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 犬がオレを見ている。
 いや、犬だけじゃなく、幾人もの人間が。

 寝室にしてはやけに広い部屋だったが、大人の男が何人も入れば、閉塞感この上ない。
 だが、それ以上に。
 緊迫を含んだ静かな部屋とは逆な『声』が、煩い。
 みなが好き勝手に、心の中で騒いでいて。
 それが、オレを犯す。

 オレは、彼らに言わせれば、「御使い」であるらしい。

 世界が滅びへと向かい始めた時に現れる、神が遣わした吉兆で。
 その存在と契約者が、世界を統べるのだとか。

 バカらしい。


「心よりお待ち申しあげておりました、我らの救世主となられるお方よ」
「貴方様にはこれより、契約者を選んで戴きたく存じます」

「……それは、本気で言っているのか?」

 まるで段取りが決められていたかのように。淀みなく状況が説明される間、ずっと口を閉ざしていたオレが発したその言葉に、一瞬の間が生まれた。
 だが、それは発言していた者にとっては、ただ少しテンポを狂わされた程度のものであったようで。
 直ぐに、「戸惑うのも無理はありません」と、全てをわかった風な余裕の表情で頷いてくる。

「ですが、貴方様が御使いです」

 一寸の迷いもなく言い切る男に、幾人もの面々が深く同意を示してくる。
 だが。根本的に間違っている。話が噛み合っていない。
 戸惑いではなく、オレの中にあるのは単純な嫌悪だ。
 奇妙な話に怯えたのではなく、ただただ疎ましく思うという話だ。

 この世界はどこまでふざけるつもりか。


 何度目かの覚醒の後で、漸く説明された自分の状況は。これ以上はないくらいに滑稽で、最悪だ。
 胸糞が悪くて、それこそ狂ってしまうんじゃないかと思うくらいに。

 けれど。
 実際に狂うことは難しいだろう。

 そんな逃げが許されないくらいに、オレは向かい合う者達の『声』に抑え込まれている。
 今までのように、目を瞑り誤魔化すことも出来ないくらいの他人の意思が、勝手にオレの中へ入り、オレを犯す。

 御使いさま…と、盲信にオレを仰ぐ熱狂的なそれが、オレを貫く。
 厄介な…と、この騒動の原因をオレに置き恨むそれが、オレをえぐる。
 どうしてくれようか…と、その象徴を己に得ようと画策するそれが、オレを殴りつける。

 本気で、オレは妙なモノに認定されていて。
 この中では最早、真偽を問うなど意味がないのだろう。
 誰もが、オレを「御使い」としか認識していないのだから、オレ一人が抗っても無駄だ。

 だが。
 それでも、ぶつけられる膨大な感情に吐き気さえ覚えつつも、オレは片頬を引きつりあげて笑ってやる。
 まさに笑うしかない状況というやつだ。
 実際に耳を塞いだところで『声』が聞こえなくなるわけではないが、頭を抱えそうになる腕を組むことで抑え込み。粟立つ身体まではどうしようもないが、恐怖で慄くのを椅子に凭れることで堪え。
 尊大に見えるだろう態度で、わざと斜めに見てやる。

「オレが何であるのかを言っんじゃねぇーよ。あんた達のそれは本気かと聞いたんだ。世界がそんなことで救われるだなんて、おかしいだろう」
「いいえ、そんなことはございません。御使いであるお方が世界を混沌から救うのは、史実に則ったことでございます」

 神官長だと名乗った老人がそう言い、何度目になるだろうか恭しい仕草で頭を下げた。
 本気でオレを御使いとするのだということを、そんな態度で示してくる。

 しかし。
 そんな老人の本心は態度とは逆らしく。オレに向かってくる『声』は、全くの別物だ。
 後ろに控える、御使い狂いの『声』の方がマシなくらいに、この老人は完璧に、オレをモノとして見ている。慇懃な姿勢を崩しはしないが、腹の中ではいかにしてオレを操るか計算しまくっている。

 この接見に賭けるその必死さは、胸の内を隠せば隠す分だけ滑稽だ。
 後ろに控える、この国の宰相やら王付き秘書官だのなんだのといった奴らにさえ、その腹黒さはバレているようであるのに。若いオレならば騙せると思い込んでいるのか。ご苦労なことだ。
 たとえオレを騙せたところで、上手くことは運ばないだろうに。

 この部屋は今、早くも「御使い」の奪い合いが始まっている。
 大きく言えば、世界の神殿を纏める聖殿の神官達と、オレが一番初めに身を寄せることになったこの国との間で。

 だが。
 単純に、争いはこの二者だけで終わるものではないようだ。
 どの国も、誰もが、吉兆である「御使い」を欲している。
 確かに、老神官長の力は強いようだが。神官達の本心はバラバラだ。勿論、この国の奴らも同じ。

 皆がみな。それぞれに、史実だか何だか知らないが、御使いに対する思いを当然のように持っているようで。
 誰もが強い意志を心に抱えている。
 ここぞとばかりに溢れ出し垂れ流れるその感情は、不快以外にない。

 鳴り響く『声』は、生身の声がかき消えてしまうくらいに膨大だ。
 いかにオレを手玉に取るか。いかに相手を蹴り落とすか。その打算が目まぐるしく回る中では、本当に、未だ純粋に「御使い」に心奪われている狂人など、可愛いものである。

 しかし。
 鬱陶しいことに変わりはなく、それがオレに呼吸を与えるわけでもないが。


 オレが動くたび、声を発するたびに、狂ったように騒ぐ神官の、その狂信はどこまで行くのだろう。
 もしも、オレが何かを求めたら、叶えようとするのだろうか。
 例えば、この場で死ねと言ったら、この男は死ぬのだろうか。

 逆に、この老神官は。
 気に食わぬことを言えば、直ぐにオレから「御使い」認定を外しそうだ。
 使えないと判断したら、躊躇いなく処分しそうだ。
 信仰心はあるのかもしれないが、ナマグサそうな男だ。


 現実逃避気味にそんな事を思いながら、オレは神官達から視線を反らし、傍らの犬を撫でる。
 他の面々と違い、やはり一切の『声』を発しない飼い主の代わりのように。犬がオレの愛撫に、気持ちよさげに目を細める。
 心を隠す術も持たない生き物は、そうして、心配げに小さく鳴く。

 オレの心情を察し、大丈夫かと問うようなそれに。
 オレは、撫でる手に少し力を入れる。

 この部屋で、大丈夫な奴は一人もいない。
 まともな人間は、オレを含めて、誰もいない。


2011/06/27
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