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 オレは幼い頃から、他人の顔色を読み取るのに長けていた。
 それが、自分は他人の感情を感知しているのだと正確に気付いたのは、小学校も残すところあと少しといった頃のことで。
 周囲が多感になり始めて漸く、何かが可笑しいと意識し始めたのだ。

 それまでは、他人の感情はわかるのが当然であり、特別だとは思っていなかった。
 何より、オレの異常を何となく感じていたのだろう大人達の戸惑いさえも、間違いなくオレは察していたが、幼いオレはそれを感じても意味などわかっていなかった。
 向けられる嫌悪は、理由まで探り当てられるほどの気力を与えず。
 ただ、オレを貫き続けていた。

 成長と共に教え込まれ続けていた他人の嫌悪が、己だけの異常さによるものだというのに気付けば。
 それはもう、止めようがなく。
 自覚は、更なる能力の目覚めに繋がっていった。


 他人の顔色を読むのが長けている。その程度ならば、ひとつの才能として、己の武器となっただろう。
 それこそ、その勘の良さを持ってすれば、順風な人生を歩めるのかもしれない。

 だが、オレの場合は。
 そんな優しいものでも、旨みのあるものでもなく。
 それそのものが己へと牙を向いてくる凶器にしかなり得なかった。

 背後に立つ人物でも、自分に対してどんな思いを抱いているのか。それが何となくわかるその感覚は、苦痛以外のなにものでもない。
 向けられる相手のそれがどんなに好意であったとしても、感じ取ってしまう自分自身が気持ち悪くて、相手の感情を汲み取り活かすどころではない。
 まして。持たれているのが嫌悪となれば、尚更だ。
 強いそれは、オレの体調さえも左右させた。吐いたことも、一度や二度ではない。


 だから、オレは。
 周囲を拒絶することで、その苦痛から乗り切ろうとした。

 だが、そうなれば、周囲から向けられるのは余計にマイナスの感情ばかりとなった。

 目に見えての異端者に、好感情など抱くものは居ない。
 けれど、馴れ合うことなどオレには不可能。
 悪循環のスパイラルだ。

 自分を守りたくて、苦痛から逃れたかったが。
 離れたくとも、まったく他人が居ない環境など有るはずもなく。
 オレはどうしようも出来ない中でもがき、自ら首を絞めるしかない状態に突入した。
 でもそれは、当然であり。必然だった。
 十数年生きただけの子供に出来ることなど、限られているのだから。


 学校に通わず、家にも帰らず、かといって街で仲間と群れるわけでもない。
 中学に上がった頃は、あてもなく街中をうろついた。
 膨大な他者の感情が感覚を鈍らせるその酔いに浸かることで、能力を誤魔化していた。

 街には、くだらない感情がいっぱい溢れていて。
 それに触れる一瞬は、自分もくだらない一部だと。だから大丈夫だと思えた。
 けれど、また別の一瞬では、確実に。自分の異質に苛められもした。

 個人が近すぎる学校に通った覚えはあまりない。
 義務的に足を向けることはあったが、丸一日、居続けた記憶はない。

 教師であれ、街で出会った人であれ。オレを本気で心配してくれる大人がいなかったわけじゃない。
 だが、誰であってもそれは苦痛であり、オレには受け入れられるものではなかった。
 今は気遣わしげでも、いつか厄介だと思うのだろうその瞬間を、自分は正確にとらえられる。
 それを思えば、関わりなど持てるものではなかった。


 他人との、必要以上の接触を避けた。

 とにかく、他人と関わりあいたくなかった。
 向かい合いたくなかった。

 そんな風に、オレは逃げた。
 逃げるしかなかった。

 それでも、一人で居るのは難しくて、虚しくて。
 どう思われようとも気にならない、互いに期待など最初からしていない連中と、いつの間にか付き合うようになった。
 仲間の証であるかのように、その気もないくせに彼らとともに罪を犯してまわったりもした。

 少しでも、恐怖が薄れる場所を、紛れるものを求め続けて日々を過ごし。
 オレは疲れ果てていた。


 だから、当然として。
 オレの心には常に、死への誘惑があった。
 無茶なことを、無謀なことをやりながら、しくじれば死ねるのだと本気で思っていた。
 自ら喉を掻っ捌くようなことをしなかったのは、勇気がなかっただとか、怖いとかだとかではなく。
 ただ、その気力さえも沸かなかっただけなのだろう。
 オレは死をどこかで渇望しつつ、一歩手前で佇む日常を消化していた。

 そう。
 だから。


 父親に殴られた時も、このままオレが死ねばコイツは刑務所に入るだろうかというくらいのことしか思わなかった。
 何の不満があるのだと、迷惑をかけるなと怒る父親の心情などどうでもよかった。
 どうしてコイツはこんなに厄介なんだと、相手の失望も憤慨もいつものことでしかなく。
 床に倒されても、オレは自分の一分後の未来にさえも、関心はなかった。

 それなのに。

 怒鳴りつけ殴りつけ蹴りつけて、満足したのかリビングを出て行こうとする父親の背中を見た瞬間、オレの中で絶望と怒りが唐突に湧いた。
 それは、父親に対してではなく。
 また明日がある自分に対してだった。
 このまま死ぬわけではない自分が、また息をし続けるのだろう自分が、許せられない。許してはならない。
 自分は死ぬべきだと、その瞬間のオレの中には、それが唯一の真実で。

 だから、オレを殺さない父親が、何よりもの悪に思えた。

 身体のそこから、衝撃が沸き起こった。

 殺せ!とオレがナイフ片手に迫ると、父親は一瞬呆けた表情をみせたが、直ぐに怒りで顔を赤く染めた。
 そこから発せられる感情は、能力などなくとも誰でもわかるのだろう、オレに対する明確な憎悪だけだった。
 日頃はオレを厄介程度にしか思っていなかった父親だが、その息子に刃物を向けられ完璧にキレたのだろう。怯む素振りも見せずに、父親は再びオレに向かってきた。

 狭いマンションでは、リビングからキッチンまでの距離はしれている。
 数歩でシンクに押しやられ、上から押さえつけられた。頭を冷やせと、水の張ったタライに顔を突っ込まされた。
 汚れた水を飲み込みながらも暴れると、握っていたナイフが父親の身体を掠めたようで拘束が弛んだ。

 咳き込み息を整えているうちに、ナイフは何処かへいった。変わりに、オレはそこにあった包丁を握った。
 視線を上げきる前に、影が落ちてくる。
 父親はオレを抑えようとしたのか包丁を取ろうとしたのか、それとも殺意があったのか。再び揉み合ううちに、気付けば手の中の出刃はオレの足に深深と刺さっていた。
 父親はそれでも、オレを蹴った。その足を、オレは両腕で抱えた。

 バランスを崩した父親は、カウンターで後頭部を打ちつけ意識を飛ばした。
 床で横たわる父を霞む意識の中で必至に眺めていると、耳から血が流れだすのが見えた。
 起き上がりオレにとどめを刺すんじゃないかとの期待は、それで消えた。

 脚の感覚はなかった。夥しい血が溢れているのは、もう確認せずともわかった。
 血と同時に、自分の命が流れていくのがリアルに感じられた。
 それにオレは安堵した。

 やっと逝ける。そう思ったのが、最後――のはずだった。
 それなのに。

 地獄は、今も続いている。


2011/06/24
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