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いつの間にかオレの手を食み遊んでいた犬からそれを取り戻し。
オレは体を起こし、座る男を見下ろす。
見上げてくる瞳は、なぜか泣きたくなるほどに、何もない。
「まだ万全ではないのだろう」
目の奥の乾きに瞬きを繰り返しながら、とにかくもう一度休めと言ってくる男をそれでも見ていると。
男はオレに言うのは諦めたのか、少年が動きたそうにでもしていたのか。
「リョク。御使いを」
「はい」
短く放たれたそれは、柔らかくさえあったのに。
完璧な命令だった。
突然、一国の王が現われる。
だが、それに違和感を覚える者は誰もなく、オレもまた当然のように促され。
声が掛かるのを待ちわびていたような少年はまるで本当の犬で。本物の犬もまた、主人よりもオレが気になるのか、腰を上げて傍につくものだからおかしくて。
内心ではそんなことに笑いを覚えつつも、オレは意識せずに口を開く。
「――名前」
御使いと、侍従相手に使われたその呼び名が、耳奥で揺れていて。
声に出した途端、欲求が膨れ上がった。
「早く決めろよ」
寝室への扉の前でそう言い、怪訝に振り返る少年の視線から顔を背けるように。
オレは、男へ視線を戻す。
「アンタが決めないから、オレは名無しで。いつまで経ってもフザケタ名で呼ばれる」
あんたのせいだとの気持ちを見せつけるように、オレがそんな言葉を向けると。
一国の王は変わらずに床に膝をつけたまま、オレを見返し、静かに口を開いた。
一切の躊躇もないそれは、まるでオレの言葉を予期していたように。
待っていたかのような、用意していたかのようなスムーズさで紡がれる。
「そうだな。では、ユイーラにしよう。ヴィスとは兄弟のようなものだから、それがいいだろう」
「意味がわからない」
そう言った端から、傍の少年の『声』で答えを知る。
犬の名とその名は、この国では見られない双子星の名前であるらしい。
「気に入らないか?」
少し目を細めてそう尋ねた後。
男はオレの答えを待たずに、自分で決めておいて確かに響きが合わないかなどと口にしつつ小さく笑う。
その顔は、何故か自嘲じみて見えて。
実際拘りなどないのだから、構わないと答えかけたのだけれど。
「ならば、ユラと呼ぼう。どうだ?」
オレが口を開くより早く、男が先に訂正を入れる。
「構わない」
似合おうが、どうであろうが、何でもいい。
とりあえず耳障りなものでなければ、名無しでもいいくらいだ。
そのオレの気持ちを汲んでか、早速少年にオレの呼び名を指示する男に。
オレは思いつきついでに、もうひとつ問いを投げる。
「アンタは?」
わからないのか、短いオレのそれに男が目を細める。
「アンタの名前」
質問を理解した男が、軽い謝罪を口にしながら立ち上がり、まっすぐとオレへ身体を向け姿勢を正した。
「私は、キアノ・ジルフォークだ。キアでいい、ユラ」
立ち上がってからの男の言葉に続くよう、ワンと軽い声で犬が吠える。
少し身を屈め、挨拶をしたような犬を褒めるように目元を和らげる男に背を向け、オレは寝室への扉をくぐる。
ベッドに腰掛け、世話を焼こうとする少年を遠ざけて。
動いたからか、確かなダルさが体の奥にあるのを感じながら。
オレは、剥き出しの傷を改めて見る。
赤い肉に、黒い薬を塗ったせいで、気味悪い色となっているが。
触れても痛みはない。
この傷がなければ、掻き切った事実すら消えてしまいそうなほどだ。
流れた血さえも復活したのか、もう眩暈すらない身体は。
あの、肉を切り裂く感触を、裂かれる感覚を、覚えてはいない。
異常なほどの、自己再生能力の高さだ。
痛みさえも、消している。
こんな風に、記憶さえも誤魔化せるのならば。
オレのこの途方もない苦しみも、けせばいいのに。役立たずこの上ない。
親指の腹で、左手首に走るそれを撫で。
このままもう一休みしている間に、きっとこの傷も消えてしまうのだろうなと、漠然とだが思い当たり。
突如として加えられた自分のそれを実感し、凪いでいる心とは別に、腹の底で何かが溜まっていく気がした。
一体、オレは、どこまでいくのだろう。
見知らぬ世界で。
言葉にはされぬ『声』を聞き。
死を一層遠ざけて。
オレは、何になるというのか。
もう一度、まだ消えずに残る傷を見つめ、右手で強く握り締める。
血が致死量に達するよりも早く、まるで瞬きを数度するうちに傷口は塞がれたのではないかという勢いで、ここは修復されたようだ。
あんなにも血が飛び散ったというのに生きているのは、そういうことだ。
ならば。
自らを刃物で傷つけ死にたければ、オレは死の直前まで意識を失わずに、自分を切り刻まねばならないのだろう。
刺すのではなく、切り落とせばよかったのか。
いや、それでも、傷はふさがるのだろう。
それこそ、一度離れたそれでも、合わせればあっさりと接合するのかもしれない。
もはや、化け物だ。
脈打つ血潮を手のひらで感じながら、予想ではなく正しい答えとして、そんなことが頭に浮かぶ。
人間では有り得ないその能力に対して思うのは、心底呆れるでも慄くでもなく。
ただ、忌々しいということだけだ。
どこまでオレというヤツは、オレを裏切るのだろう。
何故、唯一望むものを、オレから遠ざけるのだろう。
自分が何にされようとも、構わない。
御使いであろうと、何であろうと、化け物であろうと別にいい。
死が自分に与えられるのならば、今がどんなものであってもいいのだ。
なのに。
そう思うことで、息をしているのに。
それがどこまでも遠いだなんて、皮肉だ。
一体、オレに何をしろという。
何をすればいい。
この世界は、オレをどうするつもりだ。
これが、逃げたオレへの罰で。ここが、地獄ならば。
オレは、もうこれ以上逃げられないのだろうか。
この先はないのか。
ここが、オレの終わりなのか。
こんな、世界が…?
冗談じゃないと。
嫌だと、ただ単純に思い。
声にすら出ない叫びを体の中であげ。
オレはベッドに横たわり、体を丸める。
あの、遣り合った時の父の顔が。
オレの血を浴びた、男の顔が。
瞼の裏でちらつき。
死を乞うたオレを痛ましげに見た少年の顔が。
何も知らないように見た男の顔が。
脳裏に現れ。
オレが今生きていることを、オレに教える。
名前など得ても。
満たされるものは何もない。
2011/08/31