でしろ」
「他所でやっても意味ねーじゃんかよっ」
「なら、するな。物に当たるな、俺と聖夜にもだ。文句があるなら出て行く、以上」
「……ズルイぞ」
「たとえそうでもだ。俺を疲れさせるな、わかったか」
「……」
本気で怒った兄には、どうやっても勝つ事は出来ない。それを十二分に要は知っている。
今はただ頷くしかないのだと、要は口を閉じた。甘やかしてくれる分、この兄は厳しい。そして、その引き際を間違えると、自分はもっと境地に立たされる。
子供の頃、この厳しい時の兄が怖くて仕方がなかった。本当は自分は嫌われているのではないかと思った事は一度や二度ではない。父や母とは違った意味での厳しさは、半分だけしか血の繋がらない兄弟だからかと、真剣に悩んだ事もある。
それは、異様に甘すぎる両親のせいや、嫌な大人の配慮に欠ける発言のせいだったのだろうが、幼い要にはそんなことはわからず、ただ自分を脅えさせる目の前の存在が兄だと言う事実が怖かった。兄弟なのに、兄から強く愛されていないと感じるのは、とてもショックな事だった。
今となれば、兄が一番自分を一人の人間として扱ってくれていたのだとわかる。ただ可愛がるばかりではなく、きちんと物事を一番教えてくれたのはこの兄なのだと。それが、愛されている証拠だと思うことが出来る。
だが、それを常に胸に刻み付けていられるほど自分はまだ大人ではなく、それとこれとは別だと、喧嘩をすることもしばしばだ。そして、その度、いつまでたっても兄には追いつけないのだと思い知らせれ、子供の頃とはまた違った意味で悲しくなる。
それに何より、今回は第三者が介入しているのだ、やるせない事この上ない。
どちらが大事なんだと、そんな馬鹿な女のような質問などしたくはない。だが、自分の気持ちは正しくそれなのだと、この状況に要は情けなくなる。何だって、こんな事になっているのだろうか。
椅子の背に頭を乗せ、要が深い溜息を吐いたところに、諸悪の根源である少年が声をあげた。
「何か、大変な事になっていますけど」
「他人事みたいに何言ってんだ、原因はお前なんだよ!」
反射的に、要はその言葉にそう口を開いた。まるで自分の怒りなどどこ吹く風といったような、この空気に合わないさっぱりとした声をあげた少年には、やはり苛立ちばかりが募る。
だが、
「いや、君じゃない」
「こいつのことだ」
と、葉山と少年の声が重なった。
要が兄を見ると、その手には仔犬が抱かれていた。いや、掴まれていると言った方が正しいか、片手で首根っこを持ち上げられている。まるで猫を扱っているようだ。
「どうにかしろよ」
物のように、無造作に葉山は腕を伸ばし、要に仔犬を差し出した。その仔犬の口…顔半分が白くなっている。食事をすると、いつもこうなるのだ。
「ったく…、手間がかかる奴だな」
要の言葉に、「なら、飼うな」と葉山は軽く顔を顰めた。
「世話が面倒だなんて、わかっていたことだろう」
「煩い。冗談に決まっているだろう」
着ているシャツの裾を延ばし、要はそれで仔犬の口元拭った。人間の子供のように大人しく顔を拭かれる仔犬は、遊ばれていると思っているのか、楽しそうに尻尾を振る。
本来なら、その小さな可愛い尻尾は切られるはずだった。種類により犬は耳や尾を切断するものだと知ってはいたが、あまり気分の良いものではないので、この犬にはそれはしなかった。
「おい、そんなもので拭くなよ」
「いいじゃん、別に。着替えるんだからさ」
要は振られる尻尾を指で数度弾き、仔犬を抱き上げたまま立ち上がった。
「風呂に入ってくる」
「食べたところだろう。休憩しろよ」
子供じゃないのだ、煩い。そう喉元まで出かかった言葉を要は飲み込み、「シャワーだから」とキッチンを出、リビングを後にした。突き放したような言い方をするのに、気遣っているような言葉をかける。兄らしいといえば、それまでなのだが、自分が虚しい事には変わりはしない。
「……何か、惨めだな」
呟いた言葉は、腕に抱く仔犬にさえも届かない。
あの少年の事を認めるしか、道は残されていない。それは嫌と言うほどわかっている。だが、納得しきれるだけの言葉を、兄は与えてくれない。…ずるい奴だ。
もっと、渋々ながらも受け入れられるようにしてくれれば、自分とて、こうもむきにはならないのかもしれない。そう、あの兄が態々自分を怒らせるようにしているのではないかと、そんな腹立たしさまで生まれる。
だが、結果は見えている。
なんとも面白くない事だと、要は溜息を吐きながら脱衣所への扉を開け、犬を床に下ろした。シャツを脱ぎ、洗濯機に放り込みながら、洗面所に並んだ歯ブラシを見、再び息を吐く。
心の中にあるのは、苛立ちよりも、悲しみのだと自身で気付いている。だからこそ、性質が悪いのだ。
葉山がベッドに腰掛け、膝に乗せた雑誌を読んでいると、要が寝室へと入ってきた。腕には敷布団を抱えている。
「ここで寝るのか?」
「悪いのかよ」
「俺はまだ寝ないんだが」
布団を敷く弟にそう声をかけると、「別に、明るくても何でもいいよ」とぶっきらぼうに言った。
客間の和室は同居人の部屋になっていると教えると、「いい身分だな、ホントによ」と要は盛大に顔を顰めた。だが、それで終わった。この部屋に泊まる時はいつもそこを利用していたので、あの青年を追い出すのではないかと、葉山は再び言い合いが勃発しそうな雰囲気に疲れを覚えたのだが、弟は嫌味ひとつで退いた。
だが、だからと言って、何故ここで寝るのだろうか。
もちろん、あの青年と和室を共有する事など考えられないが、狭い部屋ではない、他にも寝る場所はある。まだ、自分と言い合いをする気なのだろうかと、葉山は足元に寝転がった弟を見ながら眉を寄せた。
「何? 気が散るのか?」
「いや、そうじゃない。…あっちで寝る方が涼しいぞ」
リビングを顎で示しながら言った葉山の言葉に、要は胸の上に仔犬を抱きながら、軽く鼻で笑った。
「俺はここがいいんだよ。このくらい我慢しろよ、兄貴」
「別に…お前がいいのならいいさ。勝手に寝ろ」
葉山は肩を竦め、手元の雑誌に視線を戻した。その医療雑誌の今月号の特集は、海外の医学部でのカリキュラムや設備などの事で、一度短期間の研修で訪れたことのある施設も紹介されていた。
文字を追っていた葉山に、大人しく眠ったのだろうかと思う頃、要が呟くような小さな声で「なあ、兄貴」と話し掛けてきた。
「…あいつのこと、調べないのかよ」
そのまま文字を追いながら、「ああ」と葉山が返事を返すと、「何で?」と声が返る。それは、先程までのような怒ったものではなく、どこか寂しさを含むもので、葉山は視線を向けた。
弟は、背中を向けて丸まっていた。かけたタオルケットが不自然に膨らむ箇所には仔犬がいるのだろう。その姿を上から眺めながら、葉山は「そうだな…」と考える。
「興味がないとは言い切れない。今までどんな生活をしてきたのか、気にはなる。だが、それは今のあいつを見ていてどうだったのかと思うだけで、不安からくるものじゃない」
「…もしかしたら、犯罪者とか、それに近いものかもしれないぜ。今時、悪い奴なんて珍しくないし…怪しいよ、こんなの…」
「そうかもしれないな。だが、俺はやはり、調べようとは思わない。気になるのなら、訊けばいいことだろう、本人に」
「言うわけないだろう」
タオルケットから顔を出した仔犬の動きにあわせるように、仰向けになった弟は、そう呟きながらチラリと視線を投げかけてきた。
「言っても、それが本当かどうかもわからないしさ…」
「だが、勝手に調べるのも、フェアじゃないだろう。第一、俺はいいんだよ、今のままで」
「被害にあって泣いても知らないぞ」
その言葉に、葉山は肩を揺らせて笑った。
「そうなっても、俺に人を見る目がなかったというだけだ」
「呑気だな」
「そうか? なら、お前には、あいつが悪い奴に見えるのか?」
気にいらないかどうかは別にしてだぞ、と葉山が問うと、要は沈黙を作った。そして。
「……ホント意地悪だな、兄貴は」
「知らなかったのか?」
「…知っている、昔から」
もぞもぞと動いてうつ伏せになり、枕の上で両手を重ね、そこに顎を置き、要は目の前で丸まった仔犬を眺めながらそう言った。膝を曲げ、軽く足を揺らす。
「あいつはな、遠慮も気遣いも知っている」
「その割には、図々しく居座っているな」
憎まれ口だが、葉山に怒鳴ってももうどうにもならない事をわかっているのか、あの青年を認めたのか、それとも眠いのか、要は静かに言った。そんな弟に、葉山は軽く苦笑する。大人気ないのは、他の誰でもない、自分だろう。
「いや、だからこそ、ここに居るんだろう。俺に気を使って、出て行くに出て行けないんだろう」
現実を見、青年を調べろという要の意見は尤もなものだ。
好きな時に出て行けばいいと同居人には言ってある。だが、いつの間にか居る事が当たり前になってしまった。それを心地良く感じるようになった。そんな自分に、あの青年は気遣っているのかもしれないと葉山は思う。そう、我が儘を言っているのは弟でも青年でもない、自分なのだろう。
青年が馴れ合うのを恐れるのは、多分こういった事態を避けたかったのだろう。同情や愛着など特別な感情はなくとも、同じ日常を繰り返すことにより、別の感情が生まれる。何かから隠れ住処を転々としている彼にとれば、それは厄介なものでしかないのだろう。
「あいつって、…拒食症?」
「ま、そんなもんだな」
「だったら、もう少し病人らしくしろよな」
「おい」
「だってさ、何か、むかつくんだよ、あの喋り方が。絶対、俺を馬鹿にしている」
その言葉に、葉山は内心で笑いをかみ殺しながら、足を伸ばし弟の頭を軽く蹴った。
「何だよ」
「もう、黙って寝ろ」
軽く舌打ちしながらも「わかったよ、お休み」と言った要を残し、葉山は寝室の電気を消し、リビングへと入った。ソファに座ると、昇った月が窓から見えた。
要の青年への敵意を向ける態度は、わかってはいたものだが正直疲れるものだった。だが、青年の要に対する態度は、少し予想外のものであった。他者との接触を好まないものだと思っていたが、青年は要とのそれを楽しんでいるようだった。
葉山の前ではあからさまのものではなかったが、二人きりの時は、要は本当に青年にからかわれているのかもしれない。
過ごした時はそう長くはないが、職業柄、人を見る眼は多少なりともあるつもりだ。弟よりも同居人の方が、一枚も二枚も上手だという事はわかっている。青年が本気になれば、要に勝ち目はないだろう。
葉山は口元に笑みを浮かべ、中断していた雑誌を再び読み始めた。
弟は簡単に扱われるのが気にいらないようだが、青年の自分には見せない一面を見るのはどこか楽しいものであり、葉山は笑わずにはいられない。
やはり、この中で一番大人気ないのは、自分のようだ。
だが、青年の要へ対するそれは、単純に葉山が弟をからかうようなものではないだろう。青年は、あの弟に嫌われるのを見越して、そういった態度に出ているのかもしれない。馴れ合わないように、わざと嫌われようとしているのかもしれない。
自分に対して丁寧な言葉を使うのと同じことなのだろう。
葉山は、ふと息を吐き、落としたばかりの雑誌から視線を上げ、もう一度空に浮かぶ月を見た。
2003/04/16