気を変え、オレはフォークに手を伸ばす。
　銀のそれに触れるまでに、オレの中で生まれた違和感が、早くも確信へと変わった。

　どうしてそれを感じるのかなど、どうでもいい。
　ただ、わかったのだ。
　それだけで、十分だ。

　フォークで何かの肉を突き刺した瞬間、笑ってしまいそうになった。
　それを我慢し、そのまま口へと運ぼうとしたオレだが、それまで大人しく伏せていた足元の犬が突如として起き上ったのを視界の隅で捉える。
　小さな目と、目が合う。
　こいつも自分と同じく察したのだと、そこに知る。

　この世界でも、犬の嗅覚は鋭いらしい。

　それとも。
　笑うオレの『声』でも聞いたというのだろうか。

「ヴィス？」

　ペットの異変を察した男が声を掛けると同時に。
　犬は、オレ目掛けて飛んだ。
　空中にその細い身体を伸ばし、飛びかかってきた。

　正確にはオレではなく。
　犬の狙いは、オレが持つフォークの先だ。

　けれど。
　それを予想していたオレは、迫る犬に向かって左腕を突き出し、右手はそのまま肉を口へと運ぶ。
　与える気は更々ない。

「きゃあッ！？」 「御使いさまッ！！」

　得体の知れない肉を噛むと同時に、汁が滴った。
　上がる悲鳴を聞きながら、数度咀嚼し飲み込む。

　口腔に広がるのは、キツイ香辛料と、謎の物体の感触のみだ。
　だが、他のものも含まれているのを、身体が感じる。

　それ以上に、左手の感覚の方がヤバいのだが。

「ヴィスッ、止めろ！」

　離れろ！と飼い犬に命令する男も流石に慌てた様子で、椅子を倒す勢いで立ちあがりテーブルを回り込んでくる。

　オレに無理やり腕を噛まされた犬が、何故だと問うようにオレを見上げてくるのを。
　オレは見下ろし、その口から左手を引き出す。

「診せろ」
「大丈夫だ」

　犬を下がらせ隣に立った男が、フォークを指に挟んだまま腕を抱えたオレに手を伸ばす。
　それを仕草で拒否し、オレは席を立つ。

　左腕は予想以上に血が溢れ、服を染めていた。
　犬は本気で、オレから肉を奪い取る気でいたのだろう。加減なしに噛まれたようだ。
　酷い痛みが襲ってくる中で、椅子を回り、男の脇を抜け、動かぬよう兵に抑えられた犬と向き合う。

　オレを見上げる戸惑う眼とは真逆の、血で汚れたそのグロテスクな口元が可笑しくて。
　血を拭ってやろうとして、右手も汚れているのに気付く。

　それでも、綺麗なままの指の背で少し撫でてやると、痛ましげな眼をオレから離さずに、犬が小さく鼻で鳴いた。

「どうしたというんだ、一体」
「腹が減っていたんだろう」

　オレの言葉に、片膝を地面に付いて屈んだ男が、有り得ないというように目を細めた。
　傍らのそれを無視し、オレは犬の口を指で弾いてやる。
　余計なことをしようとするからだぞと、無言でたしなめる。

「だが、アレはオレのものだ。お前にはやらない、残念だったな」

　そう。 　アレは、オレに与えられた贈り物だ。

「馬鹿を言っていず、腕を出せ。医術師が来た」
「必要ない。舐めておけば治るさ」

　実際には、服の中では腕を伝って血が滴り落ちており、地面に染みを作っている。
　舐めるのは追いつかない勢いだ。このままでは直ぐに、血だまりができるだろう。
　それでも、犬の勢いを腕一本だけで殺したのを思えば。肉を抉り取られた訳でもないのだから、この程度で済んだのは運が良かったのだろう。

　元より。運も何も。
　自分がそれを奪われまいと、犬相手に無茶をした話なのだけど。

　どんどんと流れて行く血が奪う体温とは逆に、身体のどこかで何かが蠢き出した。
　侵入した異物と闘いだしたのか、殺られだしたのか。細胞が爆発し始めたような感覚が沸き起こる。
　ドクンと大きく音を立て始めた心臓から押し出される血が、発熱しながら体を駆け巡り、達した頭で脳を溶かしていく。

「とにかく、まずは手当てだ」

　ああ、やはりアレはそうだったかと。
　未だ胃には達していないだろうと思うのに、暴れ出したそれに。
　意識を持って行かれかけたところで肘を掴まれ、抵抗する間もなく力で立ち上がらされた。

　相変わらず、遠巻きに見ながらもうろたえる周囲の『声』を聞きながら。
　未だ、何が起きたのか分からずに呆然としている周囲の面々の顔を直接見ながら。

　オレは、オレを掴んだ手が離れる前にそれを血まみれの手で掴み、相手を見ずに言う。

「御使いに治療は必要ないだろう」

　肘に掛かるその手を握りしめ、力を込めて引き剥がす。

「このままでいい」

　発熱し始めた体には、血が流れ出て行くその感覚が心地よかった。
　もしかしたら、このまま死ねるかもしれないという期待に胸が膨らむ。

　男を振り払い踏み出したオレの足は、今までのどの一歩よりも軽かった。
　異様に、テンションがあがっている。

　ゆっくりと傾き、色が落ちて行く視界に。
　それでも、オレは笑う。


　オレを殺そうと思うヤツが居るその事実が、漸くオレに訪れた希望だなんて、馬鹿みたいだけれど。
　馬鹿でも、構わない。


　世界が終る瞬間を想像し、オレは子供のような興奮を持って。
　躊躇いなく意識を手放した。