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「気分はどうだ」

 声をかけられ振り向くと、あの男がいた。
 先程も同じ言葉をかけてきた、最初の男だ。

 先には答えなかったそれを、今度はといった訳ではないが。
 かけられたことにより、オレは自分のそれが思うほども悪くはないのだと気付く。
 そう。精神的にも、気分は意外な程に悪くない。
 いま、このひと時の平穏なのだろうが。

 色々考えだせば、きっと。
 簡単に気持ちは最低へと辿り着く。

 だから、応える答えはなく。
 口を開かず、ただオレは男を見返す。

 彫が深いわけではないが、日本人のようにのっぺりとしているわけじゃない顔。
 歳は、オレよりもかなり上だろう。
 背は、オレより高い。身体も、厚い。
 だが、威圧感はない。

 見知らぬ相手と、広い部屋のとはいえ二人きりであろうとも。怖さも何も覚えなかった。
 それよりも。
 相変わらず、この目の前の男は何を考えているかわからないと。感じないそれが気になった。

 だから、もしも。
 もしも、接したのがこの男一人であったのならば。
 オレはここで生まれ変われるのだと、馬鹿みたいなことを信じさえしたのだろう。
 それくらいに、驚くべきほどに静かだ。

 けれど。
 オレはもう知っている。

 気を失う前に味わった恐怖は、夢ではない。
 この男が例外なだけであって、オレの異常は変わっていないのだ。
 いや、以前よりも、それは増しているのだろう。嫌悪にとどまっていたのが、確かな脅威になったのだ。
 感覚ではなく、予感ではなく。はっきりと。
 あの時、普通ではない声が聞こえたのだから。

 そう。耳からではなく。頭の中へ直接響くように。
 声が、聞こえた。


「まだ、顔色が悪い」

 思い出したそれに、オレは慄いたのか。
 かけられた声にハッと気付けば、いつの間にか男は傍に立っていて。オレの肩に手を置いていた。
 反射的に、その接触に身体を震わせる。脳が、逃げることを命令する。

 だが、オレが身体をひねる前に。腕を払う前に。
 覚えに気付いたのだろうか。
 直ぐにその手が離れ、男の身体の横へと戻った。
 その動きを追いかけた先で、いつ戻ってきたのか、犬がそこにいるのを見つける。

「休んでいろ」

 言葉でオレをベッドへと促した男が、傍らで腰を下ろした犬の頭を指先で?くようにしてなでた。
 犬も、心配げにオレを見上げていた視線を外し、礼を言うように、甘えるようにその指を舐める。
 犬はどうやらこの男のペットのようだ。

 犬の種類は分からない。顔の長い、大きな黒犬だ。
 鼻先を突き出すような形で、細い顔を伸ばしているその姿は、まるで子供だ。両手を広げてねだる幼子のようだ。

 ベッドへ戻り、腰を下ろす。
 前のめりに屈みこみ、視線の高さを合わせ心の中で来いと呼ぶと、犬はまるで聞こえたかのようにテクテクとオレの傍までやって来た。
 頭を撫で、身体を撫でると、首筋を何度も舐められた。
 好きにさせておくと安心でもしたのか、嬉しそうに尻尾をパタパタ振る。長い尻尾だ。

「…………名前は?」

 囁いた問いに答えを返したのは男だった。

「ヴィスだ」
「……アンタに聞いていない」
「私はジルフォークだ」
「……」

 だから、聞いてなどいない。知りたくもない話だ。
 だが、噛み合っていない会話を発展させる気もなくそのまま放置し犬を撫でていると、暫く黙っていた男が思い出したように「お前の名は?」と聞いてきた。
 いや。もしかしたら、オレが名乗るのを待っていた間であったのかもしれない。
 いつもならば、意識すれば多少わかるそれが全く掴めないのは、なんだか変な感覚だ。

「何というのだ」

 無視していると、重ねて問うてきた。
 ただの話題じゃなく、本当に聞きたいということなのだろう。

「……さあな、忘れた」
「そうか。では、何と呼べばよい?」

 会話など面倒だと。それを隠さずに口にした嘘をあっさりと受け入れたのか、男はそんなことをいう。
 呼ばれたい名など、あるわけがない。あれば、言っているものだ。

「好きにしてくれ」

 本当に面倒だと。心底、嫌気が差したが。
 目の前でジッと見てく犬を撫でるのを止められず、その変わりだと、飼い主だろう男に言葉を返してやる。
 会話を打ち切るために。

 なのに。

「好きにとは?」
「…勝手に何とでも呼べばいいだろう」
「神の使いの名を、私が決めてよいのか?」
「……神?」

 神が、何だって?と。思いもよらぬその単語に顔を上げると。
 数歩離れたところで真っ直ぐ立ったまま、オレの視線を受けて男が一度深く頷いた。

「そうだ。お前は、ミツカイだろう?」

 ミツカイ、だ…?

 その言葉。確か、あの狂った男も言っていた。が、聞きなれないものだ。
 ミツカイ――神の使い、ならば、『御使い』か…?
 だが、オレにはそれに、何の覚えもない。
 そんなものになった覚えは何も。

「……知らねぇーよ」
「お前は、神がこの地に遣わしやって来た者であろう?」
「だから。知らないって言っているだろう…ッ」

 光景は、受け入れられたが。
 現状は、恐ろしいほどにぶっ飛んでいるようだ。
 神だの使いだの、カルトに巻き込まれるなん真っ平だ。

「神の使いだなんて、バカじゃないのかアンタ。オレは神なんて信じていない。当然、会ったこともない」
「御使いのお前が信じていないとは、面白い」

 あんたはイカれているのかと。嫌悪と侮蔑から吐いた言葉だったが。
 男は微塵も気にする様子は見せず。ただ、何を考えているのかも見せない顔でそう言った。
 あんまりな場所へと転がった話に、オレは引いてしまっているというのに。当人は、まるで当然のことを語るように、とても平坦な声を出す。
 神を素で語るなど、異常者でしかないだろうに。芯を感じる声音だ。

「歴代の御使いも、神と交えたことはなかったようだが。その存在を否定した者はいない」
「だったら、神を信じないオレは、神の使いじゃないってことだろう」
「いや、お前は御使いだ」
「否定する者はいないんだろうが」
「いままでは総だったというだけの話だ。お前が初めてだな」
「…………勝手に言ってろ」

 オレへは侵食してこない、オレにとっては貴重であろう男は。けれども、話が通じない相手であるらしい。
 恐怖も嫌悪も湧かないが、イッた奴など鬱陶しいと。
 話にならない男から視線を外し、傍の温もりを両腕で抱き締める。
 犬の濡れた鼻が、耳に当たる。


 もしも、本当に、この世界に神なるものがいるのならば。

 神よ。
 オレを、殺せ。

 そうすれば、オレはアンタを信じてやる。


2011/06/20
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