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「湯を使った後でいいかと思ったが。まだ先にもう一度休んだ方がいいのかもしれないな」
いつの間にか、傷を押し裂くように爪を立てていたらしく。
そんな言葉でやんわりと、両手を取られた。
右手は直ぐに放され、脚の上に返されるが。左手は、握られたままだ。
「塗っておこう」
左手でオレの手首を掴んだまま、器用に右手のみで小さな瓶のふたを開け、指先で中身を取る。
何で作られているのか黒いそれを、男は人差し指でオレの手首の傷に塗り込んだ。
そんなものを付けなくとも。
きっと直ぐに、傷は消えてしまうのだろうに。
「痛かっただろう」
ポツリと、その淡々とした行動には似会わない言葉が落ちた。
「……ナニが」
「治癒力が高くとも、痛覚がない訳ではないだろう」
「…………」
だから、なんだ。
痛いのはオレであって、この男ではない。
こうして死んでいないのだから、御使いを失わずに済んだ男にとって、そんなことはどうでもいい話だろう。
何を言い出すのやらだ。
痛いのは嫌いだろう。だから、もうこんなことはするなと。
子供に教えるかのようなことを、この男は言わんとしているのだろうか。
だったら、これ以上のふざけた話もないだろう。
オレを痛めつけているのは、『声』はなくとも、この男も同じ。
この世界の全てなのだから。
だが。
確かに、そう思ったが。
実際には、怒りも、可笑しさも、何ひとつ。オレの中では、浮かび上がって来なかった。
この状況で、オレのそれになど誰ひとり意識を向けていないのだろうに。
誰よりもオレを御使いとして扱わねばならぬのだろう男が、こんなことを言うその事実だけが、ただオレの中に落ちて解ける。
「……アンタ、変だな」
「痛いのは誰だって嫌だろう。少なくとも、私は嫌いだ。自ら進んでそれを受けたいとは思わないし、知っている者がそれを味わっているのも得意ではない」
オレの評価を、反論と取ったのか。
そんな言葉で男は答え、傍らの犬に眼を向ける。
「ヴィス、お前もそうだろう?」
主人の言葉に、顔を上げていた犬が、そのままクンッと小さく鼻を鳴らした。
オレは自虐に走った哀れな子供とでも思われているのか、何だか慰められているようだ。
そんなもの、必要ないのに。
「そんな話はしてねぇ」
オレは短く息を吐き、手を取り戻して椅子に深く凭れる。
長椅子の肘掛に半身を預け、斜めに男を見る。
「そもそもこれは、丁度いいものがそこにあったから、少し実験しただけだ。何を警戒しているのか、オレの周囲には一切その手のものがなかったから、ヤツらが言うような高い治癒力が本当に自分にあるのかどうかを確かめただけだ。痛いだのなんだのの話じゃねぇーよ」
「そうか」
「そうだ。それより、オレが言ったのは。アンタは王様なんだろうってことだ。王なのに、変わっちゃいないかって話をしたんだ」
「そうだな」
オレの言葉に二度、少し言葉は違えど全く同じように頷く男に、オレはそれ以上の言葉を失くす。
微塵の反論もない頷きは、何を言っても言うだけ無駄になりそうなそれだ。
自分は気に病むような発言をしておいて、ひとの話を無意味なものへと変化させるような男に、真面目に対峙するほどオレは物好きではない。
思いやるような言葉を口にしておきながら、何も相手に期待させない、与えない冷淡さを匂わせる。
犬に対するような深さを見せたその後で、簡単に全てを消す。
この男の、言葉と態度は、比例していないらしい。
それに気付き、唐突だが、少しだけ。
この男の『声』が聞こえない理由が、わかったような気がした。
オレに一切の興味がなく関心も感情も向けていないから、だとか。隠すのが上手いのだとか。そういう風に思っていたけれど。
この男は、オレではなく。
自分自身に関心がないのかもしれない。
そもそもがこの男に、『声』は存在しないのかもしれない。
そう。
オレが捕えるのは、あくまでも相手の声だ。
音にはしないそれであって、決して、頭の中を覗いているわけではない。
『声』だとて。
発さない限りは、聞こえない。
だが、普通。誰もが。
聞かれるなど思ってもおらず、無意識に『声』を発するのだ。
オレの能力を警戒しているわけでもないのだろうに、何も言わぬこの男のこれは、ある種の異常だ。
「……やっぱ、おかしいよアンタ」
瞼を閉じ、集中してもそこに何も見えず。
眼を開けて、静かにオレを見るその眼と重ね、オレはもう一度その言葉を口にする。
おかしい、と。
先程は呆れたそこを、少しの畏れに変えて。
今度は、男は何も答えなかった。
頷かず、ただ見てくるその静かすぎる眼から、オレは視線を外す。
そう言えば、と。
意識して、話題を変える。
「オレは、どうしてこんなところに居るんだ」
「血塗れになった部屋に御使いを閉じ込めねばならぬほど、拘束しているわけではないからな」
「へえ、そう」
オレはそれ以上の束縛を感じていたがな、と。
ここに居るのは、要は檻を更に強化したというわけじゃないのかと。
短い応えにそれを隠さず込め、オレは視線を落とす。
記憶に呼び出されて頭の中に広がったのは、赤い血ではなく。
先程見た、傷跡で。
あの鋭く尖った陶器を突き立てたにも拘らず、こうして生きている自分の存在に、喉の奥が勝手に震える。
改めて、オレはみなが言う御使いで間違いないのかと。
奇しくも証明することになった傷を指先で撫でながら、失望を覚える。
もとの世界よりも、この世界の方が。
オレの死は、遠い。
「この部屋は気に入らないか?」
「オレの趣味じゃない」
「私の趣味でもないが、拘るほどのものでもないだろう」
「煩い」
「では、処分させよう」
「……オレはこれからここに居るのか?」
部屋を移したのは一時の話ではないのか、と。
それは、何かをしでかすかもしれない御使いを、王自ら見張るという話かと。
平坦なままに落とされた爆弾に、本気なのかと胡乱に見やれば、小さな笑みを口元に浮かべた男と目が合う。
「新しい部屋がここでは問題か?」
胡散臭さはゼロの表情だが、信頼感も同じであるその冷めた音に、言葉が空を漂った。
男のおかしさが、また一つ示される。
改めて、華美な部屋を傾いた視界のまま眺め。
オレは、姿は見えないがどこかで控えこちらを伺っている少年へ意識を飛ばす。
集中して探るまでもなく、問題ですと彼の『声』が即座に飛んできた。
既に新たな部屋は別に用意されており、後はオレが入るだけで完璧らしい。
王のお言葉でも、ここでは駄目ですと。まるで自分のことのように必死に、ここでは御使いさまは落ち着かないし危ないしと、内心で幾つもの反論を叫んでいる。
胸中とはいえ、それを上手く隠し繕う術など持たぬ少年は今、きっと顔を盛大にしかめて耐えているのだろう。
ご苦労なことだ。
壁の向こうの人物のそれを労いながら、椅子から腕を垂らし掌を向けると、犬が腰を上げて近寄りオレのそれに頭を押し付けてきた。
撫でてやりながら、男に言葉を向ける。
「アンタもオレの血を浴びてみたいのなら、問題はない」
「一人で流されるよりはマシだ」
「痛いのは嫌いじゃなかったのか」
「ああ、そうだ」
だが、堪えられぬことではないと。
男は、どちらにしても本意など感じぬ温度で、そんな言葉を口にする。
そもそも、他人が流す血など、不快を乗り越えられれば取るに足らぬことだろう。
何により、言葉にするような弱さも繊細さも何も、この男にはまるでない。
その言葉が似合わないわけではないし、率先することもないと思うが。
それでも。
もっと冷酷に、冷淡に。
それこそ、血まみれのオレを前にしても、一切感情も表情も変えぬだろう男を、容易に想像できるのも事実。
戯言と本心の境界線が不確かな発言と同様、見せる姿と見せない姿が、男を朧に霞ませる。
2011/08/31