+ 6 +
犬がオレを見ている。
いや、犬だけじゃなく、幾人もの人間が。
寝室にしてはやけに広い部屋だったが、大人の男が何人も入れば、閉塞感この上ない。
だが、それ以上に。
緊迫を含んだ静かな部屋とは逆な『声』が、煩い。
みなが好き勝手に、心の中で騒いでいて。
それが、オレを犯す。
オレは、彼らに言わせれば、「御使い」であるらしい。
世界が滅びへと向かい始めた時に現れる、神が遣わした吉兆で。
その存在と契約者が、世界を統べるのだとか。
バカらしい。
「心よりお待ち申しあげておりました、我らの救世主となられるお方よ」
「貴方様にはこれより、契約者を選んで戴きたく存じます」
「……それは、本気で言っているのか?」
まるで段取りが決められていたかのように。淀みなく状況が説明される間、ずっと口を閉ざしていたオレが発したその言葉に、一瞬の間が生まれた。
だが、それは発言していた者にとっては、ただ少しテンポを狂わされた程度のものであったようで。
直ぐに、「戸惑うのも無理はありません」と、全てをわかった風な余裕の表情で頷いてくる。
「ですが、貴方様が御使いです」
一寸の迷いもなく言い切る男に、幾人もの面々が深く同意を示してくる。
だが。根本的に間違っている。話が噛み合っていない。
戸惑いではなく、オレの中にあるのは単純な嫌悪だ。
奇妙な話に怯えたのではなく、ただただ疎ましく思うという話だ。
この世界はどこまでふざけるつもりか。
何度目かの覚醒の後で、漸く説明された自分の状況は。これ以上はないくらいに滑稽で、最悪だ。
胸糞が悪くて、それこそ狂ってしまうんじゃないかと思うくらいに。
けれど。
実際に狂うことは難しいだろう。
そんな逃げが許されないくらいに、オレは向かい合う者達の『声』に抑え込まれている。
今までのように、目を瞑り誤魔化すことも出来ないくらいの他人の意思が、勝手にオレの中へ入り、オレを犯す。
御使いさま…と、盲信にオレを仰ぐ熱狂的なそれが、オレを貫く。
厄介な…と、この騒動の原因をオレに置き恨むそれが、オレをえぐる。
どうしてくれようか…と、その象徴を己に得ようと画策するそれが、オレを殴りつける。
本気で、オレは妙なモノに認定されていて。
この中では最早、真偽を問うなど意味がないのだろう。
誰もが、オレを「御使い」としか認識していないのだから、オレ一人が抗っても無駄だ。
だが。
それでも、ぶつけられる膨大な感情に吐き気さえ覚えつつも、オレは片頬を引きつりあげて笑ってやる。
まさに笑うしかない状況というやつだ。
実際に耳を塞いだところで『声』が聞こえなくなるわけではないが、頭を抱えそうになる腕を組むことで抑え込み。粟立つ身体まではどうしようもないが、恐怖で慄くのを椅子に凭れることで堪え。
尊大に見えるだろう態度で、わざと斜めに見てやる。
「オレが何であるのかを言っんじゃねぇーよ。あんた達のそれは本気かと聞いたんだ。世界がそんなことで救われるだなんて、おかしいだろう」
「いいえ、そんなことはございません。御使いであるお方が世界を混沌から救うのは、史実に則ったことでございます」
神官長だと名乗った老人がそう言い、何度目になるだろうか恭しい仕草で頭を下げた。
本気でオレを御使いとするのだということを、そんな態度で示してくる。
しかし。
そんな老人の本心は態度とは逆らしく。オレに向かってくる『声』は、全くの別物だ。
後ろに控える、御使い狂いの『声』の方がマシなくらいに、この老人は完璧に、オレをモノとして見ている。慇懃な姿勢を崩しはしないが、腹の中ではいかにしてオレを操るか計算しまくっている。
この接見に賭けるその必死さは、胸の内を隠せば隠す分だけ滑稽だ。
後ろに控える、この国の宰相やら王付き秘書官だのなんだのといった奴らにさえ、その腹黒さはバレているようであるのに。若いオレならば騙せると思い込んでいるのか。ご苦労なことだ。
たとえオレを騙せたところで、上手くことは運ばないだろうに。
この部屋は今、早くも「御使い」の奪い合いが始まっている。
大きく言えば、世界の神殿を纏める聖殿の神官達と、オレが一番初めに身を寄せることになったこの国との間で。
だが。
単純に、争いはこの二者だけで終わるものではないようだ。
どの国も、誰もが、吉兆である「御使い」を欲している。
確かに、老神官長の力は強いようだが。神官達の本心はバラバラだ。勿論、この国の奴らも同じ。
皆がみな。それぞれに、史実だか何だか知らないが、御使いに対する思いを当然のように持っているようで。
誰もが強い意志を心に抱えている。
ここぞとばかりに溢れ出し垂れ流れるその感情は、不快以外にない。
鳴り響く『声』は、生身の声がかき消えてしまうくらいに膨大だ。
いかにオレを手玉に取るか。いかに相手を蹴り落とすか。その打算が目まぐるしく回る中では、本当に、未だ純粋に「御使い」に心奪われている狂人など、可愛いものである。
しかし。
鬱陶しいことに変わりはなく、それがオレに呼吸を与えるわけでもないが。
オレが動くたび、声を発するたびに、狂ったように騒ぐ神官の、その狂信はどこまで行くのだろう。
もしも、オレが何かを求めたら、叶えようとするのだろうか。
例えば、この場で死ねと言ったら、この男は死ぬのだろうか。
逆に、この老神官は。
気に食わぬことを言えば、直ぐにオレから「御使い」認定を外しそうだ。
使えないと判断したら、躊躇いなく処分しそうだ。
信仰心はあるのかもしれないが、ナマグサそうな男だ。
現実逃避気味にそんな事を思いながら、オレは神官達から視線を反らし、傍らの犬を撫でる。
他の面々と違い、やはり一切の『声』を発しない飼い主の代わりのように。犬がオレの愛撫に、気持ちよさげに目を細める。
心を隠す術も持たない生き物は、そうして、心配げに小さく鳴く。
オレの心情を察し、大丈夫かと問うようなそれに。
オレは、撫でる手に少し力を入れる。
この部屋で、大丈夫な奴は一人もいない。
まともな人間は、オレを含めて、誰もいない。
2011/06/27