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「貴方さまは、ご自身がなんとおっしゃいましょうが、御使いで在らせられるのです。こうしてここに居る以上、それを崩す訳には参りません。曖昧な対応は、危険を生むだけです。個人の感情としましては、貴方さまが侍従を遠ざけたいと思う気持ちは、少なからずも理解出来ますが。国として、御使いさま御身をお預かりしている以上、貴方さまの意に沿わぬものであっても従っていただかねばならぬこともあるのです」

 どうか、ご理解くださいと。
 そう言う宰相から感じるのは、オレのような白々しさはなく、むしろ真摯なものであったが。

 オレを見極めようとするかのような意思が、感情のままに『声』を吐き散らす連中と変わらない不快さを与える。

「黙れ」

 組んでいた足で、オレが長椅子の前のテーブルを蹴りつけると。
 宰相の脚にぶつかり、上に乗っていた花瓶が倒れた。
 ごろりと転がったそれが、落下し床で砕ける。

 短い叫びを上げた少年が、まず、近かった宰相に歩み寄ろうとしたが。
 流石に顔を顰めた男は少し身を捩り、それでも、大したことではないというように少年を片手で止めた。

 そうして。
 ただ、オレを見る。

 どこまでも静かな、イヤな眼だ。

「この国の立場など知ったことか」
「貴方さまの安全の為です」
「それは、あの侍従達が護衛も兼ねていたとでもいうのか? いや、むしろ監視か? 何にしろ、ならば余計に弾いて正解だったって話じゃないか。そもそも、オレは安全など微塵も望んでいないのだからな」

 オレのその言葉に、宰相が僅かに表情を変えた。
 その頭に浮かんだのは、先日の、オレと聖殿であったことの報告だ。

 勝手に聖殿へ足を向けたのもさることながら。
 どうやら、神官達に対しケンカを吹っ掛けたのが気になるらしい。

「オレと違い、アンタは沢山の侍従を持っているんだろう? さっさと帰って、手当をして貰えよ」

 骨に異常はないだろうが、机をぶつけた脚は相当に痛いはずだ。腫れているだろう。
 そんな言葉で、オレは宰相に退室を促し、席を立つ。

 この男が、オレを見極めようとしているのは。オレが国や世界の今後に関係あるからだろう。
 なのに。
 いい加減なオレの態度に対して、苛立ちも沸かしていない。その静かな意志の向こうにあるのは、困惑だ。
 無茶をするオレの身を案じているような、戸惑いだ。

 どうしてこの御使いは、自らを追い込むようなことをするのだと。手を焼かされながらも嘆くわけではなく、真意を見ようとしているばかりの『声』に。けれども確かに混じる、その思いはまるで。
 まるで、息子を案じるかのような、父親みたいなそれだ。
 もしかしたら、オレと似たような年の息子が居るのかもしれない。そんな年代だ。

 だが、オレはそんなもの、知らない。
 父親も、大人も、オレにとっては何の価値もない。
 微塵の気持ちも要らない。

「リョク。お客サマのお帰りだ。見送ってやれ」
「あっ…、……はい…」
 
 語尾が頼りない返事を聞きながら、オレは横顔に感じるふたつの視線を弾き、汚れた床を見下ろす。

 砕け散った花瓶に。
 するべきことを示される。

「あ! ま、待って下さい! 今、片付け道具を持ってきますから、触れないでください!」
「…ああ。悪いな、頼む」

 伸ばした手で、横たわった花を手にすると。
 一瞬警戒しかけた少年は大丈夫だと判断したようで、宰相に声を掛け居間を出る。
 帰らせろと言ったのに、後回しにするようだ。どこまでも役に立たない。

 それでも、止める気はなく。
 駆ける足音を聞きながらオレがその場に屈むと、宰相が近付いてきた。
 オレが思う以上に、この男の脚は丈夫なようだ。

「御使いさま、そのままで」
「ああ。だが、オレのせいだから片すくらいする」
「いえ、リョクに任せてください」

 オレを促すよう、そっと肩に触れた指先が。『声』にも滲んだ、男の戸惑いを伝えてきたが。
 花の上に乗った、大ぶりの破片を手にしたオレには、それは取るに足らないものだった。

「御使いさま…?」

 衝動、というほどのものでもなかった。
 ただ、息を吸うかのように、何の意識もすることなく。

「御使いさまッ!」

 次の瞬間には、オレはその切っ先を左手首に突き立てていた。

 破片を握った右手からゆっくりと血が滴り始めたが、陶器を埋めた手首は滲んでさえいなくて。
 何も考えずに、力一杯に薙ぎ払う。

 払った勢いで右手から離れた花瓶の欠片が、宙を飛んで落ち、床を滑った。
 それを追った視界が、一瞬にして赤に染まった。

 勢いで右手から離れた花瓶の欠片が、宙を飛んで落ち、床を滑った。
 それを追った視界が、一瞬にして赤に染まった。

「リョクッ! 誰かッ!」

 誰か来い!と焦る声に、なんてことを…と慄く『声』が重なる。
 何度か瞬き得た視界で、オレは宰相の蒼白になった顔を下から見た。
 その顔にも、服にも、先程までなかった赤が加わっている。

「御使いさま…! 今、止血をしますから動かないで下さい!」
「……別に、必要ない…」

 見ていただろうに、おかしなことを言う。
 自分で刺して、止血を望むヤツがいるか。バカだろう。


 あの時だって。
 オレはそんなこと、全く望みはしなかった。

 それなのに――。


「……汚したな」

 オレの手首を握り締める男に、悪い、と言おうとしたが。
 血で濡れたその服に対する謝罪は、口から零れなかったのか。
 オレの中で冷たく響いた。

 何も感じない。
 なのに、寒い。

 倒れているのに気付き、起き上がろうとしたが無理で。
 床についた頬にまで流れてきた血に、感覚が一切掴めない腕がどうなっているのかを知る。

 手首を掻き切ったのは、一瞬のことだっただろうに。
 何時間も前のことのように思えた。
 遠い昔の出来事のように思えた。

 そんなわけがないのに、おかしなものだと。
 オレは声を上げて笑ったが。
 鼓膜の中で響いたそれに、脳を直接揺さぶられたような感覚になり。
 眩暈に逆らわず、意識を手放す。


 これが終わりでも、構わなかった。


2011/07/24
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