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「何をしているのです」

 いつの間にか、思考の渦を停止しかけていたようで。
 ふいに響いた声に、夢の中から引き上げられるように瞼を上げると。
 世界が、白かった。

 数度瞬きし、落ち着いた視界で。
 大きく開け放たれた扉とオレとの中間地点に立つ人物を捉える。

「ひとりでは部屋にも戻れないのですか」

 乾いた、冷めた声は。
 けれども、いつもの一方的なそれではなく、何かを伺う色を滲ませていた。

 探るようなその音の欠片を無意識に拾い集めながら、オレはゆっくりと体を起こし。
 扉の向こうの廊下から差し込む光で表情が見えない秘書官殿を見上げる。

 眩暈がした。
 だが、込み上げてくるのは不快ではなく、熱だ。

 もう宴はお開きになっただとか。
 結局今回も貴方は役立たずだったとか。
 嫌ならば様子など見に来なければいいのに、おかしな男の小言を聞きながら。
 自身に集中し、面白くない事態が継続中であるのを自覚する。

 今夜の客全員が帰った訳ではないのだろうが、逃げ出した広間からの圧迫感は、言われてみれば少なくなった気がするが。
 未だに、痺れ切ったように、確かな『声』は拾えない。
 だが、疲弊しているだけなのだろう。自分の中からその能力がなくなったようにも思えない。
 今だけのものだ。

 だからこそ。
 強張っていた身体が、恐怖となるそれが減った故に、息をし始め。
 含まされた薬が、今になって効果を表したのだろう。

 女を前にしていた時よりも、確かに興奮している身体をオレはそう分析しながら。
 だからといって何が出来るわけもなく、部屋に戻ろうと立ち上がり男の脇を抜ける。

「聞いているのですか」

 答えなど求めていないのだろうに発された叱責を無視したところで、腕を掴まれた。
 その力に振り返されるままに身体を捻りながら、触れられた箇所から伝わるものに納得を覚える。

 この男は、知っている。
 先程の、女のことを。

 全てを知っていて、オレをここへ押し込んだのだ。

「アンタが聞きたいのは、あの女とヤったのかどうかか?」
「……なんですって?」

 立ち位置が逆になったお陰で、男の表情は良く見えたが。それは、能面のようなものだった。
 けれど、オレの問いにより顰められた眉が、離れて行く手が、男の全身が。
 直接響く『声』と同じくらいに、オレに答えを示していた。

 偶然知ったのか、そう仕向けたのかまではわからないが。
 企てを知り、この男はそれを利用しようとしたのだ。
 見て見ぬふりではなく、オレをここへと導いたのを思えば。
 あの女とその後ろに居る人物と手を組んだという訳ではないだろう。
 実行犯になるほど、この男は愚かではない。

 気付かぬ振りで、ほんの少し手を貸してやっただけならば。
 咎を受けるようなことにはならない。
 気付かれることすらない。
 そんなところだろう。

 だから、いま、こうしてオレの前に居るのだ。

「察しているだろうが、ヤっていない。だから、大変だ」
「何の話をしているのです」
「何って、ナニだろう?」

 鼻で笑いを落とすが、男は不快感を顔に乗せたまま平坦に、「意味がわかりません」と言った。
 そして、「とにかく、こんなところで中座したあなたが居ては迷惑ですので、早々にお戻り下さい」と吐き捨てるように言葉を落とすと、そのまま開いた扉へと向かう。

 放っておいても、良かった。
 だが、見送りかけた背中が、意外にも怯えているように見えて。
 この男が見せしめでもいいかもしれないと、不意に思えた。

 オレの頭は、確実に熱に侵され始めているらしい。

「面倒を見ろよ、イリル」

 部屋を出る一歩手前で男を捕まえ、壁にその身体を後ろから押しつける。
 初めて、その名を呼ぶ。

 首だけで振り返った男の顔は、嫌悪よりも恐怖が強く、オレが求めるものを充分に察したそれだった。

「一体、なにを…」
「オレが知らないとでも思っているのか?」
「放して下さいッ」
「まあ、そう怯えるなよ」

 もがき始めた身体を体重を使って抑え込み、目の前の耳に歯を当てる。
 噛みちぎられると思ったのか、意思では抑えられずに一度大きく震えた男は、そのまま動きを止めた。

「アンタはオレに犯されたかったんだろう?」
「……仰る意味がわかりません」
「覚悟のない悪戯か?」
「私は何もしていません」
「しなかったからこそ、オレがこうなっているんだろう?」

 完全には程遠いが、それと知れるほどには昂った腰を押し付ければ。
 男が不快以外のなにものでもない呻きをこぼした。

 それでも。

「……酔っているようですね、…話が、噛み合っていませんよ」

 そんな貴方と話しても埒が明かない。
 さっさと退けて下さいと、男が身体を捻りかけた。
 躊躇などなく、食んでいた耳に歯を立ててやる。

「ッ…!」
「……ああ、切れちまったな」

 ほんの僅かだが、口内に鉄の味が広がった。だが、不快は沸かなった。
 傷口を舌先で舐めると、覗きこんでいた顔に、やうやくはっきりとした怯えが走る。

 仕掛けたも同然であるというのに、反撃を想定していなかったのか。
 己の手を汚したくないわけではなく、オレに接するのが不快なのもあるだろうが。思いのほか、大人しい男に。
 自分が思う以上に、今のオレはイッているのかもしれないと気付く。

 常からオレに対して否定的な男がまともに抵抗出来ないほど、今のオレは恐怖を与えるらしい。

「話など、別にどうでもいい。必要なのは、身体だけだ」
「……本気ですか」
「神の国に連れていってやるぜ?」

 そう言いながらも、反抗でも排他でも何でもなく、純粋に怯えを滲ませ始めた男に、興味を殺がされる。
 敵意を向けられたならば、支配してやろうと思えても。
 女ならばともかく、凌辱するにしては、ひとかけらの魅力も何もない男だ。
 見せしめにさえなるような気がしなくなり、犯す意味が突如として消える。

「さっさと脱げよ、クソッタレ」

 それでも。
 意味など端から求めてはいないと。
 流れを止めずに、男の身体を開きかけたのだけれど。

 オレの動きに意思がないことに気付いたのか、オレの手が直接肌に触れる前に、男はオレを突き飛ばすようにしてその身を遠ざけた。
 ふらついたのは一瞬で。
 意地になっている訳ではなく、反射的にその身体をもう一度捉えようとするが。
 掴み掛けた服が、一歩早く擦り抜け、男が廊下へと飛び出す。

「逃げるのか」
「……狂った貴方になど、付き合いきれませんよ」

 ドアに腕を掛け持たれつつ、笑い交じりに言葉を飛ばせば。
 離れて安心したのか、負けん気の強さか。
 廊下の端まで行き振り返った男が、睨みながらそう言った。

 そこへ。

 ふいに男が視線を横へと外したかと思うと、その顔が僅かに歪むのを捉えるオレの前に、勢い良く影が飛び込んでくる。

 何だと思う前に、正体は知れた。
 犬だ。
 先程呼んだ時は来なかったというのに、今になって現れたそれは。
 当然のように、主人である男を連れていた。

 ドアに半身を擦るようにして身体を起こし通路へ出れば、丁度犬の飼い主がやって来たところであり。
 この国の王であるその男は、礼を取る家臣とオレを交互に見比べ、そうしてオレの足に身体を張り付けるようにしている犬へと視線を落とし、それを咎めるように犬の名を呼んだ。
 だが、犬は顔を上げ主人を見たが行為は止めず、壁に背中を預けて立ったオレの脚に鼻先を付ける。

 子供が安心を得ようとするような行動だ。
 もしかしたら、消えたオレを心配していたのかもしれない。

 咎めた男に対するかまわないとの意思表示に、犬の頭を指先で撫でると、察した男が漸く人間へと興味を移した。

「休んだと聞いたが」
「ここでな」
「身体はどうだ」
「最悪以外に、何がある?」

 乱れそうになる息を押し殺し、上目遣いに傍らにやって来た男を見れば。
 顔色が悪いと言葉で指摘しながら、加えて手まで伸ばして来る。

 凭れた身体を起こす仕草でそれを避け、オレは口元を軽く引き上げる。

「それより。アンタ、付き合えよ」

 秘書官殿に自室への付き添いを頼んだが断られたところだと嘯けば。
 何を言っているのだと忌々しい顔をした男が口を開くよりも先に、あっさりと一国の王がその態度で了承を示した。

 硬い手が、今度はしっかりとオレの腕を掴む。

 意思とは関係なく、身体が反応する。

「…ひとりで歩ける、離せ」
「付き添いが必要なのだろう。無理をするな」

 労わる声ではない。だが、からかう声でもない。
 どこまでも平らな声。
 けれど、身体の芯へ響く錯覚を受け、心の奥底に焦燥の灯がともる。

「……外へ行きたい」

 無理なのは、身体を支えることではない。篭る熱を抑えきらないことだ。
 胸中で舌打ちをしながらその手を引き剥がし、オレは飛び出すように前へ足を踏み出す。
 そして、後に続き始めた男に、請う。

 あの空中に浮かぶ庭へ連れて行けと。


 熱を冷ます方法を、オレは他に知らない。


2012/01/31
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