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最初にオレの妙な能力に気付いたのは、母親だ。
オレよりも先に、彼女がオレの異質を見抜いた。
そして、畏れた。
母が父との離婚を選んだのは、夫の無関心よりも、オレに原因があったのは間違いなく。
彼女はオレから逃げたのだ。
オレが自分のおかしさを意識したのは、母親が抱く恐怖を感じとってからだ。
それまでは、他人が口にせずとも何を考えているのかが判ることは、耳が音を拾うのと同じように、ごく普通のことだった。
オレよりも先に、オレの異常に気付いた母は、小さな実験を繰り返した。
たとえば、声には出さずにオレを呼んでみたり。無言でオレを詰り、泣かせてみたり。
そして、その度にオレは畏怖の目を向けられた。
しかし、それで追いつめられたのはオレではなく母だった。
母がオレの異常を確信し訴えたのは、当然、父だ。
おかしいと。あの子は私の考えていることがわかるのだと、恐怖交じりに訴えた。
けれど、彼女のそれは、夫には伝わらなかった。
息子が母親の顔色を読むのは当然だろうと、気にし過ぎだと父は取り合わず、逆に母は窘められていた。
子育てはキミの仕事だろうと。
畏れながらもオレの世話をしていた母が精神を病んだのは、オレが小学校に上がったころだ。
まず、同じ空間に居るようなことがなくなった。
続いて、籠った部屋からわめき声や泣き声が聞こえるようになった。
その頃には、長年自分に畏れ続ける母親のお陰で、オレも己のおかしさを何となくだがわかってきていたので。
最早、悲しいだとか、辛いだとかの感情は浮かびもしなかった。
来るべきときが来ただけのことだと、恨みや悔しささえも持ちはしなかった。
母が世界の全てだったような、幼い頃ならともかく。
学校に上がり、他人の中に入り込むようになったオレには、母にだけ構うような余裕はなかった。
自分を貫く凶器は、常に四方八方から飛んでくるような暮らしの中で、縋りもできない母親はむしろ重荷であった。
漸く、妻がノイローゼだと判断した父は、彼女を病院へと入れた。
当然、オレは父と二人の生活を始めることになった。
家庭や家族という概念が薄く、子育てに参加する気はゼロで、息子への関心など皆無に近かった彼にとって。
思わぬ誤算のような事態だったのだろう。
家に居る父は常に不機嫌で、妻や息子に対する不満を隠しはしなかった。
役に立たない母親だと、可愛くない子供だと。全てが面倒だと。
潔いほどに、言葉でも態度でも、隠さず俺に見せ付けた。
そんな父親との生活は、オレにとって壊れた母とは違った意味で苦痛だった。
嫌悪はお互い様で、今更、彼のそれに傷つく子供ではなかったが。
ただ、単純に。彼の気質が、オレには合わなさすぎた。
父とは朝と夜に少し顔を合わす程度でしかなかったが、オレはストレスを溜めていたようで。
発散の仕方を知らなかった子供なオレは、一時退院した母親の前で爆発させた。
傍で聞いていた父にとっては、何でもないもののように聞こえたのだろうが。
オレは、少し落ち着いたという母を前に、彼女の心境をあえて言い当てた。
それは、些細なことであったが。
母にとってはそうではないのを知っていて、わざと口に乗せた。
そんな風に、胸中をオレに見透かされているのだと、言葉で証明されるのを。
オレの妙な能力に触れるのを。
ずっと畏れ続けていた彼女にとってそれは、絶望への入り口だったのだろう。
あの時、恐怖に眼を見開いた母親の顔を、オレは未だに覚えている。
その結果に満足した自分自身も、だ。
母親はその日のうちに、姿を消した。
真夜中、夢うつつのなかで、オレは彼女が逃げるように出て行くのを感じ取ったが。
止めようという気にはならず、そのまま眠りへ落ちた。
翌朝、母親の居なくなった家で。
オレも父もいつものように起きだし、いつものように何も喋らず、互いに日常を始めた。
アレから母がどうしているのか。
どこかでオレを忘れて生きているのか、未だに怯えて隠れているのか、死んでいるのか。
一切オレは知らない。
ただ、オレに残ったのは。
自分の本質が一人の人間を追いやったのだという事実と。
母の失踪の原因は自分だというその真実だけで。
オレにとっては苦手な父親との生活がこれから続いていくのだとの、楽しさなど欠片もない未来だけだった。
そう。
互いに血を流すほどの諍いは。
あの時からの、必然だったのかもしれない。
意識の浮上とともに、体のダルさを覚えた。
どこまでも沈みこんでいくようなその感覚に、息が詰まる。
ゴルフボールに塞がれているような感覚だ。
何度も喉を鳴らしながら何とか空気を取り込んだが、二度目のそれはざらついた何かに邪魔された。
薄く瞼を押し上げると、顔の前に犬がいた。
見ていると舌が伸び、オレの口と頬を舐めていく。
最悪だ。
動物と唾液を交わす趣味はない。
オレは目を閉じ、うつぶせる様に顔をシーツに埋める。
動かした身体も、塞がれる息も苦しかったが、犬に舐められるよりはマシだ。
眼球までもがピリリとした刺激を発する使えない身体に内心で悪態をつきながら、オレはそのまま固まった。
本当に、気分が悪い。
何だ、これ。
ふざけるな、だ。
吐くと言ったものを通り越し、表面だけを保っているだけで、身体の中は全てが混ぜくちゃになったような感じだ。
この思考すら、どこでしているのか掴みかねる。
それでも、長いのか短いのか判断付かないが、徐々に落ち着きが生まれていき。
耳の中で脈打つ血潮と、鼓動を刻む心音を聞きながら、ダルさに慣れた中でもう一度眼を開き首を回す。
変わらず、犬はそこに居た。
オレが眼を開けても今度は気付かないようで、前足に顔を乗せて瞼を伏せている。
寝ているのかどうかまでは分からないが、このまま大人しくしていて欲しいものだ。
ゆっくりと頭を動かし犬の向こうを見ると、見覚えのない部屋だった。
用意されていた部屋の寝室ではない。視線の先にある扉は、ワンランク上がった感じのそれだ。
豪奢過ぎて、鬱陶しい。
どこだろうと一瞬思ったが、どこであろうとここはフザケタ世界に変わりはないと、息を吐き頭を枕に戻す。
元の世界でも、神に縋る世界でも。たとえ、死後のそれでも。
意識があるのならば、この能力があるのならば、オレにはどこであれ変わりはない。
閉じそうになる瞼を、何度も瞬きをして堪え。乾き過ぎていて出ないだろう声の代わりに、胸の中で目前の動物を呼ぶ。
ピクリと耳が動いたと思ったら、クイッと犬が顔を上げた。
呼んだ? ナニ?と、鼻先を近づけてくる。
オレは、人の心の『声』が聞こえるが。
コイツも、オレの『声』がわかるようだ。
行けと命じると、ペロッと小さくオレの頬を舐め、犬がベッドから降りた。
ほんの少し開いていたらしく、ドアの隙間に鼻先を突っ込み身体で無理やり押し開けながら、部屋から消える。
その姿を見ながら、オレは何の慰めにもならないはずなのに、犬が自分の『声』を聞いたことに対し、小さいが確かな歓喜を胸に浮かべた。
同じ能力があるといっても、それは犬であるのに。
思いのほか、慰められる。
「まだ熱が高いな」
額に何かが触れる感触と同時に、そんな言葉が落ちてきた。
いつの間にか閉じていた瞼を開けると、掌があった。
続いて、指の腹で目元を擦られる。
「辛いのか…?」
何度も往復する親指に細めた眼で、オレは口でしか語らぬ男の姿を捉える。
この国の、王だ。
名前は……何だっただろうか。
「今は、何も考えずに寝ろ」
離れた手が、オレの身体の上にそっと置かれた。
言うことを聞けというように、ポンと軽く一度打ち、傍らの犬の名を呼ぶ。
主人に呼ばれた犬は、再びベッドに上がり、オレの横で寝そべった。
ここに犬が居るその犯人は、この男であったようだ。
寝ろと言いながら、ペットを寄越すとは。意味がわからない。
犬は、邪魔でしかない。
こいつの思考回路はどうなっているのだろう。
聞こえないとわかりつつも探ろうとしたが、何故かそれすら出来ず。
向けられた言葉を反芻しながら、目の前の人物を諦めて部屋の外へと意識をやろうとするが、それも出来なくて。
一瞬で沼の中へ落ち込んだような、全てにおいて不自由さを感じながら。
オレは、抵抗せずにそれに身を委ねた。
2011/08/31