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 電気仕掛けのロボットのように。スイッチが入ったが如く、パチリと目が覚めた。
 身体を起こしながら、髪を掻きあげて。
 左手に巻かれた包帯に気付き、現状を思い出す。

 ああ、そうだ。
 手首を掻き切ったんだった。

 一度起きた時は酷くダルくて気分が悪くて、犬が居て、その飼い主が居たけれど。
 その名残は一切どこにもない。
 手首に巻かれたそれがなければ、忘れていた程だ。

 ベッドから離れた窓にはカーテンが引かれていたが、その向こうに光はなさそうで、夜のようだ。
 どのくらい寝ていたのだろうか。
 ひどく喉が渇いている。

 裸足のまま床へと足を降ろし、真正面に隣室へと続くのだろうドアを捉えて集中する。
 侍従の少年が居る。
 その向こうには、相変わらずの兵士もだ。

 だが、この場には居ない。
 それは、自傷を止める気はないということだろうか。
 兵士は、逃亡の監視か。
 侍従の、護衛か。

 捉えようと思えば限界がないくらいに人の存在を追えるし、『声』も聞こえるのだろうが。
 探る気など更々なく、自身の状況を知る必要もないので、オレは真っ直ぐドアへと向かうことにした。
 身体は普通に動き、問題はない。

「気分はどうだ」

 ゆっくりと重いドアを開くと、そこには犬が居た。
 オレを待ち構えていたように座りこみ、見上げてきているそれと眼を合わせると同時に、声も届く。

 顔を向けると、長椅子に男が居た。
 この王様は、オレに同じ事ばかり聞いている気がする。

「ヴィス、退いてやらねば御使いが困っているぞ」

 オレが向けた視線に何を読んだのか。小さな笑いを含んだ声で、飼い犬を窘める。
 注意を受けた犬はスッと腰を上げると、まるで猫のようにオレの足元に一度身体を擦りつけ、そうして主人の許へと戻っていった。
 その、先導するかのような姿態に促され、オレは絨毯の上で素足を滑らせる。

 寝室同様、知らない部屋だった。
 ひとことで言えば、豪奢。だが、悪趣味ではないが、強烈である。
 無駄に煩い。

「私の部屋だ」

 室内を見回したオレにそう声を掛け、男が長椅子から腰を上げた。
 空いたそこに、仕草だけでオレに座るよう促すと、自分はその場を離れる。

「リョク、飲み物を」

 手にしていた書類を窓際の棚に仕舞い、声を掛けながら男は壁の向こうに姿を消した。
 犬が一瞬どうしようかと首を巡らせたが、椅子に腰掛けたオレに倣ったように足を降り、オレの足元で床に伏せる。

 今さっきまで寝ていた隣のそれが、客間か寝室かはわからないが。
 そういったものがあるのならば国王陛下の、私室だろう。雰囲気も、執務室といったそれではない。
 私室なら私室で、男の好みを疑うようなものでもあるが。

 まあ、あの男がこの装飾過多な部屋を好んで作ったとは思えない。
 拘りなどなさそうな人物だから、代々の王様部屋と言ったところなのだろう。

 だが。
 何故オレがそんなところに居るのか。
 あの与えられた部屋で何が問題だったのか。

 嫌がらせならば、的確ではあるが。それをする意味もないだろうし。
 王の私室に放り込まれているのを、どう考えるべきなのか。
 監視、監禁。それとも、今から説教でも始まるのだろうか。
 もし、あの男も御使いを奪おうとしているのだとするならば。
 今のオレに、どんな対処が出来るだろう。

 今さっき、『声』どころか気配すら捉えられなかったような男の弱みを、自分が掴めるとは思えない。
 駆け引きなど、あの男には通じそうにない。
 役立つのだとするならば、この足元の動物だろうか…。

 見上げてくる犬と視線を合わせ、具体的な利用法を考えかけたところで。
 思考を遮るほどの弾けた『声』が届き、同時に足音が響いてきたことで途切れた。

「御使いさまッ!!」

 本物の声が『声』を上回り、オレに届く。

 茶を頼まれたはずの侍従が、手ぶらでオレの許まで駆け寄り、オレの前で床に膝を付いた。
 隣に並ぶ犬と同じことをしているのだとは、気付いてもいないのだろう。
 少年は忙しなく、良かっただとか申し訳ありませんだとか、感情のままに涙声で言葉を紡ぐ。

 オレが死ぬかもと心配していたらしいことが、向けられる『声』でわかった。
 それは、純粋にオレの命を思ってのようなもので。無事な姿に、本気で感極まっている。
 自分が生き残っていることに、当人としては白けるほどの熱だ。
 息苦しい。

「…喉が渇いた。水をくれ」
「は、はいッ! 只今お持ちします!」

 お待ち下さいと、両手で顔を擦るようにして涙を拭った少年が立ちあがり一礼すると、嬉しげに笑って駆け戻っていく。
 オレが自ら死を呼ぼうとしたのを知っているのに、ここにオレが居ることを喜ぶ『声』は、本人が姿を消してもオレに届いてくる。

 ひとつ深く息を吐き、その向けられる感情に怯えそうな心を理性で落ち着かせようと、視線を犬に戻し手を伸ばす。
 大丈夫だ、大丈夫。問題ない。
 そう呪文のように繰り返しながら、何も拾い上げないように努める。
 聞こえるもの全てに手を伸ばしていたら、オレは直ぐに狂うだろう。流す以外にない。

 伸ばした指先に鼻を擦りつけてきた犬が、舌を出し、オレの左手首を舐めた。
 放っておくと包帯を唾液で濡らすほどに、何度も繰り返す。
 犬の食欲を刺激するクスリでも塗られているのだろうか。

「ヴィス、そこまでだ」

 声と一緒にオレの背後から腕が伸び、オレの腕を掴んだ。
犬から遠ざけるように持ち上げられる。
 振り向けば、男がいて。その向こうに、中年の女がいた。

「医術師のナッツイだ。お前の専任にした」

 男の言葉に頭を下げた女が挨拶をし、オレに診察の許可を乞うた。
 体調は悪くないと、面倒なのでそう答えるが。せめて包帯くらいは取り替えさせてくださいと、喰い下がる。
 そこへ少年が飲み物を持って来た。
 右手でカップを受け取る間に、左手を拘束される。

 見ると、紹介後は傍観を決め込むかと思った男が、オレの手を取り包帯を外していた。

「濡れたままでは気持ちが悪いだろう」

 しれっと、犬の飼い主がほざく。
 誰のペットでそうなったのか、気にもしていない声音だ。

 ゆっくりと包帯を外し終えると、男は身体をずらし、その場を医者に譲った。
 失礼しますと断った女に、オレは大人しく腕を預ける。拒否するのも逃げるのも面倒で、勝手にしてくれというものだ。

 だが。
 指がそこを撫でる感触に、背中が震えた。
 その悪寒に、身体も揺れる。

「も、申し訳ありません…、痛まれましたか」

 耐えたつもりだが、オレの変化に気付いた女医が、躊躇いがちに言った。
 外した包帯の先を目敏く捉えて噛む犬の顎を、窘める様に撫でていた男が、目線だけを動かしオレを見る。

「あの、」
「もういい」
「ですが、まだ、」

 女の手から自分の手を取り戻し、オレが腰を上げると。
 躊躇う女医に、男が助けを出す。

「傷は粗方塞がっているようだな」
「はい。化膿の心配もないご様子ですし、安心していただいて結構です」
「では、軽い塗り薬だけで充分だろう。それを頼もう」

 王の言葉に、オレの傷への未練を残しつつも、食い下がることはなく。
 女医が小さな瓶に入ったそれを取り出すと、男は自ら受け取り、退去を促した。

 丁寧な挨拶を述べて退室する女医の、抑えきれぬ好奇心を振り払い、オレは改めて手首を見直す。

 大量に血を流したその箇所は、流石にまだ完治せず、薄い色の肉を見せていたが。
 その傷は、全く深くはなかった。ちょっとした傷程度のそれだ。
 女医が興味を示すのも当然だろう、驚異的な治癒が働いているらしいことが伺える。

 正確にどれだけの時間が経ったのかわからないが。
 普通は死んだだろうあの出血量で、いま、オレは普通に動いているのだから。
 それだけでも、呆れ果てるしかないようなものだ。

 あの女医は、先にもオレの手当てをしていたのだろう。
 オレ以上に、尋常でない治癒の早さに息を飲んでいた。
 貪欲に、その真理を求めていた。
 心の中で、目の当たりにしたものに、医者として凄いとただ感心し。
 この世界の者として、御使いを崇めた。

 触れられた瞬間、不意打ちのように届いたその歓喜に、オレは慄いたのだ。

 気味が悪い、と。
 
 こんな異質を喜ぶヤツも。
 こんな異質を抱える自分も。


2011/08/31
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