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 明かりひとつ灯らない部屋に廊下からの光が細く入り込み、じわりと闇を犯すように広がっていくのを見ながら。
 オレは何故か、自分でもわからないままに。

 あの男に追い払われたのか、自身の意思でどこかへ行ったのかはわからないが。
 とにかく、今ここに居ない犬の名を、胸中で呼ぶ。開いたそこに呼びかける。
 ヴィス、と。

 だが。

「…ァ、」

 そこから入って来たのは、着飾った華やかさなど一蹴するほどに、緊張で固まった女で。
 オレが見ていることに気付き、びくりと大きく震えると。
 入って来た時と同じようにゆっくりとその扉を閉ざし、再び部屋を闇に落とした。

 辛うじて互いの存在が視認出来る程の暗さの中で。
 オレは、扉が開いていなければ、所詮は犬なのだから呼んだところでやっては来れまいと。室外へと向けかけた意識を早々に戻し。
 女は逆に、ぎこちない動きで数歩近寄り止まったかと思えば、オレを見つつもどこかで何かを叫んでいるような必死さを滲ませていた。

 呼吸の荒さは似ていても、質は全く違う奇妙さに。
 揺れる空気が、部屋を一段と冷ます。

 女は両手で、小さな盥と水差しが載った盆を持っていて。
 オレがそれに視線をやったのに気付くと、勢い込むように身分を名乗り、用件を口にした。

 曰く。
 不調と見受けた御使い様の世話を焼きに来たらしい。

 けれど、傍に寄る許可を求めてくるその声は、心の『声』が聞こえなくともわかるほどに、死にそうなもので。親切心など欠片もない。
 この状況は女自身が望んで作ったものではないのと知れる、緊迫したそれだ。
 明らかに、怯えている。

 水をくれとの言葉で許可を出せば、案の定、何度もためらう仕草を交えてゆっくりと、女は暗闇の中でもはっきりとその表情が見て取れるほどの距離へと進んできた。
 盆を小さな机に置き。床に膝をついて屈み。腕から小刻みに震える手で、水が入ったグラスを差し出す。

 投げ出したオレの足元で行われるその一連の動きを見ながら、滲む怯えが御使いに対しての緊張とは別物だと確信する。
 慣れてきたのか、苦痛に対する怖気は少し落ち着いたが。変わらず熱に支配されているオレの能力は麻痺したままであり、やはり『声』は届いてこない。
 だが。
 それでも、わかる。

 この世界に来て『声』が聞こえるようになったが、元の世界ではそうではなかったオレにとって。
 相手が晒す表情を読み取るのは。そこから内側を感じ取るのは。
 ものごころが付いた頃からやって来たことであり、染みついた習性みたいなものだ。
 熱に冒されていようが、死にかけていようが、読み違えなどしない。

 相手が発する音とは違い、オレの見極める目だけの判断でしかなくとも。
 迷いさえなく、オレはそこに視たものを真実だと認識し、口にする。

「…苦労だな。オレと、寝に来たのか」

 バカなことをやっているものだとの呆れを滲ませ言えば、女の身体は見事な程に大きく震え、差し出していたグラスから水が零れた。
 それは長椅子だけでなく、オレの胸や脚も濡らしたが。本人に気付く余裕はなく。
 数拍の呼吸を置いて、ギギギと軋む音がしそうな程の態で。伏せていた顔をゆっくりあげ、強張った顔をさらす。

 今から殺されるかのような眼で、オレを見る。

 ただ、弱っているやつの様子を見に来ただけで、こんなにも怯える必要はない。
 御使いに対する緊張ならばともかく、女が持つのは生きるか死ぬかのような緊迫だ。
 それは、つまり。
 女が何かを企んでいるということで。
 それに対して、不安や恐怖を持っているのに他ならない。

 そして、このオレにその何かを向けるのだとしたら。
 その内容は、限られている。

 先日の襲撃者のように、存在を消そうとするか。
 操ろうとするか、だ。

 どいつもこいつも、馬鹿ばかりだ。
 欲に目が眩むやつも、自分に酔っているやつも、他人に己を任せるやつも。
 勿論、この女も。

「その身を差し出しても、無駄だ。性行為だけでは、御使いとの契約は成り立たないのを、知らないわけじゃないだろう」
「…………、ぁ、いえ…私は、別に…」
「違うというのか? だったら、何をしに来たんだ」
「…………私は…お世話を……」
「世話? オレは、被害を被っただけだが」

 濡らされただけだと、持ちあげた腕でそれを示せば。
 弾かれたように女が動いた。
 音を立てながらグラスを置き、謝罪を口にしながら乾いた布をオレの脚に押し当てる。

 暗さの中で浮かび上がる白い細いその手を止めさせようと手を伸ばしたところで。
 オレは、自身の下半身がほんの少しだが興奮していることに気付く。
 それを認識した途端、成る程なと、ようやくここでオレは現状の全てを納得する。

 どうやらオレは、嵌められたらしい。

 不調で鈍っていて気付くのが遅れたが。
 何もかも、始めから。
 これは、決まっていたことなのだろう。

 前回のことがあり、今回も同じだと思っていたが、なんてことはない。
 オレは既に、一服盛られていたのだ。
 大勢の人いきれに弱りきり、『声』を失くした結果、以前の毒の様には気付けなかったというわけだ。

 この不調は、精神的なものばかりではなく。
 確実に、肉体も犯されてのことのようだ。

「催淫剤か…?」

 払うつもりで伸ばした手で、思わず女のそれを掴む。

「なんとも、手が込んでいるじゃないか…なァ?」

 オレの言葉に、心当たりがない訳もなく。
 女は、ヒッ!と喉を小さく鳴らしながら息を吸い、目を見開いたまま固まった。
 恐怖でしかないそれが、オレの中のスイッチを押す。

 不調を凌駕する衝動に駆られ、掴んだ腕に力を込め、食事として用意されているらしいその身体を長椅子へと引き上げる。
 ひと回りも小さくない、下手したら俺よりウエイトはあるかもしれない体型だが。
 怯えきった女が瞬時に抵抗するわけもなく、不調であっても難なくその身体を抑え込む。
 射抜く視線をわざと向けて竦ませたまま、片膝で女の脚を割る。

 元の世界では。
 セックスもクスリも、オレにとっては快楽とは程遠いものだったが。
 この世界ではどうなのだろう。

「…試してみるのも一興か?」

 オレの言葉が聞こえているのかどうかも怪しい女の顔から、恐怖の為に大きく上下する胸へと視線を移す。
 その下の、引き締められた腰を片手で掴むと、掠れた声が短い拒絶の言葉を落とした。
 暴れ出す前に、両脚を使って女のそれを抑え、長椅子へ縫いつけるように片手で細い肩に体重を掛ける。


2012/01/31
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