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「ユラさま…ご気分が優れないのでしたら、少し――」
「お急ぎください」
休まれては、と。
きつく目を瞑ったオレを支えながら、そう言おうとした少年の言葉を、王の秘書官が遮った。
披露目に出る。それが王の決定事項であり、国の方針である。
故に、それを邪魔するなものは排除するという意思の硬さが、その声音に滲んでいた。
たかが侍従に王の意思を覆す権限はない、と。
少年を相手にもせず一蹴し。
そうして、視線を向けたオレを、眉間に皺を寄せたまま見返し。
今まで充分に休み、何ひとつ『御使い』らしいことさえしていないのだから。せめてこのくらいは、問題なくやってみせろ、と。
最低限の役目を果たせないのならば、この国を追い出すぞとの嫌悪を吐き捨てながら。
「皆が、貴方をお待ちです」
そんな心にもないことを言い、男は背中を向け一歩を踏み出した。
煩わせるな、と。
王の顔に泥を塗るのは許さないぞ、と。
オレの態度を、詰る半面。
披露目を前にビビったのかもしれないオレの態度を、笑う余裕もあるようで。
こんな風に使いものにならないのならば、御使いなど居る意味がない、と。
披露目の失敗は、それはそれで利用出来ると、未来を算段する男の『声』が飛んで来る。
そして。
オレの体調を気遣いながらも、いま披露目に出なければ、御使いの立場が危うくなることもあると。そうなれば、体調どころではない話だと。
秘書官の冷たい態度に戸惑いながらも、その言葉も正しいと迷う少年の肩にオレは手を置き。
行くぞ、でも。大丈夫だ、でもないのだけれど。何となく、一度それを叩いて。
意地というよりも、ただ、足を動かす。
何故なのかなど、考える余裕もない。
まるで、白昼夢を見ているかのような感覚だ。
臨界点を超えた『声』は、言葉としては最早何ひとつ伝わっては来ない。
水の中で、地上からの声を聞いているような感覚だ。
熱気なのか、冷気なのか。自分とは違うものが身体に纏わりついてくる。
足を踏み出すどころか呼吸さえ難しくさせる程の圧迫が、オレの感覚を麻痺させ、夢と現の境界を朧にする。
意識が遠のく。
「ユラ」
鼓膜に吹き込まれるような呼びかけにハッと反応すれば、いつの間に見慣れた男が真正面にいた。
国王様だ。
俯くオレの顔色を見ようとしていたのか、傾けた身体を戻すその仕草を見ながら、暇なのかと思う。
普通はゲストを持て成しているものじゃないのかと、呆れる。
先に出席しているはずの男が、何を中座しているのだろう。
「……ナニ、」
呼びかけに対しての返答に応えは返らなかったが、元より望んではおらず。
それよりも、問うた瞬間、自分の中に余裕が生まれたのかもしれないのを察し、そちらにオレの意識は向かう。
首だけで振り返り、己の秘書官に何やら言葉を向けている男の姿を視界に収めながら。
少し上手く吸えた息に安堵すると同時に、意味のわからないそれは恐ろしくもあり恐怖を抱く。
「…………ッ、」
男の向こうにあるそれを気にしては、直ぐにまた囚われてしまいそうで。
オレは思わず、『声』を遮断するように前に立つ男へ片手を伸ばす。
助けを求めたのではなく、ただ訳がわからず、反射的にだ。
溺れそうで。
飲み込まれそうで。
無意識に、確かなものを掴みたくて。
たった数十センチの距離を、ゆっくり泳ぐように伸びる自分の手を他人事のように認識していると。
オレの手を掠めて伸びてきた男の手が、オレの腕をしっかりと握った。
二の腕に食い込むその力強さに驚き、足元が震える。
いや、よろめいたのが先だったようだ。
「緊張しているのか」
「……いや、」
「顔色が悪いな」
「いや……」
大丈夫かと、オレの体勢を立て直しても手を離さないまま、男が逆の手でオレの頬に触れてくる。
そして、爪で撫でるようにして顔から離れた手が肩へと置かれ、同時に腕を放した手は腰へと回った。
「不快か?」
「…………いや」
腰の手と、背中の腕と、右半身に触れる存在は。
これは、支えの手助けなのか、逃亡阻止の拘束か。
オレにはわからないが、男が問うたような感覚は一切ない。
「四半刻で解放する」
先程からと代わり映えのしない返答をすると、そんな宣言をし、腰を押された。
強くはないが、緩くもない。
敢えて言うならば、極自然な力加減で促され、オレは足を踏み出す。
自分の動く足が不思議で、下に落としていた視線だったが。
直ぐに、目的の場所へと付いたことに気付き、目の前の扉を見上げた瞬間。
一気に流れ込んできた他人の感情に、オレの頭は悲鳴を上げるようにホワイトアウトした。
世界が、消えた。
だが、次の瞬間、悪夢に突き落とされる。
無数の『声』がオレを犯す。
「…ぅ、あ…!」
「少し待て――ユラ」
オレの喉から呻きが零れたのを聞き逃さなかったのだろう男が、今まさに扉を開こうとしていた衛兵に静止の言葉を掛け。
背中を丸め前屈みになったオレを引き寄せ、無理やり気味に自分と向かい合わせる。
「どうした」
問われるが、口を開けば胃の中どころか、臓器さえも吐き出しそうで何も言えない。
そもそもが。
扉一枚隔てた向こうは、今まで生きてきた中で一番耐えがたい場所であるのだろう、そんな絶望を前に。
受容するしかないオレが言えることはない。
何よりも。
怖いんだとそう言ったところで、それが叶うはずはなく。
体や心が委縮しきっても、出ないという選択肢がオレの中にもない。
浅い息を繰り返すオレをジッと見ていた男が、オレの頬を片掌で包んだ。
ゴシリと、泥でも落とすかのような強さで擦られる。
「いいか? お前がすべきことはひとつだ。誰とも喋らず、誰も見ず、俺の傍にいろ」
「…………」
「ヴィスがいつもしているように、だ。わかるな?」
「……オレに、…イヌに、なれ、と…」
「偶にはいいだろう」
どちらかと言えばお前は、常は猫だからなと。
何の説明にもならないそんな指示をオレに与えた男が、屈めていた身体を伸ばし、再びオレの横へと立ちなおした。
本当に、どんな思考回路をしているのか、わからない男だ。
この、オレに。
これから、この世界を救う者として大勢に面通ししようという、御使いに。
犬に徹しろなどと言えるのはこの男くらいだろう。
流石、愛犬と関連ある名前を与えてくるだけのことはある。
「……犬は…?」
「中だ」
そう言えば、その、本物の御付きはどうしたのだろうかと、ポツリと問えば。
直ぐに答えが返り。男はその言葉に続けて、開扉を臣下に命じた。
二人の男が押し開け始めたそれとは逆に、オレは目を閉じる。
腰の手だけでは不安で、歩けるようにと、倒れないようにと、半身を少し預けて男の服を握りながら。
まるで、地獄の隙間から悪霊が這いずり出てくるような不快さしかない『声』へ飛び込む覚悟を付けるため、意識して深く呼吸し。
この、どこかに居る、あの犬を。
オレに害を与えない、『声』を発しない男だけを。
いまの全てだと、オレは自分自身に言い聞かせた。
2011/11/06