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いつの間にかまた気を失っていたようで。
重い瞼を開けた時には、オレの周りには犬しかいなかった。
まるで枕のように、犬がいる。
オレの肩に鼻先を置いて伏せている犬は、相変わらず全身でオレを心配していた。
その無心の想いが心地良くあり、また同時に辛くもあると思うのは、ここがオレにとってはやはり地獄でしかないからだと思い知ったからだろう。
どこであるのかは知らないが。
もしも、ここが。オレが生きていてよい場所だったのならば。ここが、オレの居場所となり得るのであったならば。
オレは、この犬を愛しく思えただろう。
だけど、地獄では無理だ。
たとえ、それが好意だとしても。何の見返りも求めない、代償なしのものでも。
この世の全ては、オレを苦しめるものでしかない。
痺れきったかのように重い腕を動かすと、犬がパッと頭を上げた。
オレが起きているのに気付き、一度大きな眼を瞬くと、再び顔を近づけペロリと頬を舐めてくる。
先程と同じように、飽きることなく続けられる行為を受け入れながら。オレは視界の半分を覆う犬の向こうを片目で見やる。
記憶はないに等しいほど曖昧だが。
先程目覚めた時と同じ部屋であると思う。
白い壁に、高い天井に、西洋風の豪華な扉。オレを包む柔らかなベッドもまた、変わっていない。
けれど。
ここは、どこなのか。
先程の男達は何者なのか。
わかるのは、唯ひとつ。
死後の世界ではないのだろうということくらいだ。
オレはまだ、生きている。
撫でるようにしてその顔を片手で払うと、犬は大人しくベッドから降りた。
賢い奴だと思ったが。どうやら、そうでもないらしい。
音もなく駆け、器用にドアを開け、部屋から出て行く。
払ったのはオレ自身だが、去られるとなれば話は別で。
そこまで拒絶したわけではなかったのにと。柄にもなく、僅かだが後悔と罪悪が胸をかすめる。
何より、わからない状況の中では、犬であっても頼れるのならば頼りたい。
先程の恐怖を再び味わうのかもしれないのならば、不快ではない犬に縋らねばオレは気が狂うだろう。
乾燥が追い付かないほどに舐められて濡れた頬をシーツで拭い、まだ思うように力が入らない身体を起こす。
自分でも不調がわかったので、ゆっくりとであったのだが。
「……ッぅ」
半分ほど起こしたところで、脇腹が鈍く痛んだ。
息を止め、体勢はそのままで、片手で痛む箇所を掴んでやり過ごす。
痛みが治まったところで、そろりと布団と服を捲り確認すると。腰骨の上に5センチ程の傷があった。
傷痕は赤く爛れ、熱を持っているようだが。既に完全に肉がくっついているようでもある。
痛みほども、酷そうには見えない。
傷があると頭に入れてしまえば、動きもそれ用になるのか。続けてベッドから抜け出しても、もう腹に痛みは覚えなかった。
そして、立ち上がってから、そう言えばと思い出す。
記憶にある怪我をした箇所は、脚であったはずだ。
けれど、そこに違和感はない。
服の上からだが視線をやり感覚を追うが、やはり痛みは感じない。
それで安堵したのか、絶望したのかわからないが。記憶にある過去が今に繋がっているのならば有り得ないだろうそれに、驚愕を超えて、オレの中では関心さえ消滅する。
痛くない。それ以外を思う必要はない。
日が差し込む窓に寄りながら、外に視線を飛ばす。
どこかで予感していたとおり、そこに広がるのは初めて目にする風景だった。
都会のビルなどひとつもない。
ビルどころか、コンクリートの建物ひとつない。
四角い窓のなかの景色は、古代文明のひとつであるかのような雰囲気で。まるで、テレビでも埋め込まれているかのようだ。
現実感がない。
けれど、今までと違って意識がはっきりしているのは、嫌でもわかる。
酷かった気分も、今は身体的には問題ない。
少し腕を伸ばして触れた腰高窓の厚いガラスは、オレの指先よりも温かかった。
その向こうに広がる景色に、もう一度よく目を凝らす。
ここは小高い丘の上なのか、周囲が良く見えた。
眼下の建物から察するに、ここは城で、離れた平地に見える集まりは城下町のようだ。
街の向こうには、緑が広がっている。比較的近いところは畑で、右手奥に見えるのは森か。緑が濃い。
地上と空の間には、山々が連なっている。遠くに霞む一番高いそれには雪があるのか、ただの霧か、うっすら白い。
モニター越しの映像でも、写真でもない、現実。だが、驚きは不思議と起きない。
なぜだろうかと考え、ここが日本ではなくとも、理解の範囲内にある景色だからかと思う。
城壁の上を歩くのは、遠くて顔などは全くわからないが、普通の人間そうだ。羽や尾が生えていそうなわけでも、規格外のでかさでもない。
もしかしたら、小さな角くらいはあるのかもしれないが。地獄の鬼ならむしろ歓迎だ。
この光景は、確かにオレの日常にはないものだ。だが、ナマで拝むのは初めてであるだけで、映像や本の中でのそれには馴染みさえある。
空が緑色なわけでも、海の中なわけでも、怪獣がいるわけでもない。
これは適応範囲内だ、と。自分の冷静さの答えをオレはそこにつける。
それが良いことなのか悪いことなのか、わかるわけもないまま、オレは目の前に広がる景色を受け入れる。
もしあのまま命が終わらず、目覚める時が来るのならば。それは、病院か、留置所か。それとも、もう一度あの血の海の中か…と言ったところであったのに。これは一体何なのだと思うが。
そうでないのならば、そうでないだけのことだ。
どこだろうと、どこでも同じだ。
泣き叫んで何かが変わるのなら。
オレは今までだって躊躇わずにそれをしてきただろう。
そんなことでいいのなら、いくらでも。
2011/06/20